カラの執着

あづま永尋

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カラの執着

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 ……ピチョ、チュ。
「……はぁ、んぅぅ……ッぃい!」
 ヒドイ水音に、九次きゅうじは舌打ちしたくなった。指定場所へ近づくにつれ強くなる生臭さは、予想を裏切らない。潜められる声音に、増すねとつく水音。
 大方、九次の存在を知らせたのだろう。第三者でさえ行為のスパイスだなんて、自分の理解の範疇はんちゅうを超えている。
「……ぁ、……ぁ、……ぁあッ」
 もはや言葉すら、まともな声ですらない途切れ途切れの啼きに、行為の終わりを見出す。
「ジュー居るんだろう? 見ていくかい」
 今度こそ盛大に舌を打つ。傍観ぼうかんを決め込んでいたら、まさかの参加を余儀なくされる。
 カロ。
 口に遊ばせている飴が歯と音を立てる。
人見ひとみ。きみのかわいい、弟が迎えに来てくれた、よっ」
「……ひ、ィぃ……」
 もがくことすらできずほぼ白目を剥いている兄と、平然と貪っている男。
 上下の境目すらあやふやな。病的にまで白い床と壁に挟まれた、真っ黒なベッドとシーツが存在感を遺憾なく発揮している。散らばる、液体塗れの大人のオモチャ。鼻を衝くアンモニア臭に、吐き出していたのは精液だけではないことを知らされる。
 努めて九次は感情を殺して、双眸を細めるだけにとどめた。
「いい顔だろう」
「……そぉっスね。」
 目をやる、揺さぶられるがままに翻弄される肢体。
 ろうを垂らされて赤黒く腫れている局部は、しばらく放出を許されていないらしい。全身を火照らせ、不規則に起こすひきつけ。時折伸ばされる背には鞭の跡が走る。
 兄には三か月振りの逢瀬になる。自分の知っている限りであるが、あながち間違ってはいまい。放置期間を経ての、挿入という最大のご褒美だ。しかも連絡すらも取り付けてもらえない、見向きもされない愚鈍な己をオカズにシコれる神経にはほとほと頭が下がる。そして弟の九次が現場に居合わせ一瞬戻った虚ろな視点も、突き落とされた兄としての威厳を恍惚に変えた。
「楽しいっスか」
 兄を回収に来いと、言葉少なに寄越された連絡に仕方なく腰を上げればこのありさま。
 意識を飛ばした人見の前髪を掴み上げて、仰け反らせた首筋。
「……ぃあぁぁ……」
 流し目と共に立てられる歯と、ちいさな呻きが上がるのは、ほぼ同時。
「ああ、楽しいよ」
 強制的に覚まされた瞳は感情を映さない。キャパシティーを超えた刺激に、しどとに睫毛を濡らすのみ。普段の隙のない彼からはとても想像できないが、抑圧された日常から解放された姿と言われれば頷けなくもない。
「一緒に楽しむかい?」
 心にもないことを。
「寝言は寝て言え」
 吐き捨てた九次を咎める様子もなく、男は口角を上げる。
「残念」
 知っているクセに白々しい。
 被虐趣味とひとことで言っても、すべてを受け入れられる訳ではなく境界線が存在する。そのギリギリを見極めて、プレイの一環として楽しませる技量と信頼関係が求められる。兄の中でマンネリ化防止のスパイスのひとつとしては確立していても、オトコとしての自分の存在は必要ない。第一、こちらとしても参加するつもりはさらさらない。
「終わったら呼んでください」
 度を越す快感に焼き切れている嬌声を背景に、自分と男の静かな声が交わされる。
「もう終わるよ」
 何が悲しくて、野郎がイクのを待たなければならないのだ。
 半目になった九次に気づかないかのように、てめぇの快感を追った男は丁寧に中に擦りつける。これも兄からすれば、愉悦だ。見向きもされず、自分を卑下して自傷しつつ。気まぐれに触れられ、自分の痴態で勃起しさらに滴らせた精子を、痛覚と共に刻み付けられる、最大のゴホウビ。
「待たせたね」
 艶やかな黒髪をかき上げた男は、九次に視線を向ける。
「部屋の片づけは人見に頼んであるけど」
 意識の失った兄の引き取りで呼ばれたのだと認識していた。不本意ながら、それに惨状の片しまで含まれるだろうことも。
 片眉を跳ね上げた九次に、男は何でもないことのように続ける。
「まあ、終わらないだろうね」
 なるほど、と正しく汲み取る。
 体液まみれの諸々を前に、しばらく振りに与えられた快感に燻る身体は再び火照るだろう。後処理もなしに放置され、大腿に伝う白濁と刻み付けられた行為を彷彿して悶えながら。そして、いつの日かその様子をネタに鑑賞でも企画するのか。仕込まれている複数のカメラに、男からの兄への仄暗い執着を知らされ呆れる。割れ鍋に綴じ蓋とはよく言ったものだ。
 情交色濃く残る人見に手を出さず、彼が許容し、行動を適度に理解し、さらに尻叩きとして発言できる人物として自分に白羽の矢が立ったという訳か。
 とても有難くない。
「頼りにしているよ、ジュー」
 愉快そうに放られた部屋のカードキーを、九次は問答無用にはたき落した。



 背を伸ばして職場に向かうスーツ姿を見送って、鞭打たれたミミズ腫れがあるていど落ち着いたことを九次は悟った。どちらにしろ、互いに嬉々としてプレイしているのだから自分の出る幕はない。ただ、巻き込まれなければ。その一点のみが願望であるはずなのに、守られたためしがないのは何故だ。
 今後も改善はされないだろうと一人諦めた九次は、汚れたつなぎ服のポケットに手を突っ込む。
 数多い兄弟の中で、波長と妥協点が合った兄とは大きないざこざもなく共に生活を送っている。たとえ兄の趣向が被虐趣味でも、その相手が九次の数少ない先輩だとしても。特別問題はない。
 カロ。
 鼻を衝く油の臭いに不快はない。明らかに人体に悪影響を及ぼすであろうが、それが逆に心地よい。口から上がる飴の甘さとのチグハグさが、己を表しているようで。
 クソッタレな世界に生き、生きているようでいて死んでいる自分。
 仰いだ無駄に清々しい空に、無性に悪態をつきたくなる。
「……」
 珍しく不携帯電話を携帯していれば、奏でられる音に不機嫌を煽られる。登録はしていないが見覚えのある番号。置いてくるべきだったと心底思う。
『出たのなら、話せ』
 ムッツリと無言を貫いていれば、勝手に用件を話す癖に。どうせ下らない内容だ。
郷戸ごうどの動きがちらつく』
 端を折られての忠告に、自分は無関係だと吐き捨てる。
『甘くない』
「……だろうな。」
 着けられた一見して変哲のないスモークガラスの車と、背後の存在。背に当たるのは、光物かパチンコか。白昼堂々ご苦労なことだ。この時間帯ならば人見は教壇に立っているはずなので、あちらに手は出ていないだろう。さすがに学生のごった返す構内で人攫いはリスクが高く避けたいはずだ。それに本当に見境のない強行軍ならば、こんなチマチマした手はとらない。
 マンネリ防止のスパイスの次は連れ去りなど、本当についていない。
 カシャン。
 一瞬で判断した九次は、ため息と共に手からスマホを滑らせた。



 人見とは年の離れた兄弟になる。ただし、半分。
 お盛んな男の種であると認識され、過ぎる生活費という生殺しの金は振り込まれど、九次は手をつけていなかった。否、とっくの昔に母という女が使い込み行方をくらましたという方が正しい。家畜の餌より酷いゴミを漁り雨水で飢えをしのいで、生きるため犯罪に手を染め、押し込められた豚箱の待遇の良さに驚愕したのはいつだっただろう。
 さらに名前を付けるのも面倒らしく、一番目は人見、十番目の自分は九次という具合に、それぞれ順番が解るように数字をつけられる適当さ。ならば認知などせず、捨て置けばいいものを。世間体だのと薄っぺらい常識が通用するほど甘い世界でないくせにと小石を蹴り上げて、男の駒の一つに過ぎないと行きついた思考に苦いものが口に広がった。
 無駄に生きているだけの自分は、死に場所を求めている。
 そんな自分に手を差し伸べたヒカリは、兄ただ一人だった。
 ガツッ!
 狭まった視界に瞼の腫れを知らされる。痛みを訴えるのは顔か、腹か、足か、そのどれもか。抜歯を防ぐために反射的に噛みしめる奥歯と共に、受け身を取るはずの腕はびくとも動かない。ミノムシよろしく転がされた己は、体のいいサウンドバックだろう。胃液は吐き切ったのか、空しく咳を上げるだけ。普段は気に留めもしない息を意識的にして、耳に障る呼吸音から肋骨でも変に折ったかと、のんきに現実逃避する。
「言う気になったか?」
 アルコールとヤニの混ざった重苦しい口臭。己の優位を疑わない男は、九次の髪を掴みあげてその濁った眼を合わせる。いつぞやの人見と同じ状況と気づいて、しかし兄の方がもう少し丁寧に扱われていたなと、どうでもいいことに思いをはせる。
 父と呼ばれる立ち位置の人間の弱みなぞ、知らないし興味もない。
 ヤツは言ってみれば雲の上の人間。地べたに這いつくばっている蟻になど眼中にない。人見ならば何か知っている可能性もあるが、生きていても死んでいても問題ない十番目の子供だ。そんな存在が知っていることなど高が知れている。仮に情報を持っていたとして、それがガセだろうことに何故気づかないのか。公に発表されているエサの方が、己の知識よりも断然情報量が多い。
「……ッの!!」
 返事の代わりに飛ばした唾は、見事に男の頬を汚し激怒を煽る。叩きつけられた床のシミを視界に捉えながら、不穏な音を拾う。
 後頭部に押し付けられた硬い感触。
 微かな振動から不慣れを伝えられ、これでは一思ひとおもいに死ねないかもしれないと気が遠くなる。
『欲しがりなさい』
 よみがえった、癖のないなめらかな声音。
『お前は欲しがるよ。絶対ね』
 漆黒の髪と揃いの深い、他者に考えを読み込ませない同色の目で九次を射貫きながら。
 本当にいけ好かない男だ。
 人見をなぶった同じ眼と口で、無遠慮に九次の心を揺さぶって抉る。
 これが走馬灯かと、クソッタレな人間の人生は最期までクソッタレかと自嘲じちょうする。
「……残念だった、な。ごーど、センセーに、いぃ土産、なく、て……」
 無様に掠れた声は届いているか不明であるが、情報を引き出そうとしているならば聞き耳を立てているのは明白。
「ぁあ? あんなのと一緒にするなッ!」
 自分から有用情報が引き出せずに処分されろ、と道連れになるだろう男を嘲笑あざわらえば、訝しげな声を拾う。
 政敵でないとすれば、なんだ。
 そうだ。狸寝入りして様子を窺っている間、この男が連絡を取っていたのは誰だったか。父と党を組む男の第一秘書の名だ。霞む意識で振り返れば、腑に落ちないことばかり。人見の拉致が無理だとしても、あの男の子供は呆れるほど多い。要人もいるが、中には九次のように何の変哲もない一般人も多々いる。当然SPもついていない。そんな中、何故にピンポイントで十番目に的が絞られたか。
 ──コレは、裏切り者のあぶり出しだ。
 身内の信頼度の確認。あえて誤った情報をちらつかせ、泳がせて尻尾を掴む。自分以外にも手当たり次第に男の子供を捕らえているならば別であるが、どう考えても足がつきやすく信憑性は薄い。
 浅はかな自分ですら気づくことが、学のあるはずの人物が気づけないのは何故だ。そして九次に対しても、父の欲しい情報が手にできなければそれまでの人間と、犬死まで放置される。死体も深海に沈められたままになるだろう。物理的にも社会的にもひと一人を消すなど、カースト上位に君臨するヤツラには造作もない。
 あの男に試されているのは裏切り者だけではなく、血の繋がった息子である自分も含まれている。
『ご名答』
 満足に言葉も交わしたことのないはずの低い声が、どこか楽しげに頭の片隅で響く。優雅に足を組んで椅子にふんぞり返り、思考を読ませない鋭い視線だけで九次を下す。
 てめぇで切り開かなくては、先はない。
 死に場所は求めているが、あの男の駒として手のひらの上で転がされて野垂れ死ぬのは真っ平ゴメン。ならば、あのやさしくも残酷な誘惑を寄越す男の方がまだマシ。
『欲しがりなさい』
 取引の材料は自分自身。
「……ハッ! だれ、が、欲しがる、かっ……!」
 先ほどまでは死を望んでいたはずが、と現金な自分に頭の片隅で苦笑する。
 痛む肺でゆっくりと呼気を取り込んだ九次は、目の前の男を見据えた。
「いいこと、教えてやる」



「……ぅる、せぇ」
「おかえり」
 人が静かに寝ているのに散々だと文句を言えば、思いのほか近くから癖のないテノールを拾って目を見開く。
「……あんたら、何してンだ」
 広がる視界に、ため息混じりに顔を手で覆うとするも叶わず。改めて、腕を拘束されている現状を認めて盛大に悪態をつく。
 折られた骨は予想通り内臓を損傷していた。功労を上げた九次は代議士の手配で手厚く治療を受け、自宅療養に移行したばかりだった。食事をとって寝て、骨がくっつくのを待っていればコレだ。
「……ぁ、ぁあッ!」
 乳繰り合うのは勝手にしてくれ。自分を巻き込まなければ。
 人の上で頼りない腰をよじるのは、嬌声を迸らせる目を隠された兄が。その後ろでは、着衣すら乱さず人見をさいなんでいる男。
「怪我人なんスけど」
 抗議に呆れが混じるのは、無駄なことを知っているせい。普段は眠りが浅いので人の気配ですぐに目覚めるはずが、体調が万全でないせいか薬でも盛られたか。
「……んッくぅ、ひぃぃ……」
 隠された瞳から流れる涙が布の色を変えている。それだけの時間、苛まれていたことに他ならない。悠長に居眠りしていた自分に舌打ちしたくなる。押しつけられた兄の局部から微弱な振動を拾い、新たなオモチャを試していることを知らされる。ならば、マンネリ化防止の第三者は不要なはず。
「お楽しみの最中さいちゅう申し訳ないっスけど、外してください」
 まともに言葉も紡げず、しゃくりあげる兄では埒が明かない。その向こうで目を細めて痴態を眺めている男に腕を示す。
「残念ながら聞けないね」
「俺もおとなしくベッドの代わりになるつもりは、ねえっス」
 人見を蹴り飛ばすのは気が引ける。同時に、この男が素直に九次の要望に応えてくれるとは思えないのも解りきっている。
「ジュー」
 普段よりも幾分か艶を含んだ男の囁きに目を眇める。
「欲しがるかい?」
「要らねえ」
 欲しがらない。
 結局はすべてを失くしてしまう自分には、残酷な言葉でしかない。家族という代物も、一般的な幸福とやらも、九次の手からすり抜けて逃げていく。幼い頃はがむしゃらに縋ったこともあったが無駄だった。自分にはその価値がないのだとすぐに知らされた。そのため欲しがらず、関心をなくすことを身につけた。九次にとって周囲とは、人見以外は同じ景色が流れるだけ。
 即答しながら、頬を掠め九次の耳朶にたどり着く手のひらに身を捩る。捉えられた、兄から送られたピアス。細められる双眸。嫌な予感というのは、得てして外れない。
「見事な切り返しだったよ。さすが僕の見込んだ子だね」
 どう考えても先日の、尋問を受けたやり取りにしか行きつかない。そのあとは、療養していただけだ。
「……聞いてたんスか」
 疑問ではなく、確信を。眉間に寄る皺を自覚しながら、この男発・人見経由で盗聴器を仕込まれたと言外に知らされる。父である代議士側以外にも、あの場で観客が居たということだ。迂闊だった。どいつもこいつも本当に性格がねじ曲がっている。
「この子は知らないよ」
 不規則なひきつけを起こしつつ、すり寄った九次の首筋にうっ血を残す兄。繰り返される数は、阻まれた放出を望んだ数か。荒い息と共に力なく腹部にさすり付けられる、増す粘着質な液体。
「でしょうね」
 兄は、自分やこの男のようにズルく生きられない。
「……ゃぁぁ……お、ね、ぉ願ぁあッ! とっ、てぇ……っぃ、あああぁあアぁァッ!!」
「いい子だね」
 酔いしれそうなほどの極上な笑みをたたえながら、その一方では大きくなるモーター音。グズグズにただれた体温を、汗の伝う肌を介して九次にも移される。
「……ほ、ほし……ぃ、ねぇ……んンぅ! ……ぃれ、てぇぇ……」
「人見。俺は、あんたのオトコじゃねえ。しっかり見てみろ」
 物欲しげに九次の下肢にたどり着き、まさぐる手に静止を掛ける。視界は塞がっているが、兄の手は自由だ。それとも、アイマスクを自ら外すのは許可されていないか。
「ジューは人見に対してはホントやさしいね」
「こっち来てみろ」
 妬けるねとの揶揄やゆを聞き流して、思考の動いていない人見を近づける。
「――な? 違うだろ」
 唯一自由の許されている口で視界を塞いでいる布をずらしてやれば、ぐじょぐしょに腫れた瞼が持ち上がる。
「……きゅ、じぃぃ……っ!」
「ああ。だから退け」
「人見は退かないよ」
「ぁあ?」
 肩にすがりついた兄に拘束も外してもらえないだろうか、と淡い期待を持ちながら、不気味に微笑みを崩さない男を見上げる。
 療養するために数日不在にすることは、事前に伝えてあったのだ。九次の身体を心配したとしても、いつまでも引っ付いている理由にはならない。
「長年の夢だからね」
 問いを向けるまでもなく、普段よりもだいぶ饒舌な男が続ける。
「知っていたかい? この子はジューをいているのだよ」
 ずっとね。健気だね。
 まるで天気の話をするかのようにカラリと。
「……ぁあッ!!」
 同時に、輪郭を確かめるように撫で回していた手のひらが、兄の臀部を強打する。室内に響く乾いた音。
「この子が本当に欲しかったのは、僕じゃなくてジューだよ」
 それは、現在の身体の火照りからの欲求だろう。
「ジューとはじめて出会った雨の日の思い出を宝物にして、手を出さず。でもどうしようもなく持て余す身体を、僕に差し出したんだよ」
 豚箱から出た時に差し出された人見の手の大きさではなく、もっと前の。まだ自分に母という派手な女が近くに居て、立ち尽くすだけで泣けない人見に九次が差し出した特別綺麗でもでもないハンカチが印象的な、あの日。
 今まで触れられたこともなかったため、てっきり忘れたのかと思っていた。
「思い出に操立てしつつも、狂おしい恋情に焼かれて。僕との行為に、己を卑下し嫌悪して……とても滑稽こっけいで美しいよ」
 いつから人見が色眼いろまなこで九次を見ていたのかは不明であるが、彼の被虐趣味であることを差し引いても、男同士であり、半分でも血の繋がりがあることを含めた世間体を悩み続けていただろうことは容易に想像できる。それ以外も、自分には考えつかない葛藤があっただろう。
「……あんたは、ソレを全て知っても、なお人見を抱いているのか」
 にぃィ。
 ひとつひとつ噛みしめるように確認し、弧を描く口角に殺意を覚える。
「……ぁ、……ぁあ、ゃめぁぁァあッ!」
 内に秘めた想いを暴露された人見が悲鳴を上げる。男が引き出しほうったオモチャが、床でぬかるんだ体液をまき散らしながらのたうつ。
 グチュ。
「……ああ、だいぶ溶けたし奥に行ってしまったね」
 栓を外して中をまさぐった男は、人見の耳朶をむ。
「ジューの舐める物が、自分の中で暴れる気分はどうだい?」
 低く潜められる声は密着している九次にも届いた。反射的に振り返るは、散乱した包み紙の山。
「君から芳醇ほうじゅんな香りが漂ってくるよ。とてもね」
 取り出した長い指に真っ赤な舌を這わせる姿は、耽美な一枚絵のよう。
「……あ、……ぁあ……」
「後ろが寂しいのなら、ジューにオネダリしてみなさい」
「っあんた、一体ッ!」
 声を荒げた九次に、細められる双眸。
「ジュー、僕はね」
 伸ばされる指先が胸をたどり、粒を弾く。
「……くっ、そ!」
 反対側を人見の舌がチロチロと捕らえる。
「待っているんだよ。ずっとね」
 知ってる。
『欲しがりなさい』
 あの言葉に続くのは『――僕を。』。
 甘やかすような睦言を紡ぎながら、そのじつ失うことを恐れて他人と距離をとった自分を踏み荒らす。こんな何の変哲もなく面白みのない自分を、構う理由に行き着かない。
 身体的な刺激からブレそうな意識を保つのは噛みしめる奥歯ではなく、微笑みを浮かべる男の表情。
「好意の反対は敵意じゃない。――無関心だ」
 本当に嫌な男だ。
 心残りのないはずの世で響いた、たったひとつの言葉。
 言葉が行動が、九次の記憶に引っかかる。
 それは自分にとって、無視できない存在だからだ。しかも、おそらくこの男は九次の深い気持ちを具体的でないにしろ読み取っている。さとくなければ、人見の相手は務まらない。
「君の中で、顔のない『その他大勢』に括られるのは真っ平だよ」
 暴かれていく。
 深いところの隠された自分を。
 パチンと閃いて、九次は瞠目した。
「……あんた、わざと、人見に近づいたのか……」
 人見が九次に抱いている想いを知って。
 恋情抜きとしても、九次が人見を大切にしているのを知って。
「僕も自分で健気だと思うよ。君の視界に入れてもらいたいからね。ただの先輩後輩では時が経てば忘れるだろう?」
 だから人見の気持ちを利用した。仮に人見が素直に自分に想いを打ち明け、確実に受け取っていたかと言われれば不明だが。
 代議士の十番目の子供でもなく、金ズルとしてでもなく、九次という個をはじめに見出したのは人見だった。人として関わってもらい、不器用ながらも自分も少しでも情を返したいと願った。そしてこの二人が、ただならぬ関係であると認識したのもその頃だ。
 兄が求める者は、自分ごときが求めていいものではない。だから、仄かに抱いた男への気持ちに気づかぬふりをした。
 ――そう、思っていた。
 積み上げてきたすべてが、突き崩される。この、目の前の男によって。
「……ん、んンぁぁ……」
「……の、やめ、ろっ! 人見!!」
 徐々に下がった口づけは九次の幹を育て、煙った瞳はどこか空虚を眺めている。
「……き。す……きぃで、ごめ……なさ……ぁああァぁあああッ!!」
 鼻筋に、顎の先にリップ音を受け。しゃくり上げながらの、ちいさな告白に目を見開くと同時。
「……あ、ック、……ソッ!」
 九次を跨いで自らを貫かせた兄は、弓なりに反った。
 猥雑にうごめく中に固い感触を見出し、飴であると遅れて気づく。
「……っひ、ィ……ッ!!」
 もがく肢体は伸びてきた別の手に胸を摘ままれ、抜けた力によって意図せぬほど奥にたどり着く。過ぎた刺激に、声もなく飛ばされた意識。
「人見。せっかく念願叶って成就したのに、寝たら勿体ないだろう」
 崩れる身体のおとがいを掬って舌を入れ込みながら、一方で放られたままの人見の震える裏筋を撫で上げる。男によって臀部に与えられる、折檻の振動が繋がる九次にも響く。
「……ぃぁぁ……」
 無意識だろう、よじられる腰。
 絞り上げられ、詰める息にネツが混じる。
 重ったるい水音はどこからか。
「早く落ちておいで」
 ぼくの、きゅうじ。
 触れる間際、確かにその口が形取る。
 ブチ。
 強制的に絡められた舌を、鉄の味に滲ませて。
「……っれが、あんたなんか、欲しがる、か――れい
 白に点滅する世界で、睨みつけた先に漆黒の瞳が確かに細められた。



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