猫縁日和

景綱

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第2章 ガンバレ、私

(2-2)

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 花屋『たんぽぽ』まで歩いて五分。
 頭の中で、ちょっとした妄想劇を繰り広げていれば、店まであと少し。

 本当に近い。

 庄平と節子の笑顔は心が和むし、猫のツバキには癒される。あんな素敵な職場は滅多にない。一緒に働けると思うだけで心が躍る。
 店に着いたら、みんなに負けないくらいの笑顔で挨拶しよう。ツバキは、驚いて逃げてしまうかもしれないけど。

 梨花は、クスッと笑い速足で『たんぽぽ』へ向かい、シャッターの閉まった店を目の当たりにして顔を強張らせた。

 なぜ。

『CLOSED』と書かれたプレートもかかっている。
 おかしい。今日から来てって話していたのに。

 まさか、節子に何かあったんじゃ。梨花は、店舗裏へと走り出す。ここは店舗兼住宅。とにかく裏の玄関に急げ。顔をしかめたまま倒れている節子の姿が、頭に浮かび血の気が引いていく。

 どうしよう、大丈夫だろうか。庄平が一緒にいるから、大丈夫なはず。何かあったとしても、最悪な事態にはならないと思う。それでも、気が急いてしまう。

 扉を前にして、梨花は祈った。
 ふたりとも家にいて。お願いだから。
 ドアベルを鳴らして、じっと待つ。
 早く、早く。笑顔で出迎えて。

『節子さん、庄平さん』

 耳を扉に近づけて、聞き耳を立てる。
 無音だ。そんなはずはない。聞こえないだけ。

 ああ、どうして、こんなにも静かなのだろう。誰もいないのだろうか。
 緊急入院なんてこと……。

 ううん、そんなことない。馬鹿なこと考えちゃダメだ。
 早く出て来て。入院なんてしていないでしょ。ふたりとも、ここにいるでしょ。そうだ、寝坊したのかもしれない。いや、あのふたりに限ってそれはない。なら、どうしてシャッターが閉まったままなの。

 どうして、すぐに出て来てくれないの。
 待つ時間がこんなにも長く感じるなんて。ああもう、心臓が飛び出してきちゃいそう。

 いないの。いるんでしょ。早く扉を開けて。早く。
 早く、早く、早く。

 そうだ、ツバキは。鳴き声は、聞こえないだろうか。
 耳に全神経を注いでも、聞き取れなかった。本当に、誰もいないの。

 自然と顔と身体が地面に近づいていく。息が、近くに生えた雑草を揺らす。いないのだろうか。心が下へ下へと落ちて行こうとしたとき、ガチャッと音が鳴る。

 顔を上げると、そこには庄平の笑顔があった。
 いた。いてくれた。
 そう思った瞬間、ホッとして全身の力が抜けてしまった。

「梨花ちゃん、しゃがみ込んでどうしたんだい」
「あっ、いえ。なんでもないです」

 優しい笑みの庄平がそこにいる。大丈夫だ。梨花は立ち上がり「おはようございます」と涙声で挨拶をした。

「お、おはよう。それにしても、どうした。泣いていたのかな」
「なんだか涙が。私、変ですね」

 梨花は頭を掻き、苦笑いを浮かべた。
 ところで、節子は大丈夫なのだろうか。庄平の後ろを覗き込む。姿は見えない。まだ、安心するのは早い。
 庄平に節子のことを訊こうと口を開けたところで、奥から声がしてきた。

「小城さん、じゃなくて梨花さん、早くあがってらっしゃい」

 間違いない。節子の声だ。
 よかったとの思いが心を占めていくとともに、涙が一気に頬を伝っていった。
 無事だった。悪いことは何も起きていなかった。

「梨花ちゃん、大丈夫なのかい。何かあった」
「あ、あの、違うんです。いや、違うっていうか。その、私。シャッター閉まっていたから、節子さんに何かあったと思っちゃって」

 涙を拭い、頬を緩ませ、思っていたことを庄平に話す。

「梨花ちゃんは、優しいんだね」
「庄平さん、梨花さん、あたしを仲間外れにしないでおくれ。早く、こっちへおいで」

 節子の声に梨花は庄平と目を合わせて、ニコリとした。

「それじゃ、上がって」
「はい」

 靴を脱ぎ、上がり込むと居間に節子がいた。顔色もよく、元気そうだ。ただ、怪訝そうな顔で、じっとこっちをみつめていた。

「節子さん、おはようございます」
「ああ、おはよう。ところで、梨花さん、なんで泣いているんだい」

 節子の言葉に、苦笑いを浮かべた。本当に自分の早とちりには参ってしまう。本当に、
杞憂きゆうに終わってよかった。そう思ったら、またしても涙が盛り上がってきてしまった。

「おやおや、梨花さんったら、おかしな子だね」

 節子がハンカチを取り出し拭ってくれた。

「あの、すみません。大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないねぇ。とにかく、わかるように話してごらん」

 梨花は、庄平にした話と同じ話を節子にもした。

「梨花さん、そりゃ、すまなかったねぇ。今日、店は休みにしただけなんだよ。あたしは、この通り大丈夫だから」

 節子はこっちに優しい目を向けて身体を動かしながら、そう口にして「いたた」と顔を歪めた。

「節子さん、わかりましたから、無理しないでください」

 休みにしただけか。そう心の中で反芻はんすうして、小さく息を吐く。節子には、何も起きていない。大丈夫だ。休みにしたのなら、なんのために来るように言ったのだろうか。

「あのね、実は今日は、花屋のこと教えようと思ってね。それで、来てもらったんだよ。休みにしたほうが、教えやすいだろう」

 節子はそう言葉を続けた。

「そうだったんですね」

 確かに、そのほうがいいのかもしれない。
 一日で覚えられないだろうけど、接客しながら教わるよりはいい。

「ところで、梨花さん。本当に、ここで働いていく覚悟はあるかい」

 覚悟って。節子の顔がすごく真剣だ。
 花屋って、そんなに大変なんだろうか。なんだか、変な汗が。


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