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第四話守備宮の砂
しおりを挟む「お嬢様、どういうおつもりですか」
杜雨燕の部屋に戻るなり、李花梨は杜雨燕を問い詰めた。怒鳴るでもなく淡々とした声だ。夜に部屋から抜け出した事の怒りはまだ解けていない。杜雨燕は頬を引き攣らせわざとらしく身振り手振りを大きくしながら言い訳を始めた。
「剣戟が聞こえて様子を見にいったら刺客と戦うことに」
「ここは後宮ですよ? ご実家と同じように振る舞わないでください」
李花梨のあまりの迫力に押されながら杜雨燕は、モゴモゴと返事を誤魔化している。確約などできない。少しづつ李花梨と距離を取る。視線を彼女から外らし窓の外へ向ける。呆れた様子でこちらを見る李花梨の姿が窓に映る。
はっきりしない態度に李花梨の方が折れた。
「次からは、私もお連れください」
杜雨燕は、彼女の怒りが収まったのを察知して何度も首を縦に振った。
「明日、後宮の女官たちに人気のある香を調べてきて欲しいの」
杜雨燕は床の木目を見ながら部屋の中を歩き回った後、李花梨に命じる。李花梨は承服すると一礼して部屋から出ていった。
杜雨燕は天蓋付きの寝台に腰掛け窓の外を眺める。相変わらず雨が降り続いていた。
翌朝、すっかり元気になった海暁東《ハイ・シャオドン》と烏明星が天華殿の前庭で杜雨燕に礼を言った。天華殿の前庭はよく手入れされ季節ごとに花をたくさん咲かせている。今は薄紅色の可憐な桃の花が満開だ。甘い香りが周囲に漂っている。
天華殿の中で話をすると詮索をしてくる女官たちがいるだろうと、あえて外を選んだのだが部屋の方が良かったかもしれない、と杜雨燕は早くも後悔していた。
烏明星がうっとりとした目つきで杜雨燕を見つめているのだ。しかも距離が近い。
「昨日の剣さばきも美しかったが、陽の下で見るとますます美しい」
拱手して礼を述べた後さっさと持ち場へ帰るだろうと思っていた杜雨燕の予想は外れた。どういうわけか烏明星は杜雨燕を熱心に口説き落とそうとしているのだ。
烏明星の同僚である海暁東に視線で助けを求めたが、本人は大笑いしている。
さすがに手を握りしめてくるという暴挙には出ないが、後宮で働く同僚との距離ではない。さらに縮めようとする烏明星をサラリと交わし、杜雨燕は天華殿の門を指した。
「出口はあちらです」
「青青《せいせい》たる子《し》の佩《はい》 悠々《ゆうゆう》たる我が思い……そんなにつれないことしないで」
烏明星が引用した漢詩は男性が恋人へ自分の思いの深さを謳った詩である。すぐに意味に気がついた杜雨燕は顔色を変えるでもなく、さっさと追い払おうと手を振って出口へ行くように促した。
あまりのつれない態度に烏明星はため息をついた。そこを見逃す李花梨ではない。主人の命をすみやかに烏明星に実行してもらうため門へと追い立てていった。そのあとを陽気に笑いながら海暁東がついていく。
いくら武官と女官の恋が黙認されているとはいえ、後宮内での恋愛沙汰は命に関わることが多い。問題を起こしたら即打首、なんて当たり前だ。
杜雨燕は、どうしても後宮に止まらなければならない事情がある。人の注目を集めないように生活しようとしていたが、早くも挫けそうだった。
午前中のうちに後宮の主人たる皇后への拝謁を済ませようと支度をしていた杜雨燕の元にやっかいごとが列を成してやってきた。
皇帝の私生活の世話をする宦官長の玉林《ユー・リン》一行と嘉貴妃付きの侍女の莫蕾《モー・レイ》が天華殿にやってきたのだ。天華殿の視察ではない。玉林は怒っているのを隠そうともせず、杜雨燕が部屋に入ってくるなり詰問した。逃げられないように玉林の部下である宦官たちが杜雨燕を取り囲む。
「杜宝林、淫らにも夜な夜な男を連れ込み乱痴気騒ぎを起こしていると報告があった」
玉林は少しだけふくよかで、男性にしては甲高い声。彼が本物の宦官である証だ。
昨日、離れに武官を宿泊させただけで根も歯もない噂が事実として皇帝付きの宦官に報告されるのである。後宮は油断のならない者たちの集まりだ。
「昨日、天華殿の前で夜回りの武官二名が刺客と戦い負傷しました。その手当にかつての武官詰所をお貸ししました」
玉林と莫蕾の前で膝立ちになり両手を前で合わせ杜雨燕は淡々と事実だけを伝える。感情をあらわにすればそこから足を掬われる。
冷静な態度に玉林は杜雨燕の評価を改めたようだ。鋭い声音を潜め形式的な質問に切り替える。
「守備宮の砂の証は?」
杜雨燕は麻で織られた孔雀緑色の上衣の左腕の袖を捲り上げる。日に焼けていない、まろい二の腕の内側を見せた。真っ白な雪原のような肌に朱色の丸い印があった。守備宮の砂だ。
後宮に出仕、もしくは入内するときに女性は全員、印をつけることが義務付けられている。男性と関係を持つと消えると言われている守備宮の砂で染めるのだ。
杜雨燕の二の腕には紅色の印がはっきりと残っている。
「昨晩、手当てをした武官は誰であるか」
「烏明星と海暁東です」
「その二名を連れて参れ」
玉林は部下に命じて武官二人に証言させるつもりだ。杜雨燕を陥れようとするなら証言など聞かず一方的に処罰を下すことだって、皇帝付きの宦官にはできる。一方の莫蕾は武官の名前を聞いて唇をぎゅっと結び杜雨燕を睨みつける。
「玉林様、この女がお二人を誘惑したに違いありません」
莫蕾は口元を歪ませ訴えた。嘉貴妃付きの侍女になるぐらいの淑女でさえ、目を曇らせるほどの人気ぶりだ。彼女は烏明星と海暁東と同じ敷地内で一晩過ごしたことさえ許せないのだ。
(風紀を守るためっているより……これは)
杜雨燕は感情を露骨に表している莫蕾を無表情で見つめた。慌ただしい足音が部屋の外から聞こえてきた。入り口で一礼をし入ってきたのは先ほど別れた烏明星と海暁東だ。
莫蕾の不快感が丸出しだった表情はそっと潜め、顔が僅かに好調し自然と笑みがこぼれ期待を込めた目で烏明星を見つめる。
烏明星は莫蕾の視線に気が付かず、膝立ちの杜雨燕にちらりと見るがすぐに視線をそらした。彼女の隣で同じように膝立ちになり要件を尋ねる。
「昨晩、刺客が現れたと杜雨燕から報告があった。本当であるか」
「さようでございます。危ないところを杜娘娘に助けていただきました」
「杜雨燕、烏明星と手合わせをせよ。武人に勝とも劣らない武功であれば其方の言い分を信じよう」
手合わせをするにはある程度の広い場所が必要なので、天華殿の前庭で行うことになった。庭の中央で対峙するのは杜雨燕と烏明星。杜雨燕は愛剣である「青龍」という名剣を構えている。女の腕でも扱いやすいように細身に作られていた。孔雀緑色の上衣の両袖の裾には藤の蔦が刺繍されていて臙脂色の中衣の襟が覗く。黒い髪をまとめ上げているのは、水晶天華の梅の花の簪だ。春を先取りした美しい出立だ。
烏明星は支給された剣を構えている。流石に本職だけあって隙のない立ち方である。
時折風が吹いて桃の花の香りがした。
先に仕掛けたのは杜雨燕だった。剣舞でも見ているかのような流れるような動きで美しい。孔雀緑色の裳がヒラヒラと揺れる。烏明星はそれを苦もなく避けると逆に杜雨燕に切りかかる。彼女は後ろ飛に避ける。
しばらく一進一退の攻防を続けていたが、杜雨燕の息が少し上がってきた。その隙を烏明星は見逃さない。一気に攻勢に転じて杜雨燕の首に剣を突きつけた。
「素晴らしい。武官相手にここまでやるのなら刺客対峙をしたことを認めよう」
玉林は杜雨燕の主張を認め彼女の「不義密通」の嫌疑は晴れた。顔をしかめ、首を振っているのは莫蕾だ。
(莫蕾は烏明星に惚れている。私は嘉貴妃様たちに目をつけられてしまったようだわ)
杜雨燕は自分に向けられる嫉妬まみれの視線の意味を正確に理解していた。
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