二人だけの実験室

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検証①:サイズ測定と感度検査

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「それでは、契約期間は1年。内容は先ほど申し上げました通りです。他にご質問はございますか?」
「…ない」
「そうですか。では改めましてハルさん、これから1年間どうぞよろしくお願いいたします」

 慇懃無礼に頭を下げる男を見下ろして、ハルは小さく鼻を鳴らした。
 気障ったらしい仕草と貼り付けたような顔。前髪は眉よりも下に伸びていて、ぴょこぴょこと四方八方に飛び跳ねているそれらの間からノンフレームの眼鏡が見え隠れしている
 着ているセーターも丈があっていないようで、中のワイシャツがはみ出ていた。

 立ち振る舞いに対して身なりの整っていない、怪しい男。いつものハルであれば早々に背中を向けて立ち去っていたような相手だった。

「はーッ…」
「そう緊張なさらずともあなたの『お願い』は叶えて差し上げますよ。もちろん私の研究に協力いただけるのであれば」

 男のセリフにハルはやや吊り目がちな目の目じりをますます吊り上げたが、ふと肩から力を抜いて爪の跡が残るほど強く握りしめていた指をほどいた。そしてまだ強張っている手で男の乾燥した手を取って、光沢のあるローテーブルから腰を上げる。

「それでは参りましょうか」

 前を進む男の迷いのない足取りに背中を押されるようにハルも一歩踏み出した。そのまま男に連れられて、ハルは薄暗い研究室の中へとゆっくり溶けていった。

**

 体を売り始めてから3年、これまで色んな男とハルは夜を共に過ごしてきた。ハルに精をぶちまけて満足した表情で寝る男もいれば、明け方までしつこくハルの体をいじってくる男もいて、彼らの懐にある金が尽きるまでお遊びに付き合うのがハルの仕事だった。

 その日もそうして連絡のついた男と一緒にホテルへ行くはずだった。けれど待ち合わせの時間を過ぎても男がハルの前に顔を出すこともなく、電話の一つさえかかってこなかった。

「さいッあく」

 ハルは時計の針が2周してようやく待ち合わせ場所のホテルの前を離れた。いかがわしい看板が立ち並ぶ街を抜けて、蛍光灯の点滅するコンビニで買ったお茶を喉に流し込む。
 11月も過ぎてとっくに日が落ちたせいかヒリつき始めた喉をごまかすように咳払いしながら、ハルはウリに使っているSNSを開いた。

 ハルの客のほとんどは付き合いが長く、互いに体だけの関係だと割り切れているおかげで客と揉めることは滅多にない。ただそれでも例外はあって、ウリを続けるうちに今夜の客のように連絡が取れなくなる男やハルに付きまとう連中が少なからず出るようになった。

 付きまといの客の一部はハルに熱烈なアプローチをかけている男たちで、ハルの家までついてくることもあった。玄関の前に座るストーカーじみた彼らを前に、ハルは警察へと駆け込んだが、ハルのウリを引き合いに出されてまともに取り合ってもらえなかった。

 それからハルは警察に行くのはやめて、男たちをSNS上で『ハズレ』と名付けたブロックリストに入れて距離を取るようにしていた。
 それでも変わらずハルの周りをウロチョロとしている男は特別に相手をしてやって、いつもより多くサービスをしながら二度と同じ真似はしないよう言い聞かせた。

 そうやってハルのいつもの夜は過ぎ去っていく。だから今夜会うはずだった男のSNSも慣れた手つきで淡々と『ハズレ』リストに追加して、新しい夜の相手を見つけるためにネットを開いた。

「ん…だれ、ミツキ…?」

 その初期のアイコンが目に止まったのは、それが一番上に上がっていたからというだけのことだった。メッセージ欄には馴染みのあるアカウント名がつらつらと並んでいるので、その新しいアカウントがやけに目立っていた。

「へぇ」

 送られてきたメッセージは当たり障りのないもので、ホーム画面にあるプロフィールもいつもの客と似たような内容だった。
 簡単にメッセージを送ってみれば、『ミツキ』からすぐに返信が返ってきた。

「…今夜はもうこの人でいいか」

 男と会えれば一緒に過ごし、また一人で待つようであれば先ほどの作業をもう一度するだけ。 ハルはそうしてすぐさま場所と時間を決めてミツキへ送信した。
 そのままホテル街へ戻って、ついさっきまでいたホテルの前に立ちなおす。

 狭い歩道に駐車させたタクシーからミツキが降りてきたのはそれから30分ほど後のことだった。

「こんばんは。ご連絡いただいた黒のパーカーにスキニー…あなたがハルさん、ですね」
「そうだけど、アンタがミツキ?」
「ええ、早速ですが場所を移しましょうか。こちらのホテルではハルさんを満足させてあげられませんから」

 するりと腰に手を回され、ハルは眉間に皺を寄せた。そして背もたれ代わりにしていたホテルから体を起こすと、その爪の短い男の手を振り払う。

「そういうの、いらないから」

 コンビニで買ったばかりのペットボトルを突き付けて押しのけると、男はきょとんとあどけない顔をしてまるで母親にものを聞く子供のように小首をかしげた。
 ぴょこりと男の顔にかかっていた前髪が跳ねて、その奥から切れ長の目がまっすぐにハルを映している。

「そういうのとは?」
「だってやってバイバイするだけでしょ、僕たち。だからご機嫌取りみたいなことしなくていいよってこと。ちゃんともらった分はサービスするし」

 平坦な道を歩きながら、ハルは取り出したスマホで近くにあるレベルの高いラブホテルを検索した。その間にもスマホの上部にはハルのSNSに送られてきたメッセージの通知がひっきりなしに表示される。
 メッセージのほとんどは顔なじみの客からのお誘いだが、中には過激なものもある。ハルはこっそりと舌打ちして、早々に適当なホテルに当たりをつけるとスマホの画面を切った。

「ホテルだけど○○ホテルでいい?」
「そうですね…いいですよ。そうだ、私の乗ってきたタクシーもまだそこにいますし、このまま乗っていきましょう。ほら、あちらです」
「はぁ?ちょっと、僕乗るなんて一言も」
「まあまあ、代金は私が払いますから。ほら、後ろが詰まってますよ」

 背中を押されながら道路脇に止められたタクシーの中へ乗り込む。タバコのにおいが染みついたシートに手をついて、ハルは先ほど見たホテルの名前を口にしかけた。

「それじゃ竹田、予定通り大学までお願いします」
「む!?ぐッ…!」

 喉まで出かかっていた声は、外の光を見ることなく口をすっぽりを覆った手の平の中に吸い込まれていった。そのかさついた手は横に座る男から伸びていて、正面にある男の眼鏡の中には動向まで大きく目を見開いたハルがいる。

「んんッ!む、ぅ!!」
「こら、暴れないで。怪我しちゃいますよ」

 とっさに振り上げた腕は男に捕らえられ、あっという間に両手首ごとひとくくりにまとめられた。男のわきの下に挟まれた腕を引き抜こうにも、線の細い見た目とは反対に服の下はがっしりとした体つきをしていてハルの細腕ではピクリとも動かない。

「シーッ、すぐ着きますから」

 犬にするような手つきで頭を撫でられ、ハルはこめかみに血管が浮くほど顔をひきつらせた。しかし体は少しも動かせず、ぴっちりと口周りをふさがれているせいで徐々に頭の中が白く霞がかっていく。
 勝手に降りていくまぶたの裏で、ハルは今日二度目の『ハズレ』のレッテルを目の前の男に張り付けたのだった。

 次にハルがばちりと目を開けたのは車ではなく、ほんのりと消毒液が香るソファベッドの上だった。周囲にはビーカーやフラスコが置かれていて、近くの薬品棚にはゴシック体で書かれた英字のラベルがついている。

「なに、ここ…」

 肘を横にして体を起こし、パーカーのポケットに入れていたスマホを探った。けれどいくらポケットをひっくり返してみたりパーカーやズボンを叩いてみてもスマホは出てきそうになかった。

「お目覚めですか?」

 ガチャリと備え付けのドアを開けて入ってきたのはあの『ミツキ』と名乗った男だった。ミツキは懐に抱えていた缶コーヒーを2つ机の上になら並べると、ソファに座るハルと向かい合わせになる位置までオフィスチェアを持ってきて腰を下ろした。

「急に気を失われたので驚きました。ご気分はいかがですか」
「それ、アンタが言う?いかがも何も元はアンタのせいでしょ。用が済んだらとっとと出てって。それとも僕が先に出ていこうか」
「そう猫のように毛を逆立てないでください。ただ、あなたとどうしてもお話がしたくて」
「そう、じゃあ今できたね。ほら早くスマホ返してくれる?」

 かたくなに拒むハルにミツキは顔色一つ変えず白衣のポケットからハルのスマホを取り出した。真っ黒な画面のスマホをすぐさま引っ掴んで電源を入れると、パッとライトが点いてロックの表示に切り替わる。
 ハルはそのままスマホをズボンに突っ込んで立ち上がり、先ほど男が入ってきたドアに手をかけた。

「そちら、最後まで確認された方がよろしいのでは」

 背中にかかった声に一瞬立ち止まって、振り向かないままスマホを開いた。
 けれど何回画面をタップしてもロックは外れず、表に出ている時間だけが過ぎていく。カチカチと進んでいくデジタル時計にハルは眉間に大きなシワを作った。

「信じらんない…人のスマホを勝手にいじったの?」
「ちょうどロックが外れてましたので少しだけ。だってこうでもしないとお帰りになってしまうでしょう?外は寒いですし、どうぞこちらで少々お休みになって下さい」
「…僕がそれに乗ると思うの」
「さあ…ただこの時間ですと、どこのお店も店じまいの準備に入られているでしょうね」

 にこやかに告げるミツキにハルは大きく舌打ちをしてソファへと戻り、わざとらしく足を高々と上げて組んだ。

 いつもの客の前では小生意気でも愛らしく見える範囲で演じているが、ハルの目の前にいるのは金も払っていない客以下の男である。そのふてぶてしい人間をこれ以上相手にしなければならないのであれば、ハルも夜を売るという仕事用に作っていた顔をやめることにした。

 「…いいよ、おかげさまで今夜は暇になったし10分だけ付き合ってあげる。けどそれ以上は料金払ってもらうから」
「わかりました。では早速になりますが、実はあなたに私の実験に協力していただきたく。勿論謝礼や手当は弾みます」
「実験?」
「ええ、セックスの際のボトム——いわゆるネコ側の性的絶頂における性器の変化に関する実験です」

 ガタリと動いたハルの膝が机を蹴って、その拍子に立っていた缶コーヒーを床に落とした。それはカーペットの上を転がり続け、こつりとハルのスニーカーにぶつかって止まった。

「…僕の聞き間違い?今とんでもないことを言われたみたいだったけど」
「いえ、間違いございませんよ。ネコ側の性的絶頂における性器の変化と申し上げました」
「聞き取れなかったわけじゃないから。それで、なんで僕に?他にも人はいるでしょう」
「それが募集をかけてみたりこうしてネットを通じてお会いした方にお願いして回っているのですが、いいお返事はいただけず終いで…ウリ専をされているあなたならお話だけでも聞いていただけるのではないかと思いまして」
「まあ、僕は払うものを払ってくれるなら相応のサービスはするけど…」

 ウリをしている以上、ハルは一部のNGを除いてもらった分の仕事はするようにしている。ある種プライドに近いものがあって、客に望まれればその通りに振る舞ってきたし体を差し出してきた。
 しかしそれと今回の話は全くの別物といっていい。ハルは金のためなら恋人や奴隷にだってなってあげられるが、観察されるだけのマウスになるつもりはない。
 加えてこのミツキという男は拉致まがいのことをしでかしている犯罪者予備軍ともいえる客である。馴染みの客ならまだしもであった数時間しかたっていない男に体を売るほどハルも馬鹿ではなかった。

「でも、そういうことなら僕の答えはノーだよ。他の人を当たって」
「待って、待ってください。謝礼金の話はまだでしたよね?」
「…そんなことも言ってたね」
「このような実験ですのでいくらか用意してありまして…まず契約の際に契約金として1000万、謝礼金として500万のしめて1500万でいかがでしょうか」
「それって僕の価値がその程度ってことだよね?馬鹿にするのも大概にしてくれる?」

 ふい、とそっぽを向いてハルは組んでいた足を下ろして立ち上がりかけた。その指先まで冷え切った手を前から掴まれ、とっさに大きく横に薙ぎ払う。しかしがっしりとしたミツキの腕は外れることなく、そのまま強く引かれてミツキに向き合うように机の上に尻もちをついた。
 ばたんと派手な音を立てたハルは目を吊り上げて血ののぼった頭のままミツキに子猫のように噛みついた。

「ちょっと!!勝手に触らないで——」
「××大学、進学されたいんでしょう?初期費用としては十分な額だと思いますが、必要であれば推薦状もご用意いたしましょう」
「……ッ!!」

 付け足された声にヒュッと息を飲んで、逃げ場のない中で微かに身じろいだ。ハルにとってそれはSNS上にも常連の客にも漏らしたことのない、ハルがウリを続けるためのたった一つの理由だった。そしてそれは体を売るハルのささやかな「願い」であり、プライドも金も何もかも殴り捨てでも手に入れたい宝物だった。

 すっかり乾いた口内を唾液で湿らせながらゆっくりとうつむく。今まで見せたことのない、ひた隠しにしていたハルだけの小さな宝物だったのに、目の前で横取りされて中身を踏みにじられたようだった。
 ジクジクとうずく胸の内にハルはその並びの整った歯を歯ぎしりがするほど強く嚙み締めた。

「…それ、調べたの」
「ハルさんの行きつけのバーがございますよね。そこの店長さんに少々カクテルのお礼を多めにお渡ししましたら、色々お話しくださいましたよ。ただかなり口の軽い方のようで、ぺらぺらと聞いてもないお話を勝手にされるところは非常に耳障りでしたけどね…今後のお付き合いは考えるべきかと」
「…そうだね、たった今その必要ができたみたい」

 ハルの頭の中でミツキの声がぐるぐると渦巻いていた。体を売ってまで持ち続けていた『願い』を逆手に取るような男の話に簡単に乗るほど考えなしではないが、その体が今にも黄金の人参をぶら下げられた馬のように飛びつきたがっている。
 人でありたいはずなのに動物のように先走りそうになる体に、ハルは厭味ったらしく笑いそうになった。それでもすぅ、と息を吸って腹の奥で煮えたぎっている熱をなだめる。

 次に顔を上げたハルの目に熱は残っていなかった。その代わり喉から出た声はハルにしては珍しく細々としていて、耳を澄ませなければ聞こえないほどだった。

「———その研究、3つ『我儘』を聞いてくれるなら考えてあげてもいいけど、どうする?」
「ああ、願ってもないお話です!!どうぞ、あなた協力いただけるならいくらでも」
「じゃあ1つ目。契約金と謝礼金、ここの2つは今アンタが出した額から変更しないこと。契約書でもなんでもいいからこれだけははっきり書いておいて」
「構いませんよ。それにどうせなら一回ご参加いただくことに手当てを追加いたしましょう。それぐらいは必要経費ですからね」
「…あっそ。次2つ目ね。研究に協力する時は、必ず僕にその内容を伝えること。そして参加するかどうかは僕に決めさせて。まだ、アンタのことよく知らないから…全面的に協力とかはできない」
「勿論、その権利はございますから。最後は?」
「…3つ目、研究は法の範囲内でやって。あと痛いのは絶対イヤ」
「ああ、そんなことでしたか。問題ございません…と言いたいところですがそればかりはハルさんの裁量ですからねぇ…まあ、構いませんよ」

 ふり絞って出したハルの条件にミツキはあっさりとうなづいて立ち上がり、ツカツカと部屋の隅にあった書類の束から一枚の紙を抜き取った。その上にペンで書きつけた後、ハルのいる机に戻ってきてハルの膝の隣に紙を並べる。
 あまりにも呆気なく作られた契約書と書き加えられた『我儘』にぽかんとした顔で目を丸くしていると、ミツキはズレた眼鏡の位置を直しながらにこりと笑った。

「これぐらいの『我儘』なんて可愛いものですよ。それに私としても折角の協力者を手放すわけにはいきませんからね。安心して『お願い』してください」
「…アンタ、変な人って言われない?」
「それだけ切羽詰まっているということですよ。私としてはそこまでされるあなたの理由の方が気になりますけどね。言葉を選ばずに申し上げますが、ウリをしてまで大学に通われたいと何故思われるのですか?」
「それは…」

 目を逸らした先、窓の向こう側では雨が降っていた。雲の切れ間からはごろごろと雷が鳴り始めて、小さかった雨粒が小指のつめほどの大きさになって窓を叩いている。

 ハルは高校を1年留年している。その時期は自主休学という形をとっていたが、いざ勉強と向き合うと遅れたものを取り戻すことはなかなかうまくいかなかった。
 1年下のクラスに入ったハルについてあっという間に口から口へと噂が広まり、学期の途中にはハルが休学していたことを学年中の生徒が知っていた。
 大半はその休学理由も相まって腫れモノのように触れてこなかったが、一部の女子からは後ろ指を指され、男子からはしょっちゅう揶揄われた。

 ハルのセクシュアリティもそのついでのように広まって、興味本位でハルに体の関係を求めてくる男子もいた。ハルが嫌がる素振りを見せればトイレに閉じ込め、上から土砂降りのような水がバケツごと降ってきた。そのまま冷え切った個室に一人放課後まで閉じ込められ、ようやく鍵が開けられると「体を差し出せばこんなことにはならないのに」としつこく言い聞かせられる。
 繰り返される男子のお遊びに、ハルの声は段々小さくなっていって、一度男のモノを咥えてからはそちらばかりがうまくなっていった。

「…高校は色々とあってまともに通えなかったからちゃんと学校に行ってみたかったの。悪い?」
「とんでもございません。むしろ進んで学業の道を選ぶとは…大学にとってもあなたはいい学生になりそうですね」
「…別に、高校のこと後悔してるわけじゃない。あのおかげで今のお客さんは僕のこと気に入ってくれてるんだから。でももし普通学校に通えてたら少しは楽しかったのかなって卒業してからそればっかり考えてた」

 トイレや保健室にいることが増えて、反対に勉強に打ち込むようになった。けれどもうただの学生のように学校に通えなくなって、いつからか家からも出られなくなった。
 教室に通えないまま単位を取得して高校を卒業した後は上京した。それでも小骨のように喉に引っ掛かったこの過去を、馴染みのバーで知り合った男に打ち明けた矢先で教わったのがこのウリだった。

「だからこの『我儘』だけは絶対に叶えて。その代わりアンタの研究への協力は、その、考えるから」
「言い切っていただけないんですね…まあ、あなたが体を差し出してくれるほどのモノですからね、私も最後までお付き合いいたしますよ。私の研究のためにね」

 くるりと向けられたペン先に軽く舌打ちをしてハルはペンを受け取り契約書の内容に目を通した。
 書類の文字はほとんど印字されたもので、ミツキがあらかじめ用意していたもののようだった。ハルがこうしてここにいるのもミツキの手の平で踊らされているようで癪に障り、サイン欄をぐしゃぐしゃと塗りつぶしてしまいたくなる。
 だが整った文字の中にハルが先ほど付け加えた条件がやや不揃いな文で足されていて、ハルの溜飲は少しだけ下がった。

「…そういえば、実験ってどこでするの?」
「ああ、この先ですよ。よければこの後ご紹介いたしましょうか。折角いらっしゃっていますし、今夜は雨がひどいので」
「…そうする」

 簡単に答えられてしまった問いかけを飲み下して、ハルはさらさらとペンを動かした。
 この契約書一つでハルがこれまで生きていくための標として置いてきた『願い』のゴールに一歩近づくことになる。儚いただの夢だったはずの『願い』が手に入りそうな今、ハルの胸の中にじんわりとほのかな熱が生まれた。

「それでは——」

 契約について振り返っているミツキを横目に、頬に垂れてきた前髪を耳にかけ直す。こめかみに触れた指先が小さく痙攣していたがハルは素知らぬフリをした。

「大丈夫、いつものウリと変わんない…」

 舌の上で転がすようにつぶやいて契約書に書かれた名前を指でなぞる。このミツキという船がどれほど見掛け倒しの船だったとしても、ここにハルの名前がある以上、降りることはできない。

「はーッ…」

 いつの間にか腹に貯まっていたはずの熱がすっかり冷めて、ただの重たい石のようにハルの中に残っていた。
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