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濁流の中
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激しい飛沫を上げ、マチルダは夜の冷たい川の中へと引きずり込まれてしまった。
彼女が幸運だったことは、砕けた橋梁が体に全く当たらなかったことだ。
そして、何故か橋よりもかなり距離を取った川の中へ放り投げられていたこと。
そして、泳ぎの下手な彼女がすぐさまショックで意識を失って、闇雲にもがいて肺に水を入れなかったこと。
流れによって橋の木屑の方が彼女より先に行き、濁流の中、割れた橋柱などといった凶器に体が当たらなかったこと。
あらゆる偶然の名を借りた奇跡が重なって、マチルダはこの世に生を留めることが出来た。
「あれを見て! 」
第一声はオリビアだ。
箱馬車の窓から身を乗り出し、前方を指さす。
御者が慌てて手綱を引いた。
馬車は急停車し、車輪が軋む。
勢い余って車体が傾いで、備え付けのクッションが跳ね上がり、足元に転げ落ちた。
危うく身を乗り出していたオリビアが地面へと落ちそうになり、中から伸びたロイの腕が彼女のドレスの布地を引っ張って寸前で留めた。
「どうした!? 」
馬車が急停止するなり、ロイは踏み台も使わず飛び降りる。
「橋が! 」
箱車の窓から身を乗り出したオリビアの悲痛な叫びに、ロイは言葉を失った。
橋梁工事中の仮桟橋が、無残にも崩れ落ち、濁流に呑まれていたからだ。ひび割れた橋桁が取り残されている。
夜の闇では、轟轟と濁流の音が異様に大きい。
いつもは生活用水に欠かせない川が、今は不気味な悪魔の尻尾のごとくとぐろを巻いている。
向こう岸まで辿り着く近道である橋が、使い物にならないなんて。
「何てことだ」
ロイは呻いて頭を抱え込んだ。
「工事業者を捕えろ」
彼の漆黒の瞳には、赤々とした炎が盛っている。
「中途半端な工事をするとは」
領民の生活リズムがこれで途絶えてしまった。今、このときから弊害が出ている。明日にはもっと大変なことになる。
「マチルダ。何故、逃げた」
何よりロイの怒りの沸点を高めているのは、これによってマチルダの背中がさらに遠ざかってしまったことだ。
ロイは激しい後悔に苛まれていた。
ブライス邸にてマチルダを留めておきさえすれば何とかなる。などと軽く考えていたのが、そもそもの間違いだった。
夜更けにでも彼女の寝室を訪ねて、二人の間にあるわだかまりの解決を探ろうと。
「まさか、このように軽率なことを仕出かす女だったとは」
ロイは奥歯を擦り潰す。
いつも背筋を伸ばして、折り目正しく、品格を重んじるマチルダ。まさか馬車も使わず、走って屋敷を飛び出すなど考えすらしなかった。
どんどんと無作法にドアを叩いて報せてきたジョナサン卿を前に、ロイは卒倒してしまった。
「くそっ! 回り道しかないな。これではアニストン邸に着くのが余計に遅れるじゃないか。くそっ! 」
本気で悔しがるロイは、道端の石ころをヤケクソで蹴り上げる。
「悶々と悩んでいるのは後回しよ。早くマチルダを追わないと」
二人はまだ気づかない。
土手を転がり、川にポチャンと嵌った石ころが辿り着いた場所に、マチルダが沈んでもでいることを。
彼女が幸運だったことは、砕けた橋梁が体に全く当たらなかったことだ。
そして、何故か橋よりもかなり距離を取った川の中へ放り投げられていたこと。
そして、泳ぎの下手な彼女がすぐさまショックで意識を失って、闇雲にもがいて肺に水を入れなかったこと。
流れによって橋の木屑の方が彼女より先に行き、濁流の中、割れた橋柱などといった凶器に体が当たらなかったこと。
あらゆる偶然の名を借りた奇跡が重なって、マチルダはこの世に生を留めることが出来た。
「あれを見て! 」
第一声はオリビアだ。
箱馬車の窓から身を乗り出し、前方を指さす。
御者が慌てて手綱を引いた。
馬車は急停車し、車輪が軋む。
勢い余って車体が傾いで、備え付けのクッションが跳ね上がり、足元に転げ落ちた。
危うく身を乗り出していたオリビアが地面へと落ちそうになり、中から伸びたロイの腕が彼女のドレスの布地を引っ張って寸前で留めた。
「どうした!? 」
馬車が急停止するなり、ロイは踏み台も使わず飛び降りる。
「橋が! 」
箱車の窓から身を乗り出したオリビアの悲痛な叫びに、ロイは言葉を失った。
橋梁工事中の仮桟橋が、無残にも崩れ落ち、濁流に呑まれていたからだ。ひび割れた橋桁が取り残されている。
夜の闇では、轟轟と濁流の音が異様に大きい。
いつもは生活用水に欠かせない川が、今は不気味な悪魔の尻尾のごとくとぐろを巻いている。
向こう岸まで辿り着く近道である橋が、使い物にならないなんて。
「何てことだ」
ロイは呻いて頭を抱え込んだ。
「工事業者を捕えろ」
彼の漆黒の瞳には、赤々とした炎が盛っている。
「中途半端な工事をするとは」
領民の生活リズムがこれで途絶えてしまった。今、このときから弊害が出ている。明日にはもっと大変なことになる。
「マチルダ。何故、逃げた」
何よりロイの怒りの沸点を高めているのは、これによってマチルダの背中がさらに遠ざかってしまったことだ。
ロイは激しい後悔に苛まれていた。
ブライス邸にてマチルダを留めておきさえすれば何とかなる。などと軽く考えていたのが、そもそもの間違いだった。
夜更けにでも彼女の寝室を訪ねて、二人の間にあるわだかまりの解決を探ろうと。
「まさか、このように軽率なことを仕出かす女だったとは」
ロイは奥歯を擦り潰す。
いつも背筋を伸ばして、折り目正しく、品格を重んじるマチルダ。まさか馬車も使わず、走って屋敷を飛び出すなど考えすらしなかった。
どんどんと無作法にドアを叩いて報せてきたジョナサン卿を前に、ロイは卒倒してしまった。
「くそっ! 回り道しかないな。これではアニストン邸に着くのが余計に遅れるじゃないか。くそっ! 」
本気で悔しがるロイは、道端の石ころをヤケクソで蹴り上げる。
「悶々と悩んでいるのは後回しよ。早くマチルダを追わないと」
二人はまだ気づかない。
土手を転がり、川にポチャンと嵌った石ころが辿り着いた場所に、マチルダが沈んでもでいることを。
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