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第二章 目覚める力と芽生える想い
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北方の冬は容赦がなかった。
その日、朝から空が不穏な色をしていた。鉛色の雲が低く垂れ込め、風が唸りを上げている。昼過ぎにはちらついていた雪が本格的な吹雪に変わり、夕方には視界が数メートルも利かなくなった。
「百年に一度の大吹雪だと古参の領民が言っておりました」
ハインリヒが執務室で報告した。
「街道は完全に塞がっています。外部との連絡は当分途絶えるでしょう。屋敷の備蓄は十分ですが、領内の集落に孤立しているところがないか確認が必要です」
アルヴィンは頷き、指示を出した。備蓄の確認、暖房用の薪の追加、使用人への待機命令。淀みのない判断だった。
リーゼは自室で吹雪の音を聞いていた。窓ガラスに雪が叩きつけられ、風が屋敷の壁を揺らす。暖炉の火が心許なく揺れた。
エルザが毛布を追加で持ってきてくれた。
「大丈夫ですよ。この屋敷は北方の嵐に耐えるように造られていますから」
「エルザさんは慣れていらっしゃるのですね」
「ええ、何度も経験しましたから。でもこれほどの吹雪は久しぶりです」
夕食は食堂でとる予定だったが、吹雪で屋敷の一部が冷え込み、使用人たちは暖炉のある部屋に集まっていた。食事は執務室に隣接する小さな居間で、アルヴィンとリーゼ、ハインリヒの三人でとることになった。
だがハインリヒは早々に席を立った。
「領内の状況を確認してきます。伝書鳩が使えるうちに」
露骨だ、とリーゼは思った。吹雪の中で伝書鳩が飛べるとは思えない。だがハインリヒは涼しい顔で退室してしまった。
暖炉の前に、二人だけが残された。
沈黙が降りた。
暖炉の薪が爆ぜる音と、窓を叩く風の音だけが部屋を満たしている。オレンジ色の炎が二人の影を壁に映していた。
リーゼは膝の上の毛布を握りしめた。アルヴィンと二人きりになるのは、月夜の庭以来だ。
「寒くないか」
アルヴィンが訊いた。暖炉に近い椅子にリーゼを座らせ、自分は少し離れた場所にいる。
「はい、大丈夫です」
「北方の冬が堪えるなら言え。部屋の暖房を強くする」
「いいえ。冷たい空気も、嫌いではないんです。王都の冬とは全然違いますけど」
「王都の冬は温い」
「ふふ、そうですね」
ぽつりぽつりと、言葉が交わされた。いつもはすぐに途切れる会話が、今夜はゆるやかに続いていく。吹雪が外界を遮断しているせいだろうか。この小さな部屋だけが世界のようだった。
「アルヴィン様は、ずっとこの北の地で」
「ああ。生まれてからほとんど離れたことはない」
「寂しくはなかったですか」
アルヴィンはしばらく黙った。暖炉の炎を見つめている。
「母は俺が五つの時に亡くなった。流行病だった」
リーゼは息を止めた。
「父は厳格な人だった。北方を守ることだけが全てで、息子への関心は薄かった。十五で父が死に、跡を継いだ。それ以来、この領地を守ることだけを考えてきた」
淡々とした語り口だった。感傷を排した、事実の羅列。だがリーゼにはわかった。その淡々さこそが、この人の孤独の深さを物語っている。
「ハインリヒがいなければ、俺はもっと偏った人間になっていただろう。あいつが唯一、対等に口を利いてくれる存在だった」
「今は」
リーゼが呟いた。
「今は、どうですか」
アルヴィンがリーゼを見た。炎に照らされた青い瞳が、いつもより柔らかい。
「今は……悪くない」
それだけだった。だが、その「悪くない」に込められた重みを、リーゼは受け取った。
「私も」
リーゼは微笑んだ。
「私もお母様を亡くしました。それからは、誰にも必要とされていないと感じていました。お父様にも、姉にも、クラウス様にも」
「今は」
アルヴィンが、リーゼの言葉をそのまま返した。
「今は、ここにいます」
窓の外で風が一際強く吹いた。暖炉の炎が大きく揺れ、影が踊った。
「寒いな」
アルヴィンが立ち上がり、暖炉に薪を足した。戻る時、リーゼの椅子の近くを通り、一瞬足を止めた。
大きな手がリーゼの肩にかかった。毛布を直すような、さりげない仕草だった。
「風邪をひくな」
「はい」
手が離れた。アルヴィンは自分の椅子に戻った。
リーゼの肩には、手の温もりが残っていた。暖炉の熱よりもずっと温かい、人の温もりが。
吹雪は夜通し続いた。だが小さな居間の中は静かで穏やかだった。
いつしかリーゼはうとうとしていた。夢うつつの中で、毛布をかけ直してくれる大きな手の感触があった。
目を覚ました時には朝で、吹雪は止んでいた。窓から差し込む朝日がまばゆい。
自分の肩には、見覚えのない黒い外套がかけられていた。アルヴィンのものだ。彼自身の姿は、すでに部屋になかった。
リーゼは外套を胸に抱き、目を閉じた。冬の朝の冷たい空気の中に、かすかにアルヴィンの匂いがした。
その日、朝から空が不穏な色をしていた。鉛色の雲が低く垂れ込め、風が唸りを上げている。昼過ぎにはちらついていた雪が本格的な吹雪に変わり、夕方には視界が数メートルも利かなくなった。
「百年に一度の大吹雪だと古参の領民が言っておりました」
ハインリヒが執務室で報告した。
「街道は完全に塞がっています。外部との連絡は当分途絶えるでしょう。屋敷の備蓄は十分ですが、領内の集落に孤立しているところがないか確認が必要です」
アルヴィンは頷き、指示を出した。備蓄の確認、暖房用の薪の追加、使用人への待機命令。淀みのない判断だった。
リーゼは自室で吹雪の音を聞いていた。窓ガラスに雪が叩きつけられ、風が屋敷の壁を揺らす。暖炉の火が心許なく揺れた。
エルザが毛布を追加で持ってきてくれた。
「大丈夫ですよ。この屋敷は北方の嵐に耐えるように造られていますから」
「エルザさんは慣れていらっしゃるのですね」
「ええ、何度も経験しましたから。でもこれほどの吹雪は久しぶりです」
夕食は食堂でとる予定だったが、吹雪で屋敷の一部が冷え込み、使用人たちは暖炉のある部屋に集まっていた。食事は執務室に隣接する小さな居間で、アルヴィンとリーゼ、ハインリヒの三人でとることになった。
だがハインリヒは早々に席を立った。
「領内の状況を確認してきます。伝書鳩が使えるうちに」
露骨だ、とリーゼは思った。吹雪の中で伝書鳩が飛べるとは思えない。だがハインリヒは涼しい顔で退室してしまった。
暖炉の前に、二人だけが残された。
沈黙が降りた。
暖炉の薪が爆ぜる音と、窓を叩く風の音だけが部屋を満たしている。オレンジ色の炎が二人の影を壁に映していた。
リーゼは膝の上の毛布を握りしめた。アルヴィンと二人きりになるのは、月夜の庭以来だ。
「寒くないか」
アルヴィンが訊いた。暖炉に近い椅子にリーゼを座らせ、自分は少し離れた場所にいる。
「はい、大丈夫です」
「北方の冬が堪えるなら言え。部屋の暖房を強くする」
「いいえ。冷たい空気も、嫌いではないんです。王都の冬とは全然違いますけど」
「王都の冬は温い」
「ふふ、そうですね」
ぽつりぽつりと、言葉が交わされた。いつもはすぐに途切れる会話が、今夜はゆるやかに続いていく。吹雪が外界を遮断しているせいだろうか。この小さな部屋だけが世界のようだった。
「アルヴィン様は、ずっとこの北の地で」
「ああ。生まれてからほとんど離れたことはない」
「寂しくはなかったですか」
アルヴィンはしばらく黙った。暖炉の炎を見つめている。
「母は俺が五つの時に亡くなった。流行病だった」
リーゼは息を止めた。
「父は厳格な人だった。北方を守ることだけが全てで、息子への関心は薄かった。十五で父が死に、跡を継いだ。それ以来、この領地を守ることだけを考えてきた」
淡々とした語り口だった。感傷を排した、事実の羅列。だがリーゼにはわかった。その淡々さこそが、この人の孤独の深さを物語っている。
「ハインリヒがいなければ、俺はもっと偏った人間になっていただろう。あいつが唯一、対等に口を利いてくれる存在だった」
「今は」
リーゼが呟いた。
「今は、どうですか」
アルヴィンがリーゼを見た。炎に照らされた青い瞳が、いつもより柔らかい。
「今は……悪くない」
それだけだった。だが、その「悪くない」に込められた重みを、リーゼは受け取った。
「私も」
リーゼは微笑んだ。
「私もお母様を亡くしました。それからは、誰にも必要とされていないと感じていました。お父様にも、姉にも、クラウス様にも」
「今は」
アルヴィンが、リーゼの言葉をそのまま返した。
「今は、ここにいます」
窓の外で風が一際強く吹いた。暖炉の炎が大きく揺れ、影が踊った。
「寒いな」
アルヴィンが立ち上がり、暖炉に薪を足した。戻る時、リーゼの椅子の近くを通り、一瞬足を止めた。
大きな手がリーゼの肩にかかった。毛布を直すような、さりげない仕草だった。
「風邪をひくな」
「はい」
手が離れた。アルヴィンは自分の椅子に戻った。
リーゼの肩には、手の温もりが残っていた。暖炉の熱よりもずっと温かい、人の温もりが。
吹雪は夜通し続いた。だが小さな居間の中は静かで穏やかだった。
いつしかリーゼはうとうとしていた。夢うつつの中で、毛布をかけ直してくれる大きな手の感触があった。
目を覚ました時には朝で、吹雪は止んでいた。窓から差し込む朝日がまばゆい。
自分の肩には、見覚えのない黒い外套がかけられていた。アルヴィンのものだ。彼自身の姿は、すでに部屋になかった。
リーゼは外套を胸に抱き、目を閉じた。冬の朝の冷たい空気の中に、かすかにアルヴィンの匂いがした。
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