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間の悪さ
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舗装された道をひたすら走る。
さすが上級貴族であり、財産家でもあるブライス伯爵領だ。
アニストン領は未だに未舗装の道が幾つかあり、河川の管理も充分には出来ていない。毎年、氾濫しかねない場所を見つけては、取り敢えずの修繕で賄う。
ブライス伯爵領のような、大規模な修繕工事にまで手が回らないのだ。
マチルダは今まさに河岸の工事の最中である仮桟橋を速足で駆け抜けようとしていた。
「嫌な天気ね」
橋の中央まで来たとき、立ち止まるなり深く息を吐き出したマチルダは、空を仰ぐ。
ブライス邸のテラスで見た空よりも、雲は厚くなっており、湿気を含んで重々しく、今にも沈みそうだ。
川の流れも異様な速さ。
このところの天気は良いとは言えないが、雨の降る日はここ一週間なかった。
茶色く濁った川は、河川の工事によって無理に流れを変えたための弊害だ。これから川幅を広げ、手を入れていけば、穏やかな流れを取り戻すはず。
今は、そうなる前の危険な時期と言って良い。
「こんな場所に落ちたら、命はないわね」
轟轟と不気味な音を立てる水音に、ぶるっとマチルダは身を震わせた。
王都の中心地に宮殿があり、そこから放射線状に貴族の屋敷が配されている。
宮殿に程近いブライス邸、そこからどんどん外に向けて進み、隣国の境すれすれにあるのがアニストン邸だ。
ブライス邸からアニストン邸まで、馬車でもおよそ三時間は掛かる。
そもそも、そんな距離を走って帰ろうなど、無謀極まりないことだった。
マチルダは冷静さを欠いた己があんまり情けなくて、ぐすんと鼻を啜ると、橋の欄干に凭れ掛かった。
もう三十分は走ったり止まったりを繰り返している。
ヒールの高い靴だし、裾の長いドレスだし。ずっと走り続けるなんて、土台無理だ。
いつも凛として品があるように心がけていたマチルダだったが、今は髪がぐしゃぐしゃだし、屋敷で号泣したから化粧は剥げてしまっているし、おまけに無理に走ったから踵の皮が捲れてしまった。足指もズキズキ痛むから、擦れて血が出ているのかも。膝も痛む。
もう、歩くことすら出来ない。
一度そう思ってしまえば、何者かに吸い取られるように、見る間に体力が奪われてしまった。
血管に鉛を押し込まれたように、急に全身が重だるくなる。
さらにマチルダは欄干に身を預けた。
だからといって、引き返せるわけがない。
ブライス邸には、ロイがいるのだ。
もしも翌朝、キスマークだらけのロイを見てしまったら……マチルダはショックの余り、テラスの柵を飛び越えてしまいかねない。
レディらしからぬ態度。
ロイに出会うまで、このような激しい感情は持ち合わせていなかったというのに。
あの優しくて残酷な悪魔が、マチルダを根底から作り変えてしまったのだ。
マチルダは欄干に顔を埋めると、嗚咽を漏らした。
不意に、何かが裂けた音が川の流れに混じった。
「……! 」
マチルダの第六感は、悪いことに関してよく働く。
すぐさま真後ろに飛び退き、欄干から距離を取った。
まるで曲線を描くように、欄干の端がひしゃげていく。
それは物凄い速さで、マチルダのいる橋の中央まで迫ってきた。
仮桟橋には耐久性がなかったのだ。常日頃の馬車や人々の往来により、知らぬ間に亀裂が入り、それはどんどん広がって、侵食していたのだ。
運の悪いことに、崩壊が、マチルダにぶち当たった。
「ま、まずいわ! 」
ハッと我に返ったときには、橋の崩壊はマチルダの眼前すれすれまで来ていた。
さすが上級貴族であり、財産家でもあるブライス伯爵領だ。
アニストン領は未だに未舗装の道が幾つかあり、河川の管理も充分には出来ていない。毎年、氾濫しかねない場所を見つけては、取り敢えずの修繕で賄う。
ブライス伯爵領のような、大規模な修繕工事にまで手が回らないのだ。
マチルダは今まさに河岸の工事の最中である仮桟橋を速足で駆け抜けようとしていた。
「嫌な天気ね」
橋の中央まで来たとき、立ち止まるなり深く息を吐き出したマチルダは、空を仰ぐ。
ブライス邸のテラスで見た空よりも、雲は厚くなっており、湿気を含んで重々しく、今にも沈みそうだ。
川の流れも異様な速さ。
このところの天気は良いとは言えないが、雨の降る日はここ一週間なかった。
茶色く濁った川は、河川の工事によって無理に流れを変えたための弊害だ。これから川幅を広げ、手を入れていけば、穏やかな流れを取り戻すはず。
今は、そうなる前の危険な時期と言って良い。
「こんな場所に落ちたら、命はないわね」
轟轟と不気味な音を立てる水音に、ぶるっとマチルダは身を震わせた。
王都の中心地に宮殿があり、そこから放射線状に貴族の屋敷が配されている。
宮殿に程近いブライス邸、そこからどんどん外に向けて進み、隣国の境すれすれにあるのがアニストン邸だ。
ブライス邸からアニストン邸まで、馬車でもおよそ三時間は掛かる。
そもそも、そんな距離を走って帰ろうなど、無謀極まりないことだった。
マチルダは冷静さを欠いた己があんまり情けなくて、ぐすんと鼻を啜ると、橋の欄干に凭れ掛かった。
もう三十分は走ったり止まったりを繰り返している。
ヒールの高い靴だし、裾の長いドレスだし。ずっと走り続けるなんて、土台無理だ。
いつも凛として品があるように心がけていたマチルダだったが、今は髪がぐしゃぐしゃだし、屋敷で号泣したから化粧は剥げてしまっているし、おまけに無理に走ったから踵の皮が捲れてしまった。足指もズキズキ痛むから、擦れて血が出ているのかも。膝も痛む。
もう、歩くことすら出来ない。
一度そう思ってしまえば、何者かに吸い取られるように、見る間に体力が奪われてしまった。
血管に鉛を押し込まれたように、急に全身が重だるくなる。
さらにマチルダは欄干に身を預けた。
だからといって、引き返せるわけがない。
ブライス邸には、ロイがいるのだ。
もしも翌朝、キスマークだらけのロイを見てしまったら……マチルダはショックの余り、テラスの柵を飛び越えてしまいかねない。
レディらしからぬ態度。
ロイに出会うまで、このような激しい感情は持ち合わせていなかったというのに。
あの優しくて残酷な悪魔が、マチルダを根底から作り変えてしまったのだ。
マチルダは欄干に顔を埋めると、嗚咽を漏らした。
不意に、何かが裂けた音が川の流れに混じった。
「……! 」
マチルダの第六感は、悪いことに関してよく働く。
すぐさま真後ろに飛び退き、欄干から距離を取った。
まるで曲線を描くように、欄干の端がひしゃげていく。
それは物凄い速さで、マチルダのいる橋の中央まで迫ってきた。
仮桟橋には耐久性がなかったのだ。常日頃の馬車や人々の往来により、知らぬ間に亀裂が入り、それはどんどん広がって、侵食していたのだ。
運の悪いことに、崩壊が、マチルダにぶち当たった。
「ま、まずいわ! 」
ハッと我に返ったときには、橋の崩壊はマチルダの眼前すれすれまで来ていた。
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