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5 雨の中
しおりを挟むおりんと千代は、護衛のものを引き連れて町へ出た。向かう先は、おりんが借りるはずだったあの長屋の空き部屋である。
最近の江戸の町は、不思議な様相の洋人も見かけるようになった。だからか珍しい船来品も店に並ぶので、物々しい雰囲気をのぞけば、千代との見物はあの頃に戻ったみたいに楽しいものだった。
しかし、そうしてばかりもいられないのである。一行はあのとき有島に書いてもらった地図を頼りに、きびきびと道を歩いた。
「私たちもこの辺は地理に疎いから、それが残っていてよかった」
千代が言う通り、確かに捨てずに取っておいてよかったとおりんは思った。森本家を飛び出した日、彼が自分のために書いてくれたかけがえないものだったので捨てるわけにもいかず、引き出しに大切にしまっておいたのだ。そうしていてよかったと、おりんは思った。
――これがなければ、ここまで辿り着けなかった。
そう思うのは、実際あのときの記憶があまり残っていないからで、きっと追っ手が迫っていて正気でなかったのだと思えた。
町並みやお店をじっくり見ている暇もなかったので、こうして穏やかに歩けることに、おりんは喜びを感じていた。
このあたりは大きな店が多く、人通りも多かった。それを分け入るように進み、おりんは気付く。
「!……この角です」
大店の並ぶ角に、例の小間物屋がある。そしてその裏店に、有島は部屋を借りているという。
一行が急いで近付くと、建物や幕が見えて――。
「あれ…………呉服屋だ」
「はい。小間物屋ではないみたいですね」
侍従のことばの後で、千代はおりんよりも先にそろりと呉服屋に近付き店内を眺めると、店番をする老人を見つけ声をかけた。
「お爺様、少しお聞きしますが、この店は昔から呉服屋なのですか?」
「ああ。うちは百年続く老舗だよ。いいもの揃えてるし、見ていかねえかい?」
そんなふたりのやりとりを前に、おりんは絶望していた。やはり、有島の発言は嘘だったのである。
――……有島さま。
ただ、本命は裏店にある空き家だった。そのためそれも確認せねばと、おりんが思ったときだった。
「おりん殿」
小さな声でぼそりと声をかけたのは、千代のお供のおとこだった。
「どうしたのですか」
「いえ、見間違いかと思ったのですが……姫様をあなた様のもとへ案内した同心さまと、よく似た方がそこにいらっしゃって」
「え?」
反射的に彼の視線の先へ目を向けると、人波の奥にちらりと見えたのは、惣次郎くらいの背丈をした黒の巻羽織だった。
そしてじっと視線を送ると、顔がちらりと見えた。白い肌に端正なつくりの横顔は、まさに有島惣次郎そのひとだった。
「追いかけますか?」
男にそう言われ、おりんは思わず聞き返す。
「……お付き合い頂いてもよろしいのでしょうか」
すると彼はどこか諦めたような笑みを浮かべて言った。
「もちろんですとも。一度こうなったお千代さまを、止めることは至難の業ですから」
そういう訳で、一行は有島のあとを人混みに紛れながら追いかけた。気付けば、あたりにはぱらぱらと秋雨が降り始めていた。
――どこへ行くのだろう。
おりんはそう疑問に思った。
先を行く有島は、いよいよ町家の区域から離れていきそうに見えたのである。このまま人通りの少ない場所へ行かれてしまえば、あとを追うことは確実に難しくなってしまう。
そう心配したときだった。有島は道の脇に現れた林の中へ、ぱっと入っていったのである。
急いで追いかけてみれば、そこは寂れた寺の敷地のように見えた。石でできた階段の先には、大きな門が佇んでいる。ここらへんの地形は、丘のように小高くなっており、きっと登ったところに寺そのものがあるのだろうと思えた。しかし、階段は苔むしており、人の手が入った形跡をすこしも感じられなかった。
――有島さまは、ここを登っていったんだ。
おりんがそう思っていたとき、後ろから小さく名を呼ばれた。
「おりん。こっちに道がある」
確かに、千代が教えてくれたとおり、階段の脇の林の中には道があった。
草木で覆われたその脇道を歩き、不自然な生え方の木々を眺めながらおりんは思った。きっとここは小さな庭園だったのだろう、と。
ただ、今はすっかり忘れ去られたように思えた。
――有島さまは、こんなところに何をしにきたのだろう。
ぼんやりと思ったときだった。木々の隙間から、黒い影が見えた。
それは確かに彼の背中で、よく見れば跪いて頭をたれていたのである。何を相手にそうしているのだろうとおりんがよく見れば、彼の前にあったのは大きな石で、その脇にも無数の石が並んでいた。
――ここは……墓地なんだ。
その後、おりんが息を潜めて見守り始めてから、彼がどのくらいしていたのかはわからなかった。ただ、雨のなかも構わずにそうする姿は、まるで懺悔をするかのように見えた。
「誰かが、なくなっているのね」
千代の呟きにおりんも返す。
「先ほどお話にあった、斬首されたご家族でしょうか」
「それはないでしょう。罪を負ったものの遺体は返されることはありません。それに、この墓地に武家のものが眠るとは思えません。町民ですら、もっとまともな墓の下で眠るでしょう」
「となると考えられるのは……裏の花町でしょうか」
侍従のことばに千代は頷いた。
そんなやりとりを前に、おりんの中で新しい謎が膨らむばかりだった。
――追いかければ少しくらいわかると思ったのに、こんなことになるなんて。
やはり直接聞くのが手っ取り早いのだろうか。しかし、計算高い一面のある彼が、本当に答えてくれるのだろうか。
おりんがひとり迷っていると、千代が肩を叩いて言った。
「有島さまが動かれた。さあ、追いかけますよ」
正直、おりんの中で諦めは強くなっていた。もう暗くなりはじめており、清之進もそろそろ屋敷に戻っている頃だろう。食事を待ちわびているかもしれない。
ただ、そうせず続けようと思えたのは、あの兄弟の謎を少しでも早く知り、受け止めたいという強い思いがあったからであった。
※※※※
町のとある髪結い床で、ひとりのおとこが身なりを整えていた。綺麗に月代を剃り、きっちりとした本多髷を結わえた姿は、腰の大小二本の刀によく似合っている。
おとこが銭を支払ったあと、髪結い師は客であるおとこの姿を眺めながら、にんまりと嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「兄さん、かなりさっぱりしたねえ」
「……そうだろうか?」
「へい。十歳ばかり若返って見えますよ」
「それはよかった」
「へい。ありがとうございやした」
おとこは店を出て、薄暗くなり始めた空を眺めた。頭上にはすっかり雲が広がり、雨がぱらりと顔に当たった。
「……おりんは、心配してるだろうか」
そう小さく言うと、傘も差さずに表通りを歩いていった。
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