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最終章

閑話——誓いの行方

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「帰ることにしたわ」

 極秘会談を無事に終え、舞踏会、建国際に向けての準備を急ごうかというタイミング。
 王城にあるルーベルの一室へ訪ねて来たプラーミァが、開口一番にそう告げてくる。執務机に溜まった書類に目を通していた銀色の瞳が彼女へ向けられる。

「ご家族の元へ?」

「ええ」

「何時ですか?」

「そうね。明日にでも」

 考える素振りを見せた割にあっさりと答えたプラーミァに、きっと既に決めていたのだろうとルーベルは目を伏せた。
 決めるのは彼女だ。元々パーティ加入は魔王討伐の間という契約だった。結果的に討伐はなされなかったが、今後積極的に闘争行為は行わない旨の協定を結ぶ事が叶った。解散自体は明言されていないものの、事実上パーティは役目を終えている。ならば問題もないという判断だったのだろう。

「そうですか」

 あっさりと告げられた了承の言葉に、プラーミァは僅かに瞳を揺らした。
 淡白だこと。
 別に引き留めて欲しかった訳じゃない。最初につまらなかったら抜けると言ったのはこちら。縛られることも群れることも好まないプラーミァにとってもルーベルとの距離感は割と心地良く、彼らと時を同じくするのは刺激的で魅力的だった。

「じゃあね。楽しかったわ」

 それだけ告げると彼の言葉を待たないまま執務室を後にした。
 最初に戻るだけよ。今までだってそうだった。
 そんな風に思いながら、クスリと唇の端を持ち上げる。
 なんだか自分に言い訳してるみたいだ。そんなことを考えながら今までとは少し違う最後に違和感を振り払うかのように頭を振った。


 翌早朝、朝靄が覆う大通りをプラーミァは一人歩いていた。
 暑い時期を通り過ぎた王都の朝は少し肌寒い。故郷にいた頃のような露出の多い格好をすることは無くなったが、戦いの後からはあちらと違って寒暖差の少ないこちらでは特に防御壁も張っておらず、こんな風に肌にまとわりつく温度を感じるのはなんだか久しぶりの気もする。
 最後くらい顔を見てくれば良かったかしら。決して居心地の悪くなかった彼らを思い浮かべ、少ない荷物を持ち直す。そうして前方へと視線を向けた時だった。

「…っ…」

 靄に浮かぶ人影に足を止める。

「おはようございます」

 休みの時に身に付けるラフな装いのルーベルが柔らかな笑みを浮かべて立っているのに目を見開いた。手にはプラーミァの物より少し大きな革の鞄を持っている。

「…なんでいるのかしら」

「待っていたので」

「…そう言う事じゃなくて、貴方忙しい筈でしょう?」

「引き継ぎは終わらせてあったので何も問題はありませんよ」

 そう言ってクスクスと笑う彼に違和感を覚える。王都ではいつも身に付けている筈の騎士団の正装で無いのもおかしい。常に腰にある煌びやかなサーベルも無く、愛用している細身のレイピア一本の軽装にプラーミァは眉を顰める。
 その視線の意味に気付いたのか、ルーベルは困ったように眉尻を下げた。

「第二師団は信頼のおける部下に任せる事にしました」

「…は…?」

「元々家督を継ぐのは私では無かったので、家も特に問題ありません」

 言っている意味が全く分からない。呆然と佇み全身でそう伝えてくるプラーミァの側へルーベルが歩み寄る。
 右腕を折り手のひらを左胸へと当てた。『この命に変えても』という意味を持つその姿勢に、プラーミァは息を呑んだ。

「ひとりにしないと、誓ったでしょう」

 眼鏡の奥、真っ直ぐに向けられた銀色がプラーミァを射抜く。
 初めて魔力が覚醒した時、制御不能となった自身の膨大な魔力の中心で見た銀。自らも危険だったというのに、マメだらけの大きな手が引くどころかこちらへ寄越された。ゴーレムよりも重いのだと冗談混じりで告げられた誓いに胸が高鳴ったのは気のせいなんかじゃなかった。誓いと共にプラーミァ唯一人へ向けられた強い光を宿した銀色が、同じ輝きを湛えて今目の前にあった。

 あぁ、そうか。私は……——

「…貴方、その部下とかいう人に恨まれるわよ?」

 自然と肩の力が抜けていった。呆れたように戯れるように告げたそれに、ルーベルがクスクスと笑う。そうかもしれませんと悪戯っぽく笑い、行きましょうかとばかりに背中へ手が添えられる。
 が、プラーミァが向かおうとしていた乗り合いの馬車乗り場とは逆の方向だった。

「何処へ向かうつもり?」

 怪訝な顔を向ければはて? と首を傾げてくる。

「帰るのでしょう?」

「馬車乗り場は反対側よ?」

「もっといいのがありますよ」


 何も教えてもらえないままやってきたのは王都にある中央教会だ。
 朝の早い時間帯とあってか、祈りを捧げようという街人の姿は見受けられない。少し晴れてきた朝靄に佇む荘厳な建物が、普段にまして神秘的な雰囲気を纏っている。白亜の王城と対を成すように王都の中心に鎮座する教会の大きな扉をルーベルに続いて潜っていく。
 彼が足を向けた先は転移魔法陣の敷かれている部屋だった。

「まさか転移するつもり?」

「ちゃんと許可は降りてますよ」

 内心でそういう事じゃないんだけどと呟くプラーミァを他所に、見張りのいない重厚な扉をルーベルが押し開く。

「お。来たな」
「ルーベルさん!!」
「プラーミァさん!!」

 中に入って見た光景に、プラーミァは目を見開いた。
 声を上げながら駆け寄ってきたのはえみとマーレ、それからワサビだ。その奥にはハワードやアルク、シャガールやレンの姿もあった。ソラまでいる。

「貴女たち、どうして此処に…」

「どうしてって、プラーミァさんが帰っちゃうって聞いて」
「お見送りしようと思って待ってたんです」
「寂しくなります」

 驚いた表情を崩さないまま隣の首謀者を見上げた。サプライズは成功だとばかりに、先にあった銀色の瞳が柔らかく弧を描く。

「皆さん寂しいとおっしゃっていたので」

 わざわざ声を掛けてくれたのかと思いながら、目の前で表情を曇らせる彼女達へと視線を戻した。ずっと一人で生きてきたプラーミァにとって別れというのはさして気に留めるものでは無い。最初に戻るだけだから、そんな風に考えていた彼女には目の前で自分の為に集まってくれたみんなの姿が少しばかりくすぐったかった。

「こんなに朝早くに…来てくれてありがとう」

 当たり前じゃないですかと声を上げる三人は、既に瞳を潤ませている。

「何も言わずに行くなんて水臭いじゃないですか」
「見送りくらいさせてください」

 シャガールとレンが側へと近付き手を差し出す。その手をプラーミァは固く握り返した。

「共に戦えた事に心からの感謝を」

 アルクの穏やかな眼差しにプラーミァもまた目を細め握手を交わす。

「私の方こそ…貴方がたに出会えて、本当に良かった」

 プラーミァが舞うように軽やかに腰を折る。自然と口にしたその言葉は紛れもない本心だった。
 とうとう涙腺の崩壊したマーレとワサビの肩を抱き、晴れない表情のえみを見つめる。

「あの…プラーミァさん」

 言いかけたえみの肩へ手を添えて、プラーミァは緩く首を振った。

「えみさんの選択は決して間違ってはいないわ。私は家族の元へ帰るだけ」

「…はい」

「助けが必要な時はいつでも呼んで。飛んで来るから。……だから、えみさんはえみさんの信じる道を進んで」

「はい!」

 お元気でと声を震わせる彼女の肩を貴女もと抱き寄せた。

「今生の別れでもあるまい。まぁ、ルーベルをよろしく頼む」

 そう言って笑うハワードへ少し眉尻を下げクスクスと喉を鳴らす。

「殿下の頼みでしたらお断りできませんね」

 差し出された手を今は遠慮なく握り返す。
 輪から外れお座りの格好でこちらを見ているソラに腰を折ると、彼は小さくフスンと鼻を鳴らし頷いてくれた。



「殿下」

 ルーベルがハワードの前へ進み出ると片膝をつき頭を垂れる。

「どれほどに離れていようとこの命、フェリシモール王国と共に」

「ああ。よしなに」

 えみやマーレ、ワサビとも握手を交わし、ルーベルはアルク、レン、シャガールへと向き直った。視線を交わし小さく頷き合う。多くの死戦を共に超えて来た彼らにはそれだけで充分だった。


 シャガールが魔法陣を起動する。プラーミァとルーベルが陣の中央へ立ち、他のメンバーがそこから離れて二人を見送る。

「建国祭には来てくださいね!!」

 えみが大きく手を振り、皆がそれに続いた。

「ええ。必ず」
「では、また」

 プラーミァとルーベルも手を挙げて応える。
 ぼんやりと光を放っていた魔法陣の光が、だんだんと強くなっていく。一際大きな白い光が部屋中を覆い尽しそこに居た者達が目元を覆う。
 その光が徐々に薄れ消えた時には、二人の姿も無くなっていた。




 故郷へ戻ったプラーミァは、以前のように宿での給仕の仕事に就いていた。装いは以前のような派手さは無く、一般的な女性のそれだ。精霊の加護を持つ彼女には教会からの声が掛かっていたが、彼女はそれを受けなかった。教会は嫌い。その姿勢は相変わらずだ。
 国内でも重要な拠点となっているここシムラクルムでは、宿を利用する宿泊客は多い。宿の中でも規模の大きい方であった為にプラーミァの申し出は有り難かったのだろう。世話になりたいと言った彼女に宿屋の主人は二つ返事で受け入れてくれた。

 今朝も朝食で混み合う時間を捌き、一息ついたところだった。

「おはようございます」

 爽やかな笑みを纏った麗人に、プラーミァが机を拭いていた手を止めて顔を上げた。

「今日はゆっくりなのね。朝食は?」

「お願いします。昨日騎士団がバサルテスへ発ったので、今日は休みです」

 ここから程近いバサルテスの街で魔物が出たと言う知らせを受け、少数で編成された合同軍が昨日出立している。
 この街に着いてからやはりと言うべきか、教会から指導者として携わって欲しいと頼まれたルーベルは、連日騎士団へ赴き主に後輩の指導にあたっている。
『これを返却されたのはそう言う事みたいです』と、プラーミァが見せられたのは、騎士団の中でも限られた者しか持つ事を許されない煌びやかな一つの勲章。
 団長を退任した際に国へと返還したそれは、ハワードから直々に手渡された。『これを持つのはお前以外にいない』と言いながら人の悪い笑みを浮かべた彼は、こうなる事を疑わなかったのだろう。
 どうやらもうしばらくゆっくりさせて貰えそうにありません。
 そう言って困ったように眉尻を下げたルーベルにも、そんな気はさらさらないのだろうなとプラーミァは思っている。似た者同士だ。

 拭いていた机の隣の席へ座った彼に、今日の朝食であったサンドイッチとコーヒーを出した。ありがとうと受け取ったルーベルは新聞に目を通しながらコーヒーに口をつける。
 そんな穏やかな時間が破られたのは、彼がコーヒーのおかわりを頼もうかという時だった。

「団長!!」

 宿の扉を破らんばかりに開き、酷く慌てた様子で飛び込んできたのは、ルーベルが訓練をつけている見習い騎士の青年だった。

「団長ではありません。どうしました?」

 手にしていた新聞を置き、穏やかに問いかけその場を立つ。
 何事かとルーベルと同じく食堂で過ごしていた数人の視線もそちらへ向く。

「魔物が出ました!! 街に向かっている商隊が襲われてっ……」

「!?」

 その場が一気に騒めく。
 商隊が襲われた。その知らせにプラーミァの体がピシリと固まる。
 息を切らせた青年にルーベルが駆け寄り、直ぐに我に返ったプラーミァもその後に続く。

「状況は?」

「詳しくは……でも護衛だと言う者が広場に!!」

「分かりました。話は私が聞く。君は騎士団を招集、十分で装備し広場へ集合」

「は、はい!!」

 青年が飛び出すように走り去るとルーベルが自身の袖を掴むその先の人物を振り返る。その先に居たのは黄金色の瞳を揺らすプラーミァだ。

「私も行くわ」

「…分かりました」


 一足先に広場へやって来たふたりは、商隊の護衛だという男から詳しく状況を聞いていた。
 商人は家族連れの三人で、その場に残っている護衛は四人。襲って来た魔物はサンドアントが三体。文字通り蟻のような見た目をしており体長は一メートル程、砂地を掘って巣を作る昆虫型の魔物だ。二本の前足はノコギリのように変形しており、それを武器に獲物を捕える。スコーピオン同様、表皮は硬く刃物や魔法が効きにくい厄介な相手だった。
 群れを作る種である筈のサンドアントが三体だけという事は、恐らく群れから逸れた個体だろうと推測した。
 装備を携え広場に集合した騎士は見習いが多く数は十名程。その中には聖騎士団の魔術師も含まれている。場所が街の近くの岩床地帯と知ったルーベルは、魔術師へ街の護衛に残るよう指示した。万が一の為に街に結界を施す必要がある。
 騎士と騎士見習い混合の三小隊に分け、一体につき一個隊で迎撃せよと指示を飛ばした。

 襲われた場所へ案内され視線を向けた先には、サンドアントの攻撃をかろうじて盾で防いでいる護衛達の姿があった。彼らが守るように立つその後ろには、女性と子供が地面に倒れる人物の側で必死に声を掛けている。
 その光景を目にしたプラーミァは軽い目眩を覚え、近くの大岩に片手を付いた。
 暑さにやられた訳ではない。魔物に恐怖した訳でもない。
 10年前、自らが陥った境遇とあまりにも酷似した光景に、封印していた記憶が一気に蘇ってしまったのだ。血だらけで地面に倒れ動かない父と母の姿が一際鮮明に瞼の裏に蘇る。
 ルーベルは直ぐに小隊へ指示を出し、顔色の優れないプラーミァへ向き直った。

「街へ戻った方がいい」

 心配そうに告げたルーベルに首を振る。あの人達を置いて逃げるなど絶対にしたくない。泣きながら必死に父を呼ぶ幼な子が自分の記憶と重なる。

「私が結界を。ルーベルさんは魔物をお願いします」

 荷車からサンドアントを引き離した隙を見て、ルーベルとプラーミァが家族と護衛達へ駆け寄った。プラーミァが直様結界を張り、荷車ごと辺りを覆う。
 倒れていた男性は出血し意識を失ってはいたものの息があり、直ぐに処置をすれば大丈夫だと判断された。手当を護衛の一人に任せ、ルーベルは戦況を分析する。
 日差しは強く、足場は最悪。日光を遮るものがない砂漠では、照り返しの熱でも体力を奪われる。見習いが多いこの編制では長期戦は絶対的に不利だった。
 ルーベルは屈んでいた身を起こし、右手でレイピアを抜き放った。同じく立ち上がり、直ぐ後ろに立つ彼女を振り返る。

「ちょっと行ってきます。貴女はここで——」

 プラーミァの両手が得物を持たないもう片方の手を握り締めた。怯えを色濃く写す瞳が酷く不安げに揺れている。
 自分でも無意識だったのか、次の瞬間にはごめんなさいと小さく零された囁きと共に離れていく。
 ルーベルは離れていく片方の腕を掴むと強引に彼女を引き寄せた。予期せぬ強い力にプラーミァの体がぐらりと傾く。次の瞬間、彼の長い髪が頬を掠めたこそばゆさと唇に感じた違和感に目を見開く。触れるだけのキスをされたのだと気付いたのは、ルーベルの顔がゆっくり離れていくのを見たからだ。

「私は君の父親じゃない」

「!!」

「大丈夫、心配いりません。直ぐに終わらせます」

 そう言って口の端を上げると、ルーベルは目前の小隊へと駆け出した。



 無事にサンドアントの討伐を果たし、商隊は騎士団の手を借りながら街へと辿り着いた。怪我をした商人は家族と共に教会へ運ばれ手当を受けている。その際にこちらへ駆けてきた幼い少女は涙を溜めた満面の笑みでありがとうと伝えてくれた。無事で良かったと微笑んで見せれば、頬をうっすらピンク色に染めてペコリと頭を下げ母の元へ走って行く。その小さな背を見送り、プラーミァはルーベルの姿を探した。
 商隊を救い出した英雄を一目見ようと集まった子供達や街人の輪の中心で、騎士達に囲まれ事後処理の指示を飛ばし、視線の交わる事の無い彼を眺めた。今の姿が彼が本来あるべき姿なのだと痛感する。騎士達の中心に立ち、まとめ上げ、自らの犠牲を厭わず守るべき国の為に先頭を切って戦いへ身を投じていく。精霊が付いていた事で一時的に討伐隊へと身を置いたが、本当なら自分のような一街人が並び立てるような相手では無いのだ。
 事後処理にはまだ時間が掛かるだろう。食べ掛けだった朝食は片付ける事になるだろうからと、プラーミァは群衆に背を向けそのまま宿へと戻って行った。

 それからルーベルが宿へと姿を見せたのは、夕食時で混み合う時間帯になってからだった。客で埋め尽くされたテーブルの間を縫うように給仕で走り回っていた際、カウンター越しに宿の主人へ何かを伝えている姿を目にした。混雑を避けるために部屋でとれる軽めの食事を注文したのかもしれない。穏やかな笑顔でやり取りしている姿を目で追っていた。その瞳がこちらへ寄越されることなく自室のある二階への階段へ消えて行く。プラーミァはなんとなくの違和感に僅かに眉を顰めたが、注文の声が掛かると直ぐにいつもの笑顔を貼り付けた。
 そんな彼女を見つめる一対の仄暗い眼差しが二階への階段を一瞥し、再び忙しそうに動き回る背中へと注がれていた。


「これお得意さんに頼むわ」
 宿の主人にそう言ってトレイに乗ったルーベルの食事を持たされたプラーミァは階段を上がったところで一度立ち止まる。これを渡せば今夜の仕事は終わりだ。ルーベルの部屋はこの通路の一番奥の突き当たり、丁度正面に見えている扉だ。さて、私が持っていったとしてあの扉は開くのかと思案しながら、年季の入った廊下を進んだ。
 正面に立ち、ノックをしようと腕を持ち上げた時、「おい」と後ろから声が掛かる。
 自身に向けられたものだろうと、侮蔑と嘲りを含む呼び声にプラーミァは腕を上げた状態のまま静止した。普段なら人混みに紛れて聞こえなかったフリでもして聞き流すか、最初から極力視界に入れずに気付かないフリをしている。
 しかし今日はゆっくりと声の主を振り返った。自身が働く職場という事、それから目の前の部屋の宿泊客の存在が普段の選択肢を排除した。
 よりによって……
 階段を上がったところで此方を睨め付けるように見ていたのは、大柄で野蛮そうな額に傷のある男だ。

「いつから売女になったんだプラーミァ。いくらで売ってる?」

 下卑た笑みを隠しもせずポケットから金を掴み出し、二本の指で挟んで揺らして見せる。ゆっくり近付いて来る男から目を離さず、さてどう消してやろうかと思案していると、不意に側の扉が開く音がした。キイィと、こちらも年季を感じさせる音を立てながら、極力静かに開いていく。

「私の大切な人に、そういう下品な挨拶は止めて貰えませんか」

 現れたのはすっかりラフな装いへと着替えを済ませたルーベルだ。プラーミァは騎士団の正装でないこの姿は未だに見慣れないなと密かに思っている。街人のような装いも、館でなく安宿に泊まっている事実も、城でなく街の騎士団にいる現在も、彼を取り巻く今の環境全てに違和感しかないのだ。
 こうなるのが嫌だったのになあと内心で零しながら隣に並び立つ場違いな麗人の横顔を見つめた。口元は柔らかく弧を描いているが目が笑っていない。

「てめえには関係ねぇだろうが! 何なんだ!!」

「何って……」

 にっこりと表情を崩し、ルーベルがプラーミァの肩を抱き寄せる。手に持つトレイの上で、食器がぶつかる軽い音がした。

「肌を合わせる仲ですが」

「!!??」

 ふぅと小さく息を吐き出し、プラーミァは半眼の眼差しを斜め前へ投げ捨てた。
 舞踏会で露出していた背中に手を回された時の事を言っているのか、はたまた王都案内を頼んだ際の人混みで繋がれた手の事か、あるいはさっきの……
 どちらにしろ、今目の前で激昂していく男が考えているような肌の合わせ方で無い事だけは確かである。モノは言いようだ。

「とにかく」

 プラーミァから手を離し、ルーベルが男へ歩み寄る。今にも殴り掛かりそうな程に顔を赤らめ、拳をワナワナさせている男の目の前へ立った。

「彼女に付きまとうのは止めて頂けませんか。時間を持て余しているのなら、そうですね。……私と遊びます?」

 眼鏡の奥で鋭さを取り戻した銀が男を正面から捉えた。向けられた穏やかな笑顔は、男には本来のものには到底思えなかった。
 首に刃物を突きつけられようと、屈強な猛者に囲まれようと怯むことの無い男が、思わず一歩後退る。得体の知れない威圧が足元から迫り上がって来るのも、強烈な冷気を背中に感じたのも初めてだ。……いや違う。過去に、幼い頃に一度だけ似たような経験があった。

 目の前に立ちはだかる麗人の肩越しにプラーミァを見る。その美しい金色の瞳は此方へ向けられる事は無い。
 男はギリギリと拳を握り締め鋭く舌打ちをすると、そのまま足音荒く階段を降りて行った。

 部屋の前に立つプラーミァの側へルーベルが戻って来る。投げていた視線を彼へ向けると、いつも通りの柔らかい眼差しがそこにはあった。

「貴方が手を下さなくても、私がもう一度半殺しにしてやるのに」

 面倒くさそうに零すとルーベルは何の事か分かったのだろう。では彼が? と、男の降りて行った階段を振り返る。

「そ。十年前にも同じ目に遭ってる。懲りないわね」

 両親を失ってすぐおくられた教会の運営する孤児院、そこで一番最初にプラーミァに絡んできた少年だった。自分より年下の少女が珍しかったのか、興味深々のいかにもガキ大将よろしく近付いてきた。初めましてでいきなり『オレに従え』と乱暴に握られた腕を振り払っただけだ。それが彼の琴線に触れたのか、何かにつけて絡んでくるようになった。口癖のように言い放たれた『年下のくせに』、『女のくせに』、『男に従え』に辟易していたプラーミァは全く相手にしなかったのだが、一緒にいた別の少女に被害が及んだ事でキレた。上手く口車に乗せて男子の好きな決闘へ持ち込みボッコボコにしただけだ。売られた喧嘩を買い、勝っただけなのにプラーミァは問題児扱いされた。一緒にいた少女も寄り付かなくなり、プラーミァはまた一人になってしまった。
 ひとりにしないよ。
 そう言われて寂しく無いのであればと此処へきたのに、居る意味が無くなってしまったのだ。だから孤児院を出た。連れてこられて五日後の事だった。

「まぁ、そういった性壁の方もいるようですし、彼もその類だったのかも知れませんね」

 ニコニコととんでもない事を言い出すルーベルに、プラーミァは若干引いた目を向けてしまった。そんな様子にまたクスクスと可笑しそうに喉を鳴らしている。

「貴方の様子がおかしかったのはヤツのせい?」

 目を瞬かせ、あーと歯切れ悪く小さく息を吐いたルーベルが、観念したように眉尻を下げる。

「それもありますが……すいません、こっちの事情です。……もう一度触れてしまったら、歯止めが効かなくなりそうで」

 本当に申し訳なさそうに告げられた言葉に今度はプラーミァが目を見開く。彼女の手からようやくトレイを受け取り、自室の扉を開けると再度此方を振り返る。

「なので今夜は早々に休みます」

 ではと、扉の向こうへ消えていく背を唯見つめた。閉まり切る寸前になって隙間に手を滑り込ませ強引に開く。少々乱暴な開け方に扉の蝶番が悲鳴をあげた。
 驚いた表情で此方を振り返る銀色を真っ直ぐに見つめる。

「私、貴方の事を父親だなんて思った事、一度もないわ」

「……」

 初めて頬に触れた彼の手は、皮膚が厚く硬く変化した武人のそれだった。その手に父の面影を見たのは確かだ。大きくて硬くてゴツい手は、いつもプラーミァの頭を優しく撫でてくれた大好きな手だった。
 ルーベルの大きな手は確かに優しい。しかしいつも此方へ差し出されるその手は決して優しいだけではなかった。選べと、自分で進めと促してくる。卑下もせず、忖度も無く、横暴も偏見も無い。しかし甘えも許さない。それでももしこの手を取ったなら、全身全霊で守るからと。

「あの誓い…守ってくれるんでしょう?」

 強い光を宿し真っ直ぐに向けられた金色の瞳を見つめ、ルーベルはふっと息を吐く。自然と口角は上がっていた。
 トレイを置き、入り口へ歩み寄る。右手を左胸に当て、左手を差し出した。

「この命に変えても」

 何の躊躇もなくその手に白くて華奢な手が重なった。
 握る手に少しだけ力を込め引き寄せる。
 誘われるように部屋へと引き入れられたプラーミァの体がふわりと優しく包まれた。
 キィと軋んだ音を立てながらゆっくり元の位置へ戻っていく扉の奥で、プラーミァは落ちてくる頬へと手を伸ばす。
 自身の手よりもずっと温かい頬を包み、扉が閉まるのと同じくしてゆっくりと目を閉じた。
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