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セルジュ・アーヴァイン

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「こんにちは、漆黒のレディ」
 セルジュ・アーヴァインはそう言いながら、仔猫の傍で膝を折る少女へと傘を差しだしてきた。
「…………」
 こんな薄暗い路地裏で、身綺麗な格好をしたセルジュの存在は明らかに浮いていた。
 明らかにおかしい。
 この雨の中、路地裏で会って間もない他人が出くわす確率など、ゼロに等しい。
 当然、少女が目的もなく彷徨い辿り着いたこの場所にセルジュが居合わせたのは、偶然ではないのだろう。
 少女が一人になるタイミングを見計らっていたとしか思えない、都合の良さだ。
「雨の中でもレディのその美しさは輝かしいものがありますが、どうでしょう? 雨宿りをしませんか?」
「…………」
「あぁ、もしかして、デュクス殿や皇帝陛下から何か私のことをお聞きになりましたか?」
「…………」
 少女はまっすぐにセルジュの双眸を受け止める。
 胡散臭そうな笑みを浮かべる青年は、さらに笑みを濃くして一歩近づいてくる。
「あの方々は、侯爵家のはぐれ者である私をあまりよく思っていないのです。どうか、騙されないでください」
 彼は聞いてもいないのに、自分は侯爵家の嫡子でありながらその資格がないと離縁された哀れな男なのだと自らを嘆いた。
 それを少女はぴくりとも表情を動かさず、耳を傾けることもせずに右から左へと聞き流す。
「私はただ、真実を隠し続ける者たちから、あなたを救いたいだけなのです」
 どこか演技がかった仕草で、セルジュは冷たく濡れた少女の手を優しい手付きで取り上げた。
 瞬間、ゾワッ、と鳥肌が全身を駆け巡り、少女はバッと大きくその手を振り払う。
「失礼。寒そうでしたので、温めて差し上げようとしただけなのです」
 セルジュは何を思ったのか、せっかく壁の隙間におさまり目を閉じていた仔猫を抱き上げる。仔猫は驚き、毛を逆立ててシャーッと威嚇し彼の手を引っかいた。
 だがセルジュはそれをモノともしない。
 痛みを感じていないのか、顔には笑顔を張り付けたまま、暴れる仔猫を手の中で弄んでいる。
「元気な仔猫のようですね。この子も連れて行きましょう。ここでは野良犬や野鳥に食われてしまうかもしれない」
「…………そうなるなら、それがその子の運命なのでしょう」
「おや、冷たいのですね」
「『私』に、何を求めるというの」
 セルジュに捕らわれ暴れていた仔猫を、少女はサッと奪い、すぐに逃がしてやる。
 仔猫は助けてもらった礼をすることもなく、雨の中を猛スピードで駆け抜けていった。
「愛想のない仔猫ですね」
 ふふ、とセルジュが薄気味悪く笑う。
「それで? 私に用があるのでしょう」
 手記を理由に、どこかへ誘い出すつもりだろう。
 だが少女にとってそれはなんら脅威にはなり得ない。
 仮に強引に連れ攫われ『闇の魔女を殺す方法』を用いられたところで、それはそれで少女にとっては好都合だった。
「私はただ、美しい女性とお近づきになりたいだけですよ、漆黒のレディ」
「あなたは私を殺す方法を知ってるのでしょう?」
「おや、そこまでご存知でしたか」
 想定内だったのだろうが、セルジュはさも驚いた、とまた演技がかった仕草で驚いて見せる。
 その仕草のひとつひとつが、少女の癇に障った。
 正直、鬱陶しい。
「やるならやりなさい。別に抵抗などしないわ」
「まさか。レディには私がそのような卑劣なことをする男に見えるのですか?」
 あぁ、と大袈裟に嘆くセルジュに、少女は眉間に皺を寄せた。
 デュクスとは別の意味で、遠ざけたい種の人間だ。
「私、今ここであなたの命を奪うこともできるのよ」
 相手が少女を手に掛けられる術を持っているように、少女もこの男を葬ることができる。
 それこそ、名を呼ぶ祝福ギフトなど贈らずとも、一瞬で。
「レディはそのようなことはしませんよ」
「…………」
「あなたはとても心優しいレディだ。私はそれを知っている」
「…………」
「私は先日初めて出会った日より前から、あなたのことをずっと求めてきたのです。子供の頃、孤独に生きたあなたのことを知り、私と似ていると――癒して差し上げたいと心から思いました。私はそのときあなたに恋をしてしまったのでしょう。その思いは今も尚、この胸で燃え盛っているのです」
 恋、という言葉に少女はぴくりと反応してしまった。
 目聡くそれに気づいたセルジュの口元が、ニヤリと不気味に歪む。
「レディ。この世界であなたのことをわかるのは私だけです。どうか、この手を取ってはいただけませんか?」
 この男の手を取ってはいけない。
 この男は嘘を吐いている。
 この男には近づいてはならない。
 本能が少女にそう語り掛けてくる。
 じりっ、と一歩後ずさると、セルジュは静かにその手を降ろした。
「邪魔が入りましたね」
 セルジュの視線が、少女の背後へと注がれている。
 雨の中、暗い裏路地の向こう側から大きな影と、その横には小さな影が寄り添うようにして近づいてきている。
 それは次第にくっきりとした人の形になり、少女は意外な組み合わせの二人の姿に首を傾げた。
「お兄さま。その方から離れてくださいませ!」
 メアリーの鋭い声がセルジュへと放たれる。
 そしてその横に立つ大きな体躯の騎士は小走りで駆け寄ってくると、少女の濡れたドレスの上から外套を羽織らせた。
「レディ。探しましたよ」
 ハレスは生真面目そうなその顔に、安堵の笑顔を浮かべている。そしてセルジュの視線から守るようにして、少女の前に立ち、セルジュと対峙する。
「この方は皇帝陛下の大切な姉君です。私が騎士の名に誓って安全にお送りしますので、お引き取りください」
「なんだい? 私は何もしてないのにその言い方は」
 セルジュの表情に若干の怒りが見える。
 だがハレスはそれを全く気にしていないようで、少女の背に手を添えると、「行きましょう」と促してくる。
「待て。失礼だろう。私に謝罪しろ」
「その必要がおありかしら?」
 ピシャリと言い放ったセルジュに負けず劣らず、メアリーがそう言い放った。
「アーヴァイン家次期当主であるわたくしが命じます。黙ってここから去りなさい」
 メアリーは胸元に垂れている濡れたストロベリーブロンドの髪を鬱陶し気に払い、兄であるセルジュにぴしゃりと命じた。
「はっ、次期当主? それは私だ。誰がお前の命になど従うか」
「これはお父さまの決定ですわ! 侯爵家を追放された『お兄さま』が何を言おうが、それは変わりません」
「――それはどうだろうな」
 セルジュはハレスの後ろに庇われた少女を盗み見る。
 大きな身体に庇われた少女は、ハレスの後ろに隠れているのにその視線を感じてゾクリと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(――なに?)
 寒気を感じ、手首に光る金色の腕輪を我知らず握りしめる。腕輪に触れていると、そこから何か温かいものが流れ出してくるような気がして、ざわつく心が落ち着いてくる。
 まるで、デュクスに抱きしめられているかのような安心感に、少女は戸惑いを隠せなかった。
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