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弟と、星を見る約束をした
しおりを挟む帰宅すると、リビングにつながるドアの向こうに足が転がっているのが見えた。
またか。
ドアから床を見下ろす。そこに寝転がって熟睡しているのはこの部屋に来た新しい同居人だ。
簡単に言うと、血のつながらない弟。
両親の事故死という複雑な事情で私の弟になり、母と喧嘩したという簡単な事情で私のマンションに転がってきた。彼が弟になった時、私は就職一年目で独立したばかり。ほとんど共に暮らしたことはない。
久しぶりに会った彼は、記憶の中の少年の面影をなくし、すっかりやんちゃな悪がきになっていた。何度言っても、夜はだいたい床に転がっている。
ゲーム中だったのか、近くにタブレットも転がっていた。
遠慮なく出っぱった足を蹴飛ばしてリビングに入る。
「いってっ!ちょっ……蹴んなよ!」
起きた。ぶつぶつ言う彼ににっこり話しかける。
「おはようございます、七星君。通路をふさぐ方が悪いのでは」
「床固くて気持ちいいんだよ……あー、もうちょっと寝たかった……」
「腰を痛めますよ」
「俺、お前みたいなジジイじゃないから」
「抱き上げられベッドまで運ばれた方が良かったと」
シャツをまくり、柔道で鍛えた腕を見せる。
「……申し訳ありません」
「それ以前に床に寝ないで下さい」
「ちっ!普通に起こせばいいだろ……」
「聞こえてますよ」
真っ黒な髪をぼさぼさにしながら、奥の部屋に入っていった。おかえり、とか言って欲しかった。
風呂の後、冷蔵庫からお茶を出し、野菜が増えているのに気がついた。自炊はしているようだ。決算中は、私は寝るだけの家になる。
彼は何をしているのだろう。大学にきちんと行っているのかも、バイトをしているのかも知らない。
七星は、確か星が好きだった。大学も、その系統の専攻だったはずだ。
ため息が出た。
おかえり、さえ言われないのは私のせいなのかもしれない。
――そんな事を思ってしまった。
帰宅すると、やはり足が転がっているのが見えた。
蹴っ飛ばして通るのは簡単だったが踏みとどまる。
ベッドまで運ぶと言った時の、あの苦虫をつぶしたような顔。そう、いやがらせをすればこの悪癖が治るかもしれない。
ぶつからないようまたいでリビングに入り、ジャケットを脱いで手を洗ってから転がってる彼の横にひざまづく。人の気配にも起きない。熟睡中のようだ。
そうだろう。
今日はひときわ遅くなった。もう真夜中だ。
よっと……背中と膝裏に腕を入れ、俗に言うお姫様抱っこで持ち上げたとたん、起きて降りると思った彼に逆にぎゅうっと抱きつかれた。
「っ!」
首に冷えきった手があたる。冷たすぎてみっともなく声をあげるところだった。
「あったかー……」
何か呟いている。
だからいつも言っているのに。床で寝るなと。七星のベッドまで運んで下ろそうとして、腕が離されないことに気がついた。
もう起こそう。
「離しなさい、七星君」
「やーだ……あったかぃ……」
人間は本当にむにゃむにゃと寝言を言うのかと齢三十三にして初めて知った。いや、そんなトリビアに感動している場合ではなかった。
風呂も、明日の準備もまだだ。
「もう一度言います。離して下さい」
動かない。どころかもっときつく抱きつかれた。
私は湯たんぽかぬいぐるみか……もう色々面倒になってきた。もう、一緒に寝てしまおう。シャツが皺になるなとか色々思いつくが全てを諦めて隣に横になり、ひっつかれたまま肩を抱き寄せた。
睡眠時間を大事にしないと。
腕の中、規則正しい寝息を聞きながら目を閉じる。
何か、懐かしい匂いがする。
それだけで、胸の奥が少しだけざわついた
弟と思って――
そう父と母は言った。親友の忘れ形見がどうの、と大人達の難しそうな顔に囲まれ家にやってきた十五歳年下の少年。
社会人一年目、初めての盆休みに帰省した私に紹介された。手には真新しい双眼鏡。誕生日を迎えたばかり、事故、鬱状態、写真、そんな単語がぽつぽつと響く。
お互い一人っ子だった。急にできた弟、急にできた兄。
何の話をしたのかは覚えてない。
「ぎゃああああああ。なんでいるんだよ!?人のとこで寝るなよ!」
耳元で叫ばれて目が覚めた。
「寒いって抱きついてきて離さなかったから。私は二度も離せと言いました」
「嘘だ!」
「寂しいから添い寝して欲しかった?」
あまりの喚きっぷりに、意地の悪い冗談が出てくる。
「うわあああああ、ほんっとに寝てたんだってば!」
「お兄さんとして頼られているようで嬉しかったです」
「お前の感想なんか聞いてねぇ!いいからもう出てけよ!」
「床で寝なければいいんですよ」
「もういい!俺が出ていく!なんか気色悪い!シャワー使う!」
「……朝のバスルームは寒いですよ。一緒に入りましょうか?」
「キッショ」
バタンッ!
扉が閉まった。
ドアは静かに閉めて欲しい。
いや、シャワーは先に使いたかったな。
七星にふった部屋には、来た時に持っていた大きな黒いスポーツバッグが転がっている。
ローテーブルに大学のテキストらしい専門書に、使い込まれた双眼鏡。
ここから、どんな星を見てきたのだろう。
カーテンの向こうはもう淡い水色の空が広がっていた。
今日は、ドアの向こうに足が見えなかった。
どころか、なんだか美味しそうな匂いがする。
「おかえり」
「料理……ですか。私の分も?」
「今日は早いって聞いたし、だいぶうまく作れるようになったからな」
七星が作っていたのはホワイトシチューだった。
野菜とミルクの美味しそうな匂い。ああ、昨晩懐かしいと思った匂いはこれか。鍋底が、うっすら焦げている。
湯気がふかふかに出たホワイトシチュー、レタスときゅうりと煮豆のサラダ、駅前のパン屋で買ったらしい固めのバゲット。
「このパン屋のパン、初めて見ました」
「あ?何年ここ住んでるんだよ」
「十年ですね」
「呆れる」
よそってくれたシチューに手をあわせ、一口食べる。うん。二口目を食べようとして、あ、と思いスプーンを止めた。
「七星君、私はこの味を知っていると思う」
そう?みたいな顔をしていたが、黒い目がまっすぐに私を見ていた。
「君のお母さんの得意料理で、私は高校生の時にごちそうになった」
話しながら、どんどん思い出していく。
両親に請われ、夏期講習を1日休んで七星の家に行ったことがある。まだ三歳くらいの七星がいて、お昼に食べたホワイトシチュー、七星のものだけ星の形の人参が入っていた。
親同士の話をつまらなく思い、私は小さい七星を抱き上げ時間をつぶしていた。彼の父よりもすでに上背があった私の抱っこに、ケタケタとご機嫌だったからだ。
「北斗七星だな」
幼い彼に、私はそう呟いた。
古い拳法漫画に憧れた父が、私につけた名前は北斗。
主人公のような強く優しい男に育って欲しいという父の方針で、私は幼い頃から柔道を習った。今でも好きで、夏はOBとして大学の活動にも顔を出している。
私の言った北斗七星を、分かってるのか、分かってないのか、無邪気に笑っている小さい口からは、あまいシチューの匂いがした。
「覚えてたんだ。ジジイだから全部忘れてんだと思ってた」
七星は、バゲットをちぎりながら意外そうな声で言った。
「君こそ、覚えていたのかい?」
「まあ、な」
にやっと笑う顔は可愛いからほど遠いが、覚えているという事は嬉しい思い出だったのではないだろうか。
シチュー、サラダと食べ終わり私は食事の礼を言った。
「コーヒーをいれましょう」
私はキッチンに立ち、コーヒーメーカーをセットする。
テーブルを拭きながら、七星はぶつぶつと言った。
「俺はずっと覚えてたよ。あんたドア入る時にぶつかってただろ。すげえって思った」
ドアにぶつかったドジっぷりがか、と思ったがいつになく真剣な口調だった。
「天井なんて軽く届いてさ……星まで届くと、マジに思ったんだ」
今思えばくだらねぇけど、そんなワクワクした気持ちだけは、消せずにずっとずっと残ってた、と七星は続ける。
「だけど、あんたはちっとも実家に帰って来ないし、じゃあ俺が行けばと出てきたのに毎日社畜生活」
「それは……申し訳ありません。決算期は色々と。ええと、母と喧嘩したというのは?」
「だっせ。嘘だよ、あんなん。まあこれ作ったら、さすがにもう戻るわ。ここは大学まで少し遠いし、何より星が見えねえ」
七星は手をとめ、掃き出し窓を見た。
「この窓からはさ、床に転がれば月が見えるんだ」
コーヒーに砂糖を入れ混ぜると、スプーンの音が響く。一口すすってから、私は話しかけた。
「七星君」
「あんだよ」
「この夏は帰省できるよう、きちんと調節します」
七星は、ごくっとコーヒーを飲んでから軽く笑った。
「おう、待ってる」
――彼と、まずは並んでみよう。
兄弟なら、並んで遊ぶだろう。
「北斗七星、見ようぜ。兄さん」
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