【完結】蟻の痕跡

氷 豹人

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第三章 熱欲

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 『ティ アーム』を出たときには、すでに日付の変わる時間帯となっていた。
 今夜のところはさっさと安アパートに戻りたかったが、秋葉が二十四時間営業の珈琲チェーン店で話を纏めようと誘うので断り切れなかった。辞退の理由なら幾らでも思い浮かぶ。しかし、意志の強い黒々した瞳を前にすると、そのどれもが声にならなかった。
 店は帰宅時間帯が大幅に超えていることもあって閑散としており、終電を逃したらしい若者数名程度しか客はいない。
 一番奥の隅の席に着いて、ようやく強張りを解くことが出来た。上司の手前ではあるが、脚を投げ出した、だらしない座り方になってしまう。口煩い秋葉は敢えて見過ごした。
「沢渡は長谷部に匿われているとみて間違いないでしょう」
 普段はブラックしか飲まないくせに、秋葉は砂糖をもう二つ足している。疲れたときには無性に甘い物が欲しくなるというが、どうやらそういった類ではないらしい。ほぼ無意識での行いといった方が妥当だ。表情や態度には全く出ないものの、この男も疲弊しているのだと、ぼんやりと思った。
 そんな俺といえば、すっかり湯気がなくなってしまったカフェラテに口をつける気力もない。
「かなり無理をさせてしまいましたね」
 いきなり秋葉は蒸し返した。必死に脳内で情報の消去を諮ろうとしていたのに、不意を突かれたことで椅子から転がり落ちそうになる。またもや激痛が体の中央を貫き、テーブルに突っ伏してしまった。
「どうせこんなことになるんなら、俺が長谷部の相手をして、巧く話を聞き出したら良かったんだ」
 悔し紛れに吐き捨てた。だが、言葉にしてみたものの、男を抱く趣味は生憎と俺にはない。勿論、抱かれるなんて論外だ。
「あなたのことを、私以外の人物で汚されるのは許せない」
 かえってきた言葉は予想を斜め四十五度いくもので、俺の苛立ちに着火するには充分だ。
「部下想いってか。どっちにしろ汚されるんだから、そんなもん関係ねえだろうが」
 相手が上司であることは承知の上で、毒づいてしまった。
「さすが、真っ昼間からラブホテルにしけ込んでる奴は、言うことが違うな」
 俺の呟きに、たちまち秋葉の目つきが変わる。
「噂のことですか? 」
 今日一日平然としていたが、やはり当人の耳にも噂はしっかり届いていたようだ。知った上で素知らぬ風を決め込むのだから、能面の渾名は伊達ではない。
「磯山に釘を刺しておきました。ちょっと強めにね」
「何を」
「くだらない憶測に尾ひれをつけて、尤もらしく触れ回るのはやめなさいと。それから、自分で撒いた話はちゃんと回収するようにと」
 能面といっても、現在の表情はまさしく般若。背後に燃え盛る紅蓮を見た。
「デマだって言い張るつもりか」
「女性を助手席に乗せたのは確かです。が、彼女はただの探偵です」
「探偵? 」
「ええ。警察寮の管理人の言っていた『ていーああむ』を調べさせました」
 これで合点がいった。管理者である立場の秋葉は、捜査以外にも何かと所用を持っている。動きの取り易い俺よりも早く情報を収集出来たことを不審に思っていた。よもや探偵を使っているとは考えにも及ばなかった。
「でも、火のないところに煙は立たぬって言うだろ」
「白状すれば、彼女とは学生の頃、二・三カ月程付き合ってはいました」
「ほら、やっぱり」
 そうだろうな、と納得する。幾ら金で雇った者であろうと、懇意でない限り、情報漏えいすれすれの際どい依頼なんてしない。
 あっさりと認めたことで探偵の元彼女とは本当に何もないと証明したつもりだろうが、俺の中のマッチの火は、今や家一軒燃えてしまうくらいに大きくなっている。女優と見紛うばかりの美人、妄想の入った磯山評が蘇る。
 不意に胸倉を掴まれ、引かれた。
「なっ! 」
 唇に柔らかいものが当たった。
 キスされた、と脳味噌が理解したときには、すでにその感触から解放されていた。瞬きよりも早い間であったため、店内の客は気付きもしていない。尤も、ハナから周囲に関心がないのか、皆一様にソーシャルゲームに夢中になっている。
「嫉妬に狂うあなたは、何て可愛い」
「ふ、ふざけんな! 」
 バンとテーブルを叩き、思わず立ち上がってしまった。その拍子に、ズキーンと激痛が駆ける。
「ぎゃあ! 」
 叫んだ俺に、秋葉は苦笑する。
「大丈夫ですか? 」
 まるで子供をあやすような秋葉の慈しみある眼差しは普段の冷血漢とは程遠く、躊躇し、頭に昇った血がたちどころに引いた。
 突然の悲鳴にさすがに周りの客らは目を丸くする。視線を一手に集めてしまい、たちまち赤面した俺は、咳払い一つで誤魔化して座り直した。
「いつまで演技してんだよ、あんた」
「迷惑でしたか? 」
「あ、当たり前だ! 」
 あと六時間足らずで職場に向かわなければならない。成り行きとはいえ、一線を越えてしまった相手と、どんな顔をして接すれば良いものか。俺の煩悶すら楽しんでいる節のある、ニタリといやらしい笑みの上司を前に、頭痛が酷くなった。
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