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176 逃亡者《レイラ?》
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大量に購入したビールの栓を抜き、洗面器へ注いで並々と満たす。
仮住まいとしている集合住宅の部屋に設置された小さな浴室に、シュワシュワと炭酸が弾ける音がして、濃い酒の臭いが広がり、彼女は少し顔を顰めた。
背凭れの低い椅子に腰を下ろし、背中を預けて天井を仰ぎ見るように上半身を反らす。
背後の台の上に設置した洗面器の中に、ポチャンと後頭部を浸した状態で、そっと目を閉じた。
この体制はかなりキツいが、何度もやっているのでもう慣れた。
最初は浴室に寝そべってみたり、色々と試したが、これが一番満遍なく髪を浸す事が出来る。
(エイリーンの身体は意外と柔軟性が高いみたいなのよね)
だが、頭皮にビールが染みてピリピリと痛い感覚には、なかなか慣れない。
痛みを我慢して暫くそのまま髪を浸した彼女は、ビールの成分を洗い流さず、軽くタオルドライしただけで、魔道具のドライヤーを使って髪に熱を加えた。
揮発したアルコールの成分により、頭がクラクラする。
これは、前世の職場で利用者の婆さんが教えてくれた、古い時代に流行したという髪の脱色方法だ。
ビールに髪を浸し、熱か太陽光を当てる。
最初は効果がかなり弱くて、ガセネタかと疑ったが、何度も繰り返す事で徐々に髪色が明るくなった。
デイサービスの施設では、嫌々ながら老人達のくだらない話に耳を傾けていたが、何が役に立つか分からない物である。
髪全体が乾いてきたら、ここで漸く普通にシャンプーをする。
洗い終わってしまえば、不思議なくらい髪にアルコール臭は残らない。
だが、傷み切った髪がキシキシと指に絡まる感覚は酷く不快だ。
手触りの悪い髪を乾かしながら、彼女は重い溜息を吐き出す。
「何で私だけが、こんな目に……」
彼女は昼間の出来事を思い出していた。
街を歩いていたら、風で飛ばされてきた新聞が、彼女の足に絡み付いた。
それを拾い上げると、幸せそうに微笑む王太子夫妻の姿絵が大きく印刷されているのが目に入る。
最近、街を歩けば、何処もかしこもお祝いムード一色で、彼女の神経を容赦なく逆撫でした。
王太子妃の第二子懐妊が発表されたのだ。
更に、片隅に掲載された小さな記事に、悪役令嬢オフィーリア・エヴァレットの名前を見付け、彼女は人目も憚らず大きく顔を歪めた。
フォーガス伯爵領の感染症蔓延を終息させる為に、大きな役割を果たしたとして、オフィーリアは王家から褒賞を授かる事になったのだとか。
自分は苦労して逃亡を続けるハメになっているのに。
自分の推しであるヴィクターだって、このままでは死罪は免れないだろうに。
ヒロインを完璧に模倣した筈の自分がこんなに不幸になり、悪役令嬢が幸せを掴むなんて……。
酷い。
狡い。
有り得ない。
何がいけなかったのか?
何処で間違ったのか?
枯れたススキの穂みたいに変貌してしまった髪を梳りながら、彼女はこれまでの自分の行動を思い返した。
前世の記憶を思い出し、この世界がゲームの中なのだと確信した時、初めに違和感を持ったのは、その少し前にアイザックからぶつけられた言葉であった。
『君は以前、茶会で僕のオフィーリアに変な言い掛かりを付けたっていうご令嬢だよね?』
確かに彼は、エイリーンに向かってそう言ったのだ。
『僕のオフィーリア』
嫌っている筈の婚約者に対して使う表現ではない。
たが、アイザックとオフィーリアの間に本格的な溝が生まれるのは、学園入学の直前である。
それまでアイザックは、オフィーリアへの愛情が無くても、婚約者として誠実に接していたという設定だったので、あの言葉も『婚約予定の相手』に対する誠意から出た物なのだろうと、勝手に解釈した。
しかし、今にして思えば、この時点で既に彼女の考えは大きく間違えていたのかもしれない。
プリシラとヴィクターに接触するのは簡単だった。
先ずは『幻の裏設定』がこの世界にも反映されているのかを確認したかった。
どうにかしてヴィクターの手に星型の痣があるか確認しようとしたが、それはなかなか叶わなかった。
だから彼から『実は教皇の隠し子なのだ』と告白された時には、裏設定が生きていると分かり歓喜した。
裏設定を詳しく知っている自分なら、より上手く立ち回る事が出来ると思ったから。
学園に入学したプリシラから、アイザックが未だに婚約していない事と、クリスティアンの側近候補を降りた事を聞いた時には驚いた。
でもそれも、自分がシナリオと違う行動をしているからだと思った。
確か、バタフライなんとかっていう奴だ。
小さな出来事が、全く関係なさそうな場所で大きな出来事を引き起こす……みたいな事を、何かの漫画で読んだ気がする。
ゲームの中では、主であるクリスティアンを優先させるアイザックに、オフィーリアがブチ切れるというエピソードがあったので、クリスティアンの側近候補を降りたのは、オフィーリアの我儘なんじゃないかと思った。
『レイラもそう思う?
クリスティアン殿下もエヴァレット嬢と仲良くなってからヘーゼルダイン様が変わってしまったと言っていたわ!』
プリシラにそう言われて、やっぱり自分の予想が正しいのだと自信を持った。
サディアスが失脚した原因については裏設定にも出てこないので知らなかったが、変な薬を作らされた事をヴィクターから相談されて、教皇の企みなのだとピンと来た。
どちらにしても、最終的にサディアスが失脚してから教皇を引き摺り下ろせば良いだけの話だと考えて、ヴィクターを上手く唆した。
だけど、クリスティアンルートの完璧なハッピーエンドをプリシラに迎えさせる為には、アイザックがクリスティアンの側近候補である事が不可欠なのだ。
だから、邪魔な存在であるオフィーリアと引き離そうと、色々画策したのだが……。
どの行動も裏目に出てしまった。
もしも……、もしも、最初から間違っていたのだとしたら?
あのアイザックの言葉が、誠意からなんかじゃなく、単純に愛情から出た物だとしたら?
彼が悪役令嬢に対して、ゲームのシナリオとは違う感情を持っていたのなら、あの時点で既にシナリオと違う行動を取っている人間がいたのではないだろうか?
(もしかして、オフィーリアも転生者?)
遅れ馳せながらその可能性に辿り着いた彼女は、フルフルと体が震え出すのを止められなかった。
あの女のせいで、全てが上手く行かなかった。
あの女のせいで、幸せになれなかった。
あの女のせいで、自分の人生が滅茶苦茶になった。
そう思うと、腹の底から激しい憎悪が込み上げる。
何処に向ければ良いか分からなかった怒りの矛先が、漸く定まった気がした。
仮住まいとしている集合住宅の部屋に設置された小さな浴室に、シュワシュワと炭酸が弾ける音がして、濃い酒の臭いが広がり、彼女は少し顔を顰めた。
背凭れの低い椅子に腰を下ろし、背中を預けて天井を仰ぎ見るように上半身を反らす。
背後の台の上に設置した洗面器の中に、ポチャンと後頭部を浸した状態で、そっと目を閉じた。
この体制はかなりキツいが、何度もやっているのでもう慣れた。
最初は浴室に寝そべってみたり、色々と試したが、これが一番満遍なく髪を浸す事が出来る。
(エイリーンの身体は意外と柔軟性が高いみたいなのよね)
だが、頭皮にビールが染みてピリピリと痛い感覚には、なかなか慣れない。
痛みを我慢して暫くそのまま髪を浸した彼女は、ビールの成分を洗い流さず、軽くタオルドライしただけで、魔道具のドライヤーを使って髪に熱を加えた。
揮発したアルコールの成分により、頭がクラクラする。
これは、前世の職場で利用者の婆さんが教えてくれた、古い時代に流行したという髪の脱色方法だ。
ビールに髪を浸し、熱か太陽光を当てる。
最初は効果がかなり弱くて、ガセネタかと疑ったが、何度も繰り返す事で徐々に髪色が明るくなった。
デイサービスの施設では、嫌々ながら老人達のくだらない話に耳を傾けていたが、何が役に立つか分からない物である。
髪全体が乾いてきたら、ここで漸く普通にシャンプーをする。
洗い終わってしまえば、不思議なくらい髪にアルコール臭は残らない。
だが、傷み切った髪がキシキシと指に絡まる感覚は酷く不快だ。
手触りの悪い髪を乾かしながら、彼女は重い溜息を吐き出す。
「何で私だけが、こんな目に……」
彼女は昼間の出来事を思い出していた。
街を歩いていたら、風で飛ばされてきた新聞が、彼女の足に絡み付いた。
それを拾い上げると、幸せそうに微笑む王太子夫妻の姿絵が大きく印刷されているのが目に入る。
最近、街を歩けば、何処もかしこもお祝いムード一色で、彼女の神経を容赦なく逆撫でした。
王太子妃の第二子懐妊が発表されたのだ。
更に、片隅に掲載された小さな記事に、悪役令嬢オフィーリア・エヴァレットの名前を見付け、彼女は人目も憚らず大きく顔を歪めた。
フォーガス伯爵領の感染症蔓延を終息させる為に、大きな役割を果たしたとして、オフィーリアは王家から褒賞を授かる事になったのだとか。
自分は苦労して逃亡を続けるハメになっているのに。
自分の推しであるヴィクターだって、このままでは死罪は免れないだろうに。
ヒロインを完璧に模倣した筈の自分がこんなに不幸になり、悪役令嬢が幸せを掴むなんて……。
酷い。
狡い。
有り得ない。
何がいけなかったのか?
何処で間違ったのか?
枯れたススキの穂みたいに変貌してしまった髪を梳りながら、彼女はこれまでの自分の行動を思い返した。
前世の記憶を思い出し、この世界がゲームの中なのだと確信した時、初めに違和感を持ったのは、その少し前にアイザックからぶつけられた言葉であった。
『君は以前、茶会で僕のオフィーリアに変な言い掛かりを付けたっていうご令嬢だよね?』
確かに彼は、エイリーンに向かってそう言ったのだ。
『僕のオフィーリア』
嫌っている筈の婚約者に対して使う表現ではない。
たが、アイザックとオフィーリアの間に本格的な溝が生まれるのは、学園入学の直前である。
それまでアイザックは、オフィーリアへの愛情が無くても、婚約者として誠実に接していたという設定だったので、あの言葉も『婚約予定の相手』に対する誠意から出た物なのだろうと、勝手に解釈した。
しかし、今にして思えば、この時点で既に彼女の考えは大きく間違えていたのかもしれない。
プリシラとヴィクターに接触するのは簡単だった。
先ずは『幻の裏設定』がこの世界にも反映されているのかを確認したかった。
どうにかしてヴィクターの手に星型の痣があるか確認しようとしたが、それはなかなか叶わなかった。
だから彼から『実は教皇の隠し子なのだ』と告白された時には、裏設定が生きていると分かり歓喜した。
裏設定を詳しく知っている自分なら、より上手く立ち回る事が出来ると思ったから。
学園に入学したプリシラから、アイザックが未だに婚約していない事と、クリスティアンの側近候補を降りた事を聞いた時には驚いた。
でもそれも、自分がシナリオと違う行動をしているからだと思った。
確か、バタフライなんとかっていう奴だ。
小さな出来事が、全く関係なさそうな場所で大きな出来事を引き起こす……みたいな事を、何かの漫画で読んだ気がする。
ゲームの中では、主であるクリスティアンを優先させるアイザックに、オフィーリアがブチ切れるというエピソードがあったので、クリスティアンの側近候補を降りたのは、オフィーリアの我儘なんじゃないかと思った。
『レイラもそう思う?
クリスティアン殿下もエヴァレット嬢と仲良くなってからヘーゼルダイン様が変わってしまったと言っていたわ!』
プリシラにそう言われて、やっぱり自分の予想が正しいのだと自信を持った。
サディアスが失脚した原因については裏設定にも出てこないので知らなかったが、変な薬を作らされた事をヴィクターから相談されて、教皇の企みなのだとピンと来た。
どちらにしても、最終的にサディアスが失脚してから教皇を引き摺り下ろせば良いだけの話だと考えて、ヴィクターを上手く唆した。
だけど、クリスティアンルートの完璧なハッピーエンドをプリシラに迎えさせる為には、アイザックがクリスティアンの側近候補である事が不可欠なのだ。
だから、邪魔な存在であるオフィーリアと引き離そうと、色々画策したのだが……。
どの行動も裏目に出てしまった。
もしも……、もしも、最初から間違っていたのだとしたら?
あのアイザックの言葉が、誠意からなんかじゃなく、単純に愛情から出た物だとしたら?
彼が悪役令嬢に対して、ゲームのシナリオとは違う感情を持っていたのなら、あの時点で既にシナリオと違う行動を取っている人間がいたのではないだろうか?
(もしかして、オフィーリアも転生者?)
遅れ馳せながらその可能性に辿り着いた彼女は、フルフルと体が震え出すのを止められなかった。
あの女のせいで、全てが上手く行かなかった。
あの女のせいで、幸せになれなかった。
あの女のせいで、自分の人生が滅茶苦茶になった。
そう思うと、腹の底から激しい憎悪が込み上げる。
何処に向ければ良いか分からなかった怒りの矛先が、漸く定まった気がした。
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