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「どうしたんだ、橋本」
いきなり放水を遮った橋本に、隊長は何があったのかと目の色を変えた。
建売住宅は塀一枚を隔てて密集している。
延焼の危険性が大きい。
愚図愚図してはいられない。すぐに放水しなければ燃え広がるのは確実だ。
「放水では余計に燃え広がるんだ。三点を出して下さい」
特殊火災発生時の屈折放水車、化学車、泡原液搬送車。全て七福市消防局本庁の所有だ。
「まさか、生石灰が」
三点と聞いて隊長はすぐにピンと来たらしい。
彼はさすがレスキューの隊長を務めているだけあって、蕎麦屋九庵での奇妙な燃え方を思い出し、すぐさま原因に直結させた。
麗子さんと小沢親子との関係がワイドショーで明らかにされた今、今回も同様であると結論づける。
園芸用の生石灰を手に入れた麗子さんの目的は一つしかない。
「桜庭は放水を見越して火事を広めるつもりだ」
切羽詰まった橋本の訴えに頷いた隊長は、すぐさま現場の陣頭指揮をとる大隊長の元へ駆け寄る。
「大隊長!」
隊長から一部始終を聞いた大隊長は、すぐさま情報センターへ連絡を入れる。
これで火災の広がりは何とか回避された。
「お願い、あの子を助けてやって。あの子、本当は頑張り屋の良い子なのよ。結婚相手と一緒に住むって、一軒家を買ったばかりなのよ。お願い、助けてあげて」
麗子さんとは親子以上の年の差の開きがある隣の主婦は、一番近くにいた俺の防火衣を揺さぶると、必死に懇願する。
「最初からそのつもりですよ」
俺は頷くと、人の流れに逆らい、火の中へ突進した。
単独行動は現場の統卒を乱す。
消防士になりたての頃より口酸っぱく忠告されてきた。
誰か一人が勝手な行動を起こせば、混乱を招き、最悪の場合には死傷者を出すことに繋がる。
消防士になって丸八年。一度たりともそれを破ったことはない。
今回、初めてその忠告を無視した。
脳裏を、麗子さんとの新たな関係を見せつけた誇らしげな亜里沙の顔が過る。災害の場で犠牲者を出すつもりはない。
覚悟を決めて飛び込んだ玄関は、すでに黒い煙が充満していた。
腰を低くして玄関からリビングらしいドアまでの廊下を這っていく。麗子さんの姿はない。まだ奥にいるのか。どこだ。
そのとき、キインと耳鳴りがした。周波数と呼ぶべきか、それとも警告音か。金切り声か。
とにかく、誰かの必死の声にならない叫び声を聞いた気がした。
そんな俺の目に飛び込んできたのは、ドアを真正面に、右手にある襖だ。勢いよく開け放った。
頭の中の見取り図通り、建売住宅によくある造りで、やはり四畳半ほどの琉球畳の敷き詰められた和室があった。
そこに、四つ這いの状態でむせている姿を発見した。
「麗子さん!」
第六感はよく働く。
一発で見事に要救助者を発見した俺は、安堵の息を吐くと麗子さんの脇の下に腕を差し込んで立ち上がらせようとした。
しかし、彼女は俺の腕を振り払うと、再び先程の場所へと逃げる。
どうやら火元はキッチンらしく、パチパチと木々の跳ねる音が先程に比べ随分大きい。おそらく天井にまで炎が昇っているのだろう。ますます煙の色が濃くなった。
「離し……て……。こ、このまま……放っ……てお……いて」
途切れ途切れの願いを、聞き入れるつもりはない。
しかし、彼女は畳にしがみついて、引き剥がそうとしてもびくともしない。生きることを放棄した彼女は頑なだ。よく見ると、彼女はいつになく化粧が念入りで、髪も丁寧に巻いてある。身に付けたワンピースも最新の流行もので、高価なものだと一目でわかった。
最期は美しい姿で。
そこに彼女の覚悟を見て、途方に暮れた。
自分一人では、彼女を救出することは難しい。
一体、どうすればいいんだよ。
「笠置!」
煙の向こうから人影がちらついた。
空耳か?
聞き逃しそうになったが、今度ははっきりと呼ばれる。
「笠置!どこだ!」
まず目に入ったのは防火靴。次に、面体の奥にある険しい双眸。
誰か助けに来てほしい。怖い。不安で胸が潰れそうになったそのとき、タイミングよく現れたのは、俺の中で大きく存在している男だった。
この場にいてほしいと望んだ通りの姿が出現して、膝の力が抜けそうになった。
煙の奥から現れた橋本は、もたもたする俺に対して何事か叱責すると、両脇から麗子さんの腕を抱えるよう指示を出す。
岩に張り付く苔のように畳と一体化していた麗子さんの体が、橋本の力により、いとも簡単に引き剥がされた。
彼女に抵抗はなかった。すでに朦朧としており、最早、生を拒絶する気力さえ失っていたのだ。
入ってきたときよりも火の手は恐ろしい触手を伸ばし、元来た道を塞ごうとしていた。僅か数メートルばかりの廊下の先が、何て遠い。火の粉が舞う。喉が焼けるように熱い。視界が真っ赤だ。あまりの熱気に眩暈を起こしかける自分を奮い立たせ、決して離すものかと麗子さんの脇に挟んだ手に力を込めた。
麗子さんの左側には、ただ真っすぐ前を見据える橋本がいる。
それだけで、俺は生への活路を見出した。
いきなり放水を遮った橋本に、隊長は何があったのかと目の色を変えた。
建売住宅は塀一枚を隔てて密集している。
延焼の危険性が大きい。
愚図愚図してはいられない。すぐに放水しなければ燃え広がるのは確実だ。
「放水では余計に燃え広がるんだ。三点を出して下さい」
特殊火災発生時の屈折放水車、化学車、泡原液搬送車。全て七福市消防局本庁の所有だ。
「まさか、生石灰が」
三点と聞いて隊長はすぐにピンと来たらしい。
彼はさすがレスキューの隊長を務めているだけあって、蕎麦屋九庵での奇妙な燃え方を思い出し、すぐさま原因に直結させた。
麗子さんと小沢親子との関係がワイドショーで明らかにされた今、今回も同様であると結論づける。
園芸用の生石灰を手に入れた麗子さんの目的は一つしかない。
「桜庭は放水を見越して火事を広めるつもりだ」
切羽詰まった橋本の訴えに頷いた隊長は、すぐさま現場の陣頭指揮をとる大隊長の元へ駆け寄る。
「大隊長!」
隊長から一部始終を聞いた大隊長は、すぐさま情報センターへ連絡を入れる。
これで火災の広がりは何とか回避された。
「お願い、あの子を助けてやって。あの子、本当は頑張り屋の良い子なのよ。結婚相手と一緒に住むって、一軒家を買ったばかりなのよ。お願い、助けてあげて」
麗子さんとは親子以上の年の差の開きがある隣の主婦は、一番近くにいた俺の防火衣を揺さぶると、必死に懇願する。
「最初からそのつもりですよ」
俺は頷くと、人の流れに逆らい、火の中へ突進した。
単独行動は現場の統卒を乱す。
消防士になりたての頃より口酸っぱく忠告されてきた。
誰か一人が勝手な行動を起こせば、混乱を招き、最悪の場合には死傷者を出すことに繋がる。
消防士になって丸八年。一度たりともそれを破ったことはない。
今回、初めてその忠告を無視した。
脳裏を、麗子さんとの新たな関係を見せつけた誇らしげな亜里沙の顔が過る。災害の場で犠牲者を出すつもりはない。
覚悟を決めて飛び込んだ玄関は、すでに黒い煙が充満していた。
腰を低くして玄関からリビングらしいドアまでの廊下を這っていく。麗子さんの姿はない。まだ奥にいるのか。どこだ。
そのとき、キインと耳鳴りがした。周波数と呼ぶべきか、それとも警告音か。金切り声か。
とにかく、誰かの必死の声にならない叫び声を聞いた気がした。
そんな俺の目に飛び込んできたのは、ドアを真正面に、右手にある襖だ。勢いよく開け放った。
頭の中の見取り図通り、建売住宅によくある造りで、やはり四畳半ほどの琉球畳の敷き詰められた和室があった。
そこに、四つ這いの状態でむせている姿を発見した。
「麗子さん!」
第六感はよく働く。
一発で見事に要救助者を発見した俺は、安堵の息を吐くと麗子さんの脇の下に腕を差し込んで立ち上がらせようとした。
しかし、彼女は俺の腕を振り払うと、再び先程の場所へと逃げる。
どうやら火元はキッチンらしく、パチパチと木々の跳ねる音が先程に比べ随分大きい。おそらく天井にまで炎が昇っているのだろう。ますます煙の色が濃くなった。
「離し……て……。こ、このまま……放っ……てお……いて」
途切れ途切れの願いを、聞き入れるつもりはない。
しかし、彼女は畳にしがみついて、引き剥がそうとしてもびくともしない。生きることを放棄した彼女は頑なだ。よく見ると、彼女はいつになく化粧が念入りで、髪も丁寧に巻いてある。身に付けたワンピースも最新の流行もので、高価なものだと一目でわかった。
最期は美しい姿で。
そこに彼女の覚悟を見て、途方に暮れた。
自分一人では、彼女を救出することは難しい。
一体、どうすればいいんだよ。
「笠置!」
煙の向こうから人影がちらついた。
空耳か?
聞き逃しそうになったが、今度ははっきりと呼ばれる。
「笠置!どこだ!」
まず目に入ったのは防火靴。次に、面体の奥にある険しい双眸。
誰か助けに来てほしい。怖い。不安で胸が潰れそうになったそのとき、タイミングよく現れたのは、俺の中で大きく存在している男だった。
この場にいてほしいと望んだ通りの姿が出現して、膝の力が抜けそうになった。
煙の奥から現れた橋本は、もたもたする俺に対して何事か叱責すると、両脇から麗子さんの腕を抱えるよう指示を出す。
岩に張り付く苔のように畳と一体化していた麗子さんの体が、橋本の力により、いとも簡単に引き剥がされた。
彼女に抵抗はなかった。すでに朦朧としており、最早、生を拒絶する気力さえ失っていたのだ。
入ってきたときよりも火の手は恐ろしい触手を伸ばし、元来た道を塞ごうとしていた。僅か数メートルばかりの廊下の先が、何て遠い。火の粉が舞う。喉が焼けるように熱い。視界が真っ赤だ。あまりの熱気に眩暈を起こしかける自分を奮い立たせ、決して離すものかと麗子さんの脇に挟んだ手に力を込めた。
麗子さんの左側には、ただ真っすぐ前を見据える橋本がいる。
それだけで、俺は生への活路を見出した。
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