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雨のち晴れときどき猫が降るでしょう

商店街の人たち

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 裕は店を出るなり斜め向かいにある鍼灸整骨院の看板に目が留まる。あそこか。

「今日の料理はどうだったい」

 背後から声をかけられて振り返るとタバコ屋のフミが微笑んでいた。

「あっ、もちろん美味しかったです」
「そうかい、そうかい。それはよかった」

 そうだ、スクラッチも換金していこう。

「あの、これお願いします」
「おや、昨日の。ああ、なるほど。大当たりとはいかなかったようだねぇ」
「はい」

 フミの隣でぷくが小さく鳴いた。

「まあ、こんなものだろう。ここで運を使うことはないよ。きっと、もっといいことがあるはずだからねぇ」

 もっといいことか。大当たりするよりいいことってなんだろう。ぷくを見遣ると大口を開けて欠伸をしていた。呑気な奴だ。本当にこいつは福猫なのだか疑問だ。本猫はそんなこと思ってもいないかもしれないけど。
 フミから三千三百円を受け取り、ぷくの頭を撫でると鍼灸整骨院のことを話して店をあとにした。
 鍼灸整骨院の安角先生は腕がいいからきっとよくなるよとフミも太鼓判を押してすすめてくれた。それでも正直なところ半信半疑だった。鍼灸整骨院の扉の前に来て裕は大きく息を吐く。なんだか緊張してきた。

 自動ドアが開くと受付が目の前にあった。
 左手の痺れのことを話して国民健康保険証を手渡し待合室の椅子に座る。ごくりと生唾を呑み込み左手を凝視する。大丈夫だ。きっと今より悪くなることはないだろう。
 そのとき、ポケットに入れていたスマホが鳴動した。

 辞めた会社の先輩からのメールだった。そうだ、返信していなかった。すぐに返信をしなきゃ。

『返信せずにすみませんでした。新田さんに連絡してみます。連絡先教えていただきありがとうございます』と送った。

 新田と向き合ってきちんと話をしよう。それが一番いい。

「淵沢さん」

 名前を呼ばれて裕は立ち上がり診察室に入り椅子に腰かける。

「淵沢くんだね。私は安角といいます。しんどふじの安祐美さんから話は聞いているよ」
「はい」

 何気ない会話からはじまり痺れが残る左手を安角は診ながら痺れ具合についていろいろと話を訊いてきた。
 そのあと鍼での治療を施されて鍼灸整骨院をあとにする。
 うまく痺れがとれるかわからないが、しばらく通院することになった。
 なんとかなるさと思っていたほうがいい。もしかしたら気持ちの問題かもしれないし。そうそう、きっと大丈夫だ。けど不安だ。
 大きく息を吐き、商店街を歩き出す。新田のこともあるしな。

 あっ、あいつ。
『カフェわた雲』の屋根にいるムギをみつけた。あいつ、また驚かすつもりだな。もう驚かされないぞ。
 裕は『カフェわた雲』から離れて歩こうと思ったのだが、ムギと絡まないで家に帰るのも寂しく思った。しかたがない、付き合ってやるか。

 裕は気づいていないふりをしてムギのいる屋根の前を通り掛かった瞬間、肩に重みを感じてすぐにムギは目の前に着地した。
 まったく可愛い奴だ。

「ムギ、またか。驚かすなって言ったのに」

 そんな言葉をムギに向けながら裕の頬は緩んでいた。ふと裕は思った。ムギは本当に驚かすためにそうしているのだろうかと。実は、下に降りたくて自分の肩を足場にしているだけなのではないだろうか。まあ、どっちでもいいか。

 ムギの頭を撫でているとカフェから女の人がやってきて「うちの猫がいつもすみません」と謝ってきた。えっ、こいつはこの店の猫だったのか。

「あの、気にしないでください。僕、猫好きですしなんだか飛び降りてくるの期待しちゃっていて」

 女の人はキョトンとした顔をしていたかと思ったら急に笑い出した。

「あっ、すみません。やっぱりムギは人を見るんだなって思って」
「どういうことですか」
「屋根から飛び降りて脅かす人に謝りに行くとみんな怒っていないんです。それより楽しんでいるみたいで」
「なるほど」

 裕はムギを見遣り再び頭を撫でた。

「あの、よかったら珈琲でもいかがですか」

 どうしようか。お腹いっぱいだし。そんな思いを察したのかムギが足元に寄り添い身体を擦り付けてきた。これは寄って行けってことか。珈琲一杯くらいなら飲めるか。

「そうですね。珈琲のいい香りもするし寄って行きます」
「ありがとうございます」

 ムギはいい客引きだな。招き猫ってことか。
 カフェに入ると珈琲の香りがより一層強まり無性に飲みたい気分になってきた。なにを飲もうか。メニューを一通り見たところで「ブレンドコーヒーをお願いします」と注文をした。

「はい」

 女の人はカウンターの向こう側に戻っていった。そこには男性が一人。もしかしたら夫婦で経営しているのだろうか。なんだかお似合いの二人だ。これも何かの縁だ。この町に住むのだから商店街の人たちと知り合いになるのもいいのだろう。今のところ呉服屋の木花の大旦那と八百屋の店主の富岡、タバコ屋のフミとしんどふじの安祐美に里穂。あと鍼灸整骨院の安角先生。あっ、パン屋のお爺さんもいた。名前は知らないけど。

 他の店にもいつか行ってみよう。確か書店もあったはず。スーパーは駅前までいかないとなかったか。けど、肉屋に魚屋、八百屋、総菜屋とかあるから大丈夫なのか。まあ、それはいい。

「はい、ブレンドコーヒーです」

 軽くお辞儀をして珈琲を一口啜る。おお、コクがあって美味い。家で入れるインスタント珈琲とは全然違う。当たり前か。同じだったら店が潰れる。

「おいしいですね、この珈琲」
「ありがとうございます」

 素敵な笑顔をする人だなと裕は思った。自分の母親と同世代くらいだろうか。

「気に入ってくれたのなら珈琲豆も売っているからな」
「あっ、はい」

 カウンターの向こうからかけられた男性の言葉に思わず返事をしてしまったがそこまで珈琲は好きではない。たまに飲むくらいだ。珈琲豆を買っても豆を挽く器具もないし。

「ニャ」

 んっ、ムギか。

「ムギちゃんは余程あなたのことが気に入ったみたいね」
「そうだと嬉しいです」
「そうそう、淵沢くんといったかな。安祐美ちゃんに聞いたよ。後輩なんだってね。この町に戻って来たんだろう。これからもよろしく頼むよ。俺は高木幸治でこいつは好美だ」
「僕は淵沢裕です。こちらこそよろしくお願いします」

 そのあともムギの話で盛り上がり心地よい時を過ごした。
 裕は「また珈琲飲みに来ますね」と告げてムギを撫でて店を出た。安祐美はどこまで話したのだろう。事故のことは話したのだろうか。ちょっと気にかかったがいい人だし気にすることもないだろう。

 そうだ、新田に電話しなきゃ。今は新田とのことを一番に考えるべきだ。まったく自分はどこまでお人好しなんだか。痺れが残る左手を見遣りフッと笑う。

 まあ、人が何と言おうとこれが自分だ。死にかけたとしても今こうして生きている。それだけでも十分じゃないか。新田にも今の自分のことを伝えれば少しは罪の意識から抜け出せるかもしれない。
『しんどふじ』の料理のおかげで少しは前向きに考えられるようになったのかもしれない。
 帰ったら新田に電話をしよう。絶対に。

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