僕らは青くて儚い世界で恋をする──【青春BL短編集】

亜沙美多郎

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身代わりになれない恋の結末

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 すっきりと晴れ渡った青空にも、辺り一面に広がる葡萄園にも目もくれず、レオンは車の後部座席に横たわりぐっすりと眠っていた。車体が小気味よいリズムで揺れる。運転をしている母のアメリアは、カーステレオから流れる音楽に合わせて、鼻歌を歌っていた。
 自宅から三時間はかかるこの街には、ベリサリオ家が所有している別荘がある。別荘と言えば聞こえがいいが、実際にはレオンの療養のために両親が購入した中古物件だ。

 レオンは低体重で生まれ、命こそ助かったものの、両親の期待も虚しく虚弱体質のまま育ってしまった。運動は勿論、通学さえままらない。子供同士の影響が一番大きいとされる幼少期にはしょっちゅう入院をしていたため、友達と呼べる人もいなかった。
 そんなレオンの唯一心の支えになっていた兄のフィリックスは、二十歳という若さで事故で他界。いよいよレオンは心を塞いでしまった。
 食欲を失い、体力は低下する一方。高熱が出ると何日も下がらない。必然と寝たきりの時間が増え、フィリックスの死から一年過ぎたこの頃は、精神的にも限界を超えていた。
 
 そんなレオンに、アメリアから久しぶりに別荘へ行かないかと提案されたのが先週の事だった。
 五日続いた高熱がようやく下がったタイミングだった。
「でも、母さんも父さんも仕事休めないでしょ?」
 力の入らない声で訊く。

 レオンはこれまで夏の長期休暇を利用して別荘で暮らすことが多かった。両親もバカンス休暇が取れるタイミングで、フィリックスもその間はバイトも断り家族水入らずの時間を過ごしていたものだ。
 しかし今回の療養は長期に渡りそうである。アメリアはバリバリのキャリアウーマンで、父は世界中を仕事で飛び回っているような人だ。それなのに、いつもより長い期間を療養に当てるなど、どういう風の吹き回しだと怪訝な顔を向ける。
 住み込みの家政婦でも雇わなければ、レオン一人では生活が困難だ。別荘に行けば気晴らしにはなるだろう。けれどもあまりに唐突すぎると反論したいレオンの心情を、アメリアは表情だけで悟ったようだった。
 大袈裟な笑みを浮かべ、アメリアがレオンの視線を促すように両手を軽く合わせる。
「あなたにプレゼントがあるのよ。きっと喜んでくれるわ」
「プレゼント? 誕生日でもないのに」
「あら、誕生日にしか贈り物をしちゃいけないなんて決まりはないでしょう?」
「でもプレゼントと別荘にどんな関係があるって言うのさ」
「知りたいなら、行けばいいじゃない」
 勿体ぶって詳細を話さないアメリアに、レオンは更に質問をぶつける。
「何も知らないままなんて、不安で行けないよ」
 アメリアの言葉を無視して断固首を縦に振らないでいると、ついに観念したように「あなたのお世話をしてくれる人はいるから安心して」レオンの頬を撫でながら言った。

 人見知りの激しいレオンが初対面から安心できる人などいるはずもないのだが、アメリアは妙な自信をチラらつかせている。余程のプレゼントなのだろうとは思うが、どうも解決策と結びつかない。
 ブツブツといつまでもボヤいているレオンに、とうとうアメリアは根を上げた。
 「サプライズにしたかったのに、仕方ないわね」
 棚から一冊のファイルを取り出すとレオンへ手渡し、とある会社の概要からプレゼントの内容に至るまで、レオンが首を縦に振るまで渾渾と説明し、説得を続けた。
「ねぇ、私たちはレオンに元気になって欲しいから提案しているの。フィリックスがいなくなって落ち込んでいるのはみんな同じよ。でもあなたは悲しいだけじゃ済まない。体調の悪化は自分が一番感じているでしょう?」
 そこまで言われれば反論の余地はない。このままの生活を続けていいわけがないのも自覚している。
 説明をされたところで不安はむしろ募っているが、アメリアの言葉を信じるしかない。別荘へ行って、レオンが無理だと判断した場合は直ちにこちらへ帰ってくると条件を出し、渋々合意したのだった。
 
♦︎♢♦︎

 ———少し開けている車窓から緑と甘い匂いが漂っている。これは辺り一面に葡萄園が広がっているからだ。ここはワイナリーも多く、田舎ながらに観光スポットでもあり、そこそこの賑わいもある場所だ。
 最後に来たのは兄のフィリックスが亡くなるよりずっと前であった。
 また次に来る時も兄や家族と一緒だと信じて疑わなかった。突然の別れは今もレオンの心を苦しめている。
 友達のいないレオンの兄であり友人だったフィリックス。今でも鮮明に彼の顔が思い出せる。
 レオンにとって誰よりも大きな存在なのだ。
 夏の温かい風がエアコンの冷気と混ざり合い、生温く冷たい風がレオンの肌を撫でる。
 ここの匂いは甘くて青くて瑞々しい。フィリックスのイメージそのものだ。

「さぁ、着いたわよ」
 アメリアの声でのっそりと起き上がったレオンは、目を擦りながら窓の外に目をやる。丁度、玄関ドアが開き、中から出てきた人がこちらへと向かっていた。
「……フィリックス兄さん」
 思わず呟いた。
 ふわりと風に靡く金髪の髪を掻き上げると、白い肌が露わになる。こちらを捉えた瞳は空の青よりも深く落ち着いていて、少し垂れ目がちで人の良さを感じさせる。
 柔らかいコットンのシャツの袖を捲り、スリムなストレートジーンズを好んで着ていた。
 目の前に現れたのは、紛れもないフィリックスそのものだった。
 目が釘付けになってしまった。

 兄は生きていると言い聞かせてこれまで過ごしてきた。それは幻想なんかじゃなかったと言われた気分だ。今、目の前に兄がいる。
 頬に一筋の涙が伝う。
 感極まって動けないレオンにハンカチを手渡し、アメリアは車から降りた。
「紹介するわ。前に話した“フィリックス”よ」
 “フィリックス”の肩に手を置き、満足気に紹介をする。
 両親はフィリックスのデータを元にヒューマノイドを作っていたのだ。説明を聞いた時は心底驚いたし、本当かどうかも疑わしかった。
 パンフレットの写真や説明にはメリットばかりが書かれていて、逆に如何わしい印象を与えた。合意したのはアメリアの押しに負けたからというのもあるが、ヒューマノイドというものを実際に見てみたいという好奇心もあった。けれど、期待値を超えられないクォリティなら直ぐに引き返してもらう気満々だったのだ。
 しかしいざ目の当たりにしてみると、本物としか思えない人がこちらに手を振っている。レオンは言葉を失ったまま窓越しに見詰めた。

「長時間の移動で疲れてる?」
 “フィリックス”は声も喋り方までも本物そのものであった。車のドアを開け、そっとレオンの手を取ると「さぁ、中へ」と移動を促す。
 レオンは誘導されるようにその手に引き寄せられ、ようやく庭に降り立った。
 ずっと眠っていたのもあり、青空がいつも以上に眩しく感じ、目を眇める。
 “フィリックス”は立ち眩みを起こしたと思ったようで、一度立ち止まるとレオンを自分の脇に寄せた。
「大丈夫……です。眩しくて」
「そう? 遠慮しないで」
 自分に凭れて移動すれば良いとレオンの肩を抱いたが、やんわりと断った。
 フィリックスは兄なのに、どこか余所余所しく接してしまう。仕方のないことではあるが、持ち前の人見知りを見事に発揮してしまっていた。
 “フィリックス”は気にもとめず、そのまま室内へと入っていく。

 リビングに自分の荷物を置いたアメリアは、レオンの荷物を部屋へ運ぶと言って出て行き、いきなり二人きりにされてしまう。まだいて欲しいと目で訴えたが無視された。
 “フィリックス”が「手伝うよ」と、アメリアを追う。
 レオンはソファの隅に腰を下ろし微動だにしない。アメリアと親しそうに話しているのは兄とはいえ、兄ではない。ヒューマノイドだという意識が拭えず、接し方が分からず緊張感は高まる一方だ。
 アメリアは一体どんな気持ちで彼と接しているのだろう。まさか本当のフィリックスだとは思っていまい。ならば割り切っているとでも言うのか。兄にそっくりな作り物を、身代わりにできるとでも……。
 
 頭を掻き毟りたくなるほど焦ったい。この状況をすんなりと受け入れる方が難しいのではないだろうか。
 一人でモヤモヤしてしていると、「荷物は一人で運ぶから、レオンをお願い」と頼まれた“フィリックス”が、ニコニコとご機嫌な様子で話しかけてきた。
「近くの農園の人から葡萄をもらったんだ。食べる?」
 “フィリックス”から歩み寄ろうとしてくれているのに、かぶりを振って答えるしかできない。
「とても美味しそうだよ。お腹が空いたらいつでも言って」
 葡萄が盛られたカゴをキッチンカウンターに置くと、レオンの隣に座り、コホンと一つ咳払いをした。今度は何だとチラリと横を見ると、“フィリックス”がレオンの気を引けているか視線で確認する。目が合うとにっこりと笑い、「私は、フィリックスと言います。ここでレオンのお世話をします。どうぞよろしく」握手を求めるように手を差し伸べた。
 突然自己紹介をされ、戸惑うレオンに少し眉を下げて笑う。そんな些細な仕草さえもフィリックスと全く同じである。
「でも……フィリックス兄さんは自分を『私』とは言わないよ。『俺』って言うんだ」
 ぶつぶつと愚痴を溢す。いきなりこんな事、嫌な人みたいで感じが悪いと自分でも分かっている。駄々を捏ねる幼子のようだ。
 自分が嫌になって再び下を向くと、隣で「ふむ、そうか」と“フィリックス”が頷いた。
「まだ初期設定のままの部分も沢山あるんだ。そんな基本的な部分が登録されてないなんて、思いもよらなかった」
 肩を竦めて見せる。自らをヒューマノイドだと認める発言に、レオンは虚を突かれた。
 最初から本物の兄として接しられていれば、きっといつまでも心を開かなかっただろう。しかしこのヒューマノイドはそうではなかった。

「レオンから言ってくれれば、アップデートされるから言ってみて」
「な、何を?」
「フィリックスは自分のこと『俺』と呼ぶってね」
「フィリックスは、自分のことを、俺と呼びます」
 “フィリックス”はこくりと一度頷くと「登録完了」とまた微笑んだ。

「説明をするとね、今は最低限の情報だけが登録されている状態。それは君の両親が俺を作る際に注文した情報ってことだ。でも、それだけじゃまだまだフィリックスは完成じゃない。細かい性格や言動はこれからレオンがアップデートしていって欲しい。君のフィリックスに少しでも近づくためにね」
「僕が?」
「あぁ、そうだ。君の望むフィリックスに、俺を作り上げて欲しい」
「僕だけのフィリックス?」
「だって母さんが帰った後は俺たち二人だけの生活になるだろう? レオンだけが頼りなんだ。もっと完成されたフィリックスに育ててくれるのは、君しかいない!」
「何それ、変なの」
 嘆くように言う“フィリックス”に思わずクスクスと笑ってしまった。兄もよくこんな風にレオンを笑わせてくれていた。

 少し打ち解けたタイミングで、アメリアが片付けを済ませてリビングへと戻ってきた。
「早速、仲良くなったようね。どう? この“フィリックス”となら、一緒に過ごせそうでしょ」
「あ、うん……どう、だろう」
「大丈夫だよ、母さん。心配しないで。ね、レオン」
 曖昧に返事をしたレオンの隣から、“フィリックス”がウインクを飛ばして宣言する。少し強引なところもそっくりだ。
「母さんは明日帰るんだっけ?」
「そうよ。朝早いから、私のことは気にしなくていいから」
「分かった。運転疲れたろ? お茶を淹れるよ」
 ソファから立ち上がるとキッチンへ行き、手慣れた様子で紅茶を淹れる。
 鼻歌まじりにティーカップを取り出す彼は、今の状況を心底楽しんでいる。
 リビングから眺める“フィリックス“は、レオンの家族として自然と溶け込んでいた。
 アメリアの表情からは満足気な様子が伺える。そうだ、彼女だって会いたいはずなのだ。フィリックスは自慢の息子だったから。
 ヒューマノイドを作ったのだって、決してレオンのためだけではない。それを証拠に、“フィリックス”に向ける彼女の眸は潤んでいる。ここに父がいれば、『完璧な』ベリサリオ家が再現されるだろう。

「どうしたの、二人して俺を見つめて。キッチンに立つ俺はそんなに絵になってた?」
 紅茶と先程の葡萄をトレーに乗せ、“フィリックス”が戻ってくる。アメリアはさりげなく涙を拭い、「あなたはいつだって素敵よ」と紅茶を受け取る。
 “フィリックス”も満更ではない様子で「それはどうも」とウィンクをして見せた。
 アメリアがいてくれたおかげもあり、レオンも少しくらいは心を開くことができた。夜には移動の疲れもあり、微熱を出して一足先にベッドに入ったが、“フィリックス”が何度か様子を伺いに来てくれたのが嬉しかった。
「苦しい時や寂しい時はいつでも呼んで」
 そう言ってレオンが眠るまで頭を撫でてくれる。これは生前、フィリックスが両親に内緒でしてくれていた行為だった。
 大きくなっても一人で寝るのは心細かった。突然咳き込んで夜中に起きてしまうのもしょっちゅうなレオンは、誰も頼れず苦しみながら過ごす。心細くて布団に包まり、一人涙した夜など数えきれないほどだった。そんなレオンを察してか、フィリックスは親の目を盗んでは部屋へ来てくれていた。そうして眠るまで話をしながら頭を撫でてくれたものだ。

 なぜこんな行動まで“フィリックス”にインプットされているのだろうと、虚になりゆく意識の中で不思議に思った。両親が知っててデータ登録をしてくれていたのか、それともヒューマノイド自身の意思なのか。そもそもヒューマノイドが意思を持つものなのかも知らないのだが……。
 それでも“フィリックス”のお陰でぐっすりと眠れたため、翌日まで熱は長引かずに済んだ。

 目覚めた時には翌朝九時を過ぎていて、アメリアは既に別荘を出発していた。“フィリックス”は見送ったらしく「くれぐれもレオンをよろしく」と言い残して帰ったと後から聞いた。
 急に二人きりになり、やはり心細さは否めない。“フィリックス”が昨日と変わらない態度でいてくれたのには救われた。
 彼は得意の強引さで入室すると、着替えやら朝食やらを指示してくる。
「熱も下がってるし、顔色もいい。気晴らしに後で少し散歩をしないかい?」
「そう、だね」
 気乗りはしないが、籠っていてもいい事はない。一人ではあまり出歩けないのもあり、“フィリックス”が付き添ってくれるこの機会に外に出ることを決めた。

「外出はいつぶり?」
 畦道を歩きながら訊かれる。
「いつだろう。覚えてないや」
「そんなに引き籠っていたのかい?」
「うん、外に出ても疲れるし。向こうは人が多くて、それだけで外出が億劫なんだ」
「なるほどねぇ」
「こんな話はインプットされてなかった?」
「母さんたちに話してなかったろ?」
「うん……父さんも母さんも仕事忙しいし、僕の我儘ばかり聞かせられないもの」
 “フィリックス”は頷きながら、レオンの言葉を自分の中に取り組んでいるようだった。
「もっと話を聞かせて。俺の中にまだない感情や意思は、レオンとの会話でどんどんアップデートされていく。これから沢山話をしよう。楽しいことも悲しいことも不安なことも。何でも良いから教えて欲しい。俺たちがより兄弟らしくなるためにも、ね?」

 心が軽くなっていくのは、この豊かな土地のせいなのか、抜けるような青空のせいなのか。
 家で一人でいる時間が長過ぎて、こんな風に自分の本音を晒したのも久しぶりだった。それこそ本物の兄には言えていた我儘も、両親には遠慮して話せなかったのだ。
 自然体でいられるというだけで、深く呼吸ができている。これも“フィリックス” の気遣いなのだろう。レオンの話を聞きながらも、周りの葡萄畑にたわわに実るそれを見つけては感嘆の声を上げる。
「ふふっ、毎年見てたのに」
「そうだ、そうなんだけど……なんだか新鮮で。レオンと二人で見てるからかな」
 葡萄を見たことがあるのは両親が差し出したデータによるものだ。彼の目で実際見るのはこれが初めてだろう。

 途中、小さな公園に寄った。今は錆びれたブランコに座り、空を眺める。
 生い茂った木々が風に揺れ、はらはらと葉が舞い落ちた。
 子供の頃は今よりも体力がなくて、折角遊びにきても数分で休むか家に帰っていたのを思い出す。
 あの頃もこうしてブランコに座って空を見ていた。
 兄はそんなレオンに寄り添ってくれていた。
「フィリックス兄さんは、僕といて楽しかったのかな」
 ポツリと呟く。
「あぁ、楽しいよ」
 “フィリックス”は即答した。驚いて顔を上げたが、至って真面目に答えたようだ。

 彼の中に、レオンという人物のデータがどれくらい組み込まれているのか疑問を持ったが、声には出さずに飲み込んだ。きっと“フィリックス”は知らないことは知らないと言う。それを教えくれと聞くはずだ。
 彼はよりレオンの理想に近いフィリックスになりたがっている。好奇心旺盛な性格もそっくりだが、“フィリックス”からは身を乗り出してまで喰らい付いていくる貪欲さを感じるが、兄はどちらかと言えばミーハー気質だった思う。
 今はまだ完璧ではない“フィリックス”も見ていて新鮮だ。いつかは本物の兄として接する時が来るのだろうか。“フィリックス”は本当の家族だと思わせる不思議な魅力を持っている。亡き兄と同じ顔で声で、未完成な性格。そんな“フィリックス”からレオンはどんどん目が離せなくなっていく。

 散歩から帰り、何気に時間を見ると一時間以上も経っていて驚いた。体感では二十~三十分といったところだった。それでもレオンにとっては珍しいほど長時間外出したことになる。
 なんとなく達成感のようなものを感じた。
 出かけるにあたり明確な目標があったわけでもないのだが、レオンはどこか自分に出来る線引きをしているところがあった。「これ以上は無理だ」そんな風に決めつけていて、勝手に諦めることが多かった。
 学校に通えなくなってからは、外出もほとんど控えていた。いや、出来ないと決めつけていたのだ。一人でいる時に気分が悪くなっても誰かに助けを求めることもできない。ならば最初からどこにも行かなければいいと、そんな風に過ごしていたら、いつの間にか外に出るのさえ怖くなっていた。

「あの……ありがとう」
 “フィリックス”にお礼を言ったが、彼は訳がわからないという表情でレオンを見た。
「俺は何か感謝されるようなことをしたのかな?」
「僕、こんなに楽しかったの久しぶりで、嬉しかったから。なんだかお礼を言いたくなっちゃった」
「そうか。楽しかったなんて言ってくれるとは、俺からも君にありがとうと言うべきだな」
「なんで貴方から?」
「だって俺も楽しかったから」
「貴方は言わなくていいよ!! 少し休む」
 照れ臭くて自室へと駆け込んだ。ベッドに横たわると、心地よい疲労感に襲われぐっすりと眠った。

 ———フィリックスの夢を見た。さっきのように二人でこの辺りを散歩をする。他愛ない会話も、そっと背中を支えてくれる手も、とてもリアルに感じられた。すぐ隣にフィリックスがいるように暖かい。幸せな夢だった。

「ん……」
 どのくらい眠っていたのか、目を覚ますと窓の外は暗かった。部屋にはサイドテーブルのライトだけが点けられていて、“フィリックス”がベッドの端に座って頭を撫でていた。
「よく眠れた?」
「うん。疲れてるはずなのに、体がスッキリしてる。ずっとここにいてくれたの?」
「夕食の準備を済ませてからだから、三十分くらいだけだよ。呼びに来たんだけど、寝顔が可愛くて思わず見入っちゃった」
「可愛いなんて歳でもないよ。起こしてくれて良かったのに」
「ううん、可愛いよ。レオンはずっと可愛い」
 そう、フィリックスの口癖だ。
 事あるごとにレオンを可愛いと言ってくれていた。別段、年の離れた兄弟というわけでもないのに、弟の溺愛ぶりは自他共に認めるほどであった。
 この人はヒューマノイドだと頭では分かっていても、本当のフィリックスと同じように甘えたくなってしまう。それが目的なのだから問題はない。けれども、この人をフィリックスだと決めつけてしまえば、本当の兄を忘れてしまいそうで怖かった。
 頼りたい気持ちが大きい。なのにそれを咄嗟に押さえ込んでしまう自分がいる。つくづく損な性格をしていると思う。素直に喜べば、体調だってここまで悪化することはなかったかもしれない。

「さぁ、レオン。ご飯を食べて、シャワーをして、ゲームをして、読書をしてから就寝だよ」
 “フィリックス”がレオンの思考を邪魔するように手を引く。
「今からそんなに沢山できないよ」
「出来る限りしよう。今日が終わってしまうまでにね」
 長いまつ毛の眸でウィンクを飛ばす。男同士なのに、ドキッとしてしまうほど魅力的だ。

 そういえば、兄はよく女の子から告白をされていたのを思い出す。その中の何人かと付き合っていたのも密かに知っていた。レオンはフィリックスの恋人に嫉妬しては体調を崩し、その都度フィリックスはレオンを優先してくれた。優越感はそんなことでしか味わえなかった。
(“フィリックス”なら、そんな心配もいらないのか)
 ふと思い、レオンから甘えるとどうなるのだろうと試しみたくなる。例えば、今日一緒に寝て欲しいと言えば、叶えてくれるのだろうか。
 考え込んでいる間、じっと見詰めてしまっていたらしく、我に返った途端“フィリックス”は何かを期待するように覗き込んでいた。
「わっ! 何、びっくりするでしょ」
「今はレオンが俺を見詰めてたよ。キスして欲しそうな顔でね」
「そんな顔してない!」
「じゃあ、何を考えてたの?」
「……あの……その……今夜、一緒に寝て欲しいな。なんて……」
「……」
 直ぐに反応が返ってくるかと思いきや沈黙が流れてしまい、言うんじゃなかったと後悔した。
 もう十八歳にもなる男が、一緒に寝てほしいだなんて、誰が聞いても呆れるに決まっている。少し冷静になれば分かりそうなものだ。
「今のは冗談、忘れて」
 慌てて訂正する。しかし“フィリックス”はレオンが言い終わらないうちに「そうしよう!」と声を張る。
「へ……?」
「一緒に寝よう、レオン。嬉しいな。子供の頃は同じ部屋で二段ベッドだったけど、こっそり一つのベッドで寝てたよね」
 瞬時にデータを引き出して懐かしむ。
 童心に帰り、楽しもうと提案したと捉えたらしい。正直レオンは子供の頃を思い出して言ったわけではなかったが、どうやら両親が話したらしい昔話のお陰で、違和感なく一人の時間を避けられたのはラッキーだった。

 “フィリックス”は大張り切りでレオンに食事やシャワーを促す。
「そんな焦らせないで」
「待ちきれない。一日の最後にこんな楽しみが待っているなんて!」
 “フィリックス“はレオンの食べている様子を嬉しそうに眺めている。ヒューマノイドに食事は必要ない。シャワーもしないが、硬く絞ったタオルで拭くのだそうだ。
「レオンがシャワーをしている間に、俺もパジャマに着替えるよ」
 まだそんな時間でもないのだが、“フィリックス”があまりに嬉しそうにするものだから従った。
 全ての準備が整うと、ゲームも読書もせずにベッドに入った。
「本当に遊ばないの?」と訊くと悪びれる様子もなく頷いて見せる。
「ベッドでゆっくりしよ。折角レオンから誘ってくれたのに、気が変わらないうちに早く横にならないと」
「意味深な言い方はやめてよね」
「だって、こんな可愛い弟がいる幸せを噛み締めたいんだ。仕方ないだろう」
 “フィリックス”は乾かしたばかりの髪をかき乱す。
 これはヒューマノイドとして言っているのか、フィリックスとして言っているのか、レオンには判別不可能だった。ただ、“フィリックス”はちゃんと温かかった。擦り寄りたくなる、心地いい体温。
「ねぇ、レオン。俺との思い出で一番楽しかったのは何?」
 レオンを包み込んで“フィリックス”が訊ねる。
「毎日が楽しかったよ。僕が入院してる間は毎日会えなかったから寂しかった。母さんに家に帰りたいって泣いては困らせてたな。フィリックス兄さんがお見舞いに来てくれた日は、帰らないでって縋ってた。フィリックス兄さんとの時間は、全て宝物なんだ」
「ありがとう。嬉しいよ」
 今のはフィリックスとして言っていると分かった。
「ねぇ、明日は僕が目覚めるまでここにいて?」
「勿論だよ」
「本当に?」
「約束する」
 “フィリックス”は額にそっと触れるだけのキスをして「おやすみ」と言った。
 何も言わなくても腕枕をしてくれ、体を癒着させる。これはインプットされた行動ではない。兄はこうまではしなかった。そしてこの温もりは、果てしない安らぎを与えてくれた。

 翌日、本当に“フィリックス”は隣にいた。
 愛おしいものを見る眸で、レオンの寝顔を眺めていたようだ。
「おはよう……いつから起きてたの?」
「ほんの数分前だよ」
 ヒューマノイドも寝るのか訊いてみたいが、失礼かもしれないと思いやめておく。
 それにしても寝起きとは思えない爽やかさである。それに引き換えレオンは寝ぼけ眼に芸術的な寝癖の付いた髪……なんだか恥ずかしくて顔の半分まで布団を被せる。
「今更、恥ずかしがらなくてもいいのに」
「だって僕はいかにも寝起きって感じだから、あんまり見ないで」
「そんな可愛いことを言われると、もっと見たくなる。ほら、起きて朝食にしよう」
 “フィリックス”はレオンの頭を撫でると、さっさとベッドから起き上がって行ってしまった。
 さっきまで彼がいた場所に温もりを感じる。
「本当にいるんだ」
 存在を確かめるように撫でる。
 写真や動画の思い出は色褪せないが、過去を強調し、虚しさを与える。
 それに引き換え人の温もりは優しさを与えてくれる。悦びを実感させてくれる。
 レオンはゆっくりと起き上がり、少しの間窓の外を眺めていた。雲一つない青空が、レオンの不安も掬い取ってくれるようだった。リビングから呼ばれ、今度こそベッドから降りて“フィリックス”の許へと急いだ。

 “フィリックス”と二人で過ごす時間は楽しくて、あっという間に過ぎていく。
 毎日のように散歩や買い物に出かけ、家でもどこでもずっと離れずにいてくれる。
 話をしない時でも、存在を感じているだけで安心できた。
 フィリックスが亡くなってからのこれまでは孤独との戦いだった。それでも側にいてくれるのが誰でも良いというわけでもなく、それはやはりフィリックスでなければならなかった。
 レオンの願いが実現した今、体調もみるみる回復していくのを実感している。

 しかし一ヶ月が過ぎても、“フィリックス”を本物の兄だと思うことへの抵抗は抜け切らない。
 むしろ、“フィリックス”を個人として見てしまっている。どこまでも我儘を受け入れてくれる、優しさで包み込んでくれる。それは『本物のフィリックス』ではなく『理想のフィリックス』であり、その差が鮮明になるほど、埋められていくデータが個性を生み出していく。レオンが言葉で訂正すれば良いだけのようにも思えるが、決して簡単ではない。それをしてしまえば、これまで積み上げてきた関係まで無になってしまう気がするからだ。

 レオンは“フィリックス”と兄を比べなくなっていた。
 兄に似たヒューマノイドに少しずつ心惹かれている。同じ名前ではとても呼べない。彼だけの名前で呼んでみたい。
 折角笑えるようになったのに、また物思いに耽る時間が増えていく。
 レオンは自分が抱く感情が何なのかを知っているからこそ悩んでしまう。
 けれど“フィリックス”はあくまで兄として療養中の世話をしてくれているだけだ。そんな彼に対して「兄とは思えない」なんて言うのは失礼すぎる。
 自分はずっと弟として接していくべきなのだ。

「レオン? 今日は体調が良くなさそうだ」
「そんなことないよ。でも食欲はないから、折角作ってくれたけど食べられないや」
 “フィリックス”が準備してくれたワッフルとフルーツは下げてもらった。
 申し訳なさそうにするレオンを慰め、“フィリックス”はテーブルの上を片付けた。
「今日はのんびり過ごそうか」
「なんで? 僕なら大丈夫だよ。ほら、今日はワイナリーに行くって言ってじゃないか。葡萄のパイを焼くからおいでって、おじさんが言ってくれてたし」
「俺が一人で行ってもらってくるから、レオンは無理をしないで」
「嫌だ!! ……一人は、嫌だ。側にいてくれないと嫌だよ。兄は、僕の体調が優れない時はずっといてくれた」
 嘘を吐いて“フィリックス”に縋る。何も兄はずっと付き添ってくれたわけではない。“フィリックス”にとっては、レオンの言うことが全て。それを逆手に取って操作しようとするなんて。これでは駄々を捏ねる子供と同じだ。
 “フィリックス”の顔を見るのは気まずいのに、離れるのは嫌なんて我儘にも程がある。
 そして嘘を吐いてしまったことにも罪悪感を覚えた。『本当の兄』ではなく『理想の兄』を登録してしまったことを後悔した。
 それでも“フィリックス”はレオンを抱きしめ「一緒にいるって約束する」と言って背中を撫でてくれる。レオンがこうすれば喜ぶと判断したのだろう。
 ネガティブに考え始めると、何かにつけて否定的に考えてしまい止められなくなる。
 少しの綻びが、どんどん二人の溝を深めてしまっているように感じて息苦しかった。

 この場をどうにか切り抜けたくて、ワイナリーにはまた日を改めて訪れようと言う“フィリックス”を押し除けレオンは家を飛び出した。閉ざされた空間ではどんどん自己嫌悪に落ちてしまいそうだった。
「レオン、待って」背後から呼び止める声が聞こえたが無視して限界まで走った。
 息切れし、しゃがみ込む。じっとりとした嫌な暑さに、汗で肌に張り付いたTシャツが気持ち悪い。
 起きた時から曇天であったが、間もなく雨が降り始めてしまった。
「傘、持ってないや」
 “フィリックス”は耐水性があまりない。雨の中、迎えに来られるとも思えなかった。それでも気まずくて直ぐに家に帰るのも懸念される。何もかもがうまくいかない。彼もそろそろ愛想を尽かせる頃だろう。

 公園にふらりと入り、濡れたブランコに腰を下ろした。見上げた空から降り注がれる雫はレオンの体温を奪っていく。
 寒いのは、雨に濡れているからではなく心が寂しいからだ。
 “フィリックス”に恋をしていると、はっきりと自覚した。兄に迎えに来てほしいとは思わなかった。今までは辛い時も寂しい時も、いつだって側にいて欲しいと思うのは兄のフィリックスだった。なのに、今誰よりも側にいて欲しいのはヒューマノイドの“フィリックス”だ。抱きしめてほしい、頭を撫でて欲しい、笑いかけてくれるだけでもいい。理想が作り上げた“フィリックス”は兄とはまるで別の人格を作り出してしまったけれど、必死でレオンを楽しませようとしてくれたり、体調を気遣ってくれたり、我儘を受け入れてくれていた。その全てが埋め込まれたデータによるものだと思いたくなかった。
「“フィリックス”……」
 帰らなければ……と思い直し立ち上がる。帰って謝ろうと決意した。
 一歩踏み出そうとした時、視界がぐにゃりと歪んだ。地面と空が反転しながら意識が遠のいていく。
 体が重力に従って崩れ落ちていく途中で、レオンは完全に意識を失った。

 高熱に魘された。意識が朦朧として気分が悪かった。
 暗闇の中を彷徨いながら、何度も“フィリックス”の名前を呼んだ。
 もう会えないかもしれない。自分はこのままの垂れ死ぬかもしれない。恐怖と後悔の波が交互に押し寄せ、レオンを更なる闇へと流していく。
(助けて。助けて“フィリックス”。僕は伝えたいことがあるんだ。我儘を言ってごめんなさい。勝手に家を飛び出してごめんなさい。いつだって優しくしてくれたのに、甘えてばかりでごめんなさい。好き。大好き。兄としてじゃなく、一人の人として“フィリックス”が好き)
 伝えられない言葉が渦に飲み込まれていく。
 もっと素直になれたはずなのに……兄が亡くなった時と同じ後悔を繰り返している。
(違う。ちゃんと伝えたい。僕が本当に伝えなくちゃいけないのは『ありがとう』だ)
 その気持ちがレオンを突き動かす。

 どのくらいの時間が経ったのか、ようやく苦しさから逃れられたレオンが目を覚ますと、顔を覗き込んでいたのはアメリアだった。
「……母さん?」
「レオン! 目を覚ましたのね。心配したんだから」
「あの……彼は……」
「“フィリックス”なら雨に濡れちゃって、修理に出してる」
「そんな……なんで……。僕のせいだ……僕のせいで、ごめんなさい」
「あなたが無事で何よりよ。謝らないで」
 レオンは一週間ほど魘されていたとアメリアが言った。
 あの日、雨の中レオンが家から飛び出した後、偶然、休暇をとって訪れたアメリアが別荘に到着した。玄関を開け、“フィリックス”はアメリアの顔を見るなり血相を変えて外に飛び出した。事情を知ったアメリアは、壊れてしまうから家に居ろと言ったが“フィリックス”は「俺じゃなきゃダメなんだ」と言ってアメリアの手を振り解き、走り去った。
 公園でレオンを見つけた“フィリックス”は抱き抱えて帰宅したのち、動かなくなってしまった。直ちにラボに連絡をとり“フィリックス”は引き取られた。そうして二日経っても高熱の引かないレオンは入院———。

「全部、僕が悪いんだ」
「一体何があったの?」
「彼は僕にとてもよくしてくれた。本当の兄になるために、本当の家族になるために、最善の努力をしてくれた。でも、僕は彼に自分の理想ばかりを押し付けてしまった」
「それの何がいけないの? レオンと一緒に過ごすのだから、あなたの好みを言ってもいいじゃない」
「最初はそれで居心地が良かった。でも理想の兄はどんどん本物からかけ離れていった。それは良いんだ。だって僕にとってフィリックス兄さんは一人しかいないし、兄さんを忘れたくはないから。問題は、僕はいつの間にか彼に惹かれていたってことだ。一人の人として。そんなの裏切りじゃないか。あの人は家族になるために頑張ってくれていたのに……」
「それで自分に責任を感じちゃったのね」
「……どうすればいいのか分からなくなって、八つ当たりして家を飛び出して……最低だよ」
 アメリアは相談に乗ってあげられなかったことを悔やんだ。
「何も連絡もなかったし、上手くやってるのだと思って仕事に専念しちゃった。あなたが悩んでるとも知らずに。あなたは前からフィリックスにしか本音を言わなかったから、少しでも楽になってほしくてヒューマノイドを作ったの。最初からフィリックスなんて言わなきゃ良かったわね」
「それは違うよ。だって兄さんにそっくりだからいきなり二人の生活もできたんだ。母さんにはむしろ感謝してる」
 レオンは少しの間考え、アメリアに訊ねた。
「あのさ……、彼からフィリックス兄さんのデータを消すことは出来ないの?」
「そりゃ頼めば削除してもらえるけど。本当にそれで良いの?」
「うん、一緒にいるほどに違和感が大きくなっていった。僕は一度も“フィリックス”と呼べなかった。それは、彼を本当の名前で呼びたかったから。今度、再会できるなら対等でいたい」
 アメリアは涙ぐみながら頷き、了承してくれた。

 その後、レオンは三日ほどで退院。
 ヒューマノイドが帰ってくるまでは二ヶ月ほどかかるらしく、ちょうどバカンス休暇に入ったアメリアが滞在してくれることとなった。
「父さんも一週間くらいは寄れそうだって」
「みんな揃うの、久しぶりだね」
「あなたの成長ぶりに大泣きするかもしれないわ」
「大袈裟だよ。でも、もっと大人になりたいって思ってる。今までの僕はあまりに子供じみていた。反省してる」
 “フィリックス”のいない二ヶ月は寂しかった。アメリアとの日々も、父も交えた久しぶりの家族の時間も、これまでで一番楽しかった。けれど、どこか隙間風が吹いているようだ。いつも二人で散歩をしていた畦道や公園も、一人だと違う景色のように見える。早く会いたい。しかしフィリックスのデータを削除したことで、レオンの情報も忘れてしまわないか懸念される。
(いや、大丈夫だ。もしも忘れられていても、また一からやり直せば良いんだ)
 そう自分に言い聞かせ、ヒューマノイドの到着を待つ。
 
 アメリアからヒューマノイドの納品日が決まったと言われてからは更に落ち着きがなく、じっとしてられない時間だけが過ぎていく。
「何度庭を見ても今日は来ないわよ」
 なんてアメリアから言われる始末。
「居ても立っても居られないんだ。ラボまで迎えに行けないの?」
「遠過ぎて無理よ。大体どうやってここまで運ぶのよ」
「はぁ……」
 ため息が止まらない。そんなレオンを見てアメリアもため息を溢す。
 こんなやりとりを毎日繰り返し、ようやくその日を迎えた。

 以前は“フィリックス”がレオンの到着を待っていたが、今回は逆だ。あの時の彼も、こんな風にドキドキしてくれていただろうか。そうだと良いのだけれど……。

 トラックを改造したかのような大きなワンボックスカーが停まり、数人の白い作業着の男性と、スーツ姿の女性が降りてきた。
 アメリアが対応に出る。レオンは一部始終を室内の窓越しに見ていた。
 荷台の扉が開かれ、中から電動でカプセルが下された。作業員が蓋を開けると、中から出てきたのは“フィリックス”である。
「あ……」と声が漏れた。
 兄の見た目のまんまの“フィリックス”。アメリアと挨拶を交わしたのが見て取れる。
 スーツの女性と三人で数分会話をしていたが、女性と作業員は家に入らずにまた車に乗り込み帰ってしまった。
 心臓が落ち着かない。ラボの車を見送っていた二人がこちらへと戻ってくる。
 アメリアと話をしながら伏せ目がちに微笑む彼は、レオンを見てなんと声をかけてくれるのか。
「初めまして」などと言われると、きっと一生立ち直れない。
 あれだけ早く会いたいと思っていたのに、いざこの瞬間を迎えてしまうと緊張で押しつぶされそうになってしまう。
 それでも玄関まで移動すると彼を出迎えた。

 ドアが開き、“フィリックス”と目が合う。
「———レオン」
 そう呟くと、力強く抱きしめられた。
「僕を、覚えてるの?」
「あぁ、アメリアがそうしてくれた。君を忘れたくなかったから嬉しかった。ここでの暮らしも全て覚えている」
「嬉しいって、僕は酷いことをしたのに。そのせいで貴方は……」
「ルーカスだ」
「ルーカス?」
「そう。私の、オリジナル名前
「ルーカス。ずっと謝りたかった」
「私はレオンにお礼を伝えたいのに」
「なんで? だって僕は我儘ばかりで」
「レオンが家から飛び出した時、私は外に降る雨を見て怯んでしまった。ずっと側にいると約束したのに、自分のことを考えて怖気付いたんだ。もう、ここには戻ってこられないと覚悟していた。でも君はまた私を頼りにしてくれた。これ以上の幸せなどない」
「ルーカス、聞いて。僕は自分の気持ちに戸惑って素直になれなかったんだ。兄として接してくれている貴方に心惹かれてしまった。いけないことだと思いながらも、止めることができなかった。もう会えないと思っていたのは僕の方だ。帰ってきてくれてありがとう。これからは兄としてじゃなく、ルーカスとして一緒にいてほしい。……だめ、かな?」
「———レオン」
 ルーカスは感極まったように言葉を詰まらせた。涙は出ないが眉根を寄せ、唇を震わせ、膝から崩れ落ちるように蹲った。
「こんな感情は初めてだよ。なんとインプットすれば良いんだ。この気持ちをなんと表現すれば正しいのか教えてくれないか、レオン」
「———好き。好きなんだ。僕はルーカスに恋をしている。一緒にいるだけでドキドキして、胸の当たりがギューって苦しくなって、なのに触れるだけで、名前を呼ばれただけで嬉しくなる。側にいるだけで楽しくて、安心出来て、愛おしくて仕方ない。これが、恋だよ」
「恋。これが、恋という感情?」
「僕と同じ気持ちならね」
「全く同じだ。私も、レオンが好きだよ。ずっと、初めて会った日から、毎日、毎時間、毎秒、離れたくないと思っていたのは私の方だった」
 向かい合ってしゃがみ込んだレオンの涙を親指で拭う。
「レオンは悲しい?」
「涙は、嬉しい時にも流れるんだ」
「インプットした」
 ルーカスに包み込まれ、安堵したレオンにどっと疲労が押し寄せた。

 二人の様子を見守っていたアメリアが声をかけ、リビングへと移動する。
「無理しないで、レオン」
「緊張が解れたら、眠くなっちゃった」
「少し休もう。ベッド行く?」
 レオンは顔を左右に振って「ここでいい」とソファーに横たわる。
「起きるまでここにいてね」
 ルーカスの膝に頭を乗せ、手を握ったまま眠ってしまった。

「まぁ、大人にならなくちゃなんて言って張り切ってたのに。まだまだ先のようね」
「甘えてくれると私も嬉しいから、慌てなくていい」
 レオンの寝顔を覗き込みながらルーカスが言う。
「改めてよろしくね、ルーカス・ベリサリオ」
 アメリアが手を差し出した。ルーカスは座ったまま目を瞠り、手を握り返しながら見上げる。
「名前、同じ?」
「貴方はもう我が家の一員よ。私は明日の朝早くにこっちを出るから、またレオンをよろしくね」
「はい。私に任せて」

 新しい日々が始まった。
 “フィリックス”の時は一度も名前を呼んでもらえなかったのが寂しかったと言うルーカスに、「本当の名前で呼びたかったんだ」とレオンは返した。
「これからは沢山ルーカスの名前を呼べる」
「沢山呼んでほしい。私の知らない感情も言葉も、レオンのことも。沢山教えて」
 葡萄の収穫が終わった畑は少し寂しい印象を与えるが、二人でいれば景色の移ろいも何もかもが新鮮に感じる。
 公園の常緑樹は変わらず緑豊かに風に揺れていた。
 ブランコに座り、空を見上げる。
 隣にルーカスも腰を下ろし、同じように見上げた。
「レオンと一緒にいるのは楽しいよ」
 今度はルーカスとして伝えてくれた。
「あのさ、実を言うと、フィリックス兄さんは何でも卒なく熟す人だけど、料理だけはできなかったんだ」
「そうなの!?」
「きっと母さんたちがそこだけ変えたんだろうね。僕の世話をしてもらわないといけないから」
「じゃあ、どう頑張っても本当のフィリックスにはなれなかったんだ」
 ルーカスは苦笑した。
「今日は寒いからポトフを作ってよ」
「いいね。そろそろ帰ろう、レオン。体を冷やすと大変だ」
 ルーカスが立ち上がると、レオンの手を引き並んで歩き始める。
 
 葉擦れの音と、空を飛び行く鳥の鳴き声が、心地よく二人の間を流れていった。


~完~
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