割れないしゃぼん玉

その９

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　温泉を出てから浴衣のまま、火照った身体を冷ます為に当てもなく館内をぶらついた。旅館の方の話では、周りの旅館の温泉に入る事も出来るらしく、温泉巡りと称し旅館を渡り歩く人達も居るのだと言う。だけど、父さんの体力を考えると、方々歩き回るのはあまり好ましくは無いと思えた。

「お前達だけでも行ってくればいいじゃないか」
「いーのいーの。今回の旅行は、父さんの為なんだから。部屋でのんびりしましょ？」

　そうして部屋に戻り、三葉姉は夕食前にも関わらず、早速先程買って来た柚子入りの温泉饅頭の箱を開けた。僕が一つ、純二兄も一つ、父さんは一口とちょっと、そして、三葉姉は三つ食べた。父さんが半分残した分も、あら勿体無い、と口に入れた為、正確には三つ半食べた事になる。

「今こそお前にこの言葉をくれてやる。晩飯食えなくなるぞ！」
「今こそ純二兄にこの言葉を返すわ。私はどれだけ食べても、晩御飯を残すつもりは無いわ！」

　お饅頭自体は、柚子の香りが芳しく美味しかった。
　午後７時になると、部屋の中に夕食が運び込まれて来た。豪勢で色鮮やかで、特産だからかやっぱり湯葉もついていて、そしてやっぱり、三葉姉は一つも残さず綺麗さっぱり食べた。

「いやぁ、美味かったなぁ」

　食後に父さんが、非常に満足気な顔をして寛いでいるのを見て、僕達も満足だった。
　夕食を済ませた後は、９時には布団を敷き、皆で横になった。
　一日運転していて疲れたのだろう。電気を消してすぐに、純二兄の寝息が聞こえて来た。少ししてから、三葉姉の寝息も。あんなにはしゃいでいたのだから当然かもしれない。
　そっと、横に寝ている父さんの顔を見た。もう寝入っているのか、静かで、穏やかな顔をしている。
　父さんが今回の旅行を楽しんでくれて本当に良かった。そして、明日にはもう帰らなければいけないと言う現実が、何だか堪らなく寂しく思えた。
　この寂しさは、そう、あのビデオを見ていた時の寂しさに似ている。
　どうしようも出来ない事を、諦めなければいけない事を、受け入れるように強いられている時の、あの寂しさによく似ている。
　不意に涙が溢れて来そうになるのを、目をぎゅっと閉じて堰き止める。それでも目蓋の上に這いずり出ようとする奴らを、袖で拭う。
　情けない。
　あれから何年経ったと思ってるんだ。
　あの幼く弱かった頃とは、もう違う筈なのに、強くなったつもりで居たのに……。
　どれだけ自分に言い聞かせたとしても、溢れそうになる涙が真実を突きつけてくる。僕は自分で思っているよりもずっと、あの日から成長して居らず、弱いままだと言う現実を……。
　ここに母さんが居たら違ったのだろうか？
　そんな、これまたどうしようも無い事を思い浮かべながら、必死に目蓋を閉じている内に、僕の意識は緩やかに、夜の闇へと溶けて行った。
　眠りに落ちる間際、泣く子をあやす子守唄の様に、鬼怒川のせせらぎが、慎ましやかに耳を撫でてくれた。