天華殿の花職人

橘川芙蓉

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第三話既に君子を見る

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 後宮の回廊に吊るされている灯籠に灯りが灯る。火の用心の声をかけながら夜回りをしている宦官たちだ。杜雨燕の住む天華殿の軒先に吊るされた灯籠にも明かりが灯る。
 夜着に着替えそろそろ寝床へ向かおうとしたところで杜雨燕は微かな金属の擦れる音を聞いた気がした。
 天華殿があるのは西宮で皇后の御殿とも近い。皇后の命を狙う刺客が忍び込んできてもおかしくはない。
 
 杜雨燕が窓から外を伺おうとした時、はっきりと剣戟が聞こえた。先ほどより近い。天華殿の近くの回廊で何者かが戦っている。杜雨燕は窓を開け放った。肌寒く少し湿った風が頬を撫でる。雨が降る前触れだ。今日は三日月の夜のはずなのに空に月はない。厚い雲が月を覆っている。いつもより闇が深い。窓枠に足をかけて夜空に舞い上がった。
 両手を広げてバランスを取りながら夜空を飛ぶ。薄桃色の夜着が夜風になびく。騒ぎが起きている場所はすぐにわかった。
 全身黒ずくめで竹笠をかぶり黒布で口元を覆った人物と、紅色の衣を着た人物が鍔迫り合いをしている。紅色の衣は後宮武官の服装だ。争っているすぐ近くで武官がひとり倒れている。全身黒ずくめが後宮武官に切り込む。それを武官はうまく避けたが黒ずくめの方が剣を振るう速度がはやく押され気味だ。
 杜雨燕は懐から飛刀を取り出して黒ずくめに向けて投げつけた。黒ずくめはすぐに気配に気づいて後ろへ跳躍する。杜雨燕はその前に降り立ち護身用の剣を抜いて構えた。
 
 黒ずくめの男は平均身長より高い背丈である。体格から男性であると推測できるが一言も声を発していないので性別はわからない。覆面から覗く黒い瞳は真っ直ぐに杜雨燕を捉えている。杜雨燕を庇うように紅色が一歩前に出た。
 少し湿った風が杜雨燕の頬を撫でる。風に乗ってわずかに花の香りがした。
 
「娘娘、お下がりを」
 
 援護に駆けつけた杜雨燕を庇おうとしているのは、後宮女官一番人気の烏明星だ。回廊の吊り灯籠のわずかな灯りに照らされた横顔は侵入者を冷えた視線で見据えていた。
 
「援護するわ」

 杜雨燕の返答に烏明星が一瞬だけ視線を動かした隙に、侵入者は懐から取り出した煙玉を爆発させた。あたり一面煙に包まれる。煙を吸わないように咄嗟に袖口で顔を覆う。煙が空中に霧散した時には、すでに黒ずくめはいなくなっていた。
 
「娘娘、お怪我は?」
 
「私より貴方よ。大丈夫?」
 
 杜雨燕は自分達以外の人の気配がないことを確認して剣を鞘に収めた。
 烏明星は美しい男であった。吊り目ぎみの涼やかな瞳に艶めいた厚い唇。武官をしているだけあって均整の取れた体ですらりと背が高い。手足長くまるで役者のようである。吊り灯籠のわずかな灯りに漆黒の瞳がゆらゆらと揺れて吸い込まれそうだ。
 
「ご心配なく」
 
「あれは何を狙ってきたの?」
 
「わかりません。夜回りの途中で……あっ海暁東《ハイ・シャオドン》」
 
 烏明星は近くで倒れている武官のそばで膝をついて彼の様子を確かめる。
 
「気を失っているだけのようだ。良かった」
 
「良かったら、私の御殿に来る?」
 
 御殿、と言われて烏明星は慌てて深々と拱手する。駆けつけたのは近くの宮の女官だと思っていたのだ。御殿持ちは妃嬪しかいない。後宮武官は、話すことも目を合わせることも許されていない身分である。
 
「畏まらないで。私は杜雨燕。天華殿の主人よ」
 
 烏明星はわずかに両眉を上げた。彼女の名前を知っている。
 
「私は、後宮武官の烏明星」
 
「怪我の手当ぐらいするわ」
 
 烏明星は同僚の海暁東をおんぶして運ぶことにした。
 ぽつぽつと、空から雨が降ってくる。二人は慌てて天華殿へと向かった。
 
 
 天華殿への門をくぐり、殿舎への入り口で仁王立ちして待っていたのは李花梨だった。般若の形相で杜雨燕を待ち構えている。
 
「うっわ。怒ってる」
 
 杜雨燕は烏明星にだけ聞こえる声でつぶやいた。あまりに令嬢らしくない口調に烏明星は口元だけで笑った。
 
「お嬢様、お怪我は?」
 
「私は平気よ。武官が一人気を失っているの。使っていない棟で手当するから用意して」
 
 李花梨は烏明星を目線で殺しそうなほど強く睨みつけてから、一礼して殿舎の奥へと消えた。杜雨燕は烏明星についてくるように言うと、殿舎の近くにある離れに向かった。
 天華殿の離れは以前は「花職人」を警護するための専任の武官がいる詰所であった。数代前は「花職人」の後宮内での位が高く利用価値も高かったので暗殺されないように護衛がついていた。
 時代を経るごとに「花職人」の能力は衰えていき、先代の時に花職人の護衛は廃止された。
 
 普段は、利用していない離れだが定期的に手入れを行なっているので、一時期過ごす分には十分な建物だ。離れの軒の吊り灯籠にも明かりが灯っている。
 杜雨燕は懐から小さい筒状の物を取り出し、蓋を開けて先端に息を吹きかけた。筒の先端に火がつく。携帯用の灯りだ。扉を開け廊下の壁に置いてある燭台に火を灯していく。
 部屋数は三つ。詰所としては十分な大きさだ。入り口に一番近い部屋に杜雨燕は入った。部屋の燭台に灯りをつける。
 部屋には窓が一つあり、その近くに簡素な寝台がふたつ。質素な机と椅子が部屋の中央に置かれている。
 烏明星はそのうちの一つに海暁東をそっと下ろした。海暁東はまだ意識が戻らない。
 李花梨が清潔な布の入った木箱を手にして部屋にやってきた。烏明星と海暁東の怪我の手当をしていく。二人とも軽傷で海暁東はそのうち目が覚めると思われた。
 
「後で薬湯を持って来させます。雨もひどいですし、今晩はこちらでお休みください」
 
 杜雨燕は視線を窓に向ける。先ほどから降り始めた雨は土砂降りに変わっている。いくら日頃鍛えている武官といえどこの雨の中寄宿舎に帰れば風邪をひくだろう。
 
「お気遣いいたみいります」
 
 烏明星は、わざわざ歩み寄り杜雨燕との距離を縮め礼を述べた。普段の彼では考えられないことだ。先ほどまで冷たい眼差しだった瞳の奥が輝きに包まれ柔らかくなる。
 杜雨燕はそのことには全く気が付かず侍女と主に母家に戻っていった。
 
 烏明星は、窓辺に座り外に視線を向けそっとため息をついた。雨はずっと降り続いている。
 
「風雨《ふうう》 淒淒《せいせい》たり 鶏鳴《けいめい》 喈喈《かいかい》たり 既に君子を見る なんぞ夷《たい》らかならざらん」
 
 教養として覚えた漢詩をそっと口の端にのせる。女性が愛する恋人に会えたことを喜ぶ詩だが烏明星の表情はそれとは反対に力のない表情だ。唇がわずかに震え、空っぽの両手をじっと見つめた。

「やっと会えたと思ったんだけどな。僕の運命を変える人」
 
 呟きは誰に聞かれるでもなく、夜の闇に紛れて消えた。 
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