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第五章 氷解と永遠の誓い
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春が深まる頃、ハインリヒがそわそわし始めた。
何やら屋敷中を駆け回り、使用人たちに小声で指示を出し、街の職人のもとに頻繁に足を運んでいる。リーゼが「何かあるのですか」と訊いても、「何もありませんよ」ととぼけるばかりだった。
エルザも何か知っているようだったが、「秘密です」と微笑むだけだった。
二人がかりで隠し事をされると気になって仕方がないが、問い詰めるのも野暮だろう。リーゼは気にしないふりをして日々を過ごした。
ある夕暮れ、アルヴィンがリーゼを訪ねてきた。
「少し、付き合え」
いつもの素っ気ない言い方だが、服装がいつもと違った。黒い外套ではなく、濃紺の上等な上衣。銀の留め金が磨かれ、髪もいつもより丁寧に整えられている。
「どちらに」
「乗れ」
門前に馬が二頭用意されていた。アルヴィンが先に馬に跨がり、リーゼも続いた。
北へ向かう道を少し逸れ、森の中の小径に入る。木々の間を抜けると、視界が開けた。
そこには湖があった。
雪解けの水を湛えた山間の湖。夕日が水面を赤く染め、周囲の木々が新緑の芽吹きを始めている。湖畔に白い花が群生し、まるで絨毯のように広がっていた。
「こんな場所があったのですか」
「母がよく来ていた場所だ。俺以外には教えていない」
リーゼは息を呑んだ。アルヴィンにとって、どれほど特別な場所か。
馬を降り、湖畔を歩いた。白い花を踏まないように足を運ぶと、柔らかな香りが立ち上る。
湖の端に、一枚岩の平たい石があった。アルヴィンが先に腰を下ろし、リーゼを隣に招いた。
夕日が沈みかけ、空が紫に変わっていく。最初の星が一つ、空に灯った。
「リーゼ」
「はい」
アルヴィンがリーゼに向き直った。
その目が、これまで見たことのないほど真剣だった。月夜の庭で語った時よりも、庭園で告白した時よりも。
「俺は不器用だ。気の利いた言葉も、華やかな振る舞いもできない。笑顔すらまともに作れない。お前にはもっと相応しい男がいるかもしれない」
「アルヴィン様」
「最後まで聞け」
リーゼは口をつぐんだ。
「だが、一つだけ誓えることがある。一生をかけてお前を守る。お前が泣かなくていいように、お前が笑っていられるように。不器用な俺にできることは少ないが、それだけは命に代えても果たす」
アルヴィンが懐から小さな箱を取り出した。
開くと、中には指輪があった。銀の台座に、淡い青の宝石が嵌め込まれている。北方の鉱山でしか採れない希少な氷晶石。冬の湖のような深い青は、アルヴィンの瞳の色そのものだった。
「リーゼ・フォン・ヴァイセン。俺の妻になってくれ」
湖面に月が映り始めていた。白い花が夜風に揺れ、甘い香りが二人を包む。
リーゼの目から涙が溢れた。
幸福の涙だった。王都で流した涙とは何もかもが違う、温かくて眩しい涙。
「はい」
声が震えた。
「はい、喜んで」
アルヴィンの指がリーゼの左手を取り、薬指に指輪を嵌めた。少しだけ手が震えていた。この人も緊張しているのだ。
指輪がぴたりと収まった。氷晶石が月光を受けて、静かに輝いた。
「ありがとう」
アルヴィンが言った。ありがとう。この人の口からその言葉を聞いたのは、初めてだった。
リーゼはアルヴィンの手を両手で包み、額に当てた。
「こちらこそ。あの舞踏会の夜から、ここまで連れてきてくださって」
「連れてきたのではない。お前が自分の足で歩いてきたのだ」
「一人では歩けませんでした。あなたが手を差し伸べてくれたから」
湖面の月が揺れた。夜風が花びらを巻き上げ、二人の周りに白い渦を作った。
アルヴィンがゆっくりとリーゼの顔を両手で包んだ。その手はまだ少し震えていたが、温かかった。
唇が、そっと重なった。
初めての口づけは、春の夜風のように柔らかかった。
長い冬の終わりを告げる、温かな口づけだった。
何やら屋敷中を駆け回り、使用人たちに小声で指示を出し、街の職人のもとに頻繁に足を運んでいる。リーゼが「何かあるのですか」と訊いても、「何もありませんよ」ととぼけるばかりだった。
エルザも何か知っているようだったが、「秘密です」と微笑むだけだった。
二人がかりで隠し事をされると気になって仕方がないが、問い詰めるのも野暮だろう。リーゼは気にしないふりをして日々を過ごした。
ある夕暮れ、アルヴィンがリーゼを訪ねてきた。
「少し、付き合え」
いつもの素っ気ない言い方だが、服装がいつもと違った。黒い外套ではなく、濃紺の上等な上衣。銀の留め金が磨かれ、髪もいつもより丁寧に整えられている。
「どちらに」
「乗れ」
門前に馬が二頭用意されていた。アルヴィンが先に馬に跨がり、リーゼも続いた。
北へ向かう道を少し逸れ、森の中の小径に入る。木々の間を抜けると、視界が開けた。
そこには湖があった。
雪解けの水を湛えた山間の湖。夕日が水面を赤く染め、周囲の木々が新緑の芽吹きを始めている。湖畔に白い花が群生し、まるで絨毯のように広がっていた。
「こんな場所があったのですか」
「母がよく来ていた場所だ。俺以外には教えていない」
リーゼは息を呑んだ。アルヴィンにとって、どれほど特別な場所か。
馬を降り、湖畔を歩いた。白い花を踏まないように足を運ぶと、柔らかな香りが立ち上る。
湖の端に、一枚岩の平たい石があった。アルヴィンが先に腰を下ろし、リーゼを隣に招いた。
夕日が沈みかけ、空が紫に変わっていく。最初の星が一つ、空に灯った。
「リーゼ」
「はい」
アルヴィンがリーゼに向き直った。
その目が、これまで見たことのないほど真剣だった。月夜の庭で語った時よりも、庭園で告白した時よりも。
「俺は不器用だ。気の利いた言葉も、華やかな振る舞いもできない。笑顔すらまともに作れない。お前にはもっと相応しい男がいるかもしれない」
「アルヴィン様」
「最後まで聞け」
リーゼは口をつぐんだ。
「だが、一つだけ誓えることがある。一生をかけてお前を守る。お前が泣かなくていいように、お前が笑っていられるように。不器用な俺にできることは少ないが、それだけは命に代えても果たす」
アルヴィンが懐から小さな箱を取り出した。
開くと、中には指輪があった。銀の台座に、淡い青の宝石が嵌め込まれている。北方の鉱山でしか採れない希少な氷晶石。冬の湖のような深い青は、アルヴィンの瞳の色そのものだった。
「リーゼ・フォン・ヴァイセン。俺の妻になってくれ」
湖面に月が映り始めていた。白い花が夜風に揺れ、甘い香りが二人を包む。
リーゼの目から涙が溢れた。
幸福の涙だった。王都で流した涙とは何もかもが違う、温かくて眩しい涙。
「はい」
声が震えた。
「はい、喜んで」
アルヴィンの指がリーゼの左手を取り、薬指に指輪を嵌めた。少しだけ手が震えていた。この人も緊張しているのだ。
指輪がぴたりと収まった。氷晶石が月光を受けて、静かに輝いた。
「ありがとう」
アルヴィンが言った。ありがとう。この人の口からその言葉を聞いたのは、初めてだった。
リーゼはアルヴィンの手を両手で包み、額に当てた。
「こちらこそ。あの舞踏会の夜から、ここまで連れてきてくださって」
「連れてきたのではない。お前が自分の足で歩いてきたのだ」
「一人では歩けませんでした。あなたが手を差し伸べてくれたから」
湖面の月が揺れた。夜風が花びらを巻き上げ、二人の周りに白い渦を作った。
アルヴィンがゆっくりとリーゼの顔を両手で包んだ。その手はまだ少し震えていたが、温かかった。
唇が、そっと重なった。
初めての口づけは、春の夜風のように柔らかかった。
長い冬の終わりを告げる、温かな口づけだった。
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