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氷上の煌めき
内なる対面
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ロヴァール大陸は、今頃夏を満喫しているのだろうか。
船を降りて。フィオナははるか南、故郷の大陸に思いをはせる。
アーレイズラシル大陸もこの辺りになると、季節は真逆。せっかく冬から逃れたというのに、また冬に逆戻りであった。とはいえさすが砂漠の国だけあって、ヒャルリ王国の、あの言語に絶する凄絶な寒さに比べれば、まるで天国のような暖かさだった
ここ、ダカンジ共和国の国際貿易港ディナージからニモタータに行く最も簡便で迅速な方法は、海路を用いることだ。しかし間の悪いことに、西方航路は海賊掃討のため規制中なのだという。再開時期は不明。狙われているこの状況下で一所に留まりたくないという事情もあり、彼女たちはやむなく砂漠越えを決断した。
とはいえ、二人と一羽では心許ない。砂漠越えの経験自体はあるので、準備については及第点を貰える程度の支度はできるだろう。問題は、道程。どの道が最適なのか、あるいは、危険なのか。単にコンパスと地図を手にしているだけでは乗り切れない、流動的な状況に対応できるだけの知識は、さすがにない。ホースケが発揮する優れた野性の勘を頼りに……というのはあるイミ面白いかもしれないけれど。
背に腹はかえていられない。
高くつくのを覚悟で、フィオナ達は冒険者共同体――レベッカのような流れ者の保護、支援のための組織――へと赴いた。
「砂漠越え、ねぇ」
登録証を示し用件を切り出したレベッカに、受付は難色を示した。
「何か問題でも?」
目差を険しくする。
「いや、問題っつうか……大口の護衛で、めぼしい連中は出払っちまってるんだよなぁ」
「では、わたしではどうかな」
名乗りを上げたのは、気さくそうな印象の初老の男だった。ひげ面で、丈長のゆったりとした衣服、そして頭に巻いた布……とこの地域では一般的な風体にあって、癖の強いえんじ色の髪が異彩を放っていた。
「グザビエ殿⁉」受付が声を上げる。「しかし、別の仕事を受けられていたのでは……」
「いや、ちと野暮用が入ってな。先方とは話は付けてある。その事を断りに来たのだが」
「そうでしたか。承知いたしました――おい、とんだ幸運だな、お前たち!」興奮した様子でまくしたてる。「グザビエ殿なら安心だ」
事情が分からない彼女としては曖昧な反応を返すより他なかったのだが、レベッカはそうではないようだった。
「貴殿が、彼の『砂漠の赤鷹』?」
「いかにも」苦笑まじりに肯定する。「その様な二つ名が付いておるな」
「これは心強い」
レベッカが微笑する。
「いやいや、貴女も充分評判ですぞ、レベッカ殿。新進気鋭の美人女剣士、とな。どのような武人かと思っておったが、人の口にもたまには尾とヒレが付かないものですな。なかなかどうして噂以上に美しく、そして――手練とお見受け致した」
「グザビエ殿の様な方から御誉めに預かれるとは、光栄です。しかし――貴殿に見合う丈の物を御用意出来ますかどうか」
「それなら心配無用。野暮用とは、ニモタータの事でな。つまるところ、旅は道連れ、という事だ。報酬は要らんよ」
話の区切りを察したかのように、ホースケがグザビエの肩に飛び移った。
ふわりと羽を広げて短く鳴き、彼流の挨拶をする。
それを見て、
「どうやら、貴殿は信用の置ける御方の様だ」
いくぶん目元を和らげると、レベッカが手を差し出した。
風が吹いてきた。
気まぐれに向きを変えるそれに煽られ、紗が大きくはためく。飾りがぶつかり合い、チリリ、と控えめな音を奏でた。
砂漠に入って、今日で九日目になる。けれど、まだまだ先は長い。ようやく行程の三分の一を消化したに過ぎないのだ。
砂漠の周縁部に当たるここには、一面砂ばかりの光景が広がる。歩みを嘲笑うかのように不確かな大地に足を取られるし、砂丘の間を縫うように進まなくてはいけないしで、単調な景色と相まってちっともはかどっている気がしない。それでも隊商は普通この道を選ぶ。さらに高温で水場も少ない内部よりは、ずっとマシだからだ。
昼の休憩を挟んで、少しして。
同行の二人が、はたと立ち止まった。
きょとんとして、フィオナは振り返る。
すっかりグザビエの肩を持ち場としていたホースケが離れるのが先触れであったかのように、前方の砂丘の影からバラバラと人が現れた。
いや、それだけではない。
右からも、左からも。
「野盗……ではないか」
どこからか取り出した投げナイフを構え、グザビエ。
と。
微かな声と共に、闇魔法と言うらしい例の独特の波動が生じて――掻き消えた。
「矢張り、魔法が効か無い」
気取られないようそんな素振りすら見せず、ごく小規模なものを試したらしかった。
「どうやら逃げた方が懸命なようだな」
ジリジリと狭まる包囲網から視線は外さぬままに、グザビエが詠唱を始める。
補佐しやすいようにだろう。レベッカが微妙に立ち位置を変えた。
彼女とて時間稼ぎの役くらいには立ってみせる。
教わったことを反復しつつ、呼吸を整え、懸命に力の行く末を定め、魔法として成立するよう導こうとする。同時に、この撤退は彼女ゆえなのだと痛感してもいた。旅の心得として最低限の護身の術は教え込まれていたし、レベッカにさらに磨きをかけてもらってもいた。けれどもそれは、文字通り「護身」の用を果すものでしかない。このような局面における戦力の頭数に入らないことは、明白だった。
せめて、もっと魔法を使いこなせてさえいれば……。
直接的な戦力にはなれなくても、彼女が修得しようともがいている魔法は、十分力を発揮することができるはずだ。むしろ、レベッカに言わせれば、それこそが本領なのだ。
(わたしのチカラでしょっ。言うこと聞きなさいよっ!この……‼)
ままならぬ悔しさに、歯がみする。
じゃじゃ馬を手なずけようと四苦八苦している間に、グザビエの呪が解き放たれた。
風に乗って砂が猛烈に巻き上がり、襲撃者たちの姿を覆い隠す。すかさずレベッカがあの怪鳥――グリフィンと言ったか――を召喚し、一行はその場から離脱した。
「済ま無い、グザビエ殿。其の様な所で」
叩きつけるように飛来してくる砂つぶてから紗で身を守りつつ、轟音に負けないよう声を張りあげる。
グザビエは、彼女たちの下。怪鳥の足に掴まれた宙づりの体勢なのだった。
いたわる様子で、ホースケがピタリと寄り添って飛んでいる。
「なに、構わんよ。女性を差し置いてわたしがそちらに居る方が、余程居心地が悪いさ」
あの恐ろしく凶悪げなかぎ爪を食い込ませず、かつ緩めすぎない怪鳥の絶妙な力加減には感心させられるが、この状態で鷹揚さを崩さないグザビエの剛胆さはそのさらに上を行くものであった。フィオナがあの立場なら絶対に生きた心地がしなかっただろうし、少なくとも三週間は根に持つ自信があった。
砂嵐は、一向に治まりそうにない。聖獣やホースケにとっては何ら障害ではないようだが、人はそうもいかない。第一、方向も定かでないまま進むわけにはいかない。適当な所でグリフィンを降り、この嵐をしのげる場所を求めてさ迷う。
やがて勢いが減じ、視界がだいぶ明瞭になってきた。
しばらく前から足元の感覚が確かなものになってきていたので、よもやとは覚悟していたが、やはり内地へと来てしまっていた。砂に代わって、見渡す限りの荒野が広がっている。
「急いであの岩場まで行くぞ!じきに雨が来る!!」
前方に連なる岩の峰々を示し、グザビエ。
はたして、辿り着いた矢先に、猛烈な勢いで雨粒が地面を打ちはじめた。
「ものすっごかったわね……」
ようやくつけた一息に、砂埃を払いながら、
「あの砂嵐の魔法、どうやったの?」
素朴な疑問だった。というのも、感知した限りでは、あのような大規模な現象を引き起こせるようなものではなかったのだ。小さな力で大きな効果をおよぼす――それができるのなら、ぜひにも教えを請いたかった。
「はは。わたしにそんな大層な力はないよ。あの砂嵐は、元より近づいてきていたものだ。あの魔法は、それに乗じたに過ぎんよ。――さて、それはそうと」
柔和な表情は崩さぬまま、けれども、笑みが消える。
「君達は追われているのかね」
「ごめんなさい!巻き込んでしまって……」
こうなってしまった以上、話すのが筋だ。
腹を決めて、フィオナは経緯を打ち明けた。
「……なるほど」かみしめるように唸ると、襟を正す。「もし良ければ、君達としばらく行を共にさせては貰えまいか。どうも、わたしとも無関係ではない気がするのだよ」
意外な、そして、頼もしく嬉しい申し出だった。
「モチロン!旅は道連れ、だものね」
ニコリとして、フィオナは快諾した。
その日は、まだしも快適な場所を見つけ出すと身を休めた。本格的な活動を始めたのは、次ぐ日。旅路は一転、苛烈なものになることが予想された。まさに命を抉らんとしていた死の刃を退ける代わりに、別の刃の接近を許すこととなってしまったのだ。
この危地を簡単に脱する方法なら、ある。グリフィンを使えば良いのだ。しかし、それでは、かなりの確率で追っ手を撒いた意味が無くなってしまう。当面は何とかなる可能性に賭けてみようということになった。
地図は役に立たない。ここは未踏の地。空白地帯なのだから。つまり、どこをどう進むべきなのか、絶望的に見通しが立たない。出たとこ勝負というヤツだ。
コンパスはあるから、進路だけは正確に分かる。食料も、何とかなるだろう。けれども、水はそう長くは保たない。どこかで補給しなければ、一行に明日はない。
窮余の策として、フィオナ達はそのまま岩の谷を辿っていくことにした。一つには、北西に向かうのにこの岩山が障害となっているからなのだが、より大きな決め手となったのは、ホースケが人工的に切られた溝を岩壁に発見したこと。それには防水処置が施してあり、給水のためのものらしかった。ということは、この行く先は集落に繋がっている可能性がある。なにせ、未知の領域なのだ。ベテランのグザビエさえも耳にしたことがないような秘境の村が転がっているのかもしれない。そうでなくても、溜め池の存在ぐらいは期待できる。とにかく、行ってみるしかない。現状、賭けるなら、この道が最もマシなのだから。
今が真冬なのは不幸中の幸いというやつだろう。確かに外縁よりは暑く感じるが、日向の照り返しを含めても日中は過ごしやすい。岩影なんて少々肌寒いぐらいだ。
(逆だったら干涸びてたわ、ゼッタイ)
チビリと、水筒の水を口に含む。
厄介なのは、このカラカラの空気だ。こんなにケチケチと飲んでいるのに、思った以上に水の減りが早い。これは予想よりも保たないかもしれない、と危機感を抱いたのだが、溝が導く先はそう遠くない所にあった。時間にして、半日ほど。
隘路を抜けた先は――
「なんっにもナイわね。キレーさっぱり‼」
そこは、ただただだだっ広い荒野だった。人の住む場などもってのほか。草木の一本すら見当たらない。ひたすら砂だけが我が物顔で占拠していた。もちろん、水場もない。例の溝は、砂の下へと消えて行ってしまっていた。
「なんなのよ!このムイミさはっ。期待持たせるんじゃないわよ……」
脱力して、へたり込む。
「還らずの、谷……」
ぐるりを見回していたグザビエが、険しい顔つきで呟いた。
「いや、砂漠を根城にする冒険者の間でまことしやかに囁かれておる怪談でな。『山の峰々に抱かれた地には近づくな。足を踏み入れたが最後。永遠の牢獄に囚われ、二度と戻ることは叶わぬ』……と。この景色と、ふと重なってしまってな。つまらない事を言って済まない」
苦笑いをして、振り払うように手を振る。
けれど。
悪寒が、駆け抜けた。
喚起されたのではない。予感めいたものだった。
来た道を振り返る。
そこにあったのは、まっさらな岩壁。道など最初からなかったのだという錯覚に陥ってしまうぐらい、厳としてそびえていた。
間違いなく、これは危険だ。この上は、手段を顧みている場合ではない。
「レベッカ――」
しかしながら、異変は、さらなる速度で三人に牙を剥いた。
足元が、崩れてゆく感覚
ホースケが、おろおろと頭上を飛び回る。
彼女に手を差し伸べようともがくレベッカが伸ばした腕は、されど、指先すら届くことはなく。
なす術もないままに、フィオナ達は砂中へと没していった。
ひやりと、ほどよく冷たくて心地よい感触を感じた。
広がっていたのは、どこまでも透き通った世界だった。
どこからもたらされているものか。
光源は見当たらないのに、やわらかな明るさで満たされている。
「ここが、牢獄……?」
その言葉から連想されるような物々しく陰惨なイメージとはおよそ対極をなす場所であった。しかも、砂に呑まれたはずなのに、自分にも周囲にもそのような痕跡はない。
夢を見ているのだろうか。
それとも――
(まさか、死後の世界、なんて言わないわよね……)
ギュッと。思いっきり頬をつねってみる。
痛い。
相応に痛い。
ちょっぴり涙がにじむ。
夢ではないようだ。きっと死んでもいないだろう。死んでまで痛みを感じるなんて、まっぴらご免だ。
自分のことが落ち着いたところで、改めて状況を確認してみる。
こうして触れている床面も、四方、天井に至るまで、ガラス、いや、水晶だろうか。なめらかなそれらは、鏡のように幾重にも彼女の姿を映し出していた。
「いったーい!」
無造作にそれらのうちの一つに近寄ったフィオナは、派手に何かにぶち当たった。
壁だ。
あると思っていた所より手前に、もう一枚あったのだ。
「ああ、もう‼わけわっかんない!ダレよ、こんなもの造ったの⁉非合法よっ。キジュン違反よっ。後でゼッタイ訴えてやるんだから‼」
じんじんと痛むおでこをさすりながら足を踏み鳴らし、怒りをぶちまける。
(牢獄だかナンだか知らないけど、ナニがナンでも出てってやるんだから!)
今度は慎重に。
壁に手を添えてゆっくりと歩を進める。
(まずは、二人とホースケを見つけなくっちゃね。さて、と)
レベッカのことだ。分かりやすい印を出してくれているのではないか。
そう考えて意識を凝らしてみるが――。
(……気配なし、か)
あの特徴的な魔力の波動をとらえ損ねるはずはない。ここにいることは間違いないと思うのだが、あるいは、なんらかの力が働いているのかもしれない。
(ならなおさら、ジッと助けを待っていても仕方がないわね)
光の通り方が他とは違う箇所に差しかかった。
向こう側がはっきりとみえる。ここだけ壁が薄いようだ。
なんの気はなしに、触れてみる。
指先が接した、瞬間。
薄壁が消失した。
「ズイブンあっさりしたものね」
拍子抜けして、肩をすくめる。
ともあれ、活路は開けたのだ。もしかして復活、なんて事にならないうちに、さっさと部屋を抜け出す。
数歩先に、短い階段。そのさらに奥には通路が横たわっていた。
通路に下りて、左右を見比べる。複雑な光の軌跡が乱舞するこの空間は、カタチを捉えることを困難にする。見通しが良さそうに見えて、その実、通路がまっすぐ延びているのかさえさっぱり分からなかった。元より、適当に進む他はないのだけれど。
(まるで迷宮だわ)
構造そのものもそのようだった。やたらと階段ばかりで、上ったと思ったらすぐ下りが待ち構えていたり。部屋数も異様に多いし、分岐もそこかしこ。これで迷えという悪意が籠められていないとしたら、即ひっくり返ることができるくらいの衝撃である。本当に、この建物の設計者だか所有者だかがいたら、なに考えてんだと問い詰めてやりたい。
(なんか……牢獄って言葉がしっくりくるように思えてきた…………)
最初に居た場所からどれだけ進めたのだろう。
だいぶ経っているように感じるのだけれど、ここにいると自分の時間感覚にも自信がなくなってくる。なぜかノドも乾かなければ、おなかも減らないので、余計だ。まさか堂々巡りをしているということはないと信じたいが、出口もレベッカ達も一向に現れなかった。
うんざりと溜息をついて、だんだん苛立ちを覚えるようになってきた無駄に煌めいている壁に寄りかかる。ちょうど向かい側には、すりガラスで随分ともったいぶった雰囲気の意匠が施されてあった。その周りを囲む装飾も、これまでに見たことがない気合いの入りようだ。単なる柄ということはないだろう。扉に違いない。
(こ~れはもう、アタリでしょっ♪)
ようやく前へと進めそうな予感に青翠の瞳をパッと輝かせて、足を踏み入れる。
扉の先にあったのは、前振りに釣り合った、と言うべきか。だだっ広い空間だった。ドーム状の天井が高々と頭上を包み、中空には半円に巡らされた通路がそびえている。対照的に、地上には中ほどにポツンと置かれた透明な台があるのみだった。ことさらにひっそりと感じられるのは、他と違って光を乱反射しない造りになっているからなのかもしれない。
案に相違して、ここはそれだけの場所のようだった。他へと続くような扉なり通路なりは見当たらない。
がっかりしたのだ。
ことさらに興味を惹かれるものがあったわけでもない。
なのに、すぐこの広間を立ち去らなかったのは、何故だったのだろう。
台へと足を向けたのも、なんの気もないことのはずだった。
けれど、まるで、導かれたように。
その前に立った。
途端。
金縛りにかかったみたいに、ピクリとも動けなくなった。
指の一本、眉の一筋たりとも。
意志に反して微動だにしない。
あせって、もがこうと試みるより僅かばかり早く。
声が降りそそいだ。
『審理を開始する。汝が真を示せ』
視られている――
姿なき複数の威圧の気配に、脂汗がつたう。
眼前に、見覚えのある風景が広がった。
息を呑む。
動悸が早くなる。
(これは――――あの、時の……)
家族同然の幼なじみの故郷。
追われるように、逃げ込んだ森――
彼女の、せいで。
彼は……命を落とした…………。
心を抉られるような苦痛に目をそらそうとするが、見えざる力がそれを許さない。
まるで走馬灯のように一連を描き終えると、また違う過去が映し出された。
(こんな事しなくったって、忘れたことなんかないわよ……)
一分一秒だって。
戻せるものなら戻りたい。償えるものなら、償いたい。それは、あの日からずっと、この十二年間、まるで呪縛のように、彼女の心を捕えて離さなかったのだから――――
§§§
兄のことが大好きだった。
彼女と違って市井の学校に通い、また、跡取りとしての教育も受けていた兄と接する機会は余りなく、共に暮らす家族であってもどこか遠い存在だった。だから、兄と過ごせる一時は、なお一層のこと特別だった。
僅かばかりの空きを割いて、五つ年の離れた兄は、よく彼女のことを構ってくれた。詮無いワガママを言っても困ったような笑みでたしなめるだけで、声を荒らげるようなことは滅多になかった。
(学校についてくって言い張って、父さんと母さんの手を焼かせたこともあったっけ……)
兄のなすこと行くところ、すべてがきらきらと輝いて見えた。兄の隣に立ちたくて必死だった。
それが、その浅はかさが災いを招いたのだ。
「やっぱり、本を読むには少し薄暗いかな」
午後とはいえ、まだ暗くなるような時間ではない。しかし、外はあいにくの雨。黒く垂れこめた雲は、常よりも明るさを奪っていた。
フィオナがせがんだ本を小脇に抱えて室に入ったチルケは、手にしていた燭台に灯を灯した。
「それ、おにいちゃんもできるの⁉すごーい‼」
父母や使用人から度々感じ取れる、何かが渦巻いて揺らぐ流れ……。それを兄が起こすのを目にするのは、初めてのことだった。
「わたしもやってみるー!」
流れは分かってる。だから、自分にもできるはず。
そんな、単純な自信。
明るい瞳を眩しいくらいに煌めかせて、兄の持つ燭台に指先を伸ばす。
「うん?フィオナにはまだ早いと思うけど……」
いつもの笑みを浮かべて、それでも、妹の望み通りに火を吹き消す。
誰に教わったわけでもないが、瞑目して、呼吸を整えて。内なるもの引き出そうとする。
呼び起こされたそれは、しかしながら、少女の予想をはるかに上回るものだった。
膨張し、暴れようとする力。
本能的に危険を感じ取り暴走を抑え込もうと試みるも、まして基礎も知識もない幼子の手に負えるものでは、到底なかった。
嫌な汗が浮かぶ。
伸べた小さな指が、全身が、小刻みに震える。
異常を察知してチルケが止めに入ろうとした時には、もう遅かった。
力の奔流は少女のささいな抵抗などやすやすと突破し、溢れた。
「お……にい……ちゃん?」
刹那、意識が飛んでいたのかもしれない。
虚脱の次に映じたのは、広がる紅蓮。すべてを灰燼と帰す炎の舌が、思うままに跋扈する光景だった。
「フィオナ‼」
お前は生きろ
そう、兄の声が聞こえた気がした。
強い力で突き飛ばされて、廊下に転がり出る。
「なりません、お嬢様‼」
使用人が、戻ろうとするフィオナを抱え込む。
もがく彼女を余所に、無情にも兄との距離を永遠に隔てゆく扉。
それを空しく焼きつける余地のみが、ただ彼女に与えられたものだった……。
『沈黙の魔女』
そう呼ばれる人物が百二十年ほど前にいた。
詠唱を用いることなく魔法を意のままに操り、圧倒的な力でロディック王国南部を含むルン・ティ・ジャー地方を瞬く間に席巻。
気まぐれで、冷酷、そして、残忍。
人々は恐怖の日々に苦しめられた。
一種の先祖返りなのだという。遠い昔、祖先の誰かと結ばれた神族の力が、世代を超えて発現するのだと。
数百年に一度現れるかどうかの、きわめて稀な事例。けれどもフィオナには、その魔女に匹敵するかもしれないほどの、人並み外れた力が宿っていると見立てられた。
父母は懼れた。
忌むべき魔女の再来だと噂されることを。
なぜなら、未だ褪せることのない魔女の脅威の記憶は、時に魔女狩りという名の凶行に人々を駆り立ててきたからだ。
そんな事になるくらいなら、と。苦渋の末の決断だったに違いない。
こうして、フィオナは『無恵者』として生きることになったのだ――。
§§§
高らかに響き渡った槌の音が、たゆたう追憶の波間から此岸へとフィオナをさらった。
『判決を申し渡す。被告人、フィオナ・マクラオド。そなたを無罪とする』
ただ一言、簡潔に。
それだけが、何もない空間に
空虚に、
厳かに、
殷々と連なる余韻を描いていった。
沈黙。
静寂。
激しさを宿らせて、うつむきがちだった面を仰がせる。
「そうよ。みんな言ったわ。不幸な事故だ。仕方ないって。でも、わたしはわたしを許せない……それだけよ」
叩きつけるように言い放って。
フィオナは法廷を後にした。
船を降りて。フィオナははるか南、故郷の大陸に思いをはせる。
アーレイズラシル大陸もこの辺りになると、季節は真逆。せっかく冬から逃れたというのに、また冬に逆戻りであった。とはいえさすが砂漠の国だけあって、ヒャルリ王国の、あの言語に絶する凄絶な寒さに比べれば、まるで天国のような暖かさだった
ここ、ダカンジ共和国の国際貿易港ディナージからニモタータに行く最も簡便で迅速な方法は、海路を用いることだ。しかし間の悪いことに、西方航路は海賊掃討のため規制中なのだという。再開時期は不明。狙われているこの状況下で一所に留まりたくないという事情もあり、彼女たちはやむなく砂漠越えを決断した。
とはいえ、二人と一羽では心許ない。砂漠越えの経験自体はあるので、準備については及第点を貰える程度の支度はできるだろう。問題は、道程。どの道が最適なのか、あるいは、危険なのか。単にコンパスと地図を手にしているだけでは乗り切れない、流動的な状況に対応できるだけの知識は、さすがにない。ホースケが発揮する優れた野性の勘を頼りに……というのはあるイミ面白いかもしれないけれど。
背に腹はかえていられない。
高くつくのを覚悟で、フィオナ達は冒険者共同体――レベッカのような流れ者の保護、支援のための組織――へと赴いた。
「砂漠越え、ねぇ」
登録証を示し用件を切り出したレベッカに、受付は難色を示した。
「何か問題でも?」
目差を険しくする。
「いや、問題っつうか……大口の護衛で、めぼしい連中は出払っちまってるんだよなぁ」
「では、わたしではどうかな」
名乗りを上げたのは、気さくそうな印象の初老の男だった。ひげ面で、丈長のゆったりとした衣服、そして頭に巻いた布……とこの地域では一般的な風体にあって、癖の強いえんじ色の髪が異彩を放っていた。
「グザビエ殿⁉」受付が声を上げる。「しかし、別の仕事を受けられていたのでは……」
「いや、ちと野暮用が入ってな。先方とは話は付けてある。その事を断りに来たのだが」
「そうでしたか。承知いたしました――おい、とんだ幸運だな、お前たち!」興奮した様子でまくしたてる。「グザビエ殿なら安心だ」
事情が分からない彼女としては曖昧な反応を返すより他なかったのだが、レベッカはそうではないようだった。
「貴殿が、彼の『砂漠の赤鷹』?」
「いかにも」苦笑まじりに肯定する。「その様な二つ名が付いておるな」
「これは心強い」
レベッカが微笑する。
「いやいや、貴女も充分評判ですぞ、レベッカ殿。新進気鋭の美人女剣士、とな。どのような武人かと思っておったが、人の口にもたまには尾とヒレが付かないものですな。なかなかどうして噂以上に美しく、そして――手練とお見受け致した」
「グザビエ殿の様な方から御誉めに預かれるとは、光栄です。しかし――貴殿に見合う丈の物を御用意出来ますかどうか」
「それなら心配無用。野暮用とは、ニモタータの事でな。つまるところ、旅は道連れ、という事だ。報酬は要らんよ」
話の区切りを察したかのように、ホースケがグザビエの肩に飛び移った。
ふわりと羽を広げて短く鳴き、彼流の挨拶をする。
それを見て、
「どうやら、貴殿は信用の置ける御方の様だ」
いくぶん目元を和らげると、レベッカが手を差し出した。
風が吹いてきた。
気まぐれに向きを変えるそれに煽られ、紗が大きくはためく。飾りがぶつかり合い、チリリ、と控えめな音を奏でた。
砂漠に入って、今日で九日目になる。けれど、まだまだ先は長い。ようやく行程の三分の一を消化したに過ぎないのだ。
砂漠の周縁部に当たるここには、一面砂ばかりの光景が広がる。歩みを嘲笑うかのように不確かな大地に足を取られるし、砂丘の間を縫うように進まなくてはいけないしで、単調な景色と相まってちっともはかどっている気がしない。それでも隊商は普通この道を選ぶ。さらに高温で水場も少ない内部よりは、ずっとマシだからだ。
昼の休憩を挟んで、少しして。
同行の二人が、はたと立ち止まった。
きょとんとして、フィオナは振り返る。
すっかりグザビエの肩を持ち場としていたホースケが離れるのが先触れであったかのように、前方の砂丘の影からバラバラと人が現れた。
いや、それだけではない。
右からも、左からも。
「野盗……ではないか」
どこからか取り出した投げナイフを構え、グザビエ。
と。
微かな声と共に、闇魔法と言うらしい例の独特の波動が生じて――掻き消えた。
「矢張り、魔法が効か無い」
気取られないようそんな素振りすら見せず、ごく小規模なものを試したらしかった。
「どうやら逃げた方が懸命なようだな」
ジリジリと狭まる包囲網から視線は外さぬままに、グザビエが詠唱を始める。
補佐しやすいようにだろう。レベッカが微妙に立ち位置を変えた。
彼女とて時間稼ぎの役くらいには立ってみせる。
教わったことを反復しつつ、呼吸を整え、懸命に力の行く末を定め、魔法として成立するよう導こうとする。同時に、この撤退は彼女ゆえなのだと痛感してもいた。旅の心得として最低限の護身の術は教え込まれていたし、レベッカにさらに磨きをかけてもらってもいた。けれどもそれは、文字通り「護身」の用を果すものでしかない。このような局面における戦力の頭数に入らないことは、明白だった。
せめて、もっと魔法を使いこなせてさえいれば……。
直接的な戦力にはなれなくても、彼女が修得しようともがいている魔法は、十分力を発揮することができるはずだ。むしろ、レベッカに言わせれば、それこそが本領なのだ。
(わたしのチカラでしょっ。言うこと聞きなさいよっ!この……‼)
ままならぬ悔しさに、歯がみする。
じゃじゃ馬を手なずけようと四苦八苦している間に、グザビエの呪が解き放たれた。
風に乗って砂が猛烈に巻き上がり、襲撃者たちの姿を覆い隠す。すかさずレベッカがあの怪鳥――グリフィンと言ったか――を召喚し、一行はその場から離脱した。
「済ま無い、グザビエ殿。其の様な所で」
叩きつけるように飛来してくる砂つぶてから紗で身を守りつつ、轟音に負けないよう声を張りあげる。
グザビエは、彼女たちの下。怪鳥の足に掴まれた宙づりの体勢なのだった。
いたわる様子で、ホースケがピタリと寄り添って飛んでいる。
「なに、構わんよ。女性を差し置いてわたしがそちらに居る方が、余程居心地が悪いさ」
あの恐ろしく凶悪げなかぎ爪を食い込ませず、かつ緩めすぎない怪鳥の絶妙な力加減には感心させられるが、この状態で鷹揚さを崩さないグザビエの剛胆さはそのさらに上を行くものであった。フィオナがあの立場なら絶対に生きた心地がしなかっただろうし、少なくとも三週間は根に持つ自信があった。
砂嵐は、一向に治まりそうにない。聖獣やホースケにとっては何ら障害ではないようだが、人はそうもいかない。第一、方向も定かでないまま進むわけにはいかない。適当な所でグリフィンを降り、この嵐をしのげる場所を求めてさ迷う。
やがて勢いが減じ、視界がだいぶ明瞭になってきた。
しばらく前から足元の感覚が確かなものになってきていたので、よもやとは覚悟していたが、やはり内地へと来てしまっていた。砂に代わって、見渡す限りの荒野が広がっている。
「急いであの岩場まで行くぞ!じきに雨が来る!!」
前方に連なる岩の峰々を示し、グザビエ。
はたして、辿り着いた矢先に、猛烈な勢いで雨粒が地面を打ちはじめた。
「ものすっごかったわね……」
ようやくつけた一息に、砂埃を払いながら、
「あの砂嵐の魔法、どうやったの?」
素朴な疑問だった。というのも、感知した限りでは、あのような大規模な現象を引き起こせるようなものではなかったのだ。小さな力で大きな効果をおよぼす――それができるのなら、ぜひにも教えを請いたかった。
「はは。わたしにそんな大層な力はないよ。あの砂嵐は、元より近づいてきていたものだ。あの魔法は、それに乗じたに過ぎんよ。――さて、それはそうと」
柔和な表情は崩さぬまま、けれども、笑みが消える。
「君達は追われているのかね」
「ごめんなさい!巻き込んでしまって……」
こうなってしまった以上、話すのが筋だ。
腹を決めて、フィオナは経緯を打ち明けた。
「……なるほど」かみしめるように唸ると、襟を正す。「もし良ければ、君達としばらく行を共にさせては貰えまいか。どうも、わたしとも無関係ではない気がするのだよ」
意外な、そして、頼もしく嬉しい申し出だった。
「モチロン!旅は道連れ、だものね」
ニコリとして、フィオナは快諾した。
その日は、まだしも快適な場所を見つけ出すと身を休めた。本格的な活動を始めたのは、次ぐ日。旅路は一転、苛烈なものになることが予想された。まさに命を抉らんとしていた死の刃を退ける代わりに、別の刃の接近を許すこととなってしまったのだ。
この危地を簡単に脱する方法なら、ある。グリフィンを使えば良いのだ。しかし、それでは、かなりの確率で追っ手を撒いた意味が無くなってしまう。当面は何とかなる可能性に賭けてみようということになった。
地図は役に立たない。ここは未踏の地。空白地帯なのだから。つまり、どこをどう進むべきなのか、絶望的に見通しが立たない。出たとこ勝負というヤツだ。
コンパスはあるから、進路だけは正確に分かる。食料も、何とかなるだろう。けれども、水はそう長くは保たない。どこかで補給しなければ、一行に明日はない。
窮余の策として、フィオナ達はそのまま岩の谷を辿っていくことにした。一つには、北西に向かうのにこの岩山が障害となっているからなのだが、より大きな決め手となったのは、ホースケが人工的に切られた溝を岩壁に発見したこと。それには防水処置が施してあり、給水のためのものらしかった。ということは、この行く先は集落に繋がっている可能性がある。なにせ、未知の領域なのだ。ベテランのグザビエさえも耳にしたことがないような秘境の村が転がっているのかもしれない。そうでなくても、溜め池の存在ぐらいは期待できる。とにかく、行ってみるしかない。現状、賭けるなら、この道が最もマシなのだから。
今が真冬なのは不幸中の幸いというやつだろう。確かに外縁よりは暑く感じるが、日向の照り返しを含めても日中は過ごしやすい。岩影なんて少々肌寒いぐらいだ。
(逆だったら干涸びてたわ、ゼッタイ)
チビリと、水筒の水を口に含む。
厄介なのは、このカラカラの空気だ。こんなにケチケチと飲んでいるのに、思った以上に水の減りが早い。これは予想よりも保たないかもしれない、と危機感を抱いたのだが、溝が導く先はそう遠くない所にあった。時間にして、半日ほど。
隘路を抜けた先は――
「なんっにもナイわね。キレーさっぱり‼」
そこは、ただただだだっ広い荒野だった。人の住む場などもってのほか。草木の一本すら見当たらない。ひたすら砂だけが我が物顔で占拠していた。もちろん、水場もない。例の溝は、砂の下へと消えて行ってしまっていた。
「なんなのよ!このムイミさはっ。期待持たせるんじゃないわよ……」
脱力して、へたり込む。
「還らずの、谷……」
ぐるりを見回していたグザビエが、険しい顔つきで呟いた。
「いや、砂漠を根城にする冒険者の間でまことしやかに囁かれておる怪談でな。『山の峰々に抱かれた地には近づくな。足を踏み入れたが最後。永遠の牢獄に囚われ、二度と戻ることは叶わぬ』……と。この景色と、ふと重なってしまってな。つまらない事を言って済まない」
苦笑いをして、振り払うように手を振る。
けれど。
悪寒が、駆け抜けた。
喚起されたのではない。予感めいたものだった。
来た道を振り返る。
そこにあったのは、まっさらな岩壁。道など最初からなかったのだという錯覚に陥ってしまうぐらい、厳としてそびえていた。
間違いなく、これは危険だ。この上は、手段を顧みている場合ではない。
「レベッカ――」
しかしながら、異変は、さらなる速度で三人に牙を剥いた。
足元が、崩れてゆく感覚
ホースケが、おろおろと頭上を飛び回る。
彼女に手を差し伸べようともがくレベッカが伸ばした腕は、されど、指先すら届くことはなく。
なす術もないままに、フィオナ達は砂中へと没していった。
ひやりと、ほどよく冷たくて心地よい感触を感じた。
広がっていたのは、どこまでも透き通った世界だった。
どこからもたらされているものか。
光源は見当たらないのに、やわらかな明るさで満たされている。
「ここが、牢獄……?」
その言葉から連想されるような物々しく陰惨なイメージとはおよそ対極をなす場所であった。しかも、砂に呑まれたはずなのに、自分にも周囲にもそのような痕跡はない。
夢を見ているのだろうか。
それとも――
(まさか、死後の世界、なんて言わないわよね……)
ギュッと。思いっきり頬をつねってみる。
痛い。
相応に痛い。
ちょっぴり涙がにじむ。
夢ではないようだ。きっと死んでもいないだろう。死んでまで痛みを感じるなんて、まっぴらご免だ。
自分のことが落ち着いたところで、改めて状況を確認してみる。
こうして触れている床面も、四方、天井に至るまで、ガラス、いや、水晶だろうか。なめらかなそれらは、鏡のように幾重にも彼女の姿を映し出していた。
「いったーい!」
無造作にそれらのうちの一つに近寄ったフィオナは、派手に何かにぶち当たった。
壁だ。
あると思っていた所より手前に、もう一枚あったのだ。
「ああ、もう‼わけわっかんない!ダレよ、こんなもの造ったの⁉非合法よっ。キジュン違反よっ。後でゼッタイ訴えてやるんだから‼」
じんじんと痛むおでこをさすりながら足を踏み鳴らし、怒りをぶちまける。
(牢獄だかナンだか知らないけど、ナニがナンでも出てってやるんだから!)
今度は慎重に。
壁に手を添えてゆっくりと歩を進める。
(まずは、二人とホースケを見つけなくっちゃね。さて、と)
レベッカのことだ。分かりやすい印を出してくれているのではないか。
そう考えて意識を凝らしてみるが――。
(……気配なし、か)
あの特徴的な魔力の波動をとらえ損ねるはずはない。ここにいることは間違いないと思うのだが、あるいは、なんらかの力が働いているのかもしれない。
(ならなおさら、ジッと助けを待っていても仕方がないわね)
光の通り方が他とは違う箇所に差しかかった。
向こう側がはっきりとみえる。ここだけ壁が薄いようだ。
なんの気はなしに、触れてみる。
指先が接した、瞬間。
薄壁が消失した。
「ズイブンあっさりしたものね」
拍子抜けして、肩をすくめる。
ともあれ、活路は開けたのだ。もしかして復活、なんて事にならないうちに、さっさと部屋を抜け出す。
数歩先に、短い階段。そのさらに奥には通路が横たわっていた。
通路に下りて、左右を見比べる。複雑な光の軌跡が乱舞するこの空間は、カタチを捉えることを困難にする。見通しが良さそうに見えて、その実、通路がまっすぐ延びているのかさえさっぱり分からなかった。元より、適当に進む他はないのだけれど。
(まるで迷宮だわ)
構造そのものもそのようだった。やたらと階段ばかりで、上ったと思ったらすぐ下りが待ち構えていたり。部屋数も異様に多いし、分岐もそこかしこ。これで迷えという悪意が籠められていないとしたら、即ひっくり返ることができるくらいの衝撃である。本当に、この建物の設計者だか所有者だかがいたら、なに考えてんだと問い詰めてやりたい。
(なんか……牢獄って言葉がしっくりくるように思えてきた…………)
最初に居た場所からどれだけ進めたのだろう。
だいぶ経っているように感じるのだけれど、ここにいると自分の時間感覚にも自信がなくなってくる。なぜかノドも乾かなければ、おなかも減らないので、余計だ。まさか堂々巡りをしているということはないと信じたいが、出口もレベッカ達も一向に現れなかった。
うんざりと溜息をついて、だんだん苛立ちを覚えるようになってきた無駄に煌めいている壁に寄りかかる。ちょうど向かい側には、すりガラスで随分ともったいぶった雰囲気の意匠が施されてあった。その周りを囲む装飾も、これまでに見たことがない気合いの入りようだ。単なる柄ということはないだろう。扉に違いない。
(こ~れはもう、アタリでしょっ♪)
ようやく前へと進めそうな予感に青翠の瞳をパッと輝かせて、足を踏み入れる。
扉の先にあったのは、前振りに釣り合った、と言うべきか。だだっ広い空間だった。ドーム状の天井が高々と頭上を包み、中空には半円に巡らされた通路がそびえている。対照的に、地上には中ほどにポツンと置かれた透明な台があるのみだった。ことさらにひっそりと感じられるのは、他と違って光を乱反射しない造りになっているからなのかもしれない。
案に相違して、ここはそれだけの場所のようだった。他へと続くような扉なり通路なりは見当たらない。
がっかりしたのだ。
ことさらに興味を惹かれるものがあったわけでもない。
なのに、すぐこの広間を立ち去らなかったのは、何故だったのだろう。
台へと足を向けたのも、なんの気もないことのはずだった。
けれど、まるで、導かれたように。
その前に立った。
途端。
金縛りにかかったみたいに、ピクリとも動けなくなった。
指の一本、眉の一筋たりとも。
意志に反して微動だにしない。
あせって、もがこうと試みるより僅かばかり早く。
声が降りそそいだ。
『審理を開始する。汝が真を示せ』
視られている――
姿なき複数の威圧の気配に、脂汗がつたう。
眼前に、見覚えのある風景が広がった。
息を呑む。
動悸が早くなる。
(これは――――あの、時の……)
家族同然の幼なじみの故郷。
追われるように、逃げ込んだ森――
彼女の、せいで。
彼は……命を落とした…………。
心を抉られるような苦痛に目をそらそうとするが、見えざる力がそれを許さない。
まるで走馬灯のように一連を描き終えると、また違う過去が映し出された。
(こんな事しなくったって、忘れたことなんかないわよ……)
一分一秒だって。
戻せるものなら戻りたい。償えるものなら、償いたい。それは、あの日からずっと、この十二年間、まるで呪縛のように、彼女の心を捕えて離さなかったのだから――――
§§§
兄のことが大好きだった。
彼女と違って市井の学校に通い、また、跡取りとしての教育も受けていた兄と接する機会は余りなく、共に暮らす家族であってもどこか遠い存在だった。だから、兄と過ごせる一時は、なお一層のこと特別だった。
僅かばかりの空きを割いて、五つ年の離れた兄は、よく彼女のことを構ってくれた。詮無いワガママを言っても困ったような笑みでたしなめるだけで、声を荒らげるようなことは滅多になかった。
(学校についてくって言い張って、父さんと母さんの手を焼かせたこともあったっけ……)
兄のなすこと行くところ、すべてがきらきらと輝いて見えた。兄の隣に立ちたくて必死だった。
それが、その浅はかさが災いを招いたのだ。
「やっぱり、本を読むには少し薄暗いかな」
午後とはいえ、まだ暗くなるような時間ではない。しかし、外はあいにくの雨。黒く垂れこめた雲は、常よりも明るさを奪っていた。
フィオナがせがんだ本を小脇に抱えて室に入ったチルケは、手にしていた燭台に灯を灯した。
「それ、おにいちゃんもできるの⁉すごーい‼」
父母や使用人から度々感じ取れる、何かが渦巻いて揺らぐ流れ……。それを兄が起こすのを目にするのは、初めてのことだった。
「わたしもやってみるー!」
流れは分かってる。だから、自分にもできるはず。
そんな、単純な自信。
明るい瞳を眩しいくらいに煌めかせて、兄の持つ燭台に指先を伸ばす。
「うん?フィオナにはまだ早いと思うけど……」
いつもの笑みを浮かべて、それでも、妹の望み通りに火を吹き消す。
誰に教わったわけでもないが、瞑目して、呼吸を整えて。内なるもの引き出そうとする。
呼び起こされたそれは、しかしながら、少女の予想をはるかに上回るものだった。
膨張し、暴れようとする力。
本能的に危険を感じ取り暴走を抑え込もうと試みるも、まして基礎も知識もない幼子の手に負えるものでは、到底なかった。
嫌な汗が浮かぶ。
伸べた小さな指が、全身が、小刻みに震える。
異常を察知してチルケが止めに入ろうとした時には、もう遅かった。
力の奔流は少女のささいな抵抗などやすやすと突破し、溢れた。
「お……にい……ちゃん?」
刹那、意識が飛んでいたのかもしれない。
虚脱の次に映じたのは、広がる紅蓮。すべてを灰燼と帰す炎の舌が、思うままに跋扈する光景だった。
「フィオナ‼」
お前は生きろ
そう、兄の声が聞こえた気がした。
強い力で突き飛ばされて、廊下に転がり出る。
「なりません、お嬢様‼」
使用人が、戻ろうとするフィオナを抱え込む。
もがく彼女を余所に、無情にも兄との距離を永遠に隔てゆく扉。
それを空しく焼きつける余地のみが、ただ彼女に与えられたものだった……。
『沈黙の魔女』
そう呼ばれる人物が百二十年ほど前にいた。
詠唱を用いることなく魔法を意のままに操り、圧倒的な力でロディック王国南部を含むルン・ティ・ジャー地方を瞬く間に席巻。
気まぐれで、冷酷、そして、残忍。
人々は恐怖の日々に苦しめられた。
一種の先祖返りなのだという。遠い昔、祖先の誰かと結ばれた神族の力が、世代を超えて発現するのだと。
数百年に一度現れるかどうかの、きわめて稀な事例。けれどもフィオナには、その魔女に匹敵するかもしれないほどの、人並み外れた力が宿っていると見立てられた。
父母は懼れた。
忌むべき魔女の再来だと噂されることを。
なぜなら、未だ褪せることのない魔女の脅威の記憶は、時に魔女狩りという名の凶行に人々を駆り立ててきたからだ。
そんな事になるくらいなら、と。苦渋の末の決断だったに違いない。
こうして、フィオナは『無恵者』として生きることになったのだ――。
§§§
高らかに響き渡った槌の音が、たゆたう追憶の波間から此岸へとフィオナをさらった。
『判決を申し渡す。被告人、フィオナ・マクラオド。そなたを無罪とする』
ただ一言、簡潔に。
それだけが、何もない空間に
空虚に、
厳かに、
殷々と連なる余韻を描いていった。
沈黙。
静寂。
激しさを宿らせて、うつむきがちだった面を仰がせる。
「そうよ。みんな言ったわ。不幸な事故だ。仕方ないって。でも、わたしはわたしを許せない……それだけよ」
叩きつけるように言い放って。
フィオナは法廷を後にした。
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