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四章 背徳のクルセイダー
クルセイダーの祈り
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「わかったかい? だから今夜、飲み会には行けないよ」
その言葉に、マイヤは我に返った。
シェルクロスの首の後ろで交差した腕をゆっくり放すと、頭をもたげて彼の星を宿した琥珀の瞳を射抜くように見つめた。
「どうして? このレセプションはあなたと結ばれる前に決まっていたことなのよ。そう、結婚する前の。それに、飲み会というけど、ただの仲間内の集まりよ」
マイヤはシェルクロスの胸に刻まれた末広十字の上に手をおいた。
まるで、聖書に手を置き宣誓している気分になった。
彼女は自身が発した結婚という言葉にドキドキした。
ともすると、浮かれて恍惚としてしまいそうになる。
有頂天になる気持ちを意思の力で押さえつけた。
ここは舞い上がっている場面ではない。
シェルクロスは顔や首をくすぐるマイヤの髪の毛の感触を楽しみながら言った。
「君がその飲み会に参加しようとすまいと調停官は与えられた職務を遂行するだろう。いいかい、君は君が思っている以上に魅力的な女性なんだ。君を狙ってる男は大勢いる。なにかが起こってからじゃ遅いんだよ」
ーー知ってるか、聖十字騎士。彼女を狙ってる男は大勢いるーー
シェルクロスはロイドの言葉を思い出した。
そうだロイド……俺は確かにビビっていた。今までは。
“一戦、ご教授願いたい”とおまえは言ったが、教えてもらったのは俺の方だ。
「ねえ、カーマイン、あなたはなにが起こると思ってるの? お酒の席でわたしが襲われるとでも? そんなのありえないわ」
マイヤは呆れたという風に首を振った。
「俺が18の頃は、そんなことは日常茶飯事だった」
シェルクロスは飄々とした口調で切り返した。
「あなたはね! わたしはもう成人したのよ。自分の面倒は自分で見れるわ」
「いや、引き続き俺に見させてくれ。今までは君の庇護者として、これからは君の夫として」
“君の夫”! 間違いなく彼はわざとそういう言葉を選んでいる。
わたしの心を揺さぶるような……
「な……なんなの、いったいこれは!? あなたって、そんなに束縛するタイプだった?」
マイヤは若干取り乱し、うわずった声を出した。
シェルクロスはマイヤの期待通りの反応に、突き上げるような愛おしさを感じ一瞬顔がほころんだ。
「今までは君に嫌われたくなくて遠慮してたんだ。君が離れていくのが怖くて。でもこれからは違う。束縛するタイプかと聞かれたら、イエスだ。でももっとあるよ。知りたいかい? 君は今からいろんな俺を見ることになる」
††
高空をあまりに高速で飛ぶと、グレムリンは呼吸困難に陥り、目的地に到着する前に死んでしまう可能性がある。
「低空域をなるべくゆっくりと飛んでやれ」
グラファイトは、主人のいいつけを忠実に守った。
眼下に広がる町並みは茜色に染まり、人家からは夕餉の煙が何本もたなびいている。
通りで遊ぶ子供たちが空を見上げて手を振った。
この国での守護神グラファイトの存在は広く知れ渡っている。
人々は、この空を飛ぶ双翼を持った暗灰色の崇高な生物に畏怖と敬意と憧れを抱いていた。
グラファイトの手の中で、厚い毛布にくるまったグレムリンは子供たちに向かって小さな手を振った。
「動くな。落ちたいのか?」
グラファイトが言う。相変わらず、にべもない言い方だ。
「子供たちに手を振っただけだ」
グレムリンが言い返した。
「子供たちにおまえの姿は見えていない」
グラファイトは小馬鹿にしたように鼻をならした。
この世のあらゆる称賛はすべて自分のものだ、と言わんばかりに。
グレムリンは厚い毛布をかき寄せると、大きな瞳だけを出してくるまり、むっつりとおとなしくなった。
実際、グラファイトの気遣いは感じていた。
獰猛な爪と強靭な握力を持つ前肢で、ショウガラゴのような小さな身体のグレムリンを大切に包んでいた。
富裕街に植わっている様々な木々の豊潤な香りを嗅いだ直後にスラムの破滅的な臭いが空を覆った。
さすがにこの空域だけは、グラファイトは高度と速度を上げ、グレムリンは息を止めて一瞬で通過した。
夕日に照らされた錆色の川を越えると、なだらかな丘陵地へ出た。
「着いたぞ。ブッシュベイビー」
丘麓の広大な芝地の上に壮麗なゴシック様式の大聖堂がそびえ建っている。
二本の高い尖塔と、周辺の壁面にはそれぞれステンドグラスの大窓が設けられ、門から塔に至るまでのファサード部の彫刻が超越的な優美さを誇っている。
長身の白い騎士が大聖堂の大扉の前に、こちらを向いて立っていた。
「守護神グラファイト」
白い騎士が芝地に降り立ったグラファイトに声をかけた。
グラファイトは双翼をたたむと、両手でそっとグレムリンを差し出した。
「サー・カーマイン・シェルクロス、お待たせしていなければいいのですが」
「気にするな。小さなグレムリンを抱えていては高速では飛べまい」
グラファイトからグレムリンを受けとると、シェルクロスは大聖堂の扉を開け、長い身廊を祭壇のある内陣へ向かって歩き出した。
「閣下、正装とはお珍しい。僧衣はどうなさったのです?」
グレムリンは疑問符を浮かべた大きな瞳でシェルクロスを見上げた。
「着古してしまったのでね。新調するつもりだ」
「我が主から聞きました。わたしを人の姿に戻してもらうよう、神に祈りを捧げるのだと」
「そうだよ、グレムリン。俺もロイドから事情は聞いた。今から知恵ある神に祈って君を人の姿に戻してもらおう。聖十字騎士の祈りは強力だ。君は確か、百年以上人の姿でいたんだね?」
「はい。カストラ・ユーゲンバルト(ユーゲンバルト城塞)に先先代からお仕えしています」
「ロイドのお祖父さんは偉大な聖十字騎士だったんだな。今の俺が同じ祈りを捧げて同じ効果が得られるかどうか……。とても自信がないが、やるだけはやってみよう」
シェルクロスの足音は、壁にこだまして静寂の中を管楽器のように重なり響いた。
魂や永遠、太陽、そして宇宙を顕す鮮やかなステンドグラスの窓を通して差し込む西日が様々な色彩に変化して長い身廊を幻想的に彩った。
「……わたしはどうして人に変身したんでしょう?」
グレムリンは疑問に思った。
この世界で生きるのに、人でなくてはならない理由はない。
「それは君が可愛いからさ。ロイドのお祖父さんは君を拾ったが、どうしても異世界に帰したくなかった。この世界に……、ずっと自分のそばに置いておきたいと神に祈ったんだよ。人に変身したのは神のきまぐれ……あるいは、いたずらなのかもしれないな」
七つの放射状祭室を持つ内陣に到着した。
シェルクロスは毛布にくるまれたグレムリンをそっと祭壇に乗せると、一歩下がった。
「いいかい。今から神に祈りを捧げる。ちゃんと聞いておくんだよ」
そう言って片膝をつき、片手を胸に当て、もう片方の手に持つ八端十字架の鞘を大理石の床に立てると、うつむき目を閉じて神に語りかけた。
驚くべきことに、祈りを捧げてものの数分もしないうちに、グレムリンは人の姿に戻った。
茶髪に大きな茶色の瞳、大きすぎる黒のパーカーに、黒のスエットパンツ、首には銀のプレートネックレスを着けた紛れもないグレムリンの姿に。
グレムリンは足をぷらぷらさせて祭壇の上に座っていた。
「ああー!」思わず叫んだ。
グレムリンは祭壇からぴょんと勢いよく飛び降りると、確認するように自身の身体をあちこち叩いた。
「戻った! 戻りました! シェルクロス閣下!」
神との対話に集中しているシェルクロスは、グレムリンの変化に気づいていなかった。
グレムリンは嬉しそうに跳び跳ねながら何度も何度もお礼を述べると、そのまま勇み足で大聖堂を出ていってしまった。
「おい! 見ろ! グラファイト!」
大聖堂の大扉を勢いよく開けたグレムリンは走りながら叫んだ。
抱きつく勢いで走り寄ってくる人の姿のグレムリンを見て、グラファイトは後退り、舌打ちした。
「……おまえはブッシュベイビーで良かったのに……」
海に向かって吹く穏やかな風が、グレムリンの髪を軽やかになびかせた。
「乗せてくれ」
「いやだね。歩いて帰れ」
「しなきゃいけない仕事が溜まってるんだ」
グラファイトは背に乗せるのを嫌がり、グレムリンは躍起になってドラゴンにしがみついた。
二人のやりとりは、なだらかな丘陵地の麓で太陽がその役目を終え、辺りが薄暮に包まれるまで続いた。
その言葉に、マイヤは我に返った。
シェルクロスの首の後ろで交差した腕をゆっくり放すと、頭をもたげて彼の星を宿した琥珀の瞳を射抜くように見つめた。
「どうして? このレセプションはあなたと結ばれる前に決まっていたことなのよ。そう、結婚する前の。それに、飲み会というけど、ただの仲間内の集まりよ」
マイヤはシェルクロスの胸に刻まれた末広十字の上に手をおいた。
まるで、聖書に手を置き宣誓している気分になった。
彼女は自身が発した結婚という言葉にドキドキした。
ともすると、浮かれて恍惚としてしまいそうになる。
有頂天になる気持ちを意思の力で押さえつけた。
ここは舞い上がっている場面ではない。
シェルクロスは顔や首をくすぐるマイヤの髪の毛の感触を楽しみながら言った。
「君がその飲み会に参加しようとすまいと調停官は与えられた職務を遂行するだろう。いいかい、君は君が思っている以上に魅力的な女性なんだ。君を狙ってる男は大勢いる。なにかが起こってからじゃ遅いんだよ」
ーー知ってるか、聖十字騎士。彼女を狙ってる男は大勢いるーー
シェルクロスはロイドの言葉を思い出した。
そうだロイド……俺は確かにビビっていた。今までは。
“一戦、ご教授願いたい”とおまえは言ったが、教えてもらったのは俺の方だ。
「ねえ、カーマイン、あなたはなにが起こると思ってるの? お酒の席でわたしが襲われるとでも? そんなのありえないわ」
マイヤは呆れたという風に首を振った。
「俺が18の頃は、そんなことは日常茶飯事だった」
シェルクロスは飄々とした口調で切り返した。
「あなたはね! わたしはもう成人したのよ。自分の面倒は自分で見れるわ」
「いや、引き続き俺に見させてくれ。今までは君の庇護者として、これからは君の夫として」
“君の夫”! 間違いなく彼はわざとそういう言葉を選んでいる。
わたしの心を揺さぶるような……
「な……なんなの、いったいこれは!? あなたって、そんなに束縛するタイプだった?」
マイヤは若干取り乱し、うわずった声を出した。
シェルクロスはマイヤの期待通りの反応に、突き上げるような愛おしさを感じ一瞬顔がほころんだ。
「今までは君に嫌われたくなくて遠慮してたんだ。君が離れていくのが怖くて。でもこれからは違う。束縛するタイプかと聞かれたら、イエスだ。でももっとあるよ。知りたいかい? 君は今からいろんな俺を見ることになる」
††
高空をあまりに高速で飛ぶと、グレムリンは呼吸困難に陥り、目的地に到着する前に死んでしまう可能性がある。
「低空域をなるべくゆっくりと飛んでやれ」
グラファイトは、主人のいいつけを忠実に守った。
眼下に広がる町並みは茜色に染まり、人家からは夕餉の煙が何本もたなびいている。
通りで遊ぶ子供たちが空を見上げて手を振った。
この国での守護神グラファイトの存在は広く知れ渡っている。
人々は、この空を飛ぶ双翼を持った暗灰色の崇高な生物に畏怖と敬意と憧れを抱いていた。
グラファイトの手の中で、厚い毛布にくるまったグレムリンは子供たちに向かって小さな手を振った。
「動くな。落ちたいのか?」
グラファイトが言う。相変わらず、にべもない言い方だ。
「子供たちに手を振っただけだ」
グレムリンが言い返した。
「子供たちにおまえの姿は見えていない」
グラファイトは小馬鹿にしたように鼻をならした。
この世のあらゆる称賛はすべて自分のものだ、と言わんばかりに。
グレムリンは厚い毛布をかき寄せると、大きな瞳だけを出してくるまり、むっつりとおとなしくなった。
実際、グラファイトの気遣いは感じていた。
獰猛な爪と強靭な握力を持つ前肢で、ショウガラゴのような小さな身体のグレムリンを大切に包んでいた。
富裕街に植わっている様々な木々の豊潤な香りを嗅いだ直後にスラムの破滅的な臭いが空を覆った。
さすがにこの空域だけは、グラファイトは高度と速度を上げ、グレムリンは息を止めて一瞬で通過した。
夕日に照らされた錆色の川を越えると、なだらかな丘陵地へ出た。
「着いたぞ。ブッシュベイビー」
丘麓の広大な芝地の上に壮麗なゴシック様式の大聖堂がそびえ建っている。
二本の高い尖塔と、周辺の壁面にはそれぞれステンドグラスの大窓が設けられ、門から塔に至るまでのファサード部の彫刻が超越的な優美さを誇っている。
長身の白い騎士が大聖堂の大扉の前に、こちらを向いて立っていた。
「守護神グラファイト」
白い騎士が芝地に降り立ったグラファイトに声をかけた。
グラファイトは双翼をたたむと、両手でそっとグレムリンを差し出した。
「サー・カーマイン・シェルクロス、お待たせしていなければいいのですが」
「気にするな。小さなグレムリンを抱えていては高速では飛べまい」
グラファイトからグレムリンを受けとると、シェルクロスは大聖堂の扉を開け、長い身廊を祭壇のある内陣へ向かって歩き出した。
「閣下、正装とはお珍しい。僧衣はどうなさったのです?」
グレムリンは疑問符を浮かべた大きな瞳でシェルクロスを見上げた。
「着古してしまったのでね。新調するつもりだ」
「我が主から聞きました。わたしを人の姿に戻してもらうよう、神に祈りを捧げるのだと」
「そうだよ、グレムリン。俺もロイドから事情は聞いた。今から知恵ある神に祈って君を人の姿に戻してもらおう。聖十字騎士の祈りは強力だ。君は確か、百年以上人の姿でいたんだね?」
「はい。カストラ・ユーゲンバルト(ユーゲンバルト城塞)に先先代からお仕えしています」
「ロイドのお祖父さんは偉大な聖十字騎士だったんだな。今の俺が同じ祈りを捧げて同じ効果が得られるかどうか……。とても自信がないが、やるだけはやってみよう」
シェルクロスの足音は、壁にこだまして静寂の中を管楽器のように重なり響いた。
魂や永遠、太陽、そして宇宙を顕す鮮やかなステンドグラスの窓を通して差し込む西日が様々な色彩に変化して長い身廊を幻想的に彩った。
「……わたしはどうして人に変身したんでしょう?」
グレムリンは疑問に思った。
この世界で生きるのに、人でなくてはならない理由はない。
「それは君が可愛いからさ。ロイドのお祖父さんは君を拾ったが、どうしても異世界に帰したくなかった。この世界に……、ずっと自分のそばに置いておきたいと神に祈ったんだよ。人に変身したのは神のきまぐれ……あるいは、いたずらなのかもしれないな」
七つの放射状祭室を持つ内陣に到着した。
シェルクロスは毛布にくるまれたグレムリンをそっと祭壇に乗せると、一歩下がった。
「いいかい。今から神に祈りを捧げる。ちゃんと聞いておくんだよ」
そう言って片膝をつき、片手を胸に当て、もう片方の手に持つ八端十字架の鞘を大理石の床に立てると、うつむき目を閉じて神に語りかけた。
驚くべきことに、祈りを捧げてものの数分もしないうちに、グレムリンは人の姿に戻った。
茶髪に大きな茶色の瞳、大きすぎる黒のパーカーに、黒のスエットパンツ、首には銀のプレートネックレスを着けた紛れもないグレムリンの姿に。
グレムリンは足をぷらぷらさせて祭壇の上に座っていた。
「ああー!」思わず叫んだ。
グレムリンは祭壇からぴょんと勢いよく飛び降りると、確認するように自身の身体をあちこち叩いた。
「戻った! 戻りました! シェルクロス閣下!」
神との対話に集中しているシェルクロスは、グレムリンの変化に気づいていなかった。
グレムリンは嬉しそうに跳び跳ねながら何度も何度もお礼を述べると、そのまま勇み足で大聖堂を出ていってしまった。
「おい! 見ろ! グラファイト!」
大聖堂の大扉を勢いよく開けたグレムリンは走りながら叫んだ。
抱きつく勢いで走り寄ってくる人の姿のグレムリンを見て、グラファイトは後退り、舌打ちした。
「……おまえはブッシュベイビーで良かったのに……」
海に向かって吹く穏やかな風が、グレムリンの髪を軽やかになびかせた。
「乗せてくれ」
「いやだね。歩いて帰れ」
「しなきゃいけない仕事が溜まってるんだ」
グラファイトは背に乗せるのを嫌がり、グレムリンは躍起になってドラゴンにしがみついた。
二人のやりとりは、なだらかな丘陵地の麓で太陽がその役目を終え、辺りが薄暮に包まれるまで続いた。
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