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転機
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家に帰るのも億劫だったので、僕はこのまま紅蓮の集会場に行くことにした。今、まさに彼らはあの建物の一室にいる時間だろうと思ったのだ。
混乱した頭に、刺激を入れたくて、柏原さんやタイスケ達に会って、自分にはない空気を吸いたいと感じた。
彼らはきっと、僕を受け入れてくれるだろう。「いつでも来い」と言ってくれたのだ。
今日はその言葉に甘えよう。
僕は電車が走る音を遠くに聞きながら、目的の場所へスタスタと歩いていった。やがて見えてきたビルは、この間と同じく夜の闇に溶け込んでいて、明かりのついている窓が浮かんでいるようにしか見えなかった。
僕はビルの入口に立つと、今度は何のためらいもなく中に入った。
建物の中の通路や階段は暗かったので、僕は少し考えてから、携帯電話を取り出して、カメラ機能についているフォトライトを点灯させた。
足元に光を向けると、その部分だけが薄明るくぼうっと浮かび上がって、自分の足が白い靄の中にあるみたいだった。
それでも充分に歩けるから、僕はなぜか忍び足になって(雰囲気的に、そうしたい気分になったのだ)、階段を一段ずつ上がっていった。
紅蓮の人達が集まっている部屋は、扉の隙間から明かりが漏れていたので、すぐに分かった。そうでなくとも、居場所は毎日変わらないのだろうから、いちいち一部屋一部屋探っていく手間も省けていい。
多分、聞こえていないだろうと思ってノックをしたら、僕がドアノブに手をかける前に、勢いよく扉が開いた。
「うわっ!」
僕は思わず叫んで、ぴょんと後ろに飛びのいた。
「あ、コースケじゃん!」
軽快な声がして顔をあげると、タイスケがドアノブを触ったまま立っていた。
「うん、こんばんは」
「オマエも急に来るなんて、なかなかやるな!」
悪戯っぽく笑うタイスケを見て、僕もつられて笑顔になる。
「おい、ジュンヤ、今日はコースケが来てくれたから、探しものは明日にしようぜ」
タイスケはくるりと後ろを振り返って言った。
「うん、別にいいよ」
タイスケの後ろから返ってきたのは、彼とさほど変わらない少年の声だった。見ると、僕と同じくらいの背丈で、髪の茶色い少年が、こちらを見つめていた。
「タイスケ、これ、誰?」
ジュンヤと呼ばれたその少年が、僕を指差して言った。僕を……というか、人を「これ」呼ばわりするなんて失礼な奴だなと思ったけど、何も口には出さなかった。
「あー、お前はこないだいなかったからわかんないか。ほら、紅蓮に遼一さんていただろ。あの人の友達」
「遼一さんって死んだ人、だね」
ジュンヤは、何となく、癪にさわる言い方をする奴だ。多分悪気はないんだろうから、僕は彼の発言を咎めることはしないけど、あっけらかんとしたタイスケとは逆に、彼にはねっとりとした性格っぽいなという印象を抱いた。
「俺はあの人、あんまり好きじゃ」
多分、「ない」と続けるつもりだったのだろうジュンヤの口を慌てて塞いで、タイスケは僕の顔をチラリと見た。
「怒んないでくれよ、コースケ」
初めて見るタイスケの下手な態度に、僕は笑いそうになる。あからさまに笑うといけないし、こみあげてくるそれを押し殺しながら、「いいよ」と言った。でも、「怒んないでくれよ」と言われて、「いいよ」などと答えるのは、別に間違ってはいないのだろうけど、それもまた可笑しい。
何をあっけらかんと素直に頷いているのだと、自分で自分に突っ込みをいれたくなる。
タイスケは一安心したらしく、ジュンヤの口から手を離し、僕を部屋の中に招き入れた。
僕は紅蓮の中では有名人らしく(その割にはジュンヤは僕の事を知らなかったけど)、部屋のあらゆるところで、「コースケ」という名前が囁かれていた。こちらは名前も顔も知らない人に自分の事を知られているというのは、随分と落ち着かない。
心がざわざわとするから、きっと僕は芸能人などには向いていないだろう。
「柏原さん、コースケが来ました」
タイスケが言った。見ると、この間と同じで、ソファーに身を据えた柏原さんと、目が合った。
少しだけこの間と違うのは、テーブルにカクテルが置いてあるのと、柏原さんの隣に二人の女の人が座っていることだった。
「こんばんは」
「……ああ、こんばんは、康介くん」
人の名前を覚えるのが苦手な柏原さんでさえ、僕の名前は覚えているようだ。僕は部外者だからなのか、柏原さんはやけに優しい声を出して挨拶をしてくれた。
「タイスケ、探し物はいいのか?」
「コースケが来てくれたから、今日はいいです」
タイスケはにこやかにそう言って、僕の肩に腕を回してきた。
「お前、本当に康介くんが好きなんだな」
「ち、違い……」
「こいつはな、康介くんが来るまで、毎日『コースケ来ねぇかな』って、しつこいくらい言ってたんだ」
否定しかけたタイスケの声の上にかぶせるように、柏原さんはニヤリとしながら言葉を続けた。
「他にも、『コースケは弱そうだから、守ってやれるのはオレしかいない』とか『毎日来てくれればいいのに』とか言ってたな」
「カンベンしてくださいよ、柏原さん」
タイスケは顔を真っ赤にして、言った。どうやら否定しないところを見ると、柏原さんの言っている事は本当らしい。ここまでオーバーに慕われるのも、悪い気はしないな、と、僕はそれを聞きながら思う。
「お前の兄貴も、康介くんと同じくらいの歳だったよな」
「柏原さん、その話は……」
タイスケが真剣な表情になって、抑揚のない声で言った。僕はそれを見て、タイスケはきっと家庭の話をされるのが嫌なんだなと勘ぐった。
そして、タイスケは家が嫌だからここで時間を潰しているんだという考えに行き着く。
もちろん、僕の推測でしかないけれど。
「まあ、座れよ」
柏原さんはそう言って、僕の目の前にあるソファーを指差した。
「……あ、ありがとうございます」
足が若干疲れていた僕は、すかさずそこに座った。柏原さんの横に座っている女の人が、僕を見てくる。
明らかに僕よりも年上の人が、怖い目つきで見るものだから、僕は慌てて視線をテーブルのカクテルに向けた。
「飲みたい?」
すると、僕から見て、左側にいる女の人(金と茶色が混ざったような髪を長く伸ばしていて、化粧はあまりしていないから、どちらかといえば僕はこの人のほうがいい)が話しかけてきて、余計に驚いた。
「い、い、いいです、僕、未成年です」
慌てて答えた僕の言葉を聞いて、タイスケが噴き出した。
「コースケ、やっぱおもろいな!」
「おい、あんまりからかってやるなよ」
柏原さんまでそう言う始末で、僕は余計に恥をかく羽目になった。その元凶を作った女の人も笑っている。
当たり前のことを言っただけなのに、どうして僕がこんな思いをしなきゃいけないのだろう。
「タイスケ、もう嫌い」
僕はせめてもの立場を守るため、苦し紛れにそう言うことしか出来なかったが、「ごめん」と、タイスケが笑うのをやめたので、まあ、効果はあったみたいだ。
「康介くん、ごめんな。居心地が悪いだろ。こいつはマリナ。まあ、悪い奴じゃないから、許してやってくれな」
僕はここに来て、一体何人の人を許さなくちゃいけないんだろうと思いながら、ますます身を固くした。
居心地が悪いだろうと柏原さんは言ったけど、それは彼の横にいる二人の女の人のせいだ。柏原さんが察してくれればいいと思ったけれど、それは無理な頼みだろう。
「オレ、なんか飲み物持ってきてやるよ」
タイスケが鼻歌を歌いながら、ふらふらとどこかへ行ってしまって、余計に気まずくなる。
何か話さなきゃ……。
そう思って、僕は話題を必死で探してみる。
困った顔をしながらうつむく僕は、一人で何かに困惑しているように見えたのかもしれない。
「どうしたんだ、康介くん」と、柏原さんに聞かれた。
「いえ……」
言葉に詰まる。
誰かに迫られたときには、いつものことなのだけれど、今日は何か聞いてみようと思っていた事もあったはずだ。そんなに重要なことでもない気がするけれど、聞いておかなければいけない事だったかもしれない。なんだったかなと、しばらく考えて、ようやく思い出したのは、タイスケが缶コーヒーを持ってきて僕の前に置いた時だった。
その時分には、柏原さんの興味はすっかり僕からそれてしまっていたようで、僕が「あの」と声を出した時には、彼の体がびくっと動いて視線がこちらに向けられた。
「どうした?」
それでも、平静を装って尋ねてきてくれる柏原さんが、すごいなと思った。どうすごいのかは、よく説明できないけど、とにかくそう思ったのだ。
「なんだよ~コースケ、もったいぶってないで早く言えよお!」
タイスケが僕の体をぶんぶんとゆする。そのせいで、僕はみっともなく横に大きく揺れた。だけど、揺らしているタイスケには、僕が起き上がりこぼしのように揺れている間に、彼が聞きたがっていることを口に出来るんだと気付いて欲しい。
柏原さんはそれにとっくに気付いていたらしく、タイスケに「落ち着け」と言った。
「あの、えっと、紅蓮の皆さんは、『萩野』っていう名前の男の人、知ってますか?」
「お前、ハギノって、まさか」
タイスケが勢いあまって、太ももをテーブルにぶつけた。空だったグラスが倒れ、テーブルの上で弧を描く。僕の為の缶コーヒーは、まだ蓋を開けていなかったので、コロコロと転がって床に落ちただけで済んだ。
「康介くん、そのハギノって奴が、怪しいと思ってるのか?」
タイスケが太ももを抑えて悶絶している間に、柏原さんが話を続けた。
「怪しいかどうかは分かりませんが、遼一の件で僕に協力してくれている人で、紅蓮の皆さんのことも知っているような口ぶりで話してました」
「コースケ、そいつは、未成年みたいな見た目の男で、黒い軽自動車に乗ってる奴か?」
「うん」
タイスケの問いかけに、僕はすぐさま頷く。やっぱり、タイスケ達は萩野さんを知っているんだと、思った。
「もしコースケとオレ達の言ってる奴が同一人物なら、そいつ、ケーサツだぞ」
「うん知ってる」
「遼一の一番の友達の康介くんなら、なにか知っているかもしれないと思って、接触を謀ったんだろうな。あいつならそうするだろうし、もしかしたらあいつは康介くんを疑っているのかもしれないぞ」
「……そうですか……」
僕は、またもや俯いた。一体こいつは何回落ち込めば気が済むんだと思われたかもしれない。
「オレ、何回もあいつに補導されてんだよな。マジムカつく。あいつ、オレより強いからさ、勝てねえんだ」
タイスケが唇をとんがらせてぼやいている横で、僕は呆然としていた。事件現場で、初めて萩野さんに声をかけられた時、あの人は僕を疑っていたのか。
「協力してやる」と言って近づいてきたと見せかけて、ほんとはあの人の容疑者リストの中に、僕も入っていたのか。
僕にパスタを奢ってくれた今日も、あの人なりのやり方で僕の事を探っていたのか。
まだそうと決まったわけじゃないけど、よくよく考えてみると、彼がタイスケの言うとおり「ケーサツ」なのだから、その確率は高いのだと気付く。
「タイスケ、柏原さん、教えてくれて、ありがとうございました」
彼らはいわゆる不良だから、警察のこともよく知っているんだろうなと思いながら、僕はお礼を言った。
「混乱してるだろ?温かいものでも飲んで、落ち着け」
柏原さんは床に落ちたままだった缶コーヒーを拾い上げて、そっと僕に手渡した。受け取ると、缶はまだ温かく、手のひらが熱くなった。
蓋を開け、そっと口に含む。
甘い。ホッとして、眠りたくなるような温かい甘さが、じんわりと体に染み渡った。
「どうだ、落ち着いたか?」
柏原さんは優しく声をかけてきてくれる。まだ少し動揺はしていたけれど、それでも最初よりはましになったので、無言で頷いた。
「僕、やっぱり疑われてるのかな」
ぽつりと、零す。
「どうしてそう思う」
柏原さんは、両側の女性に目配せをしながら言った。女性達は、何かを察したのか、スッと立って席を離れていった。その後柏原さんが、タイスケにも同じような視線を投げかけたが、タイスケが鈍感なのか、気付いていないようだった。
「昼間にも、警察の人達が学校に来て、僕は取り調べみたいなものを受けました。そんなことをされるっていうのは、やっぱり僕も容疑者の一人として数えられてるからかなと思ったんです」
「警察も非常識だな。康介くんが取り調べを受けたのを、仮に別の生徒が見てたらどうするんだ。もしかしたらあいつが犯人じゃないかって、憶測にしかすぎない噂が出回って、康介くんの立場が危なくなるとか、考えるだろ、普通」
「だからオレはポリがキライなんだよ!」
タイスケが口を挟む。彼の場違いな発言も、今の僕には刺激的でいいような気がした。
「でも、こうして早めに皆さんに相談して良かったです。おかげで少し気持ちがすっきりしました」
「そうだぞ、コースケ!ポジティブに考えれば、ウジウジ悩むことも少なくなるからな!」
「タイスケ、うるさい、黙れ」
「……すみません」
柏原さんに一喝されたタイスケは、僕の後ろに隠れるように回り込んだ。
「康介くん、悪いな。協力してやると言いながら、何の力にもなれなくて」
「いえ、そんなことないです」
何もしてもらえないなんて、思っていない。仮に、してもらっていなくとも、そんなことは微塵も思わないだろう。僕の質問に答えて、萩野さんの事を教えてくれたのだから、 充分に柏原さん達は、僕に協力してくれている。
少し時間が経ちすぎたので、僕はそろそろ帰ろうと思った。缶コーヒーを飲み干し、「すみません、そろそろ……」と言葉を濁して立ち上がる。空き缶は自分で処分しようと手に持っていたら、タイスケがそれを引ったくるように取り上げてきた。
彼は空き缶が好きなんだろうか。
「また何かあれば、いつでも来いよ」と柏原さんが言い、「毎日来いよ」とタイスケが言った後、僕は軽く会釈をして歩き出した。
彼らとの話に夢中で気付かなかったけれど、周りはなかなかに騒がしかったようだ。部屋のあちこちにグループが出来ていて、各々で盛り上がっている。
部屋を出て扉を閉めると、その喧騒も小さくなり、聴覚だけで感じると、一気に遠くにやって来たみたいだった。
柏原さんやタイスケ以外の人とは、なかなか打ち解けられないだろうなと苦笑しながら、ビルを出る。
再び冷たい空気が僕に突き刺さる。
明日からは、また途方もない日々が始まるのか。自ら首を突っ込んだ事件の、不鮮明な真実はいつ鮮明になるのだろう。
解決するのに、まだスタートラインにさえ立っていない気がする。それでも僕は、少しずつでも歩いていかなきゃいけない。
スタートラインとやらが百キロ先にあったとしても、僕はそこにたどり着かなければいけないのだ。
ビルが、少しずつ遠くなっていく。それにつれて、人通りも増えていく。
そのせいか、僕は後ろから近づいてくる複数の足音を、建物の隙間に引っ張り込まれるまで、僕とは関係ない人達が同じ方向を歩いているのだと、まるで他人事のように思っていた。
「うわあっ!」
ガクンと、腕を引っ張られて骨が外れるかと思ったら、それよりも先に体がよろけ、大袈裟に地面に転んでしまった。あまりにも突然すぎる出来事に、僕は状況が飲み込めなくて、しばらくの間目をしばたたかせて暗い空の雲を見ていた。
どうしてアスファルトが背中の下にあるんだろうとか、どうして全身が痛いんだろうなんて考えているうちに、ようやく状況が分かってくる。
僕の視界に、複数の人影が現れた。
「後藤康介ってコイツだよな」
その中の一人が、他の人に確認するような口ぶりで言った。
「さっきビルから出てきたんだから、そうだろ」
「あの……誰」
僕が、誰ですかと口を挟む前に、お腹に凄い衝撃が来た。息が出来なくなる、というような次元ではない。まるで人の頭ほどの岩を、お腹めがけて高いところから落とされたような衝撃だった。
僕は、声をあげることも出来ず、ただ海老のように体をくねらせて苦しみに喘いでいた。口の中に溜まっていたものを、我慢出来ずに吐き出すと、赤いものが混じっていて、自分でぞっとした。
着ている学校の制服が、血で汚れないようにと、体をのけ反らせる。無様な行動だ。
「ご、ごめんなさい!!」
そして、苦痛から逃れたいがための、何の気持ちもこもっていない謝罪の言葉を口にする。
やめてくださいといえば、相手は面白がってもっと殴ってくるような気もしたし、素直に(自分に非はないから、素直にというのはおかしいかもしれないけど)謝っておいた方が効果的なような気がしたのだ。
だけどそれは間違いだと、すぐに思い知らされた。
僕の目の前に、微かに噴射口のようなものが現れたと思った次の瞬間、そこから何かが吹き出してきて、とっさに瞑ったというのに目に激痛が走ったからだ。
あまりの痛みに、僕は叫び声をあげそうになったが、必死にこらえた。声を発した瞬間に、次の仕打ちが待っているような気がしたからだ。
ひいひいと、泣き声のようなものを口から漏らしながら、涙が溢れ出る目元を、手で抑えていた。その後僕は、無理矢理立たされた挙げ句、体中を殴られたり、蹴られたりして、次に地面に崩れ落ちた時には、息も絶え絶えで、全身を走る痛みに耐えるので精一杯だった。
ちょっと気を抜けば、フッと意識が飛んでしまいそうな心地にとらわれる。視界は暗く、その中に、赤く、細い線が何十にも重なって、じんじんと光って見える。
それはまるで闇に浮かぶ血管のようだなと思う冷静さがまだ心の片隅に残っていたからか、耳元で囁かれた言葉を、僕は鮮明に聞くことが出来た。
「イソが、これ以上首を突っ込んだら、もっと酷い目に合わせるってよ」
面白がっているような少年の声だった。聞いたことのない声だ。それが誰の声なのかは、目が開けられない今の僕には確認出来ない。
頬を殴り飛ばされ、「そろそろいいだろ、あんまりやると死ぬぞ」という言葉を聞き、僕を暴行していたのであろう人達が去っていく足音を確認しながら、少年の言った「イソ」というのは、もしかしたら遼一が助けられなかった礒さんの事かもしれないと考えた。
そして、遠くなっていく話し声の中に、「柏原」という名前を確かに聞いたから、僕は紅蓮の中にいる誰かに暴行されたのだという確信を抱いた。
目が開かない。 体中が痛くて、立ち上がろうとしても体が勝手に崩れてしまう。
僕は、手探りで鞄を開き(鞄は無事だったみたいだ)、携帯電話を取り出した。
指の感覚だけを頼りに、端末を操作する。もともと友達なんてそんなにいないし、目を閉じていても、連絡先くらいは表示させる事が出来る。
僕はゆっくり指を動かして、「は」行にある「颯太」の電話番号を(多分)押した後、端末を耳に当てた。
幾度かの呼び出し音の後、「はい」と、颯太の声が聞こえてきた。たったそれだけの事なのに、僕は泣きそうになる。
「颯太……助けて……」
震える声で言った僕の声を聞いて、ただ事じゃないと思ったのか、電話の向こうの颯太は慌てた様子で言葉を返してきた。
「康介、どうしたんだ?今、どこ?」
「目が開かなくて……わからないんだ。紅蓮のビルの近くだとは思うんだけど、建物の隙間みたいな所に、連れ込まれて、リンチみたいなことされて、催涙スプレーかな?をかけられた」
とぎれとぎれに言葉を発する。お腹に力を入れると痛むので、ヘロヘロと頼りない話し方になってしまった。
「動けないなら、そこにいろよ。俺が行ってやるから。近くまで来たら、電話するからな。絶対、動くなよ!」
「……うん」
「うん」というよりは、どちらかというと「ふん」と聞こえた僕の返事を確認するかのように間が空いた後、その電話は切れた。
颯太に連絡した後、僕は目を閉じたまま、建物の壁にもたれていた。足音や人の声はするのに、誰もこちらに来ないということは、一人として僕に気付いている人はいないのだろう。
それでいい。その方がいい。
おそらく無様な恰好に成り下がってしまった僕の姿は、誰にも見られたくない。
電話が再び鳴ったのは、それから体感時間で二、三十分が経った時だった。本当はもっと短い時間だったのかもしれないけれど、待っているほうはそれがやたらと長く感じるのだ。
「……もしもし」
「康介、俺、今、紅蓮のビルの辺りにいる。大体どこに連れ込まれたか、分かるか?」
走ってきてくれたのだろうか、颯太は息が切れつつも電話越しに話しかけてきた。
「入口から出て、右に曲がって、ちょっとだけ歩いたところかな。道路にはなっていない、建物と建物の隙間っぽい場所だと思う」
「分かった。もう話さなくていいぞ。そのまま待ってろ」
電話が切れる。颯太がすぐに会話をやめたのは、通話料が惜しいからじゃないかと考える余裕が、僕には出来ていた。
涙は止まった。そろそろ目は開けられるかもしれない。
だけど、怖い。きっとすごく痛いだろうから、その痛みに堪えられる自信が無いのだ。
僕はやっぱり臆病者だ。
遼一を殺した犯人にたどり着くならば、どんな手段も厭わないと誓ったはずなのに、いざ自分の身に危機が訪れると、身がすくんでしまって、脱兎の如く逃げ出そうとする奴なのだ。
やっぱり僕には、無理なのかな。当初、誰の助けもいらないと意気がっていた自分を、これでもかとばかりに嘲ってやりたい。
自分には遠慮などせずに、口汚い罵りの言葉を吐けるから。
結局、人に助けを求めたじゃないか。もし、学校で颯太が声をかけてきてくれなかったら、今日の僕はどうするつもりだったんだ。
それ以前に、颯太がいなかったら、今日のような事も起こっていない。
颯太のおかげで、僕は紅蓮の人たちと知り合ったのだから。
つくづく自分の無力さに嫌気がさしたころ、慌ただしい足音が聞こえてきて、「あ、いた!」という、颯太の声がした。
「康介、康介!」
颯太が大きな声で話しかけてきた。そんなに叫ばなくても聞こえるよとは言わない。
「大丈夫か、うわ!お前、マジで大丈夫か!?」
颯太の手が、僕の肩を掴む。痛い。だけど僕は声をあげなかった。
「ごめん、颯太」
「何言ってんだよ、ほら、いつまでもこんなところにいたら、風邪引くぞ、立てるか……その前に、目、開くか?」
優しい声で、颯太は語りかけてきてくれた。
もう、逃げてちゃいけない。目に針を突き立てられているような痛みに、立ち向かわなきゃいけない。
僕は、覚悟を決めた。いつまでも目を閉じている場合じゃない。 歯を食いしばって、僕は目を開けた。
プチンッと糸が切れたような感触がした後、今までで一番の痛みを伴いながら僕の目は開いた。
「……開いた」
僕は分かりきったことを口にして、痛みをごまかそうとしたのだけれど、無駄だった。
堰をきったかのように涙が頬を流れ落ちていって、やがてぼやけた視界の中に颯太の心配そうな顔が浮かび上がってきた。
「俺の顔、見えるか?」
「うん……かっこいい顔が、見えるよ」
冗談めかした口調で、僕は言った。かっこいいというのはまんざら冗談でもなかったけれど、颯太は何も言わずただ苦笑しただけだった。
「歩けるなら、俺の肩、貸してやるけど、歩けないならおんぶしてやるぞ」
「お、おんぶはいいよ」
僕は慌てて拒否をして、少しずつ立ち上がった。
「あんま無理すんなよ」
颯太は、僕の腕を自分の肩に回し入れると、「よいしょ」と呟いてから歩き出した。
僕はただ彼に身を委ねて足を動かせばいいだけで、痛みもそんなに感じないし、楽だなと思った。
颯太は人の介抱に慣れているのだろうか。サッカー部だから、誤って足を蹴り飛ばされた人が歩けなくなって、こんなふうに肩を貸したりするのだろうか。
僕がそんなことを考えていると、颯太が話しかけてきた。
「お前、自分をこんな目に合わせた奴らを覚えてんだろうな」
「……顔を見る前に、スプレーみたいなのをかけられたから、確実な証拠はないけど、多分紅蓮の誰かだと思う。柏原さんの名前を言ってたし」
「ふーん。あいつら、味方かと思ってたらそうでもないんだな」
「で、でも、柏原さんとかはちゃんと僕に協力してくれるって言ってたし、タイスケなんて僕を守ってくれるって何度も言ってくれたよ」
「純粋だな、お前」
紅蓮は確かに胡散臭いかもしれないけれど、柏原さんとタイスケの名誉だけは挽回しておこうと思ったのに、颯太には鼻で笑われてしまった。
「他人の言葉なんて、そう簡単に鵜呑みにするなよ。もし俺がお前を今から殴り殺したら、どうするんだ?それに、お前を守ってやるって言ってる奴、タイスケって奴か?……そいつ、お前がリンチされてる時に駆け付けてくれたか?」
「颯太が僕を殺すとは思わないし、タイスケはビルにいたままだっただろうから、助けに来られないよ」
「そいつが、リンチ集団の中にいたとは、考えないのか?」
「そ、それは……」
否定も出来なかったし、肯定なんて、したくなかった。
「でも、彼らは『イソ』っていう人が仕向けた人っぽいし、仮にタイスケがそこにいたとしても、イソさんに逆らえないんだったら仕方ないよ」
「お前、タイスケの事、どんだけ好きなんだよ」
颯太がまた苦笑する。僕は一体あと何回、彼に呆れられたらいいのだろう。
僕がタイスケを擁護する動機は、彼が犯人ではありませんようにという願望からきているのかもしれない。
「まあ、とにかく、貴重な情報が手に入ったから、いいじゃん」
「え?」
「お前をリンチするように差し向けたのは『イソ』って奴なんだろ?じゃあ、そいつにとって、お前が遼一の事件を嗅ぎ回るのが都合が悪いならそいつが犯人だっていう可能性は高くないか?」
「うん……」
颯太の言う通りなのかもしれないが、そうだとしたら僕は真相にぐっと近付いたことになる。
怪我の功名と言うべきなのだろうか。まあ、僕としては、それくらいの見返りがあったほうがいいけれど。
「調べてみる価値はあるだろ」
仮に僕が、「めんどくさい」とか言って、その申し出を拒否したとしたら、颯太はキレて僕を瀕死の重傷に負わせるんじゃないかと思ったくらい、そう言った颯太の顔は険しくて怖かった。
「遼一を殺して、お前をこんな目に合わせた奴は、絶対に同一人物だ。俺はそいつを絶対許さない。だから康介、犯人を一緒に見つけ出そうな」
颯太は、彼自身の気持ちを吐露しつつも、力強い言葉で僕を勇気付けてくれているんだと分かった。
「でもまあ、今日は帰って休めよ。明日が休みだからいいけど、ちゃんと制服洗って、傷も消毒しろよ」
「うん」
言われなくてもそうするよ、とは言えなかった。颯太の優しい気遣いが、すごく身に沁みて嬉しかったのだ。
「颯太、本当にありがとう」
「よそよそしいなぁ、なんか……」
「親しき仲にも礼儀ありだよ」
僕は自分の好きな言葉を言って、ちょっとだけ威張ってみたけれど、颯太は素直に「うん、そうだな」と頷いただけだった。
それからしばらくは無言で歩き、ようやく僕の家が見えてきた時、颯太は「お前ん家、遠いんだよ!」と悪態をついた。
そんなこと言われても、僕が家の位置を決めたわけじゃないから仕方ないと言おうとしたら、颯太は家のチャイムを何の躊躇いもなく押していた。
どたどたどたと、外にまで聞こえる大きな足音をたててやって来てから玄関を開けたのは、母さんだった。
颯太を見て、その後僕を見る。そして近付いてくる母さんに向かって、颯太は「おばさん、すみませんでした!」と勢いよく頭を下げた。
僕と母さんは驚いて颯太を見る。
母さんはいきなり知らない少年に頭を下げられてびっくりしたんだろうし、僕はなぜ颯太が謝るのかとびっくりしたのだ。
「俺、康介君の友人の、加賀美颯太といいます。実は今日、俺のせいで、康介君が絡まれてしまって……その……怪我をしてしまったんです」
颯太の言葉を聞いた母さんの視線が、僕に移動する。
「あんた、大丈夫なの?」
そして、ぎょっとした表情で母さんはそう言った。
「僕は大丈夫だから」
母さんの慌てように苦笑しながら。
颯太に抱えてもらって帰ってきたし、本当は大丈夫とは言いがたいのだけれど、颯太がなぜか自分が悪いかのような言い方をしたし、彼が責められると困るので、あえてそう言ったのだ。
「全く日常生活には差し支えないし、怪我も見た目ほどたいしたことないから、颯太を怒らないでよ」
僕はそう言って颯太の肩から、腕を離した。
颯太は驚いたようにほんの一瞬僕を見たが、僕は気にしないそぶりを見せて、「今日はわざわざありがとう」と一言言ってから、よたよたと家の中に入った。
後でメッセージを送ってちゃんとお礼をしようと思いながら自分の部屋に向かったから、その後颯太と母さんがどんな話をしたのかはよく知らない。
母さんはその後、僕の怪我については何も言ってこなかった。
颯太に「今日はホントにありがとう、助かったよ。母さんなんか変な事言ってなかった?」とメッセージを送っても、返ってきたのは「気にすんなよ」の一言だけだった。
怖い。自分の知らないところで、自分の親が自分の友人に、何か酷い事を言ったんじゃないかと思うと、とても平常心ではいられなかった。
そうは言っても、母さんや颯太は、僕に何があったか話すつもりは無いのだ。だから、僕にはどうしようもない。
窓の外を眺めてみたいと思った。ガラスにはたくさんの露がついていて、手で擦らないと景色は見えなかった。
月が浮かんでいる。空は暗く、いつもと変わらない景色だ。僕は何となく、ガラスに「バカ」と指で書いた。
指を離すと次第に水滴が流れ落ちていって、バとカの字がくっついてしまった。本当に何気なく書いたつもりだったけど、もしかするとそれは自分自身に対する叱責と卑下の言葉だったのかもしれない。
混乱した頭に、刺激を入れたくて、柏原さんやタイスケ達に会って、自分にはない空気を吸いたいと感じた。
彼らはきっと、僕を受け入れてくれるだろう。「いつでも来い」と言ってくれたのだ。
今日はその言葉に甘えよう。
僕は電車が走る音を遠くに聞きながら、目的の場所へスタスタと歩いていった。やがて見えてきたビルは、この間と同じく夜の闇に溶け込んでいて、明かりのついている窓が浮かんでいるようにしか見えなかった。
僕はビルの入口に立つと、今度は何のためらいもなく中に入った。
建物の中の通路や階段は暗かったので、僕は少し考えてから、携帯電話を取り出して、カメラ機能についているフォトライトを点灯させた。
足元に光を向けると、その部分だけが薄明るくぼうっと浮かび上がって、自分の足が白い靄の中にあるみたいだった。
それでも充分に歩けるから、僕はなぜか忍び足になって(雰囲気的に、そうしたい気分になったのだ)、階段を一段ずつ上がっていった。
紅蓮の人達が集まっている部屋は、扉の隙間から明かりが漏れていたので、すぐに分かった。そうでなくとも、居場所は毎日変わらないのだろうから、いちいち一部屋一部屋探っていく手間も省けていい。
多分、聞こえていないだろうと思ってノックをしたら、僕がドアノブに手をかける前に、勢いよく扉が開いた。
「うわっ!」
僕は思わず叫んで、ぴょんと後ろに飛びのいた。
「あ、コースケじゃん!」
軽快な声がして顔をあげると、タイスケがドアノブを触ったまま立っていた。
「うん、こんばんは」
「オマエも急に来るなんて、なかなかやるな!」
悪戯っぽく笑うタイスケを見て、僕もつられて笑顔になる。
「おい、ジュンヤ、今日はコースケが来てくれたから、探しものは明日にしようぜ」
タイスケはくるりと後ろを振り返って言った。
「うん、別にいいよ」
タイスケの後ろから返ってきたのは、彼とさほど変わらない少年の声だった。見ると、僕と同じくらいの背丈で、髪の茶色い少年が、こちらを見つめていた。
「タイスケ、これ、誰?」
ジュンヤと呼ばれたその少年が、僕を指差して言った。僕を……というか、人を「これ」呼ばわりするなんて失礼な奴だなと思ったけど、何も口には出さなかった。
「あー、お前はこないだいなかったからわかんないか。ほら、紅蓮に遼一さんていただろ。あの人の友達」
「遼一さんって死んだ人、だね」
ジュンヤは、何となく、癪にさわる言い方をする奴だ。多分悪気はないんだろうから、僕は彼の発言を咎めることはしないけど、あっけらかんとしたタイスケとは逆に、彼にはねっとりとした性格っぽいなという印象を抱いた。
「俺はあの人、あんまり好きじゃ」
多分、「ない」と続けるつもりだったのだろうジュンヤの口を慌てて塞いで、タイスケは僕の顔をチラリと見た。
「怒んないでくれよ、コースケ」
初めて見るタイスケの下手な態度に、僕は笑いそうになる。あからさまに笑うといけないし、こみあげてくるそれを押し殺しながら、「いいよ」と言った。でも、「怒んないでくれよ」と言われて、「いいよ」などと答えるのは、別に間違ってはいないのだろうけど、それもまた可笑しい。
何をあっけらかんと素直に頷いているのだと、自分で自分に突っ込みをいれたくなる。
タイスケは一安心したらしく、ジュンヤの口から手を離し、僕を部屋の中に招き入れた。
僕は紅蓮の中では有名人らしく(その割にはジュンヤは僕の事を知らなかったけど)、部屋のあらゆるところで、「コースケ」という名前が囁かれていた。こちらは名前も顔も知らない人に自分の事を知られているというのは、随分と落ち着かない。
心がざわざわとするから、きっと僕は芸能人などには向いていないだろう。
「柏原さん、コースケが来ました」
タイスケが言った。見ると、この間と同じで、ソファーに身を据えた柏原さんと、目が合った。
少しだけこの間と違うのは、テーブルにカクテルが置いてあるのと、柏原さんの隣に二人の女の人が座っていることだった。
「こんばんは」
「……ああ、こんばんは、康介くん」
人の名前を覚えるのが苦手な柏原さんでさえ、僕の名前は覚えているようだ。僕は部外者だからなのか、柏原さんはやけに優しい声を出して挨拶をしてくれた。
「タイスケ、探し物はいいのか?」
「コースケが来てくれたから、今日はいいです」
タイスケはにこやかにそう言って、僕の肩に腕を回してきた。
「お前、本当に康介くんが好きなんだな」
「ち、違い……」
「こいつはな、康介くんが来るまで、毎日『コースケ来ねぇかな』って、しつこいくらい言ってたんだ」
否定しかけたタイスケの声の上にかぶせるように、柏原さんはニヤリとしながら言葉を続けた。
「他にも、『コースケは弱そうだから、守ってやれるのはオレしかいない』とか『毎日来てくれればいいのに』とか言ってたな」
「カンベンしてくださいよ、柏原さん」
タイスケは顔を真っ赤にして、言った。どうやら否定しないところを見ると、柏原さんの言っている事は本当らしい。ここまでオーバーに慕われるのも、悪い気はしないな、と、僕はそれを聞きながら思う。
「お前の兄貴も、康介くんと同じくらいの歳だったよな」
「柏原さん、その話は……」
タイスケが真剣な表情になって、抑揚のない声で言った。僕はそれを見て、タイスケはきっと家庭の話をされるのが嫌なんだなと勘ぐった。
そして、タイスケは家が嫌だからここで時間を潰しているんだという考えに行き着く。
もちろん、僕の推測でしかないけれど。
「まあ、座れよ」
柏原さんはそう言って、僕の目の前にあるソファーを指差した。
「……あ、ありがとうございます」
足が若干疲れていた僕は、すかさずそこに座った。柏原さんの横に座っている女の人が、僕を見てくる。
明らかに僕よりも年上の人が、怖い目つきで見るものだから、僕は慌てて視線をテーブルのカクテルに向けた。
「飲みたい?」
すると、僕から見て、左側にいる女の人(金と茶色が混ざったような髪を長く伸ばしていて、化粧はあまりしていないから、どちらかといえば僕はこの人のほうがいい)が話しかけてきて、余計に驚いた。
「い、い、いいです、僕、未成年です」
慌てて答えた僕の言葉を聞いて、タイスケが噴き出した。
「コースケ、やっぱおもろいな!」
「おい、あんまりからかってやるなよ」
柏原さんまでそう言う始末で、僕は余計に恥をかく羽目になった。その元凶を作った女の人も笑っている。
当たり前のことを言っただけなのに、どうして僕がこんな思いをしなきゃいけないのだろう。
「タイスケ、もう嫌い」
僕はせめてもの立場を守るため、苦し紛れにそう言うことしか出来なかったが、「ごめん」と、タイスケが笑うのをやめたので、まあ、効果はあったみたいだ。
「康介くん、ごめんな。居心地が悪いだろ。こいつはマリナ。まあ、悪い奴じゃないから、許してやってくれな」
僕はここに来て、一体何人の人を許さなくちゃいけないんだろうと思いながら、ますます身を固くした。
居心地が悪いだろうと柏原さんは言ったけど、それは彼の横にいる二人の女の人のせいだ。柏原さんが察してくれればいいと思ったけれど、それは無理な頼みだろう。
「オレ、なんか飲み物持ってきてやるよ」
タイスケが鼻歌を歌いながら、ふらふらとどこかへ行ってしまって、余計に気まずくなる。
何か話さなきゃ……。
そう思って、僕は話題を必死で探してみる。
困った顔をしながらうつむく僕は、一人で何かに困惑しているように見えたのかもしれない。
「どうしたんだ、康介くん」と、柏原さんに聞かれた。
「いえ……」
言葉に詰まる。
誰かに迫られたときには、いつものことなのだけれど、今日は何か聞いてみようと思っていた事もあったはずだ。そんなに重要なことでもない気がするけれど、聞いておかなければいけない事だったかもしれない。なんだったかなと、しばらく考えて、ようやく思い出したのは、タイスケが缶コーヒーを持ってきて僕の前に置いた時だった。
その時分には、柏原さんの興味はすっかり僕からそれてしまっていたようで、僕が「あの」と声を出した時には、彼の体がびくっと動いて視線がこちらに向けられた。
「どうした?」
それでも、平静を装って尋ねてきてくれる柏原さんが、すごいなと思った。どうすごいのかは、よく説明できないけど、とにかくそう思ったのだ。
「なんだよ~コースケ、もったいぶってないで早く言えよお!」
タイスケが僕の体をぶんぶんとゆする。そのせいで、僕はみっともなく横に大きく揺れた。だけど、揺らしているタイスケには、僕が起き上がりこぼしのように揺れている間に、彼が聞きたがっていることを口に出来るんだと気付いて欲しい。
柏原さんはそれにとっくに気付いていたらしく、タイスケに「落ち着け」と言った。
「あの、えっと、紅蓮の皆さんは、『萩野』っていう名前の男の人、知ってますか?」
「お前、ハギノって、まさか」
タイスケが勢いあまって、太ももをテーブルにぶつけた。空だったグラスが倒れ、テーブルの上で弧を描く。僕の為の缶コーヒーは、まだ蓋を開けていなかったので、コロコロと転がって床に落ちただけで済んだ。
「康介くん、そのハギノって奴が、怪しいと思ってるのか?」
タイスケが太ももを抑えて悶絶している間に、柏原さんが話を続けた。
「怪しいかどうかは分かりませんが、遼一の件で僕に協力してくれている人で、紅蓮の皆さんのことも知っているような口ぶりで話してました」
「コースケ、そいつは、未成年みたいな見た目の男で、黒い軽自動車に乗ってる奴か?」
「うん」
タイスケの問いかけに、僕はすぐさま頷く。やっぱり、タイスケ達は萩野さんを知っているんだと、思った。
「もしコースケとオレ達の言ってる奴が同一人物なら、そいつ、ケーサツだぞ」
「うん知ってる」
「遼一の一番の友達の康介くんなら、なにか知っているかもしれないと思って、接触を謀ったんだろうな。あいつならそうするだろうし、もしかしたらあいつは康介くんを疑っているのかもしれないぞ」
「……そうですか……」
僕は、またもや俯いた。一体こいつは何回落ち込めば気が済むんだと思われたかもしれない。
「オレ、何回もあいつに補導されてんだよな。マジムカつく。あいつ、オレより強いからさ、勝てねえんだ」
タイスケが唇をとんがらせてぼやいている横で、僕は呆然としていた。事件現場で、初めて萩野さんに声をかけられた時、あの人は僕を疑っていたのか。
「協力してやる」と言って近づいてきたと見せかけて、ほんとはあの人の容疑者リストの中に、僕も入っていたのか。
僕にパスタを奢ってくれた今日も、あの人なりのやり方で僕の事を探っていたのか。
まだそうと決まったわけじゃないけど、よくよく考えてみると、彼がタイスケの言うとおり「ケーサツ」なのだから、その確率は高いのだと気付く。
「タイスケ、柏原さん、教えてくれて、ありがとうございました」
彼らはいわゆる不良だから、警察のこともよく知っているんだろうなと思いながら、僕はお礼を言った。
「混乱してるだろ?温かいものでも飲んで、落ち着け」
柏原さんは床に落ちたままだった缶コーヒーを拾い上げて、そっと僕に手渡した。受け取ると、缶はまだ温かく、手のひらが熱くなった。
蓋を開け、そっと口に含む。
甘い。ホッとして、眠りたくなるような温かい甘さが、じんわりと体に染み渡った。
「どうだ、落ち着いたか?」
柏原さんは優しく声をかけてきてくれる。まだ少し動揺はしていたけれど、それでも最初よりはましになったので、無言で頷いた。
「僕、やっぱり疑われてるのかな」
ぽつりと、零す。
「どうしてそう思う」
柏原さんは、両側の女性に目配せをしながら言った。女性達は、何かを察したのか、スッと立って席を離れていった。その後柏原さんが、タイスケにも同じような視線を投げかけたが、タイスケが鈍感なのか、気付いていないようだった。
「昼間にも、警察の人達が学校に来て、僕は取り調べみたいなものを受けました。そんなことをされるっていうのは、やっぱり僕も容疑者の一人として数えられてるからかなと思ったんです」
「警察も非常識だな。康介くんが取り調べを受けたのを、仮に別の生徒が見てたらどうするんだ。もしかしたらあいつが犯人じゃないかって、憶測にしかすぎない噂が出回って、康介くんの立場が危なくなるとか、考えるだろ、普通」
「だからオレはポリがキライなんだよ!」
タイスケが口を挟む。彼の場違いな発言も、今の僕には刺激的でいいような気がした。
「でも、こうして早めに皆さんに相談して良かったです。おかげで少し気持ちがすっきりしました」
「そうだぞ、コースケ!ポジティブに考えれば、ウジウジ悩むことも少なくなるからな!」
「タイスケ、うるさい、黙れ」
「……すみません」
柏原さんに一喝されたタイスケは、僕の後ろに隠れるように回り込んだ。
「康介くん、悪いな。協力してやると言いながら、何の力にもなれなくて」
「いえ、そんなことないです」
何もしてもらえないなんて、思っていない。仮に、してもらっていなくとも、そんなことは微塵も思わないだろう。僕の質問に答えて、萩野さんの事を教えてくれたのだから、 充分に柏原さん達は、僕に協力してくれている。
少し時間が経ちすぎたので、僕はそろそろ帰ろうと思った。缶コーヒーを飲み干し、「すみません、そろそろ……」と言葉を濁して立ち上がる。空き缶は自分で処分しようと手に持っていたら、タイスケがそれを引ったくるように取り上げてきた。
彼は空き缶が好きなんだろうか。
「また何かあれば、いつでも来いよ」と柏原さんが言い、「毎日来いよ」とタイスケが言った後、僕は軽く会釈をして歩き出した。
彼らとの話に夢中で気付かなかったけれど、周りはなかなかに騒がしかったようだ。部屋のあちこちにグループが出来ていて、各々で盛り上がっている。
部屋を出て扉を閉めると、その喧騒も小さくなり、聴覚だけで感じると、一気に遠くにやって来たみたいだった。
柏原さんやタイスケ以外の人とは、なかなか打ち解けられないだろうなと苦笑しながら、ビルを出る。
再び冷たい空気が僕に突き刺さる。
明日からは、また途方もない日々が始まるのか。自ら首を突っ込んだ事件の、不鮮明な真実はいつ鮮明になるのだろう。
解決するのに、まだスタートラインにさえ立っていない気がする。それでも僕は、少しずつでも歩いていかなきゃいけない。
スタートラインとやらが百キロ先にあったとしても、僕はそこにたどり着かなければいけないのだ。
ビルが、少しずつ遠くなっていく。それにつれて、人通りも増えていく。
そのせいか、僕は後ろから近づいてくる複数の足音を、建物の隙間に引っ張り込まれるまで、僕とは関係ない人達が同じ方向を歩いているのだと、まるで他人事のように思っていた。
「うわあっ!」
ガクンと、腕を引っ張られて骨が外れるかと思ったら、それよりも先に体がよろけ、大袈裟に地面に転んでしまった。あまりにも突然すぎる出来事に、僕は状況が飲み込めなくて、しばらくの間目をしばたたかせて暗い空の雲を見ていた。
どうしてアスファルトが背中の下にあるんだろうとか、どうして全身が痛いんだろうなんて考えているうちに、ようやく状況が分かってくる。
僕の視界に、複数の人影が現れた。
「後藤康介ってコイツだよな」
その中の一人が、他の人に確認するような口ぶりで言った。
「さっきビルから出てきたんだから、そうだろ」
「あの……誰」
僕が、誰ですかと口を挟む前に、お腹に凄い衝撃が来た。息が出来なくなる、というような次元ではない。まるで人の頭ほどの岩を、お腹めがけて高いところから落とされたような衝撃だった。
僕は、声をあげることも出来ず、ただ海老のように体をくねらせて苦しみに喘いでいた。口の中に溜まっていたものを、我慢出来ずに吐き出すと、赤いものが混じっていて、自分でぞっとした。
着ている学校の制服が、血で汚れないようにと、体をのけ反らせる。無様な行動だ。
「ご、ごめんなさい!!」
そして、苦痛から逃れたいがための、何の気持ちもこもっていない謝罪の言葉を口にする。
やめてくださいといえば、相手は面白がってもっと殴ってくるような気もしたし、素直に(自分に非はないから、素直にというのはおかしいかもしれないけど)謝っておいた方が効果的なような気がしたのだ。
だけどそれは間違いだと、すぐに思い知らされた。
僕の目の前に、微かに噴射口のようなものが現れたと思った次の瞬間、そこから何かが吹き出してきて、とっさに瞑ったというのに目に激痛が走ったからだ。
あまりの痛みに、僕は叫び声をあげそうになったが、必死にこらえた。声を発した瞬間に、次の仕打ちが待っているような気がしたからだ。
ひいひいと、泣き声のようなものを口から漏らしながら、涙が溢れ出る目元を、手で抑えていた。その後僕は、無理矢理立たされた挙げ句、体中を殴られたり、蹴られたりして、次に地面に崩れ落ちた時には、息も絶え絶えで、全身を走る痛みに耐えるので精一杯だった。
ちょっと気を抜けば、フッと意識が飛んでしまいそうな心地にとらわれる。視界は暗く、その中に、赤く、細い線が何十にも重なって、じんじんと光って見える。
それはまるで闇に浮かぶ血管のようだなと思う冷静さがまだ心の片隅に残っていたからか、耳元で囁かれた言葉を、僕は鮮明に聞くことが出来た。
「イソが、これ以上首を突っ込んだら、もっと酷い目に合わせるってよ」
面白がっているような少年の声だった。聞いたことのない声だ。それが誰の声なのかは、目が開けられない今の僕には確認出来ない。
頬を殴り飛ばされ、「そろそろいいだろ、あんまりやると死ぬぞ」という言葉を聞き、僕を暴行していたのであろう人達が去っていく足音を確認しながら、少年の言った「イソ」というのは、もしかしたら遼一が助けられなかった礒さんの事かもしれないと考えた。
そして、遠くなっていく話し声の中に、「柏原」という名前を確かに聞いたから、僕は紅蓮の中にいる誰かに暴行されたのだという確信を抱いた。
目が開かない。 体中が痛くて、立ち上がろうとしても体が勝手に崩れてしまう。
僕は、手探りで鞄を開き(鞄は無事だったみたいだ)、携帯電話を取り出した。
指の感覚だけを頼りに、端末を操作する。もともと友達なんてそんなにいないし、目を閉じていても、連絡先くらいは表示させる事が出来る。
僕はゆっくり指を動かして、「は」行にある「颯太」の電話番号を(多分)押した後、端末を耳に当てた。
幾度かの呼び出し音の後、「はい」と、颯太の声が聞こえてきた。たったそれだけの事なのに、僕は泣きそうになる。
「颯太……助けて……」
震える声で言った僕の声を聞いて、ただ事じゃないと思ったのか、電話の向こうの颯太は慌てた様子で言葉を返してきた。
「康介、どうしたんだ?今、どこ?」
「目が開かなくて……わからないんだ。紅蓮のビルの近くだとは思うんだけど、建物の隙間みたいな所に、連れ込まれて、リンチみたいなことされて、催涙スプレーかな?をかけられた」
とぎれとぎれに言葉を発する。お腹に力を入れると痛むので、ヘロヘロと頼りない話し方になってしまった。
「動けないなら、そこにいろよ。俺が行ってやるから。近くまで来たら、電話するからな。絶対、動くなよ!」
「……うん」
「うん」というよりは、どちらかというと「ふん」と聞こえた僕の返事を確認するかのように間が空いた後、その電話は切れた。
颯太に連絡した後、僕は目を閉じたまま、建物の壁にもたれていた。足音や人の声はするのに、誰もこちらに来ないということは、一人として僕に気付いている人はいないのだろう。
それでいい。その方がいい。
おそらく無様な恰好に成り下がってしまった僕の姿は、誰にも見られたくない。
電話が再び鳴ったのは、それから体感時間で二、三十分が経った時だった。本当はもっと短い時間だったのかもしれないけれど、待っているほうはそれがやたらと長く感じるのだ。
「……もしもし」
「康介、俺、今、紅蓮のビルの辺りにいる。大体どこに連れ込まれたか、分かるか?」
走ってきてくれたのだろうか、颯太は息が切れつつも電話越しに話しかけてきた。
「入口から出て、右に曲がって、ちょっとだけ歩いたところかな。道路にはなっていない、建物と建物の隙間っぽい場所だと思う」
「分かった。もう話さなくていいぞ。そのまま待ってろ」
電話が切れる。颯太がすぐに会話をやめたのは、通話料が惜しいからじゃないかと考える余裕が、僕には出来ていた。
涙は止まった。そろそろ目は開けられるかもしれない。
だけど、怖い。きっとすごく痛いだろうから、その痛みに堪えられる自信が無いのだ。
僕はやっぱり臆病者だ。
遼一を殺した犯人にたどり着くならば、どんな手段も厭わないと誓ったはずなのに、いざ自分の身に危機が訪れると、身がすくんでしまって、脱兎の如く逃げ出そうとする奴なのだ。
やっぱり僕には、無理なのかな。当初、誰の助けもいらないと意気がっていた自分を、これでもかとばかりに嘲ってやりたい。
自分には遠慮などせずに、口汚い罵りの言葉を吐けるから。
結局、人に助けを求めたじゃないか。もし、学校で颯太が声をかけてきてくれなかったら、今日の僕はどうするつもりだったんだ。
それ以前に、颯太がいなかったら、今日のような事も起こっていない。
颯太のおかげで、僕は紅蓮の人たちと知り合ったのだから。
つくづく自分の無力さに嫌気がさしたころ、慌ただしい足音が聞こえてきて、「あ、いた!」という、颯太の声がした。
「康介、康介!」
颯太が大きな声で話しかけてきた。そんなに叫ばなくても聞こえるよとは言わない。
「大丈夫か、うわ!お前、マジで大丈夫か!?」
颯太の手が、僕の肩を掴む。痛い。だけど僕は声をあげなかった。
「ごめん、颯太」
「何言ってんだよ、ほら、いつまでもこんなところにいたら、風邪引くぞ、立てるか……その前に、目、開くか?」
優しい声で、颯太は語りかけてきてくれた。
もう、逃げてちゃいけない。目に針を突き立てられているような痛みに、立ち向かわなきゃいけない。
僕は、覚悟を決めた。いつまでも目を閉じている場合じゃない。 歯を食いしばって、僕は目を開けた。
プチンッと糸が切れたような感触がした後、今までで一番の痛みを伴いながら僕の目は開いた。
「……開いた」
僕は分かりきったことを口にして、痛みをごまかそうとしたのだけれど、無駄だった。
堰をきったかのように涙が頬を流れ落ちていって、やがてぼやけた視界の中に颯太の心配そうな顔が浮かび上がってきた。
「俺の顔、見えるか?」
「うん……かっこいい顔が、見えるよ」
冗談めかした口調で、僕は言った。かっこいいというのはまんざら冗談でもなかったけれど、颯太は何も言わずただ苦笑しただけだった。
「歩けるなら、俺の肩、貸してやるけど、歩けないならおんぶしてやるぞ」
「お、おんぶはいいよ」
僕は慌てて拒否をして、少しずつ立ち上がった。
「あんま無理すんなよ」
颯太は、僕の腕を自分の肩に回し入れると、「よいしょ」と呟いてから歩き出した。
僕はただ彼に身を委ねて足を動かせばいいだけで、痛みもそんなに感じないし、楽だなと思った。
颯太は人の介抱に慣れているのだろうか。サッカー部だから、誤って足を蹴り飛ばされた人が歩けなくなって、こんなふうに肩を貸したりするのだろうか。
僕がそんなことを考えていると、颯太が話しかけてきた。
「お前、自分をこんな目に合わせた奴らを覚えてんだろうな」
「……顔を見る前に、スプレーみたいなのをかけられたから、確実な証拠はないけど、多分紅蓮の誰かだと思う。柏原さんの名前を言ってたし」
「ふーん。あいつら、味方かと思ってたらそうでもないんだな」
「で、でも、柏原さんとかはちゃんと僕に協力してくれるって言ってたし、タイスケなんて僕を守ってくれるって何度も言ってくれたよ」
「純粋だな、お前」
紅蓮は確かに胡散臭いかもしれないけれど、柏原さんとタイスケの名誉だけは挽回しておこうと思ったのに、颯太には鼻で笑われてしまった。
「他人の言葉なんて、そう簡単に鵜呑みにするなよ。もし俺がお前を今から殴り殺したら、どうするんだ?それに、お前を守ってやるって言ってる奴、タイスケって奴か?……そいつ、お前がリンチされてる時に駆け付けてくれたか?」
「颯太が僕を殺すとは思わないし、タイスケはビルにいたままだっただろうから、助けに来られないよ」
「そいつが、リンチ集団の中にいたとは、考えないのか?」
「そ、それは……」
否定も出来なかったし、肯定なんて、したくなかった。
「でも、彼らは『イソ』っていう人が仕向けた人っぽいし、仮にタイスケがそこにいたとしても、イソさんに逆らえないんだったら仕方ないよ」
「お前、タイスケの事、どんだけ好きなんだよ」
颯太がまた苦笑する。僕は一体あと何回、彼に呆れられたらいいのだろう。
僕がタイスケを擁護する動機は、彼が犯人ではありませんようにという願望からきているのかもしれない。
「まあ、とにかく、貴重な情報が手に入ったから、いいじゃん」
「え?」
「お前をリンチするように差し向けたのは『イソ』って奴なんだろ?じゃあ、そいつにとって、お前が遼一の事件を嗅ぎ回るのが都合が悪いならそいつが犯人だっていう可能性は高くないか?」
「うん……」
颯太の言う通りなのかもしれないが、そうだとしたら僕は真相にぐっと近付いたことになる。
怪我の功名と言うべきなのだろうか。まあ、僕としては、それくらいの見返りがあったほうがいいけれど。
「調べてみる価値はあるだろ」
仮に僕が、「めんどくさい」とか言って、その申し出を拒否したとしたら、颯太はキレて僕を瀕死の重傷に負わせるんじゃないかと思ったくらい、そう言った颯太の顔は険しくて怖かった。
「遼一を殺して、お前をこんな目に合わせた奴は、絶対に同一人物だ。俺はそいつを絶対許さない。だから康介、犯人を一緒に見つけ出そうな」
颯太は、彼自身の気持ちを吐露しつつも、力強い言葉で僕を勇気付けてくれているんだと分かった。
「でもまあ、今日は帰って休めよ。明日が休みだからいいけど、ちゃんと制服洗って、傷も消毒しろよ」
「うん」
言われなくてもそうするよ、とは言えなかった。颯太の優しい気遣いが、すごく身に沁みて嬉しかったのだ。
「颯太、本当にありがとう」
「よそよそしいなぁ、なんか……」
「親しき仲にも礼儀ありだよ」
僕は自分の好きな言葉を言って、ちょっとだけ威張ってみたけれど、颯太は素直に「うん、そうだな」と頷いただけだった。
それからしばらくは無言で歩き、ようやく僕の家が見えてきた時、颯太は「お前ん家、遠いんだよ!」と悪態をついた。
そんなこと言われても、僕が家の位置を決めたわけじゃないから仕方ないと言おうとしたら、颯太は家のチャイムを何の躊躇いもなく押していた。
どたどたどたと、外にまで聞こえる大きな足音をたててやって来てから玄関を開けたのは、母さんだった。
颯太を見て、その後僕を見る。そして近付いてくる母さんに向かって、颯太は「おばさん、すみませんでした!」と勢いよく頭を下げた。
僕と母さんは驚いて颯太を見る。
母さんはいきなり知らない少年に頭を下げられてびっくりしたんだろうし、僕はなぜ颯太が謝るのかとびっくりしたのだ。
「俺、康介君の友人の、加賀美颯太といいます。実は今日、俺のせいで、康介君が絡まれてしまって……その……怪我をしてしまったんです」
颯太の言葉を聞いた母さんの視線が、僕に移動する。
「あんた、大丈夫なの?」
そして、ぎょっとした表情で母さんはそう言った。
「僕は大丈夫だから」
母さんの慌てように苦笑しながら。
颯太に抱えてもらって帰ってきたし、本当は大丈夫とは言いがたいのだけれど、颯太がなぜか自分が悪いかのような言い方をしたし、彼が責められると困るので、あえてそう言ったのだ。
「全く日常生活には差し支えないし、怪我も見た目ほどたいしたことないから、颯太を怒らないでよ」
僕はそう言って颯太の肩から、腕を離した。
颯太は驚いたようにほんの一瞬僕を見たが、僕は気にしないそぶりを見せて、「今日はわざわざありがとう」と一言言ってから、よたよたと家の中に入った。
後でメッセージを送ってちゃんとお礼をしようと思いながら自分の部屋に向かったから、その後颯太と母さんがどんな話をしたのかはよく知らない。
母さんはその後、僕の怪我については何も言ってこなかった。
颯太に「今日はホントにありがとう、助かったよ。母さんなんか変な事言ってなかった?」とメッセージを送っても、返ってきたのは「気にすんなよ」の一言だけだった。
怖い。自分の知らないところで、自分の親が自分の友人に、何か酷い事を言ったんじゃないかと思うと、とても平常心ではいられなかった。
そうは言っても、母さんや颯太は、僕に何があったか話すつもりは無いのだ。だから、僕にはどうしようもない。
窓の外を眺めてみたいと思った。ガラスにはたくさんの露がついていて、手で擦らないと景色は見えなかった。
月が浮かんでいる。空は暗く、いつもと変わらない景色だ。僕は何となく、ガラスに「バカ」と指で書いた。
指を離すと次第に水滴が流れ落ちていって、バとカの字がくっついてしまった。本当に何気なく書いたつもりだったけど、もしかするとそれは自分自身に対する叱責と卑下の言葉だったのかもしれない。
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