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n+1周目

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 鬱蒼と木々が生い茂る森の中、池のあるその空間だけが唯一空からの月明かりを享受できていた。ほとんどの生物が眠りについている中、控えめな虫の鳴き声がりんりんと響いていた。足元に注意しつつ池へと近寄ると、ランタンの明かりが水草に覆われた水面に映り込んだ。そのまま周辺をぐるりと明かりで照らすと、池の外周のそこかしこに例の花が生えていることが確認できた。
 だが、目に見える場所にイリアの姿はない。まさか池に落ちたなんてことはないだろうな、と水面をもう一度注意深く観察した。ひとまず人が落ちたような荒れた様子は見当たらず、肺に張り詰めていた空気を吐き出した。
 そうなると、あとはこの辺りを探すしかない。

「……」

 無言のまま少し辺りをうろついて、すぐに足を止めた。手っ取り早く探すには声を上げるのが一番だとわかっていたが、どうにも抵抗が拭えない。だって、探しに来たぞと言わんばかりではないか。ここまで来ておいて今更というのはわかっていたが、そう簡単に開き直れはしないのだ。
 だが、しばらく辺りの木陰や茂みなんかを探してみて、これでは埒が明かないと断念することにした。ここまで来ておいて見つけられずに帰る方がよほど間抜けだろう。そんなことは俺のプライドが許さなかった。

「……おい、出て来い」

 ようやくのことで声に出した言葉は、虫の鳴き声に紛れてしまうほど小さなものだった。それでもかなりの羞恥心に襲われた。だが、これではさっきまでと何も変わらない。
 なんで俺がこんな思いを!! とまた同じ問いを心の中で叫びながら、俺は自棄になって声を張り上げた。

「おい! 出てこい!! ……イリア!!」

 怒鳴るように叫んだ言葉が森の中に響く。だが、返ってきたのは鳥の羽ばたきだけだった。羞恥で全身がかっと熱くなる。こんなところを誰かに見られたら死ねる。
 こんなことをあと何回続ければここにはいないと確証が得られるだろう。考えるとうんざりした。羞恥心とプライドが心の中でせめぎ合い、足が引ける。いずれは村の人間もここを探しに来るだろう。そんな中で名前を大声で呼びながら探せば、あっという間に俺がここにいることを知られる。本音を言えば、今すぐに帰ってここに来たという事実を抹消したくて仕方がなかった。
 が、その思いとは裏腹に俺は森の奥へと向けて足を踏み出した。心の中で悪態を吐きながら、鬱憤をぶつけるようにその名を呼んだ。

「イリアっ!!」

 この俺がここまでしてもしいなかったら、あの子供ただではおかない。
いないことを確認するだけでいい、という当初の思惑はすっかり頭から抜け落ちて、俺はイリアを探すことに躍起になっていた。
 またしても何の反応も返ってこず、場所を移そうと歩き出そうとした時、かさかさと葉を踏み締める音がした。
 どうせウサギかネズミかそんなところだろうと思いながら、一応音のした方を確認する。すると、木の根元で小さな影が動くのが見えた。ランタンの明かりをかざすと、その姿が暗闇の中に照らし出される。

「ユージンさま……?」

 震えた声で俺の名前を呼んだのは、イリアだった。
 俺の姿を確認すると、イリアはくしゃりと顔を歪め、駆け寄ってきた。そのまま俺の足に抱き着いて、わんわんと泣き始める。
 見たところ怪我はしていないようだった。絞り出すような長い吐息が口から吐き出される。それからひと呼吸分だけ息を吸い込んで、俺は叩きつけるように言葉を発した。

「こんなところで何してる!! 馬鹿が!!」

 力の限り怒鳴りつけると、イリアがびくりと身を竦ませた。俺の足にぎゅうと顔を押し付けながら、「ごめんなさい」とか細い声で言う。

「くらくて、どっちいったらいいかわかんなくなっちゃって……」

 涙混じりに言われた言葉に溜息が出た。だが、それと同時に別の言葉も口から滑り出た。

「無事でよかった」

 口に出した直後、自分自身驚きで固まった。自分の口から出た言葉が信じられない。だが、俺自身の耳が確かにその音を拾い上げていた。
 困惑のあまり思考が完全に止まったが、それは僅かな間のことだった。周囲を取り囲む気配に俺の意識は強制的に現実へと引き戻された。
 かさりかさりと葉を踏む音がして、数匹の野犬が姿を現した。

「おいイリア、離れろ」

 足にしがみついていたイリアを強引に引き剥がし、自身の背後へと押しやる。「えっ」と戸惑う声が聞こえたが、気にかける余裕などなかった。

「後ろにいろ。絶対に動くなよ」

 野犬たちから目を離すことなく強い口調で言いつけると、ようやく状況に気付いたらしいイリアが怯えた声で返事をした。
 ランタンを足元に置き、腰に差した鞘から剣を引き抜く。数は全部で4匹。一人で相手をするにはやや不利な数だ。問題は数だけではなく、俺の体力にもあった。ずっと部屋に篭りきりだったうえ、少し前までは寝たきりだった。体力の低下は著しく、この場所に来るまでの疲労で足が重たかった。剣も以前よりも重たく感じる。だが、泣き言を言ったところで状況は変わらない。ここから無事帰るにはこの野犬たちをどうにかする他ないのだ。
 じりじりと距離を詰めてくる野犬たちに向けて剣を構えると、緊迫した空気が漂った。睨み合ったのはほんの一瞬で、次の瞬間には唸り声を上げながら獰猛な牙を剥き出しにした野犬たちが一斉に襲いかかってきた。
 正面から飛び掛かってきた一匹の喉元を剣で突き刺す。それと同時に脇から襲いかかってきていた一匹の腹を思い切り蹴り飛ばした。吹き飛んだ体が別の一匹に衝突し、二匹同時に体勢を崩す。その隙に喉元に突き刺していた剣を引き抜き、別の角度から飛び掛かってきていた一匹を斬りつけた。そいつは悲鳴を上げたものの傷は致命傷には至らなかったようで、すぐにまた起き上がり攻勢の構えを取った。
 仕留められたのは一匹。残り三匹が襲いかかるタイミングを計るように俺を睨みつけてくる。俺もまた犬たちを睨み据えながら正面に向けて剣を構え直した。腕が重い。だが、弱みを見せれば一瞬で喉元に喰らいつかれるだろう。
 今度もまた先に仕掛けてきたのは犬たちの方だった。一匹が先陣を切るように飛び掛かってくる。その口目掛けて拳を思い切り突っ込むと、そいつはたちまち怯んだ。そいつの後ろから二匹が同時に攻撃を仕掛けてきたので、片方を剣で薙ぎ払い、もう片方の牙を身を捩って躱す。なんとか二匹の攻撃をやり過ごしたところで、手を口に突っ込んでいた犬の鼻面に柄を思い切り叩きつけた。すると、そいつはぎゃうんと大きく鳴いて酩酊するような足取りでよろよろと後ずさった。
 切り傷を抱えた他の二匹も徐々に俺から距離を取った。どうやら戦意を喪失させることに成功したようだ。
三匹は一歩二歩と慎重に後退していき、やがてその場を走り去った。

 脅威が去ったことを確認すると、緊張が解け、疲労が一気にのしかかってきた。全身から力が抜けるようで危うく剣を取り落としそうになる。それをなんとか鞘に収め、俺は背後を振り向いた。イリアは俺の言いつけ通りその場から一歩も動かずにいたようだった。

「……終わったぞ」

 そう声をかけると、凍りついていた表情が見る見る泣きそうに歪んだ。泣かれるのは面倒だなと他人事のように考えていると、瞳いっぱいに涙を溜めたイリアが「ち」とだけ呟いた。ち? 意味がわからず頭上に疑問符を浮かべる俺を前に、イリアがついにわっと泣き出した。

「ユージンさま、ちがでてるっ……!!」

 この世の終わりのような顔をして何を言うかと思えば、そんなことか。
 イリアの視線を追って右腕を見れば、確かに出血していた。躱したと思っていたが爪が引っかかっていたのだろう。犬の口に突っ込んだ拳にも牙が食い込んだ傷跡があり、血が滴っていた。だが、それほど深い傷ではなかったし、痛みを感じない俺にとっては気にするほどのものではなかった。

「ユージンさま、しんじゃう?!」
「この程度で死ぬか」
「しんじゃやだぁ」
「おい、人の話を聞け!」

 言ったところでイリアに通じるはずもなく、イリアは泣き続けた。泣き止ませる方法など知る由もない俺は早々に諦めて、イリアをさっさと村へ連れ帰ることにした。
 「行くぞ」そう言って歩き出す。数歩進んだところで振り返ると、イリアが泣きじゃくりながら跡をついてきているのが確認できた。しかし、その足取りは不安定で、歩幅も小さく、俺にとっての数歩分の距離が一向に縮まらない。

「……ああもう面倒くさいな!!」

 痺れを切らした俺は思い切り舌打ちをして、よたよたと歩くイリアまで大股で歩み寄るとその身体を一気に抱き上げた。
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