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行かないで

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「――邪魔するぞ。ハレス、状況説明をしろ」
 入って来たのは、デュクスだった。
 彼は全身ずぶ濡れで、髪からは水滴が滴っている。
 少女の姿を見ると彼は一瞬目を見開いたが、すぐに我に返りハレスの方へと歩み寄ってくる。
 ひとりがけの椅子に座る少女の横に、デュクスが立った。
 彼は鬱陶し気に濡れた髪をかき上げ、ハレスの報告に耳を傾けている。
「…………」
 少女は、うっかりデュクスに見惚れてしまっていた。
 魔力を使ってきたのか、走って来たのかはわからないが、彼の頬は紅潮していて、そこに流れる水滴が艶やかで、少しやつれているようだがそれが逆に色っぽい。
「――以上です」
 ハレスの報告に一つ頷き、デュクスは少女へ微笑みかけてくる。
「無事でよかった。それでは」
 少し寂し気に笑う彼に、胸が締め付けられた。
 くるりと踵を返したデュクスが、一歩足を踏み出す。
 行ってしまう。
 行かないで。
 心の中で少女は叫んだ。
「――どうした?」
 デュクスが、優しく話しかけてくる。
 気付けば少女は、彼の騎士服の裾をしっかりと握りしめていた。
 見つめ合い、握りしめた手が石のように動かない。
 どうしよう。
 全身が熱くなって、深い青色の艶を帯びた瞳で見つめられるだけで、汗が吹き出してくる。
 頭の中が真っ白になって固まっていた少女だったが、不意に足元で、「ミャー」と何かが鳴いた。
「あら、あなた……」
 少女の足元に擦り寄っていたのは、セルジュに捕まって逃げ出したあの仔猫だった。
「玄関先で鳴いていたから連れてきた」
 二人の視線が、愛らしく甘える仔猫へと注がれる。
 仔猫は「ミャーミャー」とか細く鳴き、少女の膝の上へと飛び込んでくる。そして安定した場所を見つけたのか、仔猫は暖を取るかのように少女のスカートの上で丸くなり、ぺろぺろと毛づくろいをし始めた。
「ちょっと、あなた……」
「どうやらその子は、レディを気に入ったみたいだな」
 どうすればいいのかわからなくてしどろもどろになる少女に、デュクスがくすりと微笑んだ。彼の大きな手が仔猫の背を撫でる。仔猫は「やめろ」とでも言いたげにぺしっ、とその手に小さな肉球を乗せたが、彼が指先で濡れた体をこしょこしょとくすぐると、気持ちよさそうに瞼を閉じて大人しくなる。
「可愛いな」
 仔猫へと注がれた慈しみの声に、少女はムッとして小さな体に触れるその手を睨みつける。
 するとデュクスは仔猫をくすぐっていた手を離し、少女の長い黒髪を掬い上げた。
「少し妬けるな」
「え……」
「私は猫にすら劣るようだ」
 微苦笑を浮かべるデュクスの指先が、長い髪を梳いていく。それが気持ちよくて、少女はピクッと肩を震わせた。
 わずかに身じろぐと、大きな手が離れていく。
 ふわりと香る甘いコロンの芳香が遠ざかってしまうのが嫌で、少女は震える唇に言葉を乗せた。
「待っ……て……」
「うん?」
 椅子に座る少女の視線に合うよう、デュクスがその場に膝を折る。
 雨なのか汗なのか、そのどちらもなのか、下から見上げてくる綺麗な顎のラインを水が滴り落ちていく。
 その艶めかしい色香に、少女はほんのりと頬を赤らめる。
(でも、こんなに濡れて……何か、遭った……?)
 魔力で移動してきたのであれば、こんなに濡れていないはずだ。
 あの雨の中、走って来たに違いない。
 魔力を使い果たしてしまうくらいの、何かが彼の身に降りかかったのかもしれない。
 騎士なのだから、任務中に何かあっても不思議ではない――が。
「――この後、メアリーの様子を確認したら、すぐに戻るつもりだ。ここへは様子見に来ただけだから」
「…………そう」
「どうしてあなたがあの雨の中、屋敷を出て行ったのか、その理由は聞かない。ここにいたいなら、好きなだけいるといい」
「…………」
 少女はしゅん、と項垂れ、膝の上で眠る仔猫の背を撫でた。
 仔猫はぴくぴくと耳を震わせていたが、拒む様子はなかった。
「待っているから」
 デュクスの指先が、仔猫の首をくすぐった。そのとき、少しだけ肌が触れ合う。
「我が家に居たくないならそれでもいい。ここにいても、他の場所を選んでも良い。もうあなたを追いかけることは止める。でも、待つくらいは許してくれ」
「…………」
「選ぶのはあなただ。――もし、私と一緒に帰るというなら、一緒に帰ろう」
 そっと、大きな手のひらが差し出された。
 どうする? とその瞳は言外に尋ねてくる。
 少女は迷っていた。
 待つことはあっても、待たれる、なんて初めてで、そんな言葉、今まで誰も言ってくれなかった。
 混乱する少女の様子に、デュクスが朗らかにほほ笑んだ。
「選んでくれ。私か、他の誰かか、を」
 急に選択肢をふられ、少女はますますどうすればいいのか困り、助けを求めるようにしてハレスを見上げる。
 彼は黙って、小さく顎を引いた。
「……ここに、いる……」
 迷った挙句、少女はそう口にしていた。
 デュクスは眉根を寄せ、悲し気に小さく笑うと差し出していた手の平を静かに降ろそうとする。
 だが、少女はそれよりも前に、その大きな手を両手で握りしめていた。
「あの子……、あの女の子、私に、話があるって……言ってたから……」
「メアリーが?」
「まだ眠ってて……、ここに……置いていくのも……」
 メアリーは少女を探すために雨に打たれて熱を出した。それを無視して彼女をひとり置いて行く、というのは、人としてどうかと思ったのだ。
 彼女は少女がいなくなったところで何も思わないかもしれない。
 しかし少女は知っている。
 たったひとり、置き去りにされる寂しさを――。
「そうか。じゃあ、メアリーが起きるまで、ここに?」
「――ええ」
「なら、その話が終わったら、迎えに来ても?」
「え……?」
「しつこく追いかけはしない。あなたが嫌なら、ここにはもう来ない」
 ただ、とデュクスが少女の手を握り返してくる。
「あなたが許してくれるなら、私にあなたを迎えに行く名誉を頂きたい。――手の平に約束の口づけをしても良いか? レディ」
 ふわりと、デュクスは甘い笑みで許しを乞うてくる。
 いつもは一方的に触れてきたくせに、どうして許しなんか乞うのだろう。
 以前のように好きにしたら良いのに、デュクスは少女の許しを待ち続けている。
 その熱い眼差しに、触れている手が熱くなっていき、心臓がどくどくと早鐘を打つように鼓動する。
 耳まで熱くなっていて、デュクスの瞳に映る少女の顔は真っ赤に染まっていた。
「恥ずかしい?」
 からかうように、デュクスがふたりにしか聞こえない声音で囁く。
 その一言に全身がカッと熱くなり、少女はデュクスの手を引っ張ると、その手の甲に自らの唇を押し付けていた。
 そしてパッと手を離すと、少女はパチンッと指を鳴らした。その一瞬で、デュクスを濡らした水がパンッと弾け、瞬きの後には彼の髪や肌、衣類は完全に乾いていた。
「あの子みたいに、風邪をひいたら大変でしょう」
 照れ隠しの言い訳だった。
「ありがとう。助かった」
 魔力を使って礼を言われたのは、これが初めてだ。
 それがむず痒くて、気恥ずかしくて、こんな感情は知らなくて。
 ひとり狼狽する少女の手のひらに、デュクスはキスを送り返し、「また後程」と言って今度こそ部屋を出て行った。
 久しぶりに感じた彼の唇の感触に、少女はいつまでも顔を赤らめ、仔猫をあやすふりをして俯いていた。
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