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氷上の煌めき
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リルガースへ、レベッカは毎年欠かさず花を手向けに赴くのだという。
「命日に来られるのが、一番良いのだがな……」
そう言って。哀しそうな、辛そうな……儚い笑みを、ほんの微か、漂わせた。
河川と陸路を利用すること半月と数日。母国ロディック王国を含めた三国の国境をなす山並の中に最初の目的地はあった。
雪に埋もれてしまっているというのに、レベッカは迷うことなくある一点を目指す。
二人のかけがえのない友が眠るという場所。静謐のみが横たわるその空間は、陽の煌めきによって、ただ、美しく輝いていた。
フィオナもまた、レベッカとホースケにならって祈りを捧げていたのだが、ふと顔を上げた。視線のようなものを感じたのだ。
「オ、オカ……ミ?」
振り向いたフィオナは、反射的に後退る。
輝くような真白のきれいな毛並みと黄金の瞳。姿形は狼に違いないのに、どうしてか、それを狼と形容することに、ためらいがあった。魔物と似ているけれども、異なる。もっと、そう……馴染のある、彼女にとっては触れたくない忌むべき力に近いものが、この狼に絡みついているような、そんな感じだった。
「安心せよ」剣を抜き、厳しい表情で彼女を隠すようにはだかったレベッカに、じっと座したまま魔狼が語りかける。「我がそなた達と対したのは契約者の命によるもの。彼の者亡き今、我がそなたと関する意味などない。そも、戦うことも出来ぬ」
フィオナの方に視線をやり、
「我が守護する軛を負わされし領域にゆかしき気配が紛れ込んだ故、足を運んだまで」
「……マリーの魔法で消滅したのは、見せ掛けだったと言う事か」
眉をひそめ、レベッカ。
「いいや。光の神滴の魔法で我は確かに亡んだ。だがこの軛から解放されぬ限り、いかなる力であれ我が滅される事は、無い。……今回は少々、再生に時間を要した様だが」
皮肉げに顔を歪め、答える。そこには、怒りと諦念の響きが混在していた。
白狼が背を向ける。
「……忌とされし呪を用い契約の欠片を捧げた事で、弱まりつつあった封印に決定的な綻びが生じた。アレは主の事を捜している筈だ。心して置くのだな、闇の神滴よ」
「どういう意味だ」
去りかけた狼を引き留め、問う。
「忘れたか?王家の業を背負う者よ。それとも、故意に伝承しなかったか……。まあ、良い。いずれにせよ、知らぬというなら、それもまた幸いであろう」
言葉を残して、守護獣は木立の暗がりへと姿を消した。
旅そのものは初めてではない。跡継ぎとしての経験を積むために、父の仕事に何度か連れられたことがあるからだ。それでも、これを生業とするレベッカと比べれば歩みは遅れがちで、加減をして進んでくれているようだった。
今後について、レベッカからは特に催促はない。その上、フィオナが望む場所があるのならば、その希望を叶えるとまで言ってくれていた。
当面はレベッカがかりにならざるを得ないが、それなりの資金を持って来たとはいえ限りがあるし、仕事を手伝えるわけでもない。どころか、足手まといだ。事実、彼女はフィオナのことをおもんぱかって、受ける仕事をだいぶ絞っている様子だった。
このままずるずると厚意に甘えるのは、性に合わない。早いところ、身の振り方を考える必要があった。
旅路はさらに南へ。
次に向かうのは、あの美しいリルガースを越えた先。レベッカの故郷。そこには、彼女の義妹が眠っているのだという。偶然にも、そう遠くないところにはフィオナにとって大切な人が暮らしているだろう村もあるはずだった。
彼は、元気でやっているだろうか。
会えるものなら会いたい。詳しい場所を知らないことが悔やまれた。
(けど、会えたとしても――)
軽く頭を振って、甘えを断ち切る。
このまま二度と顔を会わさない方が良いのだ。もう終わってしまったことなのだから。
あの不可思議な狼と出会った山からおよそ二月。
ラシーバという山村に入ったのは、未だ夜の明けやらぬ頃のことだった。いつもであれば素通りしてしまうところなのだが、ここを過ぎるともう宿がないため、今日はこれ以上は進まないとのことだった。
故郷ではもう春の到来を聞き始める時期のはずだが、ここら辺りにはまだまだそんな気配はない。寒いのは苦手ではないが、好きでもない。それならば一刻も早く暖まりたいと、宿の場所を聞いてフィオナはとっとと駆け込む。その彼女を、思いがけぬ声が出迎えた。余りに出来すぎていて、都合のいい幻聴かと疑ってしまう。
「うそ……!」意を決して、見やった先。「トム⁉」
彼女の、大切な人。
幼なじみであり、兄のようだった人。
そして……
一年前までは婚約者だった。
「フィオナ?」
焦がれていた再会に破顔したのも束の間。たちまちの内に表情を曇らせてしまった
彼女を、幼なじみが不思議そうに覗き込んだ。
「ごめんなさい」
謝罪は、しかし、さらに疑問を深めただけのようだった。
フィオナは言葉を継ぐ。
「父さんが、やったこと」
トムは兄に代わって家業を継ぐことを期待されたフィオナの支えとなるべく、父に見込まれ11歳の時にマクラオドの家にやって来て、しかるべく教育を受けていた。だが、ヒネスから婚約の申し入れがあると、父は領主家とのつながり欲しさに、先約を反古にしてしまったのだ。
「ああ、そのこと」愁眉を開くと、トムは安心させるようにふわりと笑んだ。「良いんだ。確かに君のことは好きだったし、やり切れなさは有るけれど。でも、ヨセフスさんの決断は理に適っているし、それにね、フィオナ。僕は僕を拾ってくれたヨセフスさんに恩を感じているんだ。マクラオドの家で過ごせた九年間で身に付けさせて貰ったことはすごく助けになっているし、何より、ヨセフスさんもマリアンナさんも僕を一人の人間として扱ってくれた。感謝してもし足りないくらいだよ。だから、僕が身を退くことでマクラオドの家に少しでも貢献できたなら、嬉しいと思ってる」
「トム…………ありがとう」
言葉にならないごちゃ混ぜの想いが溢れて、胸が一杯になる。
そんな彼女の頭に、トムがぽんぽんと軽く手を乗せた――小さい頃、よくそうしてくれたように。おもはゆかったが、嬉しくもあった。トムが変わらず接してくれて。
「それで、フィオナ。どうしてこんな所に?」
ヒネスと結婚したはずの彼女がここにいる。常ならぬ事情があったことは感じていたのだろう。問いかけには、案じる響きがあった。
訊かれて当然のことだった。分かっていた。けれど、それに対する答えは用意できていなかった。
なんと言えば良いというのか。彼もまた、被害者だというのに。
話すことを拒めば、きっと彼はそれ以上触れずにいてくれただろう。そうすべきだったのだ。
なのに、気付けば。涙と共に言葉が堰を切って溢れ出していた。
「辛かったね、フィオナ」
トムは、ただ、そう、優しくささやいて。
そっと包容される。
「……もし君さえ良ければ、一緒に来ないかい?僕の村でゆっくりと、どうしたいのか考えたら良い」
心が、揺れた。
そんな選択肢があっても良いのではないか、と。
そんな彼女の背中を押すように、トムが言葉を重ねる。
「君には、いや、君だからこそ見て欲しいんだ。僕の故郷を」
「……うん。そうよね……」
無意識の内に唇を引き結んで。フィオナはうなずく。
「わたしも同行為るが、構わ無いな?」
ホースケと共に二人のやりとりを距離を置いて見守っていたレベッカが、にわかに口を挟んだ。その有無を言わさぬ響きに、フィオナはとまどう。トムと行くことを選ぶということは、つまり、レベッカと別れるということなのだと思っていた。フィオナの身の危険が去ったのか懸念しているのかもしれなかったが――凪の静けさをたたえた面からは、いつものように、何も読み取ることはできなかった。
冬の常で、日は昇ったと思ったら瞬く間にその姿を隠してしまう。まして山間となれば、よけいに早く感じられた。しかし、もうすぐ村に着くから、とトムはこのまま進むつもりのようだった。
木々の合間にチラチラと揺れる灯火に気付いたのは、そんな会話を交わしていた最中。
身構えて、フィオナは足を止める。
現れたのは数人の男。
武装はしているが、どうやら村人らしい。
「ああ、やっぱりトムだったか」
魔法の明かりで照らされた一行の中になじみの顔を見いだして、村人はほっと肩の力を抜いた。
だが、すぐに怪訝の色が浮かぶ。
無理もない。
「こちらは僕の婚約者だったフィオナさんと、お連れのレベッカさん。偶然ラシーバで再会しまして、折角だから故郷を見てもらおうかと」
「そうでしたか。トムが大変お世話になったそうで。同郷の者として礼を申します」愛想よく会釈をする。「フィオナさん、あなたのような方でしたら大歓迎です」
「そうだ。村長に知らせて来てくれませんか。僕らはゆっくり行くから」
トムの提案に軽くうなずくと、村人達は小走りに去っていった。
想像していた以上の惨状に、言葉を失った。
トムの故郷、ノール村はまさに寒村という概念をそのまま具現化したような集落だった。
見るからに痩せた土地。建ち並ぶ家々も村民の暮らしぶりも、まるで文明から取り残されたまま時間が止まってしまったかのようだった。そこここに固まっている雪のかたまりが、この光景に一層の寒々しさを与えている。
このような状態で冬を越すのは、どんなにか辛苦をともなうだろう。
それでも、乗り切るしかないのだ。生きるためには。
なぜならここは、無恵者がほそぼそとその身を寄せ合う場。世界から見捨てられた人々の地なのだから……。
今、はっきりと実感を持った。
混血のための世で、貧民窟に生きるか、孤立した集落に身を寄せ合うか。イレ=ラーバティに与えられる、二つに一つの選択肢。そのどちらも、希望などないのだと。
けれど意外なことに、村長も他の村人も温かく二人と一羽を迎えてくれた。客人など負担でしかないだろうに、気の済むまで滞在していいと村外れにある一軒家まで用意してくれたのだ。もったいないぐらいの厚遇だった。
だというのに――
「嫌な雰囲気だな」
軋みあげる寝台に落ち着いたレベッカが、ポツリと漏らした。肩の鳥まで、同意を示すように鳴く。
「斯ういう所は経験上、陸な事が起こら無い。頃合いを見計らって、出るぞ」
「よくそんな事が言えるわね。レベッカも、やっぱり同じね」
心が、スッと冷えた。
声音に失望の響きがにじむ。
「恵まれてる人には分からないのよ。魔法を使えないことが、この世の中をどれだけ生き辛くするかを」
「然う言う事を言って居るのでは無い」諭すように、レベッカ。「御前は――然う、例えばトムの言動で気に成る所は無かったのか」
即座に否定できなかったのは、思い当たる節があったからだ。
ラシーバで、再会した折。
親愛の情の中に、ほんのかすか、拒絶が見えはしなかったか。
(ううん、違う。トムに限って、そんな――)
認められない。
認められるわけがなかった。
「……イイわ」グッと、同伴者を挑戦的に見すえる。「レベッカのつまらないカンなんて、ぜっっったいに杞憂なんだってことが証明されるだけなんだから‼」
夕食の席が整ったことを幼なじみが告げに来た時、フィオナは眠った振りをしていた。
炉から離れて、この底冷えのする環境下で上手く芝居なんかできっこないと思っていたのだが、外套をはおったまま備え付けの毛布を敷き布団代わりにして携帯していた毛布をすっぽり被っていたら、なんとかやり通せそうな温度になっていた。
同伴者はフィオナの疲労をだしに、また、自身も食が進まないからと誘いを退けた。トムは残念そうではあったが執拗に食い下がるようなことはせず、あっさりと引き下がっていった。
ホッとして起きだそうとした彼女を、レベッカが制止する。
はたして、しばらくすると疲れに効くという薬を携えてトムが戻って来た。
変わらず優しいトム。そんな彼を信じきれないことに、胸が痛んだ。
フィオナは無言の内に荷をまとめ、レベッカは軽装からいつもの重たそうな旅装へ。
息をひそめて、時を待つ。
夜が更けていくのと比例して、どこかピリピリとした刺すような空気が増してくるように感じられる。
気のせいだ。
深用心の同伴者のせいで過敏になっているだけ。
そう、思いたかった。
抜け出したのは夜更けよりやや手前。
いくらも行かない内に、急に辺りが明るくなった。
火の手が上がったのだ。つい先刻まで、彼女たちが居た家から。
(なんで)
想いは、千々に乱れる。
(なんで、トムまで――)
こんなの、悪い夢であってほしかった。
何のために。
何のために、逃げているのだろう。
ともすれば止まってしまいそうになる足を、辛うじてこびりついていた理性が叱咤する。
甲高い笛の音が、響き渡った。
それなりの距離は稼げていたはずなのだが、やはり土地勘の有無の差か。背後には、殺気立った追っ手達があっという間に迫って来ていた。
(トムは――)
淡い可能性にすがって。つい捜してしまった視線に捉えることがなかったことに、安堵する。
(そうよ、トムだけは違うカモしれないじゃない)
それは、詮無い欺瞞でしかなくとも。
信じたい。
信じられない。
揺れる気持ちに苦しむ。
「先に行け」
やや先行していたレベッカが、マントを翻らせて反転した。
並んで飛翔していたホースケがつと離れ、高みへと昇っていく。
「斯う成ったら迎え撃つしか無い。御前には……見せたく無い」
そこに含まれる剣呑さに、息が詰まる。
けれども己の無力さと、止めることの無責任さを悟って。
うなずく代わりに蔽目して、駆け出した。
泣きたいのか、怒りたいのか。
悲しむべきか、喜ぶべきか。
叫ぶ?
笑う?
感情なんて、もうグチャグチャだった。
とめどなく溢れるものを引きずったまま。意味も分からず、走って。走って。
真っ暗な森の中をやみくもに辿ってきた道は、気付けば登りになっていた。
これ以上駆け続けることが出来なくなって、フィオナはとうとう足を止める。
喧噪は、遠い。
前かがみになって荒い呼吸と格闘しながら、汗をぬぐう。
のどが焼けるようだった。せめて、一口だけでも水を――
水筒にかけた手は、その用をなし得なかった。
唐突に、全身を揺さぶられるような衝撃に見舞われたのだ。
何が起こったのか。
映ったのは、空。
星々と満ちた月が澄みきった空に皓々と輝いていて、憎らしいほどに、明るい夜空だった。
地面に激しくぶつけた肩が痛む。
そうだ。
打ち倒されたのだ。
横手から飛び出してきて、今彼女に覆い被さっている…………何かに。
血の、臭いがした。
生暖かいものが服に染み込んでくる。
意志の力を総動員して手を持ち上げる。
べっとりと濡れたそれは、無情な月光に紛れもなく赤なのだと暴かれてしまっていた。
「トム……?」
恐る恐る絞り出された言の葉は、震える唇で口にされた名は、消え入りそうなほどささやかで。
反応は、ない。
そのことに、かえって力を与えられて、機敏な動きでぐったりとした身体の下から這いだす。
何度も何度も、必死に幼なじみに呼びかけた。そのことが功を奏したのか。
彼のまぶたが、小さく震えた。
うっすらと眸が開かれる。
「ああ、……フィオナ」
濁った、声だった。
不吉な咳と共に、赤黒いものが唇から漏れいでる。
「人間の盟主を謳う彼らは、ク=ラデスと名乗った」
唐突な語りだしだった。
けれど何か強い意思の響きを感じて、質すことに時間を費やしてしまうようなことはせず、代わりに、一言一句も逃すまいと耳を傾ける。
「ダカンジ共和国の、ニモタータの首長」あえいで空気を求めながら、トムは早口にまくしたてる。「君は……狙われている。計画が成ってしまえば逃げるのも難しくなるだろう。抗う意志が有るのならば、行け!そいつは恐らく、核心に近い」
震える指先が、慈しむようにそっと、彼女に触れる。
「世界は、憎い。でも、僕は……君に生きていて欲しいんだ」
「トム…………?トム‼」
知ってしまったのか。だから、トムは――。
まだぬくもりを宿す手を握りしめて嗚咽する。
その肩を、何者かが強くつかんだ。
「時間は稼いだが、長くは持た無い。直ぐに追いつかれる。立てるか?フィオナ」
レベッカだ。いつの間に追いついてきていたのか。
弱々しくうなずくと、フィオナは立ち上がる。
だが、走り抜けた先は到底飛び降りることなど不可能な崖でしかなかった。もはや、はっきりと声が届くほどに、灯火の群れは接近してきている。二人のすぐそばの地面に、いく本か矢が突きたった。
ここまでなのか。
くずおれそうになるフィオナの手を、レベッカが強く引いた。
「行くぞ」
「行くぞって――ぇえええええ⁉」
意図を察するより早く踏み出され、なすがまま。浮遊感に包まれてようやく、抗議の悲鳴を発する。こちらは突き上げてくるこの名状しがたい気持ち悪さといきなり戦わされていっぱいいっぱいだというのに、当の元凶は涼しい顔で、もの凄い速度で魔法を形成なんかしている。人間離れした離れ業が、感嘆を通り越していっそ恨めしい。
木々の頂きが、もう間近。
紙一重の間で、ふわりと風が体を覆う。
レベッカが喚び出した、ついぞ見たことも聞いたこともないような空飛ぶ黄褐色の巨大な獣、いや、鳥?ともかくヘンテコな生き物の背に軟着陸を果す。本来一人乗りなのだろう。詰めに詰めて、それでもギリギリだった。
怪鳥の毛並みは、厳めしい見てくれとは裏腹に意外と触り心地が良い。市場に出したら高値で取引されるに違いない。もっとも、商売として実現するにはとんでもなく高い代償を乗り越えなければならないだろう。割には合いそうにない。
巨鳥は、濃霧に覆われつつある森の中から手頃な場所を目ざとく見いだし、旋回するように緩やかに地に降り立つ。
落ち着いたところで、悠々と舞い降りてきたホースケがいつもの定位置へと収まった。
「わたし、兄を殺したの」
村からは大分離れたものの、いまだ安全とは言い切れない。それでも、差し迫った脅威から遠ざかったことで、張り詰めていたものが緩んだのか。こみあげてくる激情のまま涙を流し、泣いて、泣いて、泣き疲れて眠った後に。フィオナはポツリと漏らした。
「幼いころに、魔法で。それ以来ずっと、わたしは魔法を使うコトが、ううん、自分自身が、恐かった……」
閉ざされた扉。
届かない手。
焚火を視界から閉め出すように、夜闇にあってなおきららかな青翠の瞳をギュッとつむる。
はぜる炎はいつだって、突きつけるようにこの呪わしい力を意識させた。
「イレ=ラーバティとして生きるよう決めたのは父さんたちだけど、わたしもそれでイイって思った。ホッとしたの。これで、こんな力なんか捨て去って生きられるって。けど」
確かめるように。
気持ちを、すくい取るように。
彼女にしてはゆったりとした速度で、言葉を紡いでゆく。
「わたしの大切な人が二人も、命を賭けてわたしを守ってくれた。わたしは、それに応えたい。だから、わたしと契約して、レベッカ。魔法を、教えて欲しいの。危険に見合う対価を、今は払うことができないけど。いつか必ず返すから。いざとなったら逃げていいから。……ひどい条件だっていうのは、分かってる。でも、レベッカしかいないの」
静かな、しかしながら、ひたむきな意志をこめた訴えを同伴者は確かに受け止め、そして、首を振った。
「其の必要は無い。御前を狙っている輩は、わたしの故郷を滅ぼした連中と同じか、少なくとも、繋がって居る可能性が有る。命を狙われて居ると言う点では同じだ。詰まり、わたし達は同志。対価は不要だ」
言い切ると、レベッカは荷袋の中から慎重な手つきで何かを取り出した。
「此れを」
いぶかしみつつ、受け取る。
本と腕輪だった。とてつもなく繊細で綺麗に作られた逸品だ。一体どのような名人の手になるものなのか。途方もない手間と労力がかかったことだろう。これらどちらかでも、おいそれとは手を出せないような値打ち物とみえた。そして、そよ吹く風のようにほんのささやか、自分と同じ力を感じる
「今は亡きリネス王家の魔法書だ。御前には、並外れた光魔法の素養が有る。実地の事はわたしが教えると為て、此れも利用為ると良い。腕輪の方には魔力の流れを調節する働きが有る。力の制御に役立つだろう」
「これは……とても大切な物じゃないの?」
「構わ無い。其れが、彼女の遺志だ」
光を透かして綾なる光彩を放つ腕輪に、フィオナはそっと触れる。
「なんでだろう……。この腕輪からは穏やかな、やさしい気持ちが伝わってくる気がするの。きっと、とても温かい人だったのね……」
レベッカが黒瞳を見開く。
それから、かそけき笑みで言った。
「嗚呼、本当に……」
と。
ダカンジ共和国は北方のアーレイズラシル大陸にある。船を使わなければならない。追われている身で、どの港を選択するべきか。とても大きな問題だった。
西部で最も頻繁にアーレイズラシルへの便が出ているのはソークシニヨンだが、これはもちろん論外だ。次点はグリケノックのロミューバルだが、あの国はウィリアムスとかいう人物が起こした反乱――レベッカに言わせれば維新だが――による動乱の最中。港も封鎖されていて、出港のめども立たない。後はどこも一長一短。
そこでレベッカが推したのが、大陸最南端の港、ヒャルリ王国のトーを使うという案だった。あそこは夏季のみの運航で、今から向かうとおそらくやや早い。けれど、だからこそ追っ手にアーレイズラシル行きを悟られたとしても、裏をかける余地がある。あの国には街道がなく、足取りをくらませやすいというのも大きかった。
広く各国の枢要部と関わりを持っているらしい追跡者を撒くために、必要最小限の足跡で済むよう、慎重な経路選択が重ねられた。速やかさを優先させた場合もあるので万全とは言い難いが、最低限、時間稼ぎさえ出来ればとの割り切りだった。
苦心のかいあってかトーに至るまで襲撃に遭うようなことはなく、出港までひと月超。いつ追いつかれるかという緊張はいつでも多少はつきまとっていたものの、久方ぶりの休息をフィオナは満喫していた。
「キレイ……!」
広がった情景に心洗われ、感嘆する。
長期にわたる滞在の合間。さっぱり実感できなかったが、暦の上では南国の遅い春のきざしが僅かながら現れようかという頃。ぜひ見せたい絶景がある、と朝もまだ明けやらぬ内に民宿の主人、モスコウイッツにレベッカと二人――ホースケは寒さに縮こまって、頑として外に出たがらなかったのだ――、街外れの氷原まで連れ出され。
屋内は普段着でも快適に過ごせるほど暖かいが、一歩外に出ればこの時期でもなお、後悔するような寒さだ。平然とした様子のレベッカとモスコウイッツに心中悪態をつきながら、時を待った。
その時。
地平の彼方から太陽が顔をのぞかせ、明けの影が照らした瞬間。
世界が、変わった。
(光が、舞ってる……)
まるで、氷そのものが光を発しているみたいな…………。
辺り一面、輝きのただ中にある。
こんなにも明るいのに、目を射貫くような強さではない。包み込むように柔らかかった。
「氷上の煌めき」モスコウイッツが語る。「そう呼ぶんだ、コイツをな。夏の訪れの先触れみたいに見せる、とっときの表情。けどそんなのは上辺だけで夏はまだ来ないし、光の下には相も変わらず凍りついた、人を拒む大地しかない。そっから転じて、ここらじゃ見せかけだけの問題解決をこう言ったりするんだがな」
「氷上の、煌めき」
かみしめるように繰り返して、再び見やる。
そうしてみると、それはまた違った風に映った。
溢れる光輝と頬を過る凍てついた風とを。フィオナはまっすぐに見つめ続けた。
そのことが話題にのぼったのは、出港予定日まで三週間を切った頃。夕餉の席のことであった。
「そういやあ、隣町のヤツから聞いたんだが」
アザラシの肉が入った絶品のスープをすすりながら、モスコウイッツが何気ない風に切り出す。
他に宿泊客はない。ために、家族の団らんに二人と一羽が加わっているという体で、フィオナはこの暖かな食事の時間が大好きだった。
「どうもあんたがたを捜してるらしい人がいるみたいだな。心当たり、あるかい?もしアレなら、連絡つけとくが」
思い当たる節はもちろんあった。悪い方向で。
レベッカとホースケは別段特別な反応を示さなかったが、フィオナはわずかに緊張が走ったのを自分でも感じた。
「そうかい」
旅の事情については話していないが、察するところはあったのだろう。得心したようにうなずく。
「じゃあ、そうと伝えておくよ。ついでに出港を早めてもらえるよう、かけ合ってみよう」
このちょっとした隠蔽が意外にも力を発揮したらしい。
チラついた影に捉らわれることなく、出港の日は訪れた。といっても、それを報されたのは当日の早朝だったのだが。
ギリギリ氷山地帯を抜けられなくもない海況だと、船長が判断を下したのだという。さらに、彼女たちが乗り込む船は、アーレイズラシル大陸直通の特別便だった。
見送りにきてくれたモスコウイッツ一家に幾重にも礼を重ねて、氷山の影に消えてしまうまでフィオナは手を振り続けた。
「命日に来られるのが、一番良いのだがな……」
そう言って。哀しそうな、辛そうな……儚い笑みを、ほんの微か、漂わせた。
河川と陸路を利用すること半月と数日。母国ロディック王国を含めた三国の国境をなす山並の中に最初の目的地はあった。
雪に埋もれてしまっているというのに、レベッカは迷うことなくある一点を目指す。
二人のかけがえのない友が眠るという場所。静謐のみが横たわるその空間は、陽の煌めきによって、ただ、美しく輝いていた。
フィオナもまた、レベッカとホースケにならって祈りを捧げていたのだが、ふと顔を上げた。視線のようなものを感じたのだ。
「オ、オカ……ミ?」
振り向いたフィオナは、反射的に後退る。
輝くような真白のきれいな毛並みと黄金の瞳。姿形は狼に違いないのに、どうしてか、それを狼と形容することに、ためらいがあった。魔物と似ているけれども、異なる。もっと、そう……馴染のある、彼女にとっては触れたくない忌むべき力に近いものが、この狼に絡みついているような、そんな感じだった。
「安心せよ」剣を抜き、厳しい表情で彼女を隠すようにはだかったレベッカに、じっと座したまま魔狼が語りかける。「我がそなた達と対したのは契約者の命によるもの。彼の者亡き今、我がそなたと関する意味などない。そも、戦うことも出来ぬ」
フィオナの方に視線をやり、
「我が守護する軛を負わされし領域にゆかしき気配が紛れ込んだ故、足を運んだまで」
「……マリーの魔法で消滅したのは、見せ掛けだったと言う事か」
眉をひそめ、レベッカ。
「いいや。光の神滴の魔法で我は確かに亡んだ。だがこの軛から解放されぬ限り、いかなる力であれ我が滅される事は、無い。……今回は少々、再生に時間を要した様だが」
皮肉げに顔を歪め、答える。そこには、怒りと諦念の響きが混在していた。
白狼が背を向ける。
「……忌とされし呪を用い契約の欠片を捧げた事で、弱まりつつあった封印に決定的な綻びが生じた。アレは主の事を捜している筈だ。心して置くのだな、闇の神滴よ」
「どういう意味だ」
去りかけた狼を引き留め、問う。
「忘れたか?王家の業を背負う者よ。それとも、故意に伝承しなかったか……。まあ、良い。いずれにせよ、知らぬというなら、それもまた幸いであろう」
言葉を残して、守護獣は木立の暗がりへと姿を消した。
旅そのものは初めてではない。跡継ぎとしての経験を積むために、父の仕事に何度か連れられたことがあるからだ。それでも、これを生業とするレベッカと比べれば歩みは遅れがちで、加減をして進んでくれているようだった。
今後について、レベッカからは特に催促はない。その上、フィオナが望む場所があるのならば、その希望を叶えるとまで言ってくれていた。
当面はレベッカがかりにならざるを得ないが、それなりの資金を持って来たとはいえ限りがあるし、仕事を手伝えるわけでもない。どころか、足手まといだ。事実、彼女はフィオナのことをおもんぱかって、受ける仕事をだいぶ絞っている様子だった。
このままずるずると厚意に甘えるのは、性に合わない。早いところ、身の振り方を考える必要があった。
旅路はさらに南へ。
次に向かうのは、あの美しいリルガースを越えた先。レベッカの故郷。そこには、彼女の義妹が眠っているのだという。偶然にも、そう遠くないところにはフィオナにとって大切な人が暮らしているだろう村もあるはずだった。
彼は、元気でやっているだろうか。
会えるものなら会いたい。詳しい場所を知らないことが悔やまれた。
(けど、会えたとしても――)
軽く頭を振って、甘えを断ち切る。
このまま二度と顔を会わさない方が良いのだ。もう終わってしまったことなのだから。
あの不可思議な狼と出会った山からおよそ二月。
ラシーバという山村に入ったのは、未だ夜の明けやらぬ頃のことだった。いつもであれば素通りしてしまうところなのだが、ここを過ぎるともう宿がないため、今日はこれ以上は進まないとのことだった。
故郷ではもう春の到来を聞き始める時期のはずだが、ここら辺りにはまだまだそんな気配はない。寒いのは苦手ではないが、好きでもない。それならば一刻も早く暖まりたいと、宿の場所を聞いてフィオナはとっとと駆け込む。その彼女を、思いがけぬ声が出迎えた。余りに出来すぎていて、都合のいい幻聴かと疑ってしまう。
「うそ……!」意を決して、見やった先。「トム⁉」
彼女の、大切な人。
幼なじみであり、兄のようだった人。
そして……
一年前までは婚約者だった。
「フィオナ?」
焦がれていた再会に破顔したのも束の間。たちまちの内に表情を曇らせてしまった
彼女を、幼なじみが不思議そうに覗き込んだ。
「ごめんなさい」
謝罪は、しかし、さらに疑問を深めただけのようだった。
フィオナは言葉を継ぐ。
「父さんが、やったこと」
トムは兄に代わって家業を継ぐことを期待されたフィオナの支えとなるべく、父に見込まれ11歳の時にマクラオドの家にやって来て、しかるべく教育を受けていた。だが、ヒネスから婚約の申し入れがあると、父は領主家とのつながり欲しさに、先約を反古にしてしまったのだ。
「ああ、そのこと」愁眉を開くと、トムは安心させるようにふわりと笑んだ。「良いんだ。確かに君のことは好きだったし、やり切れなさは有るけれど。でも、ヨセフスさんの決断は理に適っているし、それにね、フィオナ。僕は僕を拾ってくれたヨセフスさんに恩を感じているんだ。マクラオドの家で過ごせた九年間で身に付けさせて貰ったことはすごく助けになっているし、何より、ヨセフスさんもマリアンナさんも僕を一人の人間として扱ってくれた。感謝してもし足りないくらいだよ。だから、僕が身を退くことでマクラオドの家に少しでも貢献できたなら、嬉しいと思ってる」
「トム…………ありがとう」
言葉にならないごちゃ混ぜの想いが溢れて、胸が一杯になる。
そんな彼女の頭に、トムがぽんぽんと軽く手を乗せた――小さい頃、よくそうしてくれたように。おもはゆかったが、嬉しくもあった。トムが変わらず接してくれて。
「それで、フィオナ。どうしてこんな所に?」
ヒネスと結婚したはずの彼女がここにいる。常ならぬ事情があったことは感じていたのだろう。問いかけには、案じる響きがあった。
訊かれて当然のことだった。分かっていた。けれど、それに対する答えは用意できていなかった。
なんと言えば良いというのか。彼もまた、被害者だというのに。
話すことを拒めば、きっと彼はそれ以上触れずにいてくれただろう。そうすべきだったのだ。
なのに、気付けば。涙と共に言葉が堰を切って溢れ出していた。
「辛かったね、フィオナ」
トムは、ただ、そう、優しくささやいて。
そっと包容される。
「……もし君さえ良ければ、一緒に来ないかい?僕の村でゆっくりと、どうしたいのか考えたら良い」
心が、揺れた。
そんな選択肢があっても良いのではないか、と。
そんな彼女の背中を押すように、トムが言葉を重ねる。
「君には、いや、君だからこそ見て欲しいんだ。僕の故郷を」
「……うん。そうよね……」
無意識の内に唇を引き結んで。フィオナはうなずく。
「わたしも同行為るが、構わ無いな?」
ホースケと共に二人のやりとりを距離を置いて見守っていたレベッカが、にわかに口を挟んだ。その有無を言わさぬ響きに、フィオナはとまどう。トムと行くことを選ぶということは、つまり、レベッカと別れるということなのだと思っていた。フィオナの身の危険が去ったのか懸念しているのかもしれなかったが――凪の静けさをたたえた面からは、いつものように、何も読み取ることはできなかった。
冬の常で、日は昇ったと思ったら瞬く間にその姿を隠してしまう。まして山間となれば、よけいに早く感じられた。しかし、もうすぐ村に着くから、とトムはこのまま進むつもりのようだった。
木々の合間にチラチラと揺れる灯火に気付いたのは、そんな会話を交わしていた最中。
身構えて、フィオナは足を止める。
現れたのは数人の男。
武装はしているが、どうやら村人らしい。
「ああ、やっぱりトムだったか」
魔法の明かりで照らされた一行の中になじみの顔を見いだして、村人はほっと肩の力を抜いた。
だが、すぐに怪訝の色が浮かぶ。
無理もない。
「こちらは僕の婚約者だったフィオナさんと、お連れのレベッカさん。偶然ラシーバで再会しまして、折角だから故郷を見てもらおうかと」
「そうでしたか。トムが大変お世話になったそうで。同郷の者として礼を申します」愛想よく会釈をする。「フィオナさん、あなたのような方でしたら大歓迎です」
「そうだ。村長に知らせて来てくれませんか。僕らはゆっくり行くから」
トムの提案に軽くうなずくと、村人達は小走りに去っていった。
想像していた以上の惨状に、言葉を失った。
トムの故郷、ノール村はまさに寒村という概念をそのまま具現化したような集落だった。
見るからに痩せた土地。建ち並ぶ家々も村民の暮らしぶりも、まるで文明から取り残されたまま時間が止まってしまったかのようだった。そこここに固まっている雪のかたまりが、この光景に一層の寒々しさを与えている。
このような状態で冬を越すのは、どんなにか辛苦をともなうだろう。
それでも、乗り切るしかないのだ。生きるためには。
なぜならここは、無恵者がほそぼそとその身を寄せ合う場。世界から見捨てられた人々の地なのだから……。
今、はっきりと実感を持った。
混血のための世で、貧民窟に生きるか、孤立した集落に身を寄せ合うか。イレ=ラーバティに与えられる、二つに一つの選択肢。そのどちらも、希望などないのだと。
けれど意外なことに、村長も他の村人も温かく二人と一羽を迎えてくれた。客人など負担でしかないだろうに、気の済むまで滞在していいと村外れにある一軒家まで用意してくれたのだ。もったいないぐらいの厚遇だった。
だというのに――
「嫌な雰囲気だな」
軋みあげる寝台に落ち着いたレベッカが、ポツリと漏らした。肩の鳥まで、同意を示すように鳴く。
「斯ういう所は経験上、陸な事が起こら無い。頃合いを見計らって、出るぞ」
「よくそんな事が言えるわね。レベッカも、やっぱり同じね」
心が、スッと冷えた。
声音に失望の響きがにじむ。
「恵まれてる人には分からないのよ。魔法を使えないことが、この世の中をどれだけ生き辛くするかを」
「然う言う事を言って居るのでは無い」諭すように、レベッカ。「御前は――然う、例えばトムの言動で気に成る所は無かったのか」
即座に否定できなかったのは、思い当たる節があったからだ。
ラシーバで、再会した折。
親愛の情の中に、ほんのかすか、拒絶が見えはしなかったか。
(ううん、違う。トムに限って、そんな――)
認められない。
認められるわけがなかった。
「……イイわ」グッと、同伴者を挑戦的に見すえる。「レベッカのつまらないカンなんて、ぜっっったいに杞憂なんだってことが証明されるだけなんだから‼」
夕食の席が整ったことを幼なじみが告げに来た時、フィオナは眠った振りをしていた。
炉から離れて、この底冷えのする環境下で上手く芝居なんかできっこないと思っていたのだが、外套をはおったまま備え付けの毛布を敷き布団代わりにして携帯していた毛布をすっぽり被っていたら、なんとかやり通せそうな温度になっていた。
同伴者はフィオナの疲労をだしに、また、自身も食が進まないからと誘いを退けた。トムは残念そうではあったが執拗に食い下がるようなことはせず、あっさりと引き下がっていった。
ホッとして起きだそうとした彼女を、レベッカが制止する。
はたして、しばらくすると疲れに効くという薬を携えてトムが戻って来た。
変わらず優しいトム。そんな彼を信じきれないことに、胸が痛んだ。
フィオナは無言の内に荷をまとめ、レベッカは軽装からいつもの重たそうな旅装へ。
息をひそめて、時を待つ。
夜が更けていくのと比例して、どこかピリピリとした刺すような空気が増してくるように感じられる。
気のせいだ。
深用心の同伴者のせいで過敏になっているだけ。
そう、思いたかった。
抜け出したのは夜更けよりやや手前。
いくらも行かない内に、急に辺りが明るくなった。
火の手が上がったのだ。つい先刻まで、彼女たちが居た家から。
(なんで)
想いは、千々に乱れる。
(なんで、トムまで――)
こんなの、悪い夢であってほしかった。
何のために。
何のために、逃げているのだろう。
ともすれば止まってしまいそうになる足を、辛うじてこびりついていた理性が叱咤する。
甲高い笛の音が、響き渡った。
それなりの距離は稼げていたはずなのだが、やはり土地勘の有無の差か。背後には、殺気立った追っ手達があっという間に迫って来ていた。
(トムは――)
淡い可能性にすがって。つい捜してしまった視線に捉えることがなかったことに、安堵する。
(そうよ、トムだけは違うカモしれないじゃない)
それは、詮無い欺瞞でしかなくとも。
信じたい。
信じられない。
揺れる気持ちに苦しむ。
「先に行け」
やや先行していたレベッカが、マントを翻らせて反転した。
並んで飛翔していたホースケがつと離れ、高みへと昇っていく。
「斯う成ったら迎え撃つしか無い。御前には……見せたく無い」
そこに含まれる剣呑さに、息が詰まる。
けれども己の無力さと、止めることの無責任さを悟って。
うなずく代わりに蔽目して、駆け出した。
泣きたいのか、怒りたいのか。
悲しむべきか、喜ぶべきか。
叫ぶ?
笑う?
感情なんて、もうグチャグチャだった。
とめどなく溢れるものを引きずったまま。意味も分からず、走って。走って。
真っ暗な森の中をやみくもに辿ってきた道は、気付けば登りになっていた。
これ以上駆け続けることが出来なくなって、フィオナはとうとう足を止める。
喧噪は、遠い。
前かがみになって荒い呼吸と格闘しながら、汗をぬぐう。
のどが焼けるようだった。せめて、一口だけでも水を――
水筒にかけた手は、その用をなし得なかった。
唐突に、全身を揺さぶられるような衝撃に見舞われたのだ。
何が起こったのか。
映ったのは、空。
星々と満ちた月が澄みきった空に皓々と輝いていて、憎らしいほどに、明るい夜空だった。
地面に激しくぶつけた肩が痛む。
そうだ。
打ち倒されたのだ。
横手から飛び出してきて、今彼女に覆い被さっている…………何かに。
血の、臭いがした。
生暖かいものが服に染み込んでくる。
意志の力を総動員して手を持ち上げる。
べっとりと濡れたそれは、無情な月光に紛れもなく赤なのだと暴かれてしまっていた。
「トム……?」
恐る恐る絞り出された言の葉は、震える唇で口にされた名は、消え入りそうなほどささやかで。
反応は、ない。
そのことに、かえって力を与えられて、機敏な動きでぐったりとした身体の下から這いだす。
何度も何度も、必死に幼なじみに呼びかけた。そのことが功を奏したのか。
彼のまぶたが、小さく震えた。
うっすらと眸が開かれる。
「ああ、……フィオナ」
濁った、声だった。
不吉な咳と共に、赤黒いものが唇から漏れいでる。
「人間の盟主を謳う彼らは、ク=ラデスと名乗った」
唐突な語りだしだった。
けれど何か強い意思の響きを感じて、質すことに時間を費やしてしまうようなことはせず、代わりに、一言一句も逃すまいと耳を傾ける。
「ダカンジ共和国の、ニモタータの首長」あえいで空気を求めながら、トムは早口にまくしたてる。「君は……狙われている。計画が成ってしまえば逃げるのも難しくなるだろう。抗う意志が有るのならば、行け!そいつは恐らく、核心に近い」
震える指先が、慈しむようにそっと、彼女に触れる。
「世界は、憎い。でも、僕は……君に生きていて欲しいんだ」
「トム…………?トム‼」
知ってしまったのか。だから、トムは――。
まだぬくもりを宿す手を握りしめて嗚咽する。
その肩を、何者かが強くつかんだ。
「時間は稼いだが、長くは持た無い。直ぐに追いつかれる。立てるか?フィオナ」
レベッカだ。いつの間に追いついてきていたのか。
弱々しくうなずくと、フィオナは立ち上がる。
だが、走り抜けた先は到底飛び降りることなど不可能な崖でしかなかった。もはや、はっきりと声が届くほどに、灯火の群れは接近してきている。二人のすぐそばの地面に、いく本か矢が突きたった。
ここまでなのか。
くずおれそうになるフィオナの手を、レベッカが強く引いた。
「行くぞ」
「行くぞって――ぇえええええ⁉」
意図を察するより早く踏み出され、なすがまま。浮遊感に包まれてようやく、抗議の悲鳴を発する。こちらは突き上げてくるこの名状しがたい気持ち悪さといきなり戦わされていっぱいいっぱいだというのに、当の元凶は涼しい顔で、もの凄い速度で魔法を形成なんかしている。人間離れした離れ業が、感嘆を通り越していっそ恨めしい。
木々の頂きが、もう間近。
紙一重の間で、ふわりと風が体を覆う。
レベッカが喚び出した、ついぞ見たことも聞いたこともないような空飛ぶ黄褐色の巨大な獣、いや、鳥?ともかくヘンテコな生き物の背に軟着陸を果す。本来一人乗りなのだろう。詰めに詰めて、それでもギリギリだった。
怪鳥の毛並みは、厳めしい見てくれとは裏腹に意外と触り心地が良い。市場に出したら高値で取引されるに違いない。もっとも、商売として実現するにはとんでもなく高い代償を乗り越えなければならないだろう。割には合いそうにない。
巨鳥は、濃霧に覆われつつある森の中から手頃な場所を目ざとく見いだし、旋回するように緩やかに地に降り立つ。
落ち着いたところで、悠々と舞い降りてきたホースケがいつもの定位置へと収まった。
「わたし、兄を殺したの」
村からは大分離れたものの、いまだ安全とは言い切れない。それでも、差し迫った脅威から遠ざかったことで、張り詰めていたものが緩んだのか。こみあげてくる激情のまま涙を流し、泣いて、泣いて、泣き疲れて眠った後に。フィオナはポツリと漏らした。
「幼いころに、魔法で。それ以来ずっと、わたしは魔法を使うコトが、ううん、自分自身が、恐かった……」
閉ざされた扉。
届かない手。
焚火を視界から閉め出すように、夜闇にあってなおきららかな青翠の瞳をギュッとつむる。
はぜる炎はいつだって、突きつけるようにこの呪わしい力を意識させた。
「イレ=ラーバティとして生きるよう決めたのは父さんたちだけど、わたしもそれでイイって思った。ホッとしたの。これで、こんな力なんか捨て去って生きられるって。けど」
確かめるように。
気持ちを、すくい取るように。
彼女にしてはゆったりとした速度で、言葉を紡いでゆく。
「わたしの大切な人が二人も、命を賭けてわたしを守ってくれた。わたしは、それに応えたい。だから、わたしと契約して、レベッカ。魔法を、教えて欲しいの。危険に見合う対価を、今は払うことができないけど。いつか必ず返すから。いざとなったら逃げていいから。……ひどい条件だっていうのは、分かってる。でも、レベッカしかいないの」
静かな、しかしながら、ひたむきな意志をこめた訴えを同伴者は確かに受け止め、そして、首を振った。
「其の必要は無い。御前を狙っている輩は、わたしの故郷を滅ぼした連中と同じか、少なくとも、繋がって居る可能性が有る。命を狙われて居ると言う点では同じだ。詰まり、わたし達は同志。対価は不要だ」
言い切ると、レベッカは荷袋の中から慎重な手つきで何かを取り出した。
「此れを」
いぶかしみつつ、受け取る。
本と腕輪だった。とてつもなく繊細で綺麗に作られた逸品だ。一体どのような名人の手になるものなのか。途方もない手間と労力がかかったことだろう。これらどちらかでも、おいそれとは手を出せないような値打ち物とみえた。そして、そよ吹く風のようにほんのささやか、自分と同じ力を感じる
「今は亡きリネス王家の魔法書だ。御前には、並外れた光魔法の素養が有る。実地の事はわたしが教えると為て、此れも利用為ると良い。腕輪の方には魔力の流れを調節する働きが有る。力の制御に役立つだろう」
「これは……とても大切な物じゃないの?」
「構わ無い。其れが、彼女の遺志だ」
光を透かして綾なる光彩を放つ腕輪に、フィオナはそっと触れる。
「なんでだろう……。この腕輪からは穏やかな、やさしい気持ちが伝わってくる気がするの。きっと、とても温かい人だったのね……」
レベッカが黒瞳を見開く。
それから、かそけき笑みで言った。
「嗚呼、本当に……」
と。
ダカンジ共和国は北方のアーレイズラシル大陸にある。船を使わなければならない。追われている身で、どの港を選択するべきか。とても大きな問題だった。
西部で最も頻繁にアーレイズラシルへの便が出ているのはソークシニヨンだが、これはもちろん論外だ。次点はグリケノックのロミューバルだが、あの国はウィリアムスとかいう人物が起こした反乱――レベッカに言わせれば維新だが――による動乱の最中。港も封鎖されていて、出港のめども立たない。後はどこも一長一短。
そこでレベッカが推したのが、大陸最南端の港、ヒャルリ王国のトーを使うという案だった。あそこは夏季のみの運航で、今から向かうとおそらくやや早い。けれど、だからこそ追っ手にアーレイズラシル行きを悟られたとしても、裏をかける余地がある。あの国には街道がなく、足取りをくらませやすいというのも大きかった。
広く各国の枢要部と関わりを持っているらしい追跡者を撒くために、必要最小限の足跡で済むよう、慎重な経路選択が重ねられた。速やかさを優先させた場合もあるので万全とは言い難いが、最低限、時間稼ぎさえ出来ればとの割り切りだった。
苦心のかいあってかトーに至るまで襲撃に遭うようなことはなく、出港までひと月超。いつ追いつかれるかという緊張はいつでも多少はつきまとっていたものの、久方ぶりの休息をフィオナは満喫していた。
「キレイ……!」
広がった情景に心洗われ、感嘆する。
長期にわたる滞在の合間。さっぱり実感できなかったが、暦の上では南国の遅い春のきざしが僅かながら現れようかという頃。ぜひ見せたい絶景がある、と朝もまだ明けやらぬ内に民宿の主人、モスコウイッツにレベッカと二人――ホースケは寒さに縮こまって、頑として外に出たがらなかったのだ――、街外れの氷原まで連れ出され。
屋内は普段着でも快適に過ごせるほど暖かいが、一歩外に出ればこの時期でもなお、後悔するような寒さだ。平然とした様子のレベッカとモスコウイッツに心中悪態をつきながら、時を待った。
その時。
地平の彼方から太陽が顔をのぞかせ、明けの影が照らした瞬間。
世界が、変わった。
(光が、舞ってる……)
まるで、氷そのものが光を発しているみたいな…………。
辺り一面、輝きのただ中にある。
こんなにも明るいのに、目を射貫くような強さではない。包み込むように柔らかかった。
「氷上の煌めき」モスコウイッツが語る。「そう呼ぶんだ、コイツをな。夏の訪れの先触れみたいに見せる、とっときの表情。けどそんなのは上辺だけで夏はまだ来ないし、光の下には相も変わらず凍りついた、人を拒む大地しかない。そっから転じて、ここらじゃ見せかけだけの問題解決をこう言ったりするんだがな」
「氷上の、煌めき」
かみしめるように繰り返して、再び見やる。
そうしてみると、それはまた違った風に映った。
溢れる光輝と頬を過る凍てついた風とを。フィオナはまっすぐに見つめ続けた。
そのことが話題にのぼったのは、出港予定日まで三週間を切った頃。夕餉の席のことであった。
「そういやあ、隣町のヤツから聞いたんだが」
アザラシの肉が入った絶品のスープをすすりながら、モスコウイッツが何気ない風に切り出す。
他に宿泊客はない。ために、家族の団らんに二人と一羽が加わっているという体で、フィオナはこの暖かな食事の時間が大好きだった。
「どうもあんたがたを捜してるらしい人がいるみたいだな。心当たり、あるかい?もしアレなら、連絡つけとくが」
思い当たる節はもちろんあった。悪い方向で。
レベッカとホースケは別段特別な反応を示さなかったが、フィオナはわずかに緊張が走ったのを自分でも感じた。
「そうかい」
旅の事情については話していないが、察するところはあったのだろう。得心したようにうなずく。
「じゃあ、そうと伝えておくよ。ついでに出港を早めてもらえるよう、かけ合ってみよう」
このちょっとした隠蔽が意外にも力を発揮したらしい。
チラついた影に捉らわれることなく、出港の日は訪れた。といっても、それを報されたのは当日の早朝だったのだが。
ギリギリ氷山地帯を抜けられなくもない海況だと、船長が判断を下したのだという。さらに、彼女たちが乗り込む船は、アーレイズラシル大陸直通の特別便だった。
見送りにきてくれたモスコウイッツ一家に幾重にも礼を重ねて、氷山の影に消えてしまうまでフィオナは手を振り続けた。
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