もう戻りません。~偽聖女の烙印を押された私と、不器用な辺境伯の話

たくわん

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辺境の村が、これほど賑わったことはなかっただろう。

 広場の中央に組まれた篝火が赤々と燃え、その周りを村人たちが囲んでいる。手作りの楽器を奏でる者、踊る者、酒を酌み交わす者。子供たちは篝火の周りを駆け回り、老人たちは目を細めてその光景を眺めている。

 収穫祭。

 辺境の村で、それは長い間忘れられていた言葉だった。土地が魔瘴に侵されてからは実りのある収穫などなく、祭りを開く余裕も気力もなかった。それがこの秋、リーゼルの浄化によって蘇った農地から、初めてまともな麦が収穫されたのだ。

 量はまだ少ない。王都の農村と比べれば微々たるものだ。しかし村人たちにとっては、何十年ぶりかの実りだった。自分たちの土地で、自分たちの手で育てた麦。それだけで祭りを開くには十分すぎる理由だった。

「聖女様、こっちこっち! 一番いい席を用意したよ!」

 村長の妻に手を引かれ、リーゼルは篝火に近い特等席に座らされた。次々と料理が運ばれてくる。新しい麦で焼いたパン、村の女たちが腕を振るった煮込み、川で獲れた魚の塩焼き。どれも素朴だが、心がこもっていた。

「こんなにたくさん、私なんかのために……」

「何言ってるだい。あんたが来なけりゃ、この祭り自体がなかったんだよ」

 村長の妻が笑って、リーゼルの皿にさらに料理を盛った。

 祭りが始まってしばらくすると、村長が広場の中央に立った。

「皆、聞いてくれ」

 賑やかだった広場が静まる。

「今年、この村に奇跡が起きた。枯れた土が蘇り、水が澄み、作物が実った。それはすべて、リーゼル様のおかげだ」

 村人たちが頷く。

「そしてもう一人。俺たちの領主であるアレク様にも感謝を。閣下がリーゼル様を守り支えてくださったからこそ、今日がある」

 広場の隅で腕を組んで壁に寄りかかっていたアレクが、居心地悪そうに視線を逸らした。

「リーゼル様、アレク様。この土地の者を代表して、心から礼を申し上げる」

 村長が深く頭を下げた。それに倣って、村人たちが一斉に頭を下げる。子供たちまでもが、見よう見まねで小さな頭を下げていた。

 リーゼルの目から涙が溢れた。慌てて袖で拭うが止まらない。王都では偽者と蔑まれた。必要ないと切り捨てられた。なのにここでは、こんなにも多くの人が感謝してくれている。自分の存在を認めてくれている。

「泣くな。祭りだぞ」

 いつの間にか隣に来ていたアレクが、ぶっきらぼうに言った。しかしその手がそっとリーゼルの背に添えられていた。大きくて温かい手。その手に背を押されるように、リーゼルは涙を拭いて笑顔を作った。

「はい。すみません、嬉しくて」

 アレクは何も言わず、ただ静かにリーゼルの隣に座った。副官のハンスが気を利かせて二人分の酒を持ってきたが、アレクは無言で受け取り、リーゼルの分だけ果実水に替えさせた。

「お酒、飲めないんですか?」

「お前は飲むな。力を使った後に酒は良くない」

「今日は使っていませんけど」

「……とにかく駄目だ」

 理由になっていない。リーゼルは小さく笑った。


  
 祭りが夜更けに近づき、村人たちの多くが酔いつぶれるか家に帰り始めた頃、アレクが立ち上がった。

「少し来い」

 短い言葉に導かれ、リーゼルは広場を離れた。アレクの後について館の裏手に回ると、そこには小さな庭があった。辺境伯の館に付随する、質素だが手入れの行き届いた庭。月明かりの下、リーゼルの浄化の恩恵を受けて咲いた花々が銀色に輝いていた。

 アレクは庭の中央で足を止め、振り返った。月光が銀の髪を照らし、碧い瞳が深い色を湛えている。

「話がある」

 いつもの簡潔な口調。しかし、かすかに声が硬い。

 リーゼルは胸騒ぎを覚えながら、数歩先のアレクを見上げた。

「俺は辺境伯を継いでから八年になる」

 アレクが口を開いた。視線はリーゼルではなく、夜空に向けられている。

「親父が死んで、この土地を任された時、正直なところ絶望した。魔瘴は広がる一方で、民は飢え、兵は足りない。王都に支援を求めても無視された。辺境のことなど、王都の連中にはどうでもいいからだ」

 淡々とした口調だった。しかしリーゼルには、その言葉の裏にある八年分の孤独が伝わってきた。

「それでもこの土地を捨てるわけにはいかなかった。ここには俺を頼りにしている民がいる。だから歯を食いしばって戦ってきた。たった一人で」

 アレクの視線が夜空からリーゼルに降りてきた。

「お前が来て、この土地は変わった」

 その声に、初めて感情の揺らぎが混じった。

「土が蘇り、水が清まり、花が咲いた。それだけじゃない。民が笑うようになった。この先に希望があると、初めて思えるようになった」

 一歩、アレクが近づいた。

「それは全部、お前のおかげだ」

「そんな……私だけの力では。アレク様が守ってきたこの土地と、村の皆さんがいたからこそ……」

「黙って聞け」

 遮られて、リーゼルは口をつぐんだ。

 アレクが深く息を吸い、吐いた。覚悟を決めるように。

「俺の妻になってくれ」

 月光の庭に、その言葉が落ちた。

 リーゼルの時間が止まった。心臓が跳ね上がり、頬が一気に熱くなる。目の前のアレクは真っ直ぐにこちらを見つめていて、その碧い瞳に嘘や迷いは一切なかった。

 嬉しい。嬉しくて胸が張り裂けそうだ。しかし同時に、頭の隅で冷たい声が囁く。自分は追放された身だ。偽聖女の烙印を押された女だ。この人の隣に立つ資格があるのか。

「……私は、王家に捨てられた身です」

 声が震えた。

「辺境伯であるアレク様のお立場に、傷がつきます。私のような者が妻になれば、王都との関係も……」

「王都の連中がどう思おうが知ったことではない」

 アレクが一蹴した。

「俺は辺境伯だ。この土地のことは俺が決める。王都の顔色を窺って生きたことはない」

 もう一歩、近づく。

「俺が欲しいのはお前だ。お前の力でも、聖女の加護でもない。リーゼル、お前自身が欲しい」

 手が伸びてきて、リーゼルの頬に触れた。硬い剣胝のある指先が、壊れ物を扱うように優しく涙を拭う。泣いていたことに、触れられて初めて気づいた。

「俺は口下手だから、気の利いたことは言えない。だが、お前を守ることだけは誰にも負けない。約束する」

 この人は本気だ。心の底から、自分を求めてくれている。王太子が一度もくれなかったものを、この不器用な辺境伯は惜しみなく差し出してくれている。

 リーゼルは涙を拭い、顔を上げた。月明かりの中で、アレクの碧い瞳がこちらを見つめている。不安と、期待と、不器用な愛情が入り混じった目。

「……はい」

 小さく、しかし確かに頷いた。

「私で、よろしければ」

 アレクの目が見開かれ、そしてゆっくりと細められた。笑っている。この男がこんなふうに笑うのを、リーゼルは初めて見た。

 大きな手がリーゼルの手を包み込んだ。指を絡め、しっかりと握る。

「ありがとう」

 低い声で呟かれた礼に、リーゼルはもう一度泣きそうになった。


  
 王都。ユリウスの執務室に、調査報告が届いた。

 辺境で奇跡を起こしている女性の正体。報告書を読み終えたユリウスは、長い間動けなかった。

 リーゼル・フォン・エーデルシュタイン。

 やはりそうだった。自分が偽聖女として追放した女が、辺境で真の聖女の力を発揮している。涸れた井戸を蘇らせ、汚染された大地を浄化し、村に豊作をもたらしている。報告書には村人たちの証言が詳細に記録されており、その全てがリーゼルの力の真正さを裏付けていた。

 同時に、神殿の長老から非公式の見解が届いた。

 セレーナ・バルトの力は、神殿の光術を応用した演出に過ぎないと。聖女としての本質的な加護は確認できず、結界の維持能力もないと。

 ユリウスは報告書を机に叩きつけた。

「何故だ……何故、もっと早く気づかなかった」

 答える者はいない。気づかなかったのではない。気づこうとしなかったのだ。セレーナの華やかな光と甘い言葉に酔い、地味で控えめなリーゼルの価値を見ようともしなかった。

 自分の愚かさを認めることは、王太子としての矜持が許さなかった。しかし現実は容赦ない。結界は弱まり続け、魔物は増え、民の不満は高まっている。このままではエーデルシュタイン伯爵家の離反も決定的になる。

 ユリウスは苦渋の末に決断した。

「リーゼルを連れ戻せ」

 側近が息を呑んだ。

「し、しかし殿下。一度追放した方を呼び戻すとなれば、殿下のご判断に誤りがあったと認めることに……」

「わかっている。だが背に腹は代えられない。聖女の力がなければ王国が持たない。書状を出せ。辺境伯宛てに、聖女リーゼルの王都への帰還を命じる」

 王家の紋章が押された書状が作成され、早馬で辺境に向けて発たれた。


  
 数日後、辺境伯の館にその書状が届いた。

 アレクは封を開け、文面に目を通した。

 聖女リーゼルの王都への帰還を命ずる。王国の加護のため、聖女の力を王都にて発揮されたし。辺境伯におかれては速やかにこれに応じられよ。

 アレクの碧い瞳が、氷のように冷たくなった。

 書状を持つ手に力がこもり、上質な羊皮紙がくしゃりと音を立てた。握りつぶされた書状が、暖炉の前の床に落ちる。

「閣下、王家からの正式な命令書ですぞ……」

 ハンスが控えめに言った。しかしその声にも、怒りが滲んでいた。この老副官もまた、リーゼルを慕い始めている一人だった。

 アレクは暖炉に背を向け、窓の外を見た。月に照らされた辺境の大地。リーゼルが蘇らせた、花咲く大地。

「渡すものか」

 低く、しかし鋼のような声だった。

「俺の婚約者を、あの男には渡さない」
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