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薄明に花びらの舞う
戒め解き放ちし者達に龍は問う
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ひどい目に遭った。
今ここにこうしている通り死にはしなかったし、ついでに濡れることもなかったので魔法で守られていたのは確かなのだが、往路に比べると随分と荒っぽい送りだった。
とにかく、上も下も分からないぐらいもみくちゃになり。
気が付いたらロヴァール大陸のキリュドルールにほど近い浜に打ち上げられていた。
もっとも、この件にまつわる一連の影響の方が遥かに大事だった。
竜の怒りか。楔のせいか。或いは、その両方か。
海は荒れに荒れた。
陸上にまで大きな禍が及ぶような事は無かったものの、海路が復旧するまでに半月もかかった。今もまだ平時に戻ったとは言い難いという。
竜の怒りの只中にいたアクラトーレがどうなったのか。
ようやく連絡が取れるようになったという現状では確かなところは分からない。
アイェウは、皆は無事だろうか。
「やりきれないなぁ」
窓辺から海をのぞみ。
ぼんやりと呟く。
壊滅したわけではない。だが命が助かったというだけでは難を凌ぎきったという事にはならないだろう。
発端は彼らなのだ。世話にもなった。何もしないままでは済まされない。だから彼らの持ち物の回収を依頼した際に、手紙と共にいくらかの助けになりそうな品を託した。
楔は、あと一つ。
また、そのために巻き込まれる人達が出るのかもと思うと心が塞いだ。
何のために。
そう、問い詰めたくなる。
きっとどこかよそ事だからだ。
そうしないのは、出来ないのは、宵花もまた痛みを負っていると知っているからだ。彼が吐き出してしまったら、その分も彼女は抱え込むことになる。一時の気晴らしのために彼女を追い詰めることなどどうして出来ようか。
だからこうして、荷が届くまでの日々を彼は燻って過ごすことが多かった。金策をすることもあるが、どうも何をしてもいまひとつ身が入らないのだ。
例によってキリュドルールにもフィーヴァシルフェは根を張っている。勢力としては弱いらしいが、取り締まりも熱心ではないという。いずれにしても、見つけられづらくするためにも彼はこうして極力こもっている方が良いのだ。
対照的に宵花は、彼に気遣ってくれているというのもあるだろう、出ることが多かった。たまに宿で過ごすときは大抵、ベレスフォード夫人に手ほどきしてもらっていたレース編みをやっていることが多かった。これが上手いのだ。
そうして、およそひと月。
荷が戻ってくるのと時を同じくして、ついにイェルリカヤからの連絡が入った。
「分かったわ、全て。お爺様がどうしてこの研究を公にしなかったのかも」
前回とは打って変わり、イェルリカヤは神妙だった。
「確かに、曖昧なままで公表するには余りにも重大過ぎる。
全ての魔法の根源、ラーベ。
そんなものがあったなんてね……。
無念だったでしょうね、お爺様も。世に問える段階まで研究を深める前に時間が来てしまって……。
宵花、あなた魔法の乱れを鎮めると言っていたけれど、あなたのやろうとしている事ってラーベに触れるということよね?その意味の大きさ、あなたちゃんと分かってるの?全ての根源であるのなら、下手に弄れば魔法そのものが消える可能性だって有る」
「安心為て下さい。貴女を裏切る様な真似は為ません。少し、魔法の在り方は変わるかも知れませんが……。大本は同じなので本質は変わらない筈です」真摯に、宵花。
「ああ、そうじゃないの。私が言いたいのは……」イェルリカヤは、ため息をつき。「ま、良いわ。あなたの依頼に応えましょう、宵花」
「何を言いたかったのかしら。イェルリカヤは」
イェルリカヤとの話が終わり。
不思議そうに小首をかしげる。
「宵花、ベレスフォードさんはあの人なりに心配してくれてるんだよ、君のことを」
「然う。
然うなのね……」
イェルリカヤが示した最後の楔の位置は、なんという縁か。ラライビュルヴィ山脈の、それも故郷を含む範囲のどこかにあるらしかった。アーレイズラシル大陸に戻るには当然船を使うということになるが……。
「僕たちが海に出るとまた竜を刺激する、なんて事はない?」
「問題無いわ。龍は場所に囚われた存在。アクラトーレに近づかない限り、わたし達を感知為る事は出来ないわ」
思えば、それからの旅は順調すぎるぐらい順調だった。
——そうではなかったのだ。
いつからか?
分からないが、ともあれ、ある時点から彼らはずっと籠の鳥だったのだ。宵花にさえはっきりと悟らせないほど巧妙に。
ニモタータを発って、五日。
絞られているとはいえ、指摘された範囲はそれなりに広い。しかも山中だ。楽にはいかないだろう。とりあえず土地勘のある所からとキラトー経由で山へ入っていくことにしたのだが……。
「如何為たの?ファルーズ」案じるように。
「宵花」遠く霞むラライビュルヴィの峰々から視線を外さないまま、「多分だけど……場所は、分かると思う」
封が弱くなったからなのか。楔を前にしなくてもはっきりと感じ取れた。
(そうだ——)
これが
そうなのだ。
言葉で説明するのは難しい。感覚でしかないからだ。
ただ、分かる。
呼ばれている。
何かが、彼を呼んでいる。
見えざる糸に引かれているかの如く。そちらに引き寄せられるようだった……。
(……そういえば、聖域の時と似ている?)
うっすらとだが、これはあの時の記憶をも想起させた。
「じゃあ——」
にわかに巻き起こった風に言葉はかき消され、吹き付ける砂塵に身をすくませ——
次の瞬間には、地に這わされていた。
砂嵐が晴れる。
彼らはすっかり、フィーヴァシルフェに包囲されていた。
「宵花‼」
彼と同様取り抑えられた彼女の姿以上に、
「一緒に来て貰おうか」
彼女を捕らえているその声の主に強い衝撃を受けた。
「テウスさん⁉」
「……ああ、バレちまったか」
一片も悪びれる風もなくフードを脱ぐ。
間違いなく、テウスその人だった。
「そんな……
どうして…………」
「その状態じゃあ魔力の高くないお前さんは詰みだろうが、一応、警告しておくぜ。
拒否権はない。
逆らえば——」
押し当てた凶器に僅かに力が込められる。
ほっそりした首筋に、痛々しく血が滲んだ。
「ファルーズ……」
訴えるような目で宵花が見つめてくる。
それで少し、彼は冷静になれた。
(そうだ。おかしい)
宵花があまりにも無抵抗すぎはしないか。
(何かある……?
——信じよう)
宵花を。
そして、
「いい子だ」
テウスも。
以前テウスはフィーヴァシルフェを評して「ユルい奴ら」と言っていたが。そのテウスが率いるこの集団は、なるほど、ファルーズの目には隙なく動いているように見えた。それでも、逃げ出す機会がまったく無かったわけではない。特に宵花は。
困惑させられ、一方で、心が軽くなる要素でもあったのだけれども。いつの間にやら宵花も——彼とはまた違った形で——連中にとって重要な人物として昇格されていたらしく。手荒な扱いをされたのは彼を屈服させた時だけで、あとは駕籠まで用意されて下にも置かない待遇だった。徹底して引き離されはしたが、これという抵抗の意志を示さなかったからか、武器を取り上げられたり魔法を封じられたりといったことも無いようだった。
滑り落ちてきた汗を拭う。
隊商の振りをしている都合もあるのかもしれない。厳しい管理下に置かれてはいるものの、彼自身もそれほど酷い拘束を受けているわけではなかった。
かさついた空気が肺を満たす。
この大陸は今、夏へと向かっている。砂漠の昼は日を追って酷な暑さになってゆく。一団は最も熱い時間を避けて進んでいた。
移動中は目隠しをされているのでその道行きは分からない。ただ、結局のところ、仮に逃げた所でとんだ草臥れ儲けになっていたことだろう。
足裏を通して訴えてくる、砂の質感。
やや上がった息遣い。
閉ざされた視覚は、それ以外の感覚を饒舌にした。
その効用が、楔の知覚にまで及んだものなのか。
(これって……)
近づいている。
一体、どんな巡り合わせによるものなのか。
離れていくどころかより一層、彼らは楔へと近づいている様だった。
§§§
これで、何度目であっただろう。
掛け声と振動が止み、駕籠が下ろされた。
ファルーズのように目隠しこそされなかったものの、中から外を窺うことはできない。けれど、ここまで来れば巫ではない彼女にも感知できた。
ここが終着なのだと。
(此れは偶然……?それとも……)
幕が引き上げられ、うやうやしく手が差し出された。
駕籠から降りる。
ヒュウと。
巻き上げられかけた紗と髪を押さえる。
焼けるような下界の暑さも、ここまで登れば随分と控えめだ。朝などは肌寒いくらいだった。
軽く見回す。
楔の影響に違いない。巨大な穴のように下へ下へと落ち窪んでいく谷だった。谷底と斜面にはポツポツと建物の残骸が散乱している。この遺跡を、フィーヴァシルフェは本部として利用しているようだった。
(確りと為た造りね。けれど此の建物からは魔法の気配が為ない……
古い、しかも魔法が浸透する前——帝国時代の、それも初期の頃迄の無恵者の……いえ、若しかしたら此の世界に魔法が齎されるより以前の……?)
いつからか。どこからか。
それを断定するのは、簡単なようでいて難しい。知り得ることにも限りがある。けれど、
ラーベ
最初の過ち
二度目の過ち
イレ=ラーバティ
解放戦争
そして、大回戦
遠く、時を超えて。
彼女の目には、まるで因果が全て縒り合わされてここに凝集されているように見えた。
「ゴクロー様☆テウス。あとはわたしが引き継ぐわ♡」
出迎えたのは——
ワーニャ、だったか。シスミレへ向かう際に一度、遠目ながら見かけた。確か支部の人間ということだったと記憶しているが、様子を見るに、本部に異動したものらしい。どうやらテウスは彼女の部下という体のようだ。
ここでさらにファルーズと引き離される。
彼は恐らく牢に入れられるのだろうが、最悪の事態になることはないだろう
——少なくともすぐには。
自身の扱いがどうなるのか。これが分からない。テウスから何も聞いていないし、問う機会もなかったからだ。
(取り敢えず彼等の望む様に振る舞うのが賢明ね)
階層を上下し、いくつかの建物を経由し。
散乱しているように見えた遺跡は元は一つの建物であったらしい。残骸を土台にフィーヴァシルフェが補修したと思われる痕跡でパッチワークのようになっていた。
比較的痛みの少ない棟へとやってきた。
「こちらでお待ちください」
通されたのは彼女のために充てられた部屋、というわけではなく。応接室のようだ。特に豪奢に飾り立てられはしていないのはここまでと同様だが、居心地良く整えられていた。
対面の窓辺に寄る。
やはり。穴の外縁に近い。一連の建物の中でも重要度の低い区画だと思われる。
一見、待遇は良い。しかし……。
振り返る。
扉の外に、二人。
要人である彼女を警護するため——
楽観的に考えるのであれば。けれど彼らが疎んでいるファルーズと行動を共にしていたという点を加味すれば、これは軟禁と解釈すべきだろう。いざとなればどうにでもできるが。
(或いは)
テウスの差配によるものと捉えることもできる。彼は協力してくれと言ったが、それは事が済むまで大人しくしていろという意味なのかもしれない。
(?
ファルーズ——
じゃない)
「スーヴィルヴァがお見えです」
扉が開く。
その瞬間。
冴えて
全てが氷解した。
(此の人は——)
ラーベが望む限り巫は必ず一人以上存在するが、無論、誰でも良いという訳ではない。素質が必要だ。だが、素質が有れば漏れなく巫になるというものでもない。この人は、そんな半端者。ラーベから認識されず、しかしラーベを感じ取ることができる者なのだ。
(偶然じゃ無い)
楔と本部が重なり合っていることも。宵花とファルーズがここに連れて来られたことも。
「君たちは下がっていなさい」
護衛を退かせる。
応接室には宵花とスーヴィルヴァ、二人きりになった。
「どうぞ楽にして。何か不自由なことがあれば遠慮なく言って欲しい」
ニコリと笑む。
なかなか感じの良さげな男だった。
勧められるままに腰掛ける。甘い香りのする飲み物が運ばれてきた。
「わたしに何を望むのですか」
「何も。ただここに居てくれるだけで良い」
眉をひそめる。
スーヴィルヴァは席を立つと宵花の傍らに跪き深々と頭を下げた。
「私は見定める必要があった。しかしこうして直にあなたと会い確信しました。
王は仰せです。あなただと!
リヴァテウムに選ばれしあなたは間違いなく神使!大罪人レベッカに似たそのお姿もあるべき因果なのでしょう」
彼女を見上げるその目は、まぶしいほどの純粋さで満たされていた。
(心から信じて居るのね)
彼の捉える世界を。
「此の穴の中心に——力が有りますね。其れを祀り始めたのは貴方ですね?」
今のフィーヴァシルフェの信仰の対象がラーベへと向いているということを彼女は知っている。しかし彼らは本来「救世主ジェラルド」を祀っているはずなのだ。
このすり替わりは、いつから生じたものなのか。
それは、ラーベの意志をおぼろげながら感じることができるらしいこの人からなのではないか。
「さすが、良くご存知ですね。おっしゃる通り。
……長かった」
立ち上がると外を眺める。
「まだそれが何かすら分からない幼年の折から私には王の御声が聞こえておりました。そんな私がフィーヴァシルフェに辿り着きこの役をいただいたのも、すべては、王の思し召し。では、王は私に何を望んでおいでなのか。私にしか成し得ぬこと。それは、御声を遡り王のお側近くでお仕えすること。そう思い定め、この聖地と、そして聖宝を見出したのです」
手を鳴らす。
「神使を部屋に案内してください。くれぐれも失礼のないように」
§§§
何も告げられずに引っ張り出されたそこは寒い牢から一転、熱気に包まれていた。
一つには派手に燃え盛る炉
もう一つにはここに集った人々の熱狂によって。
予告がなくてもそこに彼を葬るための仕掛けがあるのだろうという事は察していた。だから現にこうして目の当たりにした所で特別な感慨はなかった。ただ、自分がどのような方法で彼らの期待に応えさせられようとしているのかを知らされる事になっただけだ。
引っ立てられるように歩く。
気が進まないのも無論あるが、体に力が入りづらいのもあった。
ここに至るまでの二日間、「酷い扱いを受けた」という程では無いにしろ、もてなされていたわけでも無い。死なない程度に飼われていただけだ。
空は薄っすらと色付いてきているが、ここにはまだ日の光の恩恵は無い。彼の目からは観客席の大半は暗がりに沈んでいて、観衆の姿は良く見えない。けれど闇に没していない僅かな明るみ、炉に照らされた正面の席。そこに、宵花が居た。杏色のローブの群れの中で一人、染まらない姿で。
目が合った一瞬、宵花が微かに頷く。
(大丈夫だ。こんな所で僕は死なない)
一歩一歩。
段を登る。
腰の縄が脇の吊るし台のものへと繋ぎ変えられる。
この後足場が外され足元の処刑人が縄を切ると彼は炉に落ち、燃やされることになるのだろう。
「王のご意志により、大罪人フィオナ・マクラオドの玄孫ファルーズ・マラドの処刑をここに執り行う——
何だ?騒がしいな」
言葉尻に被さるように入り口という入り口から武装した人々が雪崩れ込んできた。
(あの紋章は——
キサニオックの軍?)
処刑人が素早く動きスーヴィルヴァを取り押さえる。
「ルンド=ヴィスィーン・サアル・ランドゥン・イングルドだ。ダカンジ共和国の申し出により、信仰罪、組織的に国家の平穏を乱した罪、及びその他諸々の嫌疑でこの度お前達フィーヴァシルフェを取り締まることとなった。同行願おう」
「テウスさん!」
テウスはフードをずらすと彼を見上げ、わずかに口元を緩めた。
「ファルーズ!」駆け上がってきた宵花に軽く抱擁される。
「良かった。無事で……」
ちょっと意外なほどに強く想われていたことが嬉しくて。
「うん。宵花も」
ほほえむ。
改めて見るとキサニオックの軍はそれほど大人数ではない。けれど完全に不意をつかれた信徒達は瞬く間に制圧されていった。状況は驚くほどあっさりと収束するかに思われたが——
「ぐっ」
テウスが蹲る。
拘束されていたスーヴィルヴァはそのまま、さっと炉の傍まで進み出ると、
「同志たちよ、怯れるな。我らは不滅だ」
躊躇する素振りも見せず身を翻し、炉の炎の中へと消えていった。
「大丈夫ですか!テウスさん」
「ああ。
油断した……」
悔しさを滲ませて。
苦しそうにしながらも立ち上がる。
「虚勢では無さそうね。
けれど、不味いわね……」
宵花が危惧したのは場の事だ。
こんなにもガラリと空気とは変わるものなのか。
残っていた信徒が、
いや、
捕縛されている者までも。すっかり剣呑な様だった。
豹変
という言葉が頭を掠める。
まるで取り憑かれたようで。異様な雰囲気だった。
恐怖を感じた。
直接対峙していない彼でさえ。
キサニオックの軍も浮き足立って見える。
砂の崩れるが如く。
脆い均衡が破れ、凶行へと止めどなく堰を切りかけた——
間際
「ハイハイ、ソコまで」
炉の炎が大きく立ち上り、派手な音を出して消える。
ワーニャだ。
緊張が揺らいだのを透かさず捉え、テウスが呼び掛ける。
「我々は力で解決することを好まない。身柄が尊重されるよう、ご協力願います」
情勢は再びヴィスーン側へと傾いた。ほとんどの信徒は抵抗らしい抵抗もせずに降っていく。
ひと通り落ち着いたところで、
「彼等の多くは無恵者です。どうか寛大な配慮を。
……こんなの、偽善でしかないけれど」まつげを伏せて、宵花。
「偽善でも、関心を持たれないよりはマシってこともあるさ。彼らはずっとそうだったんだしな。
さって、お前さん達もここに用があったんだって?」
「ええ。
ファルーズ、動けそう?」
「ココはしばらくヴィスーンに接収されるだろうから、ナンカあるんなら多少ムリしてでも今のウチにやっちゃったほうが楽だと思うけどね」近づいてきていたワーニャが割って入る。
ファルーズはうなずき、
「僕なら大丈夫」
「残党が居るかもしれない。気を付けてな。ワーニャ、付いて行ってやってくれ」
「キユウでしょ。でもま、イイわ。頼まれてアゲル。ココにいてもどーせタイクツだし」
「ワーニャもヴィスーンだったんだね」
「チ、ガ、ウ」口を尖らせ人差し指を彼の鼻先で振りながら、
「キョーリョクしたげたの。コッチのが楽しそうでしょ?」
「そんなにあっさりと信じて居る物を手放せるものなの?」
「あー、ヤッパそう思っちゃう?」宵花の問いに嘆くように顔を仰向ける。
「ど~でもよかったのよ、最初っから。王だの復活だのなんて」
「じゃあ何で?」
家の都合とか生活苦とかいった事情が思い浮かぶ。しかし返ってきたのは、
「スーヴィルヴァがイケメンだったから」
「それだけ⁉」
そうした一切を吹き飛ばす答えだった。
声が裏返る。
(イケメン、か?)
スーヴィルヴァを見たのはあの刑場が初めてで、しかも状況が状況だ。顔の造作をそんなにまじまじと検分したわけではない。
(けどまあ、言われてみれば)
鼻筋が通った面立ちは、人によっては好ましく思うものなのかもしれなかった。ピンとこないが。
「大事なコトでしょ。アンタだってヨイカが美人だから付き合ってるんじゃないの?」
「それって否定するの難しいやつだよね?でも僕はそれだけじゃないつもりだよ」
下へ下へ。
刑場も施設全体から見れば下層の方に位置していたが、楔があるのは下層も下層。牢と同じ最下層だ。ひたすら下へと降りていく必要があった。
見かけ上ワーニャが二人を先導する恰好になっているが、実のところ案内は必要なかった。
身を委ねればひとりでに体が動くのではないか
それほどに
それは強く
ファルーズを呼んでいた。
階段を下りきる。
角を曲がったところで、反射的にファルーズは足を止めた。
ここまで大丈夫だったからと油断が有った感は否めない。テウスの心配した通りになった。
(よりにもよって目的地で……!)
扉の前には信者が二人、控えていた。
「どうどう。
落ち着け落ち着け」身構える彼にワーニャが気楽に手を振る。
「ナンカの時のためにいちおー押さえておいたの。ま、聖遺物としては歴史が浅いし効き目としてはびみょーだろうけど、少なくともスーヴィルヴァに対しては強力な切り札になるしね。
ココログルシかったわー、アノ方を裏切るの」言葉とは裏腹に軽い口調で。
「アリガト。もうイイわ。合流してちょうだい」
信者達はうなずき去って行った。
「さて。
ココまで来たんだしわたしも立ち会っていーのカシラ?」
「構わないけれど、面白い物では無いわよ」
「ソレはわたしが決める」
呼吸を整え、少し厳粛な心持で。
扉を開ける。
「あれが、最後の……」
アーチが林立するだだっ広い空間に小さな石が一つ、ふわふわと漂っていた。
「ヒュー、初めて見た!ヤッパたのしーじゃん☆
スーヴィルヴァはあまりガを張るヒトじゃなかったんだけど、本部の移転とコレの聖遺物指定の件ではメッチャ強く出たってハナシよ」
重い。
近付こうとしたファルーズは堪らずよろめいた。
「ナニコレ⁉」
「楔の為に理が歪められて居るのよ」
視えざる手が押し潰そうとして来てでもいるようだ。弱った体にはこの負荷はいかにもこたえた。
「ファルーズ。大丈夫よ。わたしが付いてる」
宵花に支えられ、
剣を杖代わりに
短くて遠い距離を、
噛み締めるように
少しずつ、
少しずつ。
普段なら苦にするなど思いもかけない間なのだが、辿り着いた頃にはすっかり草臥れていた。
息を吐き。
楔と対峙する。
こうして近くで見ても無造作そのもので、ただの石塊にしか見えない。けれど良く目を凝らすと、石を透かして何かの模様のようなものが垣間見えた。そしてこれもまた、正に風前の灯に似て、頼りなげに揺らめくことがあった。
「皮肉な物ね。ク=ラデスの流れを汲む者達がこんな物を祀って居たなんて」
その述懐はどこへともない苛立ちと、嘲弄と、落胆と、諦めと——複雑な辛さを秘めて響いた。
楔に触れる。
触れると忽ち
石の永い時の作用をたちどころにして享けたかの如く
ぽろぽろと砂状に変じ崩れ果てた。
突き上げるような、激しい揺れに襲われる。
「今度はナニ⁉」
堪えきれずファルーズは膝をつく。
酷い揺れだったが、幸い、柱の森が倒壊を始めるよりも前に収まった。
「戻りましょう」
また揺れが来るのか、それともこれきりなのか。
いずれにせよ、この継ぎ接ぎだらけの建物の中に留まるのは良い事とは思えない。
とはいえ、だからといって消耗した体力が理屈に合わせて追いつくものでもなく。歩みは彼の体調を慮って休み休みのものとなった。
やっと刑場の階まで戻ってくると、騒然としていた。理由は聞かずとも知れた。
音だけでもう、凄まじい。
風が荒れ狂っていた。
とうに明るくなっている筈の空はあたかも巻き戻ったかと錯覚する程に真っ暗で、恐ろしい様な稲光が幾筋も閃いている。
「こりゃあ、ただゴトじゃあないな」額に手をかざし、テウス。
「見極めてっからってのも……
いや、一部計画を前倒しすべきか……。
これは局所的な異常なんだろ?リルガースとかの時みたく」
「ええ。何が起こるのかはわたしにも分からないけれど、此処から離れれば影響は小さく成るでしょう」
「お前さん達はどうする?二人の旅はまだ続くんだろう?」
「行くわ。封が解かれた以上、望まない事が起こる可能性も有り得る。のんびり為ては居られない。
今クシャヴァフルは如何成って居るの?噂では余り安定為て居るとは言い難い様だけれど」
「クシャヴァフルか……」
「大回戦の敗戦国ですよね、確か」
「ああ」
ここでの会話が届くほど近くにいるわけではないが、フィーヴァシルフェを気遣ってだろう。風の音にかき消されないよう少し張っていた声を落とし、
「あの国は実質ク=ラデスの、もとい、ジェラルド・メイヤーズ率いるレチルタと同盟関係にあったからな。で、こけたツケを未だに払い続けてるってワケだ。まあ何だかんだで国としての体面は保っちゃあいるが内情はお察しってトコだな。ただ、治安は悪くない。この頃はだいぶ排他的でもなくなったが、コレがまたマチマチでな。危険因子はいるが分かりやすくここが危険だっていうトコはない。つまり、何が起こるか分からないってことだ」
「有り難う。其丈分かれば十分よ」
「付いて行ってやれれば力になれるんだが……。
代わりと言っちゃナンだが、ワーニャ!」別れてやりとりしていた協力者に呼びかける。
「ワーニャは麓までファルーズ達を案内してやってくれ。そしたらそのままキサニオックで待機な」
「え~、まだお守りぃ~?しかもこんなナカァ?」むくれてみせる。
「楽しそうにやってるじゃん」
「ハイハイ。ど~せ逆らえる立場じゃナイし?ワーニャちゃん雑用でもナンでもウケタマワリますよっ。
んじゃ、とっとと出発しましょ」
「ああ、そうだいけね。大事なコトを伝えそびれるトコだった。
ファルーズ、マガディのことだが——」「みんなは無事なんですか⁉」思わず詰め寄る。
「安心しろ、無事だ。焼けた家は何軒かあるみたいが、幸い、軽い怪我人が出ただけだそうだ」
「良かった……」重く伸し掛かっていたものが、少し、軽くなった心地がした。
「あの、テウスさん。無理を承知で頼みたいのですが、兄さん達に伝えてくれませんか?ファルーズは無事だと」
「水臭いな」苦笑がちに、
「無理なんて事はないさ。必ず伝える。
しっかりな、ファルーズ」
去り際、彼だけに聞こえるように激励して。テウスは送り出した。
早く
早く‼
「——ズ!
——ルーズ!
ファルーズ‼」
ハッと、
引き戻され。そうしてようやく宵花が間近にいたことに気づく。
「僕、また……?」
「ええ。上の空だったわ」
何に急いているのか。
自分でも分からない。
違う。
彼ではないのだ。
この感覚は彼のものではない……はずだ。
全ての楔が消滅した影響か。
彼は、彼を呼ぶ何者か——宵花の言うラーベの意志に感化されているのだろう。その声は抗いがたいほどに強く……たびたび、今のように意識を持って行かれることがあった。そして我に返って、怖くなる。
(僕は……)
いつか正気ではいられなくなってしまうのではないか、と。
「確り、ファルーズ。貴方は大丈夫。絶対に」
そんな彼を、心を震わす強い瞳で宵花が支えた。
(宵花、君は……?)
君は、どうなのか。
その瞳に問おうとして、いつも言葉にならない。
ずっと。
苦しくなる。
そうだ。
最初からだ。
最初から、
もう、
どうしようもなく突き付けられていたことだった。
どうすれば、彼女を止めることができたのか。
けれどもう、彼にも引き返すことは不可能だった。
帽子をかぶりなおす。
ここ、ロヴァール大陸は今は冬に当たる。とはいえ彼の故郷の例にならえばそろそろ春の声が聞こえてきてもおかしくない時期なのだが、少なくともよそ者の彼にはこの地にその兆しを見出すことはできなかった。特にミロウンを過ぎ内陸へと進むにつれ、寒さも乾きも緩くなるどころか一段と厳しさを増した。日が昇ろうがお構いなしだ。そんな有様なので夜などは、それはもう、言語を絶する。息をしただけで命の危険を覚えるなんて初めての経験だった。宵花の魔法の範囲を外れればとても居られたものではない。フィオナも寒さには随分苦労させられたらしいが、これよりもっと辛い思いをしたのだろうか。
「ここだね」
谷間の隘路に開いた入り口へと足を踏み入れる。
構えていたおかげか服装の効用か、これという危ない目に遭うこともなくここまで来ることができた。ひょっとしたら彼が気づかなかったところで宵花が気をつけてくれていたのかもしれない。
扉の前に立つ。
かつては堅牢であったのだろうが今ではそこここに罅が入り、すぐにでも崩壊しそうだった。
確信をもって触れる——
瞬間
何かがもの凄い勢いで吹き出し——
なす術もなくその激流に呑まれた。
気づくと、真っ暗な空間にいた。
けれどもブリミルの森の時とは違う。前後左右上下の別もなくどっぷりと闇に没してはいるのだけれど、なんと言葉をあてようか、一方で明るい、としか言いようがなかった。自分の姿も宵花の姿もはっきりと見ることができる。
「其方にとっては久しい、か? 神滴」
つい今まで確かに二人ぼっちだったはずなのに。それはあたかも最初からそこにいたようだった。
光の獣だ。
直視することが難しいほどの。
けれどその双眸は夜の闇よりなお晦く、一切の光を拒絶して座していた。
似ている
と思った。
宵花の瞳に。
かぶりを振る。
夢の中のようだ。
不可思議なことが不可思議ではなくなりつつある……
「其方の答えは知って居る。最後の神滴。予言の子よ。故に問うまい。だが我はあわいの森の主人に完全に寄り添うものでは無い」
宵花の表情が硬くなる。
「何の様な決断が成されても邪魔立ては為ない。然う約束を交わした筈です」
「無論、約定を破る様な不実を為すのは我の主義では無い。だが我は釐瑛に中立を約した訳でも無い。
新たな巫よ」
視線を向けられ、ファルーズはたじろいだ。
敵意とか殺気が有るわけではない……。けれどこの獣には彼を怯ませる何かが有った。
「我等は魔法の放棄を望む。全てを知った其の後で、其方が我等の願いを容れて呉れる事を期する」
「魔法の放棄?いったい何の話を……」
「其れは間も無く知れよう。只、其方に其方ら人が龍と呼ぶ我ら全てのものの望みを伝えるのが我の願いだった」
「龍……!」
昔語りに語られる姿とも彼が現にアクラトーレで遭遇した水の竜とも全然似通った所などないのだけれども。目の前の獣が龍だというのなら、それは確かに合点のいくものであった。
「……
あなたがた龍とは何なのですか?」
「……」少しの沈黙を挟んだのち。
気怠く倦んだ響きを帯びて答える。
「我等は澱。故に世界が在る可き姿に戻る事を望むもの」
現れた時と同様。吹き消される灯火よりももっと静かに、その姿は消え。
声のみが告げる。
「此処の番を為案内を為るが我が務め。だが其方には必要無かろう?あわいの森の主人の手により生を受けし者」
今ここにこうしている通り死にはしなかったし、ついでに濡れることもなかったので魔法で守られていたのは確かなのだが、往路に比べると随分と荒っぽい送りだった。
とにかく、上も下も分からないぐらいもみくちゃになり。
気が付いたらロヴァール大陸のキリュドルールにほど近い浜に打ち上げられていた。
もっとも、この件にまつわる一連の影響の方が遥かに大事だった。
竜の怒りか。楔のせいか。或いは、その両方か。
海は荒れに荒れた。
陸上にまで大きな禍が及ぶような事は無かったものの、海路が復旧するまでに半月もかかった。今もまだ平時に戻ったとは言い難いという。
竜の怒りの只中にいたアクラトーレがどうなったのか。
ようやく連絡が取れるようになったという現状では確かなところは分からない。
アイェウは、皆は無事だろうか。
「やりきれないなぁ」
窓辺から海をのぞみ。
ぼんやりと呟く。
壊滅したわけではない。だが命が助かったというだけでは難を凌ぎきったという事にはならないだろう。
発端は彼らなのだ。世話にもなった。何もしないままでは済まされない。だから彼らの持ち物の回収を依頼した際に、手紙と共にいくらかの助けになりそうな品を託した。
楔は、あと一つ。
また、そのために巻き込まれる人達が出るのかもと思うと心が塞いだ。
何のために。
そう、問い詰めたくなる。
きっとどこかよそ事だからだ。
そうしないのは、出来ないのは、宵花もまた痛みを負っていると知っているからだ。彼が吐き出してしまったら、その分も彼女は抱え込むことになる。一時の気晴らしのために彼女を追い詰めることなどどうして出来ようか。
だからこうして、荷が届くまでの日々を彼は燻って過ごすことが多かった。金策をすることもあるが、どうも何をしてもいまひとつ身が入らないのだ。
例によってキリュドルールにもフィーヴァシルフェは根を張っている。勢力としては弱いらしいが、取り締まりも熱心ではないという。いずれにしても、見つけられづらくするためにも彼はこうして極力こもっている方が良いのだ。
対照的に宵花は、彼に気遣ってくれているというのもあるだろう、出ることが多かった。たまに宿で過ごすときは大抵、ベレスフォード夫人に手ほどきしてもらっていたレース編みをやっていることが多かった。これが上手いのだ。
そうして、およそひと月。
荷が戻ってくるのと時を同じくして、ついにイェルリカヤからの連絡が入った。
「分かったわ、全て。お爺様がどうしてこの研究を公にしなかったのかも」
前回とは打って変わり、イェルリカヤは神妙だった。
「確かに、曖昧なままで公表するには余りにも重大過ぎる。
全ての魔法の根源、ラーベ。
そんなものがあったなんてね……。
無念だったでしょうね、お爺様も。世に問える段階まで研究を深める前に時間が来てしまって……。
宵花、あなた魔法の乱れを鎮めると言っていたけれど、あなたのやろうとしている事ってラーベに触れるということよね?その意味の大きさ、あなたちゃんと分かってるの?全ての根源であるのなら、下手に弄れば魔法そのものが消える可能性だって有る」
「安心為て下さい。貴女を裏切る様な真似は為ません。少し、魔法の在り方は変わるかも知れませんが……。大本は同じなので本質は変わらない筈です」真摯に、宵花。
「ああ、そうじゃないの。私が言いたいのは……」イェルリカヤは、ため息をつき。「ま、良いわ。あなたの依頼に応えましょう、宵花」
「何を言いたかったのかしら。イェルリカヤは」
イェルリカヤとの話が終わり。
不思議そうに小首をかしげる。
「宵花、ベレスフォードさんはあの人なりに心配してくれてるんだよ、君のことを」
「然う。
然うなのね……」
イェルリカヤが示した最後の楔の位置は、なんという縁か。ラライビュルヴィ山脈の、それも故郷を含む範囲のどこかにあるらしかった。アーレイズラシル大陸に戻るには当然船を使うということになるが……。
「僕たちが海に出るとまた竜を刺激する、なんて事はない?」
「問題無いわ。龍は場所に囚われた存在。アクラトーレに近づかない限り、わたし達を感知為る事は出来ないわ」
思えば、それからの旅は順調すぎるぐらい順調だった。
——そうではなかったのだ。
いつからか?
分からないが、ともあれ、ある時点から彼らはずっと籠の鳥だったのだ。宵花にさえはっきりと悟らせないほど巧妙に。
ニモタータを発って、五日。
絞られているとはいえ、指摘された範囲はそれなりに広い。しかも山中だ。楽にはいかないだろう。とりあえず土地勘のある所からとキラトー経由で山へ入っていくことにしたのだが……。
「如何為たの?ファルーズ」案じるように。
「宵花」遠く霞むラライビュルヴィの峰々から視線を外さないまま、「多分だけど……場所は、分かると思う」
封が弱くなったからなのか。楔を前にしなくてもはっきりと感じ取れた。
(そうだ——)
これが
そうなのだ。
言葉で説明するのは難しい。感覚でしかないからだ。
ただ、分かる。
呼ばれている。
何かが、彼を呼んでいる。
見えざる糸に引かれているかの如く。そちらに引き寄せられるようだった……。
(……そういえば、聖域の時と似ている?)
うっすらとだが、これはあの時の記憶をも想起させた。
「じゃあ——」
にわかに巻き起こった風に言葉はかき消され、吹き付ける砂塵に身をすくませ——
次の瞬間には、地に這わされていた。
砂嵐が晴れる。
彼らはすっかり、フィーヴァシルフェに包囲されていた。
「宵花‼」
彼と同様取り抑えられた彼女の姿以上に、
「一緒に来て貰おうか」
彼女を捕らえているその声の主に強い衝撃を受けた。
「テウスさん⁉」
「……ああ、バレちまったか」
一片も悪びれる風もなくフードを脱ぐ。
間違いなく、テウスその人だった。
「そんな……
どうして…………」
「その状態じゃあ魔力の高くないお前さんは詰みだろうが、一応、警告しておくぜ。
拒否権はない。
逆らえば——」
押し当てた凶器に僅かに力が込められる。
ほっそりした首筋に、痛々しく血が滲んだ。
「ファルーズ……」
訴えるような目で宵花が見つめてくる。
それで少し、彼は冷静になれた。
(そうだ。おかしい)
宵花があまりにも無抵抗すぎはしないか。
(何かある……?
——信じよう)
宵花を。
そして、
「いい子だ」
テウスも。
以前テウスはフィーヴァシルフェを評して「ユルい奴ら」と言っていたが。そのテウスが率いるこの集団は、なるほど、ファルーズの目には隙なく動いているように見えた。それでも、逃げ出す機会がまったく無かったわけではない。特に宵花は。
困惑させられ、一方で、心が軽くなる要素でもあったのだけれども。いつの間にやら宵花も——彼とはまた違った形で——連中にとって重要な人物として昇格されていたらしく。手荒な扱いをされたのは彼を屈服させた時だけで、あとは駕籠まで用意されて下にも置かない待遇だった。徹底して引き離されはしたが、これという抵抗の意志を示さなかったからか、武器を取り上げられたり魔法を封じられたりといったことも無いようだった。
滑り落ちてきた汗を拭う。
隊商の振りをしている都合もあるのかもしれない。厳しい管理下に置かれてはいるものの、彼自身もそれほど酷い拘束を受けているわけではなかった。
かさついた空気が肺を満たす。
この大陸は今、夏へと向かっている。砂漠の昼は日を追って酷な暑さになってゆく。一団は最も熱い時間を避けて進んでいた。
移動中は目隠しをされているのでその道行きは分からない。ただ、結局のところ、仮に逃げた所でとんだ草臥れ儲けになっていたことだろう。
足裏を通して訴えてくる、砂の質感。
やや上がった息遣い。
閉ざされた視覚は、それ以外の感覚を饒舌にした。
その効用が、楔の知覚にまで及んだものなのか。
(これって……)
近づいている。
一体、どんな巡り合わせによるものなのか。
離れていくどころかより一層、彼らは楔へと近づいている様だった。
§§§
これで、何度目であっただろう。
掛け声と振動が止み、駕籠が下ろされた。
ファルーズのように目隠しこそされなかったものの、中から外を窺うことはできない。けれど、ここまで来れば巫ではない彼女にも感知できた。
ここが終着なのだと。
(此れは偶然……?それとも……)
幕が引き上げられ、うやうやしく手が差し出された。
駕籠から降りる。
ヒュウと。
巻き上げられかけた紗と髪を押さえる。
焼けるような下界の暑さも、ここまで登れば随分と控えめだ。朝などは肌寒いくらいだった。
軽く見回す。
楔の影響に違いない。巨大な穴のように下へ下へと落ち窪んでいく谷だった。谷底と斜面にはポツポツと建物の残骸が散乱している。この遺跡を、フィーヴァシルフェは本部として利用しているようだった。
(確りと為た造りね。けれど此の建物からは魔法の気配が為ない……
古い、しかも魔法が浸透する前——帝国時代の、それも初期の頃迄の無恵者の……いえ、若しかしたら此の世界に魔法が齎されるより以前の……?)
いつからか。どこからか。
それを断定するのは、簡単なようでいて難しい。知り得ることにも限りがある。けれど、
ラーベ
最初の過ち
二度目の過ち
イレ=ラーバティ
解放戦争
そして、大回戦
遠く、時を超えて。
彼女の目には、まるで因果が全て縒り合わされてここに凝集されているように見えた。
「ゴクロー様☆テウス。あとはわたしが引き継ぐわ♡」
出迎えたのは——
ワーニャ、だったか。シスミレへ向かう際に一度、遠目ながら見かけた。確か支部の人間ということだったと記憶しているが、様子を見るに、本部に異動したものらしい。どうやらテウスは彼女の部下という体のようだ。
ここでさらにファルーズと引き離される。
彼は恐らく牢に入れられるのだろうが、最悪の事態になることはないだろう
——少なくともすぐには。
自身の扱いがどうなるのか。これが分からない。テウスから何も聞いていないし、問う機会もなかったからだ。
(取り敢えず彼等の望む様に振る舞うのが賢明ね)
階層を上下し、いくつかの建物を経由し。
散乱しているように見えた遺跡は元は一つの建物であったらしい。残骸を土台にフィーヴァシルフェが補修したと思われる痕跡でパッチワークのようになっていた。
比較的痛みの少ない棟へとやってきた。
「こちらでお待ちください」
通されたのは彼女のために充てられた部屋、というわけではなく。応接室のようだ。特に豪奢に飾り立てられはしていないのはここまでと同様だが、居心地良く整えられていた。
対面の窓辺に寄る。
やはり。穴の外縁に近い。一連の建物の中でも重要度の低い区画だと思われる。
一見、待遇は良い。しかし……。
振り返る。
扉の外に、二人。
要人である彼女を警護するため——
楽観的に考えるのであれば。けれど彼らが疎んでいるファルーズと行動を共にしていたという点を加味すれば、これは軟禁と解釈すべきだろう。いざとなればどうにでもできるが。
(或いは)
テウスの差配によるものと捉えることもできる。彼は協力してくれと言ったが、それは事が済むまで大人しくしていろという意味なのかもしれない。
(?
ファルーズ——
じゃない)
「スーヴィルヴァがお見えです」
扉が開く。
その瞬間。
冴えて
全てが氷解した。
(此の人は——)
ラーベが望む限り巫は必ず一人以上存在するが、無論、誰でも良いという訳ではない。素質が必要だ。だが、素質が有れば漏れなく巫になるというものでもない。この人は、そんな半端者。ラーベから認識されず、しかしラーベを感じ取ることができる者なのだ。
(偶然じゃ無い)
楔と本部が重なり合っていることも。宵花とファルーズがここに連れて来られたことも。
「君たちは下がっていなさい」
護衛を退かせる。
応接室には宵花とスーヴィルヴァ、二人きりになった。
「どうぞ楽にして。何か不自由なことがあれば遠慮なく言って欲しい」
ニコリと笑む。
なかなか感じの良さげな男だった。
勧められるままに腰掛ける。甘い香りのする飲み物が運ばれてきた。
「わたしに何を望むのですか」
「何も。ただここに居てくれるだけで良い」
眉をひそめる。
スーヴィルヴァは席を立つと宵花の傍らに跪き深々と頭を下げた。
「私は見定める必要があった。しかしこうして直にあなたと会い確信しました。
王は仰せです。あなただと!
リヴァテウムに選ばれしあなたは間違いなく神使!大罪人レベッカに似たそのお姿もあるべき因果なのでしょう」
彼女を見上げるその目は、まぶしいほどの純粋さで満たされていた。
(心から信じて居るのね)
彼の捉える世界を。
「此の穴の中心に——力が有りますね。其れを祀り始めたのは貴方ですね?」
今のフィーヴァシルフェの信仰の対象がラーベへと向いているということを彼女は知っている。しかし彼らは本来「救世主ジェラルド」を祀っているはずなのだ。
このすり替わりは、いつから生じたものなのか。
それは、ラーベの意志をおぼろげながら感じることができるらしいこの人からなのではないか。
「さすが、良くご存知ですね。おっしゃる通り。
……長かった」
立ち上がると外を眺める。
「まだそれが何かすら分からない幼年の折から私には王の御声が聞こえておりました。そんな私がフィーヴァシルフェに辿り着きこの役をいただいたのも、すべては、王の思し召し。では、王は私に何を望んでおいでなのか。私にしか成し得ぬこと。それは、御声を遡り王のお側近くでお仕えすること。そう思い定め、この聖地と、そして聖宝を見出したのです」
手を鳴らす。
「神使を部屋に案内してください。くれぐれも失礼のないように」
§§§
何も告げられずに引っ張り出されたそこは寒い牢から一転、熱気に包まれていた。
一つには派手に燃え盛る炉
もう一つにはここに集った人々の熱狂によって。
予告がなくてもそこに彼を葬るための仕掛けがあるのだろうという事は察していた。だから現にこうして目の当たりにした所で特別な感慨はなかった。ただ、自分がどのような方法で彼らの期待に応えさせられようとしているのかを知らされる事になっただけだ。
引っ立てられるように歩く。
気が進まないのも無論あるが、体に力が入りづらいのもあった。
ここに至るまでの二日間、「酷い扱いを受けた」という程では無いにしろ、もてなされていたわけでも無い。死なない程度に飼われていただけだ。
空は薄っすらと色付いてきているが、ここにはまだ日の光の恩恵は無い。彼の目からは観客席の大半は暗がりに沈んでいて、観衆の姿は良く見えない。けれど闇に没していない僅かな明るみ、炉に照らされた正面の席。そこに、宵花が居た。杏色のローブの群れの中で一人、染まらない姿で。
目が合った一瞬、宵花が微かに頷く。
(大丈夫だ。こんな所で僕は死なない)
一歩一歩。
段を登る。
腰の縄が脇の吊るし台のものへと繋ぎ変えられる。
この後足場が外され足元の処刑人が縄を切ると彼は炉に落ち、燃やされることになるのだろう。
「王のご意志により、大罪人フィオナ・マクラオドの玄孫ファルーズ・マラドの処刑をここに執り行う——
何だ?騒がしいな」
言葉尻に被さるように入り口という入り口から武装した人々が雪崩れ込んできた。
(あの紋章は——
キサニオックの軍?)
処刑人が素早く動きスーヴィルヴァを取り押さえる。
「ルンド=ヴィスィーン・サアル・ランドゥン・イングルドだ。ダカンジ共和国の申し出により、信仰罪、組織的に国家の平穏を乱した罪、及びその他諸々の嫌疑でこの度お前達フィーヴァシルフェを取り締まることとなった。同行願おう」
「テウスさん!」
テウスはフードをずらすと彼を見上げ、わずかに口元を緩めた。
「ファルーズ!」駆け上がってきた宵花に軽く抱擁される。
「良かった。無事で……」
ちょっと意外なほどに強く想われていたことが嬉しくて。
「うん。宵花も」
ほほえむ。
改めて見るとキサニオックの軍はそれほど大人数ではない。けれど完全に不意をつかれた信徒達は瞬く間に制圧されていった。状況は驚くほどあっさりと収束するかに思われたが——
「ぐっ」
テウスが蹲る。
拘束されていたスーヴィルヴァはそのまま、さっと炉の傍まで進み出ると、
「同志たちよ、怯れるな。我らは不滅だ」
躊躇する素振りも見せず身を翻し、炉の炎の中へと消えていった。
「大丈夫ですか!テウスさん」
「ああ。
油断した……」
悔しさを滲ませて。
苦しそうにしながらも立ち上がる。
「虚勢では無さそうね。
けれど、不味いわね……」
宵花が危惧したのは場の事だ。
こんなにもガラリと空気とは変わるものなのか。
残っていた信徒が、
いや、
捕縛されている者までも。すっかり剣呑な様だった。
豹変
という言葉が頭を掠める。
まるで取り憑かれたようで。異様な雰囲気だった。
恐怖を感じた。
直接対峙していない彼でさえ。
キサニオックの軍も浮き足立って見える。
砂の崩れるが如く。
脆い均衡が破れ、凶行へと止めどなく堰を切りかけた——
間際
「ハイハイ、ソコまで」
炉の炎が大きく立ち上り、派手な音を出して消える。
ワーニャだ。
緊張が揺らいだのを透かさず捉え、テウスが呼び掛ける。
「我々は力で解決することを好まない。身柄が尊重されるよう、ご協力願います」
情勢は再びヴィスーン側へと傾いた。ほとんどの信徒は抵抗らしい抵抗もせずに降っていく。
ひと通り落ち着いたところで、
「彼等の多くは無恵者です。どうか寛大な配慮を。
……こんなの、偽善でしかないけれど」まつげを伏せて、宵花。
「偽善でも、関心を持たれないよりはマシってこともあるさ。彼らはずっとそうだったんだしな。
さって、お前さん達もここに用があったんだって?」
「ええ。
ファルーズ、動けそう?」
「ココはしばらくヴィスーンに接収されるだろうから、ナンカあるんなら多少ムリしてでも今のウチにやっちゃったほうが楽だと思うけどね」近づいてきていたワーニャが割って入る。
ファルーズはうなずき、
「僕なら大丈夫」
「残党が居るかもしれない。気を付けてな。ワーニャ、付いて行ってやってくれ」
「キユウでしょ。でもま、イイわ。頼まれてアゲル。ココにいてもどーせタイクツだし」
「ワーニャもヴィスーンだったんだね」
「チ、ガ、ウ」口を尖らせ人差し指を彼の鼻先で振りながら、
「キョーリョクしたげたの。コッチのが楽しそうでしょ?」
「そんなにあっさりと信じて居る物を手放せるものなの?」
「あー、ヤッパそう思っちゃう?」宵花の問いに嘆くように顔を仰向ける。
「ど~でもよかったのよ、最初っから。王だの復活だのなんて」
「じゃあ何で?」
家の都合とか生活苦とかいった事情が思い浮かぶ。しかし返ってきたのは、
「スーヴィルヴァがイケメンだったから」
「それだけ⁉」
そうした一切を吹き飛ばす答えだった。
声が裏返る。
(イケメン、か?)
スーヴィルヴァを見たのはあの刑場が初めてで、しかも状況が状況だ。顔の造作をそんなにまじまじと検分したわけではない。
(けどまあ、言われてみれば)
鼻筋が通った面立ちは、人によっては好ましく思うものなのかもしれなかった。ピンとこないが。
「大事なコトでしょ。アンタだってヨイカが美人だから付き合ってるんじゃないの?」
「それって否定するの難しいやつだよね?でも僕はそれだけじゃないつもりだよ」
下へ下へ。
刑場も施設全体から見れば下層の方に位置していたが、楔があるのは下層も下層。牢と同じ最下層だ。ひたすら下へと降りていく必要があった。
見かけ上ワーニャが二人を先導する恰好になっているが、実のところ案内は必要なかった。
身を委ねればひとりでに体が動くのではないか
それほどに
それは強く
ファルーズを呼んでいた。
階段を下りきる。
角を曲がったところで、反射的にファルーズは足を止めた。
ここまで大丈夫だったからと油断が有った感は否めない。テウスの心配した通りになった。
(よりにもよって目的地で……!)
扉の前には信者が二人、控えていた。
「どうどう。
落ち着け落ち着け」身構える彼にワーニャが気楽に手を振る。
「ナンカの時のためにいちおー押さえておいたの。ま、聖遺物としては歴史が浅いし効き目としてはびみょーだろうけど、少なくともスーヴィルヴァに対しては強力な切り札になるしね。
ココログルシかったわー、アノ方を裏切るの」言葉とは裏腹に軽い口調で。
「アリガト。もうイイわ。合流してちょうだい」
信者達はうなずき去って行った。
「さて。
ココまで来たんだしわたしも立ち会っていーのカシラ?」
「構わないけれど、面白い物では無いわよ」
「ソレはわたしが決める」
呼吸を整え、少し厳粛な心持で。
扉を開ける。
「あれが、最後の……」
アーチが林立するだだっ広い空間に小さな石が一つ、ふわふわと漂っていた。
「ヒュー、初めて見た!ヤッパたのしーじゃん☆
スーヴィルヴァはあまりガを張るヒトじゃなかったんだけど、本部の移転とコレの聖遺物指定の件ではメッチャ強く出たってハナシよ」
重い。
近付こうとしたファルーズは堪らずよろめいた。
「ナニコレ⁉」
「楔の為に理が歪められて居るのよ」
視えざる手が押し潰そうとして来てでもいるようだ。弱った体にはこの負荷はいかにもこたえた。
「ファルーズ。大丈夫よ。わたしが付いてる」
宵花に支えられ、
剣を杖代わりに
短くて遠い距離を、
噛み締めるように
少しずつ、
少しずつ。
普段なら苦にするなど思いもかけない間なのだが、辿り着いた頃にはすっかり草臥れていた。
息を吐き。
楔と対峙する。
こうして近くで見ても無造作そのもので、ただの石塊にしか見えない。けれど良く目を凝らすと、石を透かして何かの模様のようなものが垣間見えた。そしてこれもまた、正に風前の灯に似て、頼りなげに揺らめくことがあった。
「皮肉な物ね。ク=ラデスの流れを汲む者達がこんな物を祀って居たなんて」
その述懐はどこへともない苛立ちと、嘲弄と、落胆と、諦めと——複雑な辛さを秘めて響いた。
楔に触れる。
触れると忽ち
石の永い時の作用をたちどころにして享けたかの如く
ぽろぽろと砂状に変じ崩れ果てた。
突き上げるような、激しい揺れに襲われる。
「今度はナニ⁉」
堪えきれずファルーズは膝をつく。
酷い揺れだったが、幸い、柱の森が倒壊を始めるよりも前に収まった。
「戻りましょう」
また揺れが来るのか、それともこれきりなのか。
いずれにせよ、この継ぎ接ぎだらけの建物の中に留まるのは良い事とは思えない。
とはいえ、だからといって消耗した体力が理屈に合わせて追いつくものでもなく。歩みは彼の体調を慮って休み休みのものとなった。
やっと刑場の階まで戻ってくると、騒然としていた。理由は聞かずとも知れた。
音だけでもう、凄まじい。
風が荒れ狂っていた。
とうに明るくなっている筈の空はあたかも巻き戻ったかと錯覚する程に真っ暗で、恐ろしい様な稲光が幾筋も閃いている。
「こりゃあ、ただゴトじゃあないな」額に手をかざし、テウス。
「見極めてっからってのも……
いや、一部計画を前倒しすべきか……。
これは局所的な異常なんだろ?リルガースとかの時みたく」
「ええ。何が起こるのかはわたしにも分からないけれど、此処から離れれば影響は小さく成るでしょう」
「お前さん達はどうする?二人の旅はまだ続くんだろう?」
「行くわ。封が解かれた以上、望まない事が起こる可能性も有り得る。のんびり為ては居られない。
今クシャヴァフルは如何成って居るの?噂では余り安定為て居るとは言い難い様だけれど」
「クシャヴァフルか……」
「大回戦の敗戦国ですよね、確か」
「ああ」
ここでの会話が届くほど近くにいるわけではないが、フィーヴァシルフェを気遣ってだろう。風の音にかき消されないよう少し張っていた声を落とし、
「あの国は実質ク=ラデスの、もとい、ジェラルド・メイヤーズ率いるレチルタと同盟関係にあったからな。で、こけたツケを未だに払い続けてるってワケだ。まあ何だかんだで国としての体面は保っちゃあいるが内情はお察しってトコだな。ただ、治安は悪くない。この頃はだいぶ排他的でもなくなったが、コレがまたマチマチでな。危険因子はいるが分かりやすくここが危険だっていうトコはない。つまり、何が起こるか分からないってことだ」
「有り難う。其丈分かれば十分よ」
「付いて行ってやれれば力になれるんだが……。
代わりと言っちゃナンだが、ワーニャ!」別れてやりとりしていた協力者に呼びかける。
「ワーニャは麓までファルーズ達を案内してやってくれ。そしたらそのままキサニオックで待機な」
「え~、まだお守りぃ~?しかもこんなナカァ?」むくれてみせる。
「楽しそうにやってるじゃん」
「ハイハイ。ど~せ逆らえる立場じゃナイし?ワーニャちゃん雑用でもナンでもウケタマワリますよっ。
んじゃ、とっとと出発しましょ」
「ああ、そうだいけね。大事なコトを伝えそびれるトコだった。
ファルーズ、マガディのことだが——」「みんなは無事なんですか⁉」思わず詰め寄る。
「安心しろ、無事だ。焼けた家は何軒かあるみたいが、幸い、軽い怪我人が出ただけだそうだ」
「良かった……」重く伸し掛かっていたものが、少し、軽くなった心地がした。
「あの、テウスさん。無理を承知で頼みたいのですが、兄さん達に伝えてくれませんか?ファルーズは無事だと」
「水臭いな」苦笑がちに、
「無理なんて事はないさ。必ず伝える。
しっかりな、ファルーズ」
去り際、彼だけに聞こえるように激励して。テウスは送り出した。
早く
早く‼
「——ズ!
——ルーズ!
ファルーズ‼」
ハッと、
引き戻され。そうしてようやく宵花が間近にいたことに気づく。
「僕、また……?」
「ええ。上の空だったわ」
何に急いているのか。
自分でも分からない。
違う。
彼ではないのだ。
この感覚は彼のものではない……はずだ。
全ての楔が消滅した影響か。
彼は、彼を呼ぶ何者か——宵花の言うラーベの意志に感化されているのだろう。その声は抗いがたいほどに強く……たびたび、今のように意識を持って行かれることがあった。そして我に返って、怖くなる。
(僕は……)
いつか正気ではいられなくなってしまうのではないか、と。
「確り、ファルーズ。貴方は大丈夫。絶対に」
そんな彼を、心を震わす強い瞳で宵花が支えた。
(宵花、君は……?)
君は、どうなのか。
その瞳に問おうとして、いつも言葉にならない。
ずっと。
苦しくなる。
そうだ。
最初からだ。
最初から、
もう、
どうしようもなく突き付けられていたことだった。
どうすれば、彼女を止めることができたのか。
けれどもう、彼にも引き返すことは不可能だった。
帽子をかぶりなおす。
ここ、ロヴァール大陸は今は冬に当たる。とはいえ彼の故郷の例にならえばそろそろ春の声が聞こえてきてもおかしくない時期なのだが、少なくともよそ者の彼にはこの地にその兆しを見出すことはできなかった。特にミロウンを過ぎ内陸へと進むにつれ、寒さも乾きも緩くなるどころか一段と厳しさを増した。日が昇ろうがお構いなしだ。そんな有様なので夜などは、それはもう、言語を絶する。息をしただけで命の危険を覚えるなんて初めての経験だった。宵花の魔法の範囲を外れればとても居られたものではない。フィオナも寒さには随分苦労させられたらしいが、これよりもっと辛い思いをしたのだろうか。
「ここだね」
谷間の隘路に開いた入り口へと足を踏み入れる。
構えていたおかげか服装の効用か、これという危ない目に遭うこともなくここまで来ることができた。ひょっとしたら彼が気づかなかったところで宵花が気をつけてくれていたのかもしれない。
扉の前に立つ。
かつては堅牢であったのだろうが今ではそこここに罅が入り、すぐにでも崩壊しそうだった。
確信をもって触れる——
瞬間
何かがもの凄い勢いで吹き出し——
なす術もなくその激流に呑まれた。
気づくと、真っ暗な空間にいた。
けれどもブリミルの森の時とは違う。前後左右上下の別もなくどっぷりと闇に没してはいるのだけれど、なんと言葉をあてようか、一方で明るい、としか言いようがなかった。自分の姿も宵花の姿もはっきりと見ることができる。
「其方にとっては久しい、か? 神滴」
つい今まで確かに二人ぼっちだったはずなのに。それはあたかも最初からそこにいたようだった。
光の獣だ。
直視することが難しいほどの。
けれどその双眸は夜の闇よりなお晦く、一切の光を拒絶して座していた。
似ている
と思った。
宵花の瞳に。
かぶりを振る。
夢の中のようだ。
不可思議なことが不可思議ではなくなりつつある……
「其方の答えは知って居る。最後の神滴。予言の子よ。故に問うまい。だが我はあわいの森の主人に完全に寄り添うものでは無い」
宵花の表情が硬くなる。
「何の様な決断が成されても邪魔立ては為ない。然う約束を交わした筈です」
「無論、約定を破る様な不実を為すのは我の主義では無い。だが我は釐瑛に中立を約した訳でも無い。
新たな巫よ」
視線を向けられ、ファルーズはたじろいだ。
敵意とか殺気が有るわけではない……。けれどこの獣には彼を怯ませる何かが有った。
「我等は魔法の放棄を望む。全てを知った其の後で、其方が我等の願いを容れて呉れる事を期する」
「魔法の放棄?いったい何の話を……」
「其れは間も無く知れよう。只、其方に其方ら人が龍と呼ぶ我ら全てのものの望みを伝えるのが我の願いだった」
「龍……!」
昔語りに語られる姿とも彼が現にアクラトーレで遭遇した水の竜とも全然似通った所などないのだけれども。目の前の獣が龍だというのなら、それは確かに合点のいくものであった。
「……
あなたがた龍とは何なのですか?」
「……」少しの沈黙を挟んだのち。
気怠く倦んだ響きを帯びて答える。
「我等は澱。故に世界が在る可き姿に戻る事を望むもの」
現れた時と同様。吹き消される灯火よりももっと静かに、その姿は消え。
声のみが告げる。
「此処の番を為案内を為るが我が務め。だが其方には必要無かろう?あわいの森の主人の手により生を受けし者」
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