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トリップ
しおりを挟む二階東側にある角部屋。
あそこが謎部屋か。
怖さもあるが期待感が膨らんで妄想してしまう。扉を開けた瞬間、そこにはありえない風景があるのではないだろうか。
謎部屋だぞ。いったいどんな謎が存在しているのか。期待しないほうがおかしいだろう。待て、待て。確か、危険と隣り合わせじゃなかったか。大丈夫だ。そんな危険な部屋を不動産屋が紹介するはずがない。謎部屋という言葉で好奇心を煽っているだけだ。本当にそうか。稲山店長の話を聞いていなかったのか。とんでもないこと話していなかったか。契約するとき『本当にいいのですよね』って念を押されただろう。
あの稲山店長は大袈裟なんだ。きっと、そうだ。
謎部屋はきっと楽しいところだ。俺は妄想のスイッチをオンにした。
扉を開けば、宇宙空間が広がっているのかもしれない。それとも近未来な景色だろうか。ロボットのメイドがなんでもしてくれる快適な生活が待っているのだろうか。もうひとつ外への扉があって別世界へ通じているなんてこともあるのかも。リアル異世界冒険へ。妖怪がいるなんてことも。そんな小説があったはず。実際には、ありえないか。けど、そんなことがあったら面白そうだ。
突然、俺の妄想を一刀両断する睨みつける細めの男が割り込んで来た。
『あなたに阻止できるでしょうかね。何の力もない人には無理ですよ』
顔が近づいた瞬間、大きく裂けた口元が上がりクックックと笑った。
思わず仰け反り、妄想への侵入者を跳ね除ける。今のはいったいなんだ。
あたりに目を向けて、誰もいないことにホッと息を吐く。俺の妄想が暴走したのか。そんなことがあるか。妄想に誰かが入り込むなんてことは、ありえない。
『挑戦者求む』との貼り紙を思い出して身体を震わせた。まさかあいつに俺は挑戦するのか。魔物とかはいないはずじゃ。
しっかりしろ。俺が妄想し過ぎただけだ。今のは、現実じゃないだろう。それでも気にかかる。深呼吸をして二階建てのアパートに目を向けた。
一回整理してみようか。
稲山店長の話をよく思い出せ。そういえば四次元がどうのって話していた。四次元空間の魔物が妄想に割り込んで来たとか。まさかな。四次元の話は盛っているんだろう。そうだとしても、稲山店長はトリップさせたくない感じもあった。いや、トリップさせたかったようにも思える。トリップが四次元を呼ぶのだろうか。そんな馬鹿なことがあってたまるか。突然、部屋に呑み込まれて一巻の終わりなんてことはないはずだ。話を聞いていなかったわけではない。稲山店長の話しはきちんと理解しているつもりだ。
頭の中に『トリップ』との言葉が渦を巻いている。要するにブレーカーを落とさなきゃいいわけだろう。
そうだ。『トリップ起こさなければ快適に過ごせますしね』との言葉を信じよう。それでもやっぱり謎に挑戦したくなる自分がいた。どうやら、俺は馬鹿らしい。無謀な挑戦者ここにありってことか。稲山店長も俺の心を見抜いていたのだろう。
『けど、あなたは、きっとトリップを』なんて、あのとき口にした。続く言葉は想像できる。『あなたは、きっとトリップさせてしまうでしょう』と言いたかったはずだ。正解だ。どうして俺はそうなのだろう。怖いもの見たさってものがある。まさに、俺はそれだ。
どんなことが起こるのだろうと考えているうちに顔が綻んでいった。
心が躍る。危険とわかっていても惹き付けられてしまう。俺の中ではどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。冷静を装っているが、顔に出ているかもしれない。それならそれでいい。誰も見ている者などいない。そのはずだ。そう思いつつもあたりに目を向けてしまった。大丈夫、飯塚加奈はいない。そう思いつつもどこか寂しく思えてしまった。
俺は二階へと向かい扉の前で立ち止まる。謎部屋とやら、俺が挑戦者だ。
いざ、出陣。
意気込んで扉を開けた先にあったものは普通の部屋だった。入ってすぐにキッチンがある。向こうの扉はトイレかな。その隣は風呂場か。奥に二部屋あるみたいだ。謎部屋じゃないのか。何か普通とは違うところがあるんじゃないのか。
そうか、この部屋自体が謎部屋じゃないのか。どこかに隠されているのだろう。
どこだ、どこにある。一攫千金の扉はどこだ。そうじゃない。金がすべてではない。俺が望むものは、えっと、なんだろう。ふいに亡くなった母親の顔が浮かんで胸に鈍器が打ちつけられる。
忘れろ。悲しいことは忘れろ。馬鹿を言え。あの優しかった母を忘れられるか。
くそっ、哀しみなんかどっかへ行っちまえ。
今は謎部屋の扉だ。きっと、そこには俺にとっていいことが待っているはずだ。本当にいいことか。恐怖じゃないのか。死の扉って可能性もある。ふん、嫌なことは考えるな。そうなったとしたら、それも俺の運命だ。受け入れろ。とにかく探せ。
ここか。そっちか。あっちか。
トイレの扉を開いたり風呂場への扉を開いたり収納の扉を開いたりしたがこれといって変わったところはなかった。
ないか。溜め息を漏らして頭を掻いた。何か忘れていないか。
えっと、なんだったろう。俺の頭は鶏と同じか。稲山店長の言葉を思い返す。フローリングの床に胡坐を掻き腕組みして熟考する。
そうだ、トリップだろうが。そのとき扉が開くんだっけか。
電気だ、電気。ブレーカーを落とせ。
まずはどうする。
エアコンは備え付けられている。電子レンジもテレビもある。これで一万五千円の家賃ならそれだけでも得じゃないか。今はそんなことどうでもいい。謎部屋の扉を開かなくては。
「大金掴んで豪邸に住むぞ」
違う。それが目的ではない。大金を掴み会社を設立させて自分の力でのし上がってやる。親のすねかじりで終わらない。その先に、本当の幸せが待っている。そうだろうか。何か俺には掴み取りたいものがあるのではないか。掴み取りたいというよりも取り戻したいのではないか。何を。頭の中にいろんな顔が浮かんでは消えていく。なんだろう、以前にも同じようなことを考えていたような。この場所にも見覚えがないだろうか。気のせいか。そんなことどうでもいい。いくら考えたところで、答えはみつからなさそうだ。
とにかくトリップだ。その前に電源だ。
よし行くぞ。
三、二、一、電源オン。
あれ、つかない。まだ電気がきていないのか。前もって電力会社に連絡しておいたのにどうなっている。あっ、ブレーカーが上がっていないのか。きっとそうだ。
早いところ謎部屋に行きたい。何が起きるか楽しみでしかたがない。俺の未来はきっと素晴らしいものになるはずだ。そう思う反面、災厄が待っている可能性も心のどこかで恐れていた。それでもやめようという気にはなれなかった。
おっ、ブレーカーみつけた。思った通りブレーカーが上がっていなかった。
今度こそ、素晴らしき未来への第一歩へ足を踏み入れる。
エアコンの電源オン。電子レンジとテレビの電源もオン。まだか。あとは、何がある。あっ、ドライヤーがある。コンセントに差し込みドライヤーもオン。
バチン。
よし、きた。トリップだ。過電流でブレーカーが落ちた。どうだ、謎部屋解放するのか。心臓の鼓動が速まっていく。何も起きないのか。おかしいな。落胆しかけた次の瞬間、突然暗闇になり目の前の収納扉が勢いよく開く。音の大きさに驚き尻餅をついてしまった。そんな俺にスポットライトが浴びせられる。
ブレーカーが落ちたはずなのに、なぜ灯りが。
強い光が俺に目がけて照らしつけている。収納のほうからだ。
収納へと顔を向けると、光の攻撃に目が眩む。何もなかったはずなのに。
目を閉じた瞬間、突風が巻き起こり身体が収納のほうに引っ張られてはじめた。
何が起きている。この状況はかなりまずくはないか。
あれ、暗くなった。薄目を開けて様子を窺うと光は消滅していて真っ暗闇になっていた。さっきの光の攻撃のせいで目の前に光の三原色がチラつく。どこを見ても赤、緑、青が浮かび上がる。
そういえばなぜ暗いのだろう。昼間だったはず。いきなり夜が訪れたというのか。窓の外を確認したら青空と流れゆく白い雲が映った。まるでそこは別世界のようだった。外は昼間なのになぜここは夜なのだろう。光が届いていないのか。光を遮断する見えない壁があるのか。違う。光が扉へと吸いこまれている。
そんなこと考えている場合ではなかった。うわっ、引っ張られていく。
もしかして扉の向こうにあるのはブラックホールなのか。そうだとしたら、死ぬ。俺の未来はどうなる。ここで終わってしまうのか。
『行方不明者のほうが多いでしょうか』
『四次元空間を信じますか』
稲山店長の言葉がこだまする。
俺は間違えたのか。ここに住むべきではなかったのか。これはギャンブルよりもリスクが高い行為だったのだろうか。やっぱりトリップさせてはいけなかったのか。俺は馬鹿だ。そんなこと最初からわかっていたはずだ。そうじゃない。俺はどこかで謎部屋の存在を信じていなかったのかもしれない。期待はしていたが、何も起きませんでした。チャンチャンみたいな。『信じたのですか』と微笑む稲山店長の姿がそこにあると思っていたのだろう。
終わってしまうのか。このまま終わりでいいのか。諦めるのはまだ早いのではないか。何かできることがあるのではないか。少しは抵抗しろ。
エアコンのリモコンが目の端に映る。俺は身体を捻りエアコンのリモコンに手を伸ばす。よし、届いた。間髪入れずに停止のボタンを押す。ダメだ、これじゃ意味はない。ブレーカーをあげなきゃダメだ。電気が遮断されたままではダメだ。ブレーカーのある場所へはどう足掻こうとも行けそうにない。やっぱり、終わりだ。
まだだ。終わりじゃない。
何かに捕まろうとしたが空振りに終わり扉のもとへ引き寄せられていく。扉だ、扉を閉めろ。足をバタつかせて扉を蹴飛ばそうとしたがこれまた空振りに終わる。
結局、俺は扉の中へ吸い込まれてしまった。
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