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雨のち晴れときどき猫が降るでしょう
人生のやり直し
しおりを挟む裕は波音を耳にしながら事故当時のことを思い出していた。もちろん、フォークリフトがぶつかったあとのことは記憶にはない。頭を打って意識不明だったのだから当然だ。
事故原因もあとから話は聞いた。地面が凍りついていてスリップしてフォークリフトの制御が利かなくなったとのこと。
運が悪かったってことだ。いや、死んでいたら運が悪いでは済まない。フォークリフトを運転していた新田は会社を辞めてしまったと聞く。辞めることはなかったのに。きっと責任を感じてしまったのだろう。なんだか胸の奥に澱が沈んでいく。
新田とはそれほど親しくはなかったが同僚だ。事故のときどんな顔をしていたのだろうか。少し考えれば顔面蒼白の新田が想像できる。真面目な奴だ。だからこそ、辞めるという選択をしたのだろう。
事故は新田のせいではない。恨んではいない。不思議なのだがそれが本心だ。もしかしたら恨む気持ちがないのは事故の記憶がほとんどないせいかもしれない。他人事のようにも感じてしまう。どこか脳の回路に異常がきたしているなんてこともあるのだろうか。いや、それはない。検査結果で異常はなかったのだから。
新田も自分も何も悪いことはしていないのに、なぜこんなことが起きてしまったのだろう。所謂、不慮の事故だ。
過去のことをいつまでもウジウジ考えていてもしかたがない。わかっているけど、つい考えてしまう。
奇跡的に生還できたことを喜ぶべきだ。唯一の救いだ。それなのにモヤモヤした気分になるのはなぜだろう。やっぱり無職になってしまったせいだろうか。新田に申し訳ない気持ちがあるせいだろうか。考えたところでこれだという答えに出会うことはなかった。
あの事故は誰の責任でもない。強いて言うのなら自然の責任だろうか。なんだそれって感じだ。
今、こうして生きている。奇跡的に助かったと言われても正直実感がない。死の淵を彷徨っていたなんて信じられない。フォークリフトが襲って来たのが昨日のことのように思えてしまう。けど現実は違った。事故が起こってから三ヶ月も経っていた。
ずっと意識不明だったらしい。
なんとなく三途の川を眺めていたような気もするが、それもただの夢のように感じる。誰かの声が聞こえて振り返ったら病院のベッドだった。
頭がぼんやりしてなにがどうなっているのか理解するのに時間がかかった。目覚めたときは眩しくてしかたがなかったが、慣れるとそんな眩しがるような明るさではなかった。きっと目の筋肉も衰えてピントを合わせられなかったのだろう。
死後の世界に自分は足を踏み入れようとしていたのか。不思議なものだ。
死か。いったい死ってなんだろう。死後の世界って本当にあるのだろうか。あのとき見たものが三途の川で向こう側があの世だとしたら。ちょっとは覗いてみたかった。いや、行ってしまったら戻って来ることはできなかったのか。それなら覗かなくてよかったのか。
なんだかやっぱりピンとこない。
それでも死んでいてもおかしくない状況だったのかと思うと震えがきた。
ある程度体力が回復してからはリハビリの毎日だった。リハビリってやつがあんなにも辛いものだとは思わなかった。まだ、左手に麻痺が残ってしまっているけどあとは事故前と変わりはないくらいまで回復している。厳しくリハビリに付き合ってくれた理学療法士に感謝しなくてはいけない。
「もういい。やめる」
そう何度口にしたことだろう。車椅子生活でもいいなんて甘えた考えでいた自分が恥ずかしい。そんな厳しいリハビリでも左手だけはうまく機能していない。動くだけマシだと思えればいいのかもしれないけど、人の気持ちはそう単純なものではない。
医者に言わせれば、どこも異常はみられないし左手の麻痺も治っていておかしくはないらしい。だが、実際に麻痺は残っている。気のせいではない。
裕は気合を入れようとおもいっきり息を吸い込みパシンと膝を叩いた。そのつもりだった。パシンと響いたのは右手のほうだけだった。やっぱり左手のほうは力が弱い。この痺れはいつとれるのだろうか。気がかりではあるが前向きに考えないといけないだろう。
それに、いつまでもダラダラとしていたらダメだ。
左手の痺れを理由にしてはダメだ。前に進まなくてはダメだ。
左手の痺れも気持ちの持ちようで良くなるかもしれない。もっとリハビリに力を入れよう。気合を入れてギュッと握り拳を作ってみても、今の握力はゼロ近い。
利き手が右手でよかったとつくづく思う。
自分の気持ちを奮い立たせてその場に立ち上がる。
その瞬間、波が大きく盛り上がりザブンと波音を立てた。
波も『ガンバレ』と応援してくれている。そんな気がした。そうだ、こんなふうに思うほうが自分らしい。
そういえば、占いでは『チャーハン』もラッキーアイテムだって言っていた。アイテムなのかとの思いはあったが昼飯はチャーハンにしよう。なにかいいことが起きるかもしれない。占いを信じているわけではないが、なにかいいことが起きると期待したい。今はなんでもいいからすがりたくなってしまう。
今の自分はもしかしたら怪しげな宗教団体に騙されるかもしれない。幸運になる壺とか買ってしまうかも。フッと裕は笑みを零した。きっと大丈夫だ。こんなこと考えているのだから、騙されないだろう。
「おっ、青年まだいたのか」
出た。謎のおしゃべりお爺さん。
「あっ、今」
「そうか、今、このジジイのこと考えていたんだな。そりゃ光栄だ」
いや、違う。今帰ろうと思っていたって言おうとしただけだ。
「それはそれとして、まあ、なんだ。まさかとは思うが死のうなんて思っていないだろうな」
お爺さんが急に笑顔から真顔になってドキッとした。
「ま、まさか」
真顔のお爺さんの迫力に思わず声が上擦ってしまった。
「ふむ、それならよろしい。青年よ、大志を抱けなんて言葉があるくらいだからな。未来に向けて新たな一歩を進むのだぞ。それじゃな」
お爺さんは再び笑顔に戻りバシンと背中を叩いてきた。
『それ、痛いんですけど』とは言えずただただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。
気づけば少し先を大笑いしながら歩み進めていた。
またしても言いたいことだけ言って行ってしまった。いったいあのお爺さんはなんなんだ。それに、『青年よ、大志を抱け』じゃなくて『少年よ……』だろう。
そう思ったらなんだか笑えてきた。やっぱり不思議な人だ。次会うことがあれば『ありがとう』と言ったほうがいいかもしれない。言えるかはわからないけど。一方的に話されて終わりになる確率のほうが高いだろうから。
そんなことよりも商店街にでも行くとするか。
新田の顔がふいに浮かんで消えた。どうしても新田の顔がちらついてしまう。元気にしているだろうか。辞めた会社から新田には自分のことを知らせてもらった。退院する前に連絡していたら、お見舞いにも来たかもしれないけどそうしなかった。やっぱり、どこかで恨んでいるところがあるのだろうか。
会いたくない。そんな思いがどこかであったのかもしれない。
そういえば、意識がないときに会社の人がお見舞いにきたと母が話していた。もしかしたら、数人いた会社の人の中に新田はいたのかもしれない。母は会社の人としか憶えていなくて名前はわからないと話していた。
待てよ、そこに新田がいたとしたら謝罪したはずだ。母が憶えていないはずがない。いや、そうとも言えないのだろうか。
もしもそこにいたとしたら新田はどんな顔をしていたのだろう。
そう思ったら胸が痛んだ。
新田、元気だといいけど。
今だったら会ってもいいと少しは思っている。けど、どう話していいのかわからない。事故が起こっていなかったら、新田は会社を辞めることもなかったのだから。なんだかそのことに責任を感じてしまう。すぐに反応して機敏に動いていたら避けられたかもしれない。そう思ってしまう。自分が悪かったのだろうか。
そんなことはない。誰にも責任はないはずだ。
ダメだ、あの事故のせいで後ろ向きなことばかり考えてしまう。自分はこんな性格ではなかったはずなのに。それにしても新田のことを心配するなんてお人好しだ。他人の心配をするよりも自分の心配をしろ。
今は嫌な記憶は忘れてチャーハンを食べに行こう。きっとこの先、楽しいことが待っていると信じよう。
裕は深呼吸をして商店街へと続く道へと歩みを進めた。
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