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Find a Way
11・空気清浄機
しおりを挟む晴天に恵まれたゴールデンウィーク、五月ニ日。
この日、良太と榊は鳥居地区にある鳥寿温泉郷の開湯祭を観光する予定であった。
桧村自動車は定休日だ。良太は朝早くからシャワーを浴び、身支度を整え、今は榊の迎えを待っている。
良太は前回、映画を見に行った後にやり取りしたことについて反省していた。
映画の内容に腹を立て、なおかつ榊がΩとの〔番〕を勧めてくるような態度を取ったことに対し、ガキみたいに拗ねた。しかも彼が自分をどう思っているのか知りたくてしつこく質問してしまった──ような気がする。
少し冷静になって考えてみれば、映画が気に入らなくたってべつに「こういうストーリーもあるんだな」と流せばいいだけだったし、なんならエンディング曲が割と好きなバンドの歌であったからそれについて話を広げることもできた。
榊がΩや〔運命の番〕について言及しても、「中にはそういう人も居るかもしれないですね」と言ってしまえばそれまでだったかもしれない。
また、彼が自分をどのように思っているのかについても、もっとさり気なく確かめる方法を熟考するべきであった。そもそもあの榊龍時が、嫌いな相手に告白されて恋人関係を受け入れるなんてことはあり得ないのだ。それなりに好意はあるとみていいだろう。
もっと大人にならなきゃダメだ、俺。
今日は何があっても、Ωとか番とか、色々言われても動じねえぞ。
俺は榊さんの恋人。榊さんの恋人は俺。
それが事実!
以上のようなことを反芻しながら精神統一して榊を待つこと三十分。榊から電話があった。
「はい、もしもし」
『おはよう』
「おはようございます」
『今、店の前にいる。準備できたらおいで』
「準備大丈夫っす、今行きます」
家を出て桧村自動車の事務所側にまわると榊の白いSUVが路駐していた。再度朝の挨拶を交わして、良太は助手席に乗り込んだ。
連休中ということもあり交通渋滞を予測して朝早く出発した二人だったが、目的地に近くなるほど道路は渋滞していた。
ようやく第五駐車場に車を停められたのは午前十時半過ぎだった。そこから少し歩いて温泉街へと向かう。
「県外からも結構来てますね」
「ああ、ちょっと前に鳥居の夏祭りが重要無形民族文化財に登録されたからな。今回は小規模で夏祭りの再現をやるんだって。それを目当てで遠方からきてる観光客も多いんだろう」
温泉街に近づくにつれて硫黄のにおいがただよう。
江戸時代の宿場町のような風情ある街並みと相まって、随分と遠い世界へ来たような旅情を掻き立てられる。
「俺、ここに来たの小学校のとき以来です」
と良太がどこか郷愁に浸るような眼差しで辺りを見回す。小学生の頃は両親と妹とよく遊びに来ていたという。
良太は榊と並んで歩きながら子供のころのことを話し、榊は相槌を打ちながら耳を傾けた。
やがて威勢のいい囃子太鼓の拍子が響きわたる。
三味線、笛、あたり鉦、さまざまな和楽器の音色が空気を彩り、細工を凝らした山車が町の中心をつらぬく街路を練り歩きはじめた。
写真や動画撮影のポジションを得るべく、大勢の観光客がどっと道路側に押し寄せる。
「榊さん写真とか撮らなくていいんですか?」
「あれだけ人が多いと人の頭しか写らないだろうから、いいや」
「そっすね」
「今なら店が空いてるんじゃないか。昼にはちょっと早いけど何か食べようか」
榊はがっつくようにあちこち観光するのではなく、のんびりと温泉街の景観と祭りの情調を楽しみたいらしい。良太もまた、ゆるりと榊とのひとときを味わいたいので幸いである。
二人は歩道の隅に立ち止まり人の流れをやり過ごす。榊は良太の背後にまわり、移動する人々の邪魔にならないよう配慮した。
その時、あわただしい引潮に取り残されたように良太の前に出現したものがあった。
最初、親とはぐれた子供かと思われたのだが──
垂れ気味の大きな目、小さい鼻と口、尖った顎、首輪。
胴体は肥大した乳房と大きな腰部で構成され、腕や脛は枯枝のように細い。
これは子供ではない。
Ωだ。
成熟したΩがαの雄を、桧村良太を凝視している。
ここで良太は初めて生殖可能な年齢のΩに遭遇した。発情期には性フェロモンでαを支配できる危険な生物。桜庭の言葉が脳裏をよぎる。
『発情してなくてもΩを発見したら逃げるが勝ちだ』
良太は即座にΩのフェロモンを吸い込まないように、右手で自分の鼻と口を押さえ、顔をそむける。
風向きのせいなのか硫黄のにおいのせいなのか定かではないが、こんな近くに警戒すべきΩがいるなど気付きもしなかった。
成人男性の歩幅でほんの五歩も前に出ればぶつかる距離にいるΩが、おぼつかない足取りでこちらへ歩みはじめる。
視界の端にうつるそれが、揺れ動きながら接近してくるのがわかる。
なんでこっちに来んだよ!!
とにかく逃げないとヤバい。
榊さんすみません!
良太は榊を残しその場を離れようとしたのだが、Ωに無防備な背を向けた途端これまで感じたことのない不快感に襲われた。
それはΩの前に晒された後頭部に、項に、背中と尻に、脚から踵、足の裏に至るまで、巨大な舌にねっとりと舐められたような感覚であった。上からぼたぼたと熱い唾液が降ってきて髪を、顔を、肩を濡らす。生温かい吐息が、濃厚な獣の臭気をはらんで粘っこく纏わりつく。
この世のものならぬおぞましい幻影に圧倒され戦慄が走る。
なおも女性型Ωは良太を目指して接近するが、次に起きたことは彼女にとってまったく、青天の霹靂のごとき衝撃をもたらした。
「どうしました?お連れさんとはぐれましたか」
良太に隠れるようにしてそこに居た榊龍時が進み出て、彼女に声をかけたのだ。
彼女は偶然出会った素晴らしいαの雄にΩの本能が疼き、どうしようもなく縋りつきたくなって殆ど無意識に行動していたのだが、ここで初めて榊の存在を察知した。
「っひぃゃあっ……!」
彼女は頓狂な叫び声をあげた。この反応に榊はわずかに動揺し、
「あ、すみません急に話しかけて」
と咄嗟に詫びた。
この時Ωになにがあったのか?なぜ榊龍時に怯えたのか?彼女から良太や榊に語られることはない。
だが、よほど衝撃的な体験の只中にいることは態度でわかる。Ωは凍えるように両腕を交差させ自らの肩を抱き、こまかく震えはじめた。
良太はなぜか鼻と口を塞いだまま動かず、あの女性はどうも体調が悪そうだ。ならば催事の係員を呼ぶべきかと榊が判断したところで、彼女の連れである男性型αが乱暴に人波をかきわけてやってきた。
襲いかからんばかりの勢いでΩと榊の前に割って入る。
「なんだあんた!俺の……」
と何かを言いかけ、立ち竦む。
その男性型αはそれっきり口をつぐみ、Ωをひったくるようにしてその場を逃げ去った。
良太は彼らが遠ざかったのに安堵して、ようやく呼吸を再開した。そして少し驚いたような表情で榊を見ている。
榊はわずか二、三分の間に起きたこの奇妙な、Ωと良太を含むαたちの行動に呆気にとられている。やや混乱しているといってもいい。
「なあ良太くん」
「榊さん」
「なんなの?」
「話します」
「ああ」
良太と榊は、すぐそばの喫茶店で休むことにした。
通りの賑わいを二階から見下ろせる和風の喫茶店。
もともと早めの昼食を取ろうとしていたこともあり、話の前にまず二人そろってオムライスをたいらげた。今は食後のデザートが運ばれてくるのを待っている。
「えっと、まずはこの前の飲みで譲が言ってたことなんですけど」
と話し始めた良太であったが、一旦、注文していたイチゴパフェと紅茶が運ばれてきたので中断した。
パフェを引き寄せた良太は、まずはイチゴを一口。榊は優雅に紅茶を飲む。
「で、譲なんすけど、あいつ高校の時にΩとお見合いしたことがあるらしくて」
「へえぇ、お見合いか」
良太は、桜庭の経験したΩに対する加虐心の芽生えや触手に纏わりつかれたような感覚、存在感の恐ろしさを聞いたまま語った。そして榊を前にすると、Ωのフェロモンで穢れたところが浄化されるようだ、ともいう。
「譲の話、ぶっちゃけ半信半疑だったんですけど、さっき分かりました。全部本当だって」
パフェグラスの底にあるシリアルを細長いスプーンで掬ってきれいに食べ終えた良太は、次に先ほど自分の身に起こったことをなるべく素直に説明した。
今の良太は成熟したΩに遭遇したことで、桜庭から聞いたことをはっきりと実感している。
しかし桜庭の見合い相手のΩと違って、加虐心のようなものは湧いてこなかった。閉め切られた小さな一室ではなく、屋外での遭遇であったからΩのフェロモン濃度が薄かったためかもしれない。
それでも気色の悪い感覚は十分に思い知らされた。まさに捕食者たる生物の威圧感、舌のようなものの不快な熱、絡みつく粘液の感触。それに付随する不気味な音と悪臭。果ては映像まで。
あのΩは榊が声を掛けたとき、まるで貝の口から伸びきった中身が引っ込むような速度で「獲物から手を引いた」のだった。
それだけではない、Ωの魔の手から救われた直後のこと。榊の姿を目の当たりにした良太は、生ぬるい唾液の付着した体を、冷たく綺麗な雨でさっぱりと洗われたような清々しさを覚えた。
きっとあのΩもいきなりお清めされたから悲鳴をあげたのではないか、と良太は思うままに意見を述べた。さらにこうも言う。
榊さんは特別な雰囲気があるんですよ。
榊は良太の話を否定することはなかったが、やはり信じられない様子だ。
それは当然だろう。αとΩの間に起こることであれば、双方の強烈なフェロモン作用により脳が幻覚を見せたと考えても納得できるが、榊自身はβなのである。
ここで榊は唐突に、昔〔白幻〕の施設長、寒崎に言われた言葉を起想した。
『あなたには何か特別な気配があると言っていました』
このことか?
だが、私はβだ。遺伝子検査でも間違いなくβだった。
もし未知の「βフェロモン」なる物質があったとして、それがΩのフェロモンを打ち消す効果があるならば、私以外のβも皆そういう能力を持っているはずじゃないか。
そもそも良太や桜庭くんの言う気色悪い感覚というものは、何の刺激に対する反応なのだろう。
やはりフェロモンではないのか。
しかし触手に絡み付かれ、舌で舐められるといった感覚は物理的刺激、触覚だ。
粘膜でさえない広範囲の皮膚がフェロモン物質に反応した?
仮に経皮曝露だとして触覚として認識できるものなのか。
彼らのフェロモン物質は主に鼻腔の主嗅覚系と、βには無い鋤鼻系で受容しているとされるから、感覚としては化学刺激である嗅覚に近いもののはずだが。
それともαには、体毛に昆虫の触覚に類似した受容器でも存在するっていうのか。
あれこれ考え込む榊は押し黙って難しい表情をしている。良太はそれを、彼の機嫌をそこねたと勘違いした。
「ごめんなさい。なんか人間空気清浄機だ、みたいなこと言って」
「いや、怒ってない。ただどう理解すればいいか……。いっそのことスピリチュアルだのオカルトだの、そっち方面の異能ってことにしとけばいいのかな。除霊とか、お祓い?」
「お祓い、それですよ!しっくりきた」
「マジか」
榊は呆れて窓の外に視線をなげる。通りはすでに祭囃子の賑わいが過ぎ去って、今は人混みだけだ。
ガラスに映る自分と目が合う。なんの変哲もない普通の男の顔だ。せいぜい灰色の長髪と眼鏡がオプションでついている程度。
どうみても異能力で活躍する特殊キャラじゃない。
フェロモンを使って〔番〕を作りたいΩにとっては悪役になるのかな。
悪者にしてはだいぶ迫力に欠ける。
にしても、人間空気清浄機って──
いずれαの王子とΩの姫に断罪される「悪役β」の能力がそれじゃマズいのでは?と榊は首を傾げる。
記憶のかなたから寒崎の台詞が聞こえた。
『それをΩのフェロモンと錯覚したということでしょう』
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