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19号室 家に憑く者(前半)
しおりを挟む朝目覚めて、真っ先に愛犬のカケルがいる庭に足を向けた。一週間前に知り合いから譲り受けた雑種だ。秋田犬の血が少しだけ混ざっているらしい。秋田犬と言えば忠犬ハチ公が有名だけど、一歳になったばかりのカケルも同じように賢い。
玄関扉を開けて庭に出て「おはよう、カケル」と声をかける。
あれ、おかしいな。いつもなら私が庭に出たときには犬小屋の前で待っているのに。具合でも悪いのかな。
犬小屋を覗いて、言葉を失った。その場に膝から崩れ落ちて凍り付いたように固まってしまう。
嘘、これって何かの悪い冗談でしょ。
頭が真っ白になり何が起きたのかすぐに理解出来なかった。どれくらい犬小屋の中をみつめていたのだろう。地面が赤黒く染まっている。半開きになった口と見開かれた目を見てしまうと心臓がギュッと締め付けられたようで胸が痛む。酷い姿も涙でだんだんぼやけて霞んでいく。
嫌だ、こんなの嫌だ。
「どうしたの、美月」
「お母さん、カケルが、カケルが」
私は意味が解らずパニックになりそうで母に縋りつく。
「どうしたの……」
私が指差す先を目にして母は言葉を詰まらせた。けど、すぐに父を呼んだ。
カケルは首から血を流して息絶えていた。カケルの目を見るのが辛い。恐怖に慄いた目をしている気がした。母はカケルの目を閉じてあげようとしていたが、うまく閉じてくれないようだった。
いったい、誰がこんな酷いことをしたのだろう。訳が分からない。現実かどうかさえわからなくなっていた。私は、目を腫らせて泣きじゃくる。学校に行く気がせず休むことにした。友達が迎えに来た声がしてきたけど、「具合が悪くて休ませるからごめんね」との母の言葉が聞えた。
二階の自分の部屋で私は蹲り、俯きじっと床をみつめて小さく溜め息を漏らす。
なんで、どうして。
窓から庭を覗いて見たけど、やっぱりカケルの姿はない。犬小屋だけがそこにあった。後でカケルを火葬場で葬ってあげるなんて父は話していた。血を流すカケルの姿がまだ目に焼き付いている。目を閉じても酷い姿が瞼の裏に映し出されてしまう。
もう一度、窓の下の庭に目を向けると溜め息がまた出てしまった。
犬小屋から左に目を向けると小さな祠と朱色の鳥居が目に留まる。
昔から私の家にはお稲荷様が祀られている。田舎の家にはよくある風景だ。神様の前で生き物を殺すなんて、人でなしだ。父は警察にも話すと言っていた。きっと大丈夫だ。もう酷いことなんて起こらないはずだ。
最初はそう思っていた。けど、カケルの死は始まりに過ぎなかった。
***
一ヶ月後。
新たな家族の豆柴がやってきた。今度は外ではなく家の中で飼うことにした。愛くるしいその姿に温かな気持ちになった。名前はソラ。夜は私の部屋のクッションで寝ている。なんとなく弟が出来た気分だ。
カケルを殺した犯人はいまだに捕まっていないが、家の中で一緒に暮らすソラは安全なはずだ。だがしかし、一週間後にまた私は涙を流すことになる。
なんで、どうして。
クッションに沁み込んだ真っ赤な血とともに手足をギュッと伸ばして息絶えているソラを目にすることになってしまった。
不思議なことにどこも荒らされた様子はない。鍵は全部かかっていて誰かが侵入した形跡もない。ソラが吠えることもなかった。それはカケルのときも同じだった。
もしも誰かが入ってきたとしたら、きっと私は目を覚ましたはずだ。
ならば、ソラの死はどう説明したらいいのか。何かの病気が発症したのかもしれない。そうだ、そうに違いない。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
落胆しつつも、休むことなく中学校に向かった。
その日の授業はまったく頭に入ってこなかった。給食もほとんど口にしなかった。友達と話すことさえしなかった。
帰りも上の空で気づいたら家の近くを歩いていた。
いったい何が起きているのだろう。
家に帰ってももうソラはいない。犬は飼わないほうがいいのだろうか。そう思ったとき、ふと近所で犬を飼っている家が一軒もないことに気がついた。
どうしてだろう。あまり気にしたことがなかったが何か意味があるのだろうか。いや、意味なんてない。たまたまだ、きっと。
家の前に着くと大きく息を吐く。そのとき家の門柱に顔が見えて悲鳴あげて身体を強張らせる。
なに、あれ。嘘でしょ。顔にしか見えない。
門柱に浮き上がる人の顔。その顔が、まるで目のつり上がった般若の面みたいだった。怒りを露わにしたその顔がじっと私を睨み付けてくる。腰を抜かして立つことが出来ない。この家、どうかしている。
悲鳴を聞いて駆けつけてくれたのだろうおばさんが「どうしたの」と声をかけてくれた。私は「そ、そこに」と声を震わせて門柱を指差した。けど、そこに顔はもうなかった。
どうして。幻でも見たというの。
「なに、何もないみたいだけど」
訳が分からない。頭の整理がつかないまま何かを言わないといけないと思い「いや、その変な虫がいて」と誤魔化すしかなかった。
「もう美月ちゃん、驚かせないで。変質者でも出たのかと思っちゃったじゃない」
「す、すみません」
「いいのよ」
おばさんは私を立たせて帰って行った。
確かに顔はあった。見間違いじゃない。自分の家なのに、入りたくなかった。共働きで家には誰もいない。ひとりっきりで家にいるなんて出来ない。
私は母が帰ってくる時間まで近くの公園のベンチに座って門柱に浮き出た顔のことを考えていた。きっと、目の錯覚。そう思い込むしかない。思い出しただけで鼓動が早くなる。喉の渇きも感じる。何かがおかしい。これってもしかして心霊現象。すぐにかぶりを振って違うと自分に言い聞かせる。母が早く帰ってくることを祈った。ここにいれば必ず母が通る。一緒に帰ればいい。
また顔が見えたらどうしよう。ずっと公園にいるわけにもいかない。早く帰ってこないかな。チラチラと母が通らないか何度も道の方を見てしまう。
気のせい、気のせい、気のせいと何度も繰り返して落ち着かせようとする。どれくらいそこにいただろうか。
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