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第1話 ー消えた掲示板スレー ①
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二年生の始業式の朝、清能市の空は、冬の冷たさを少しだけ引きずったまま薄く晴れていた。
吐く息はもう白くはならないけれど、制服のブレザーのボタンを全部留めていないと校門までの道で肩がすこし震える。
柏加真白(はくかましろ)は、通学路の角を曲がったところで立ち止まり、深く息を吸った。
(今日から、二年生。今年も、普通の女子高生として平穏に過ごす。……よし)
胸の中でそっと念じるみたいに言葉を置いてから、顔を上げる。
見慣れた清能北高校の校舎が、朝の光を受けて静かに立っていた。
「あっ、真白!」
校門をくぐったところで、後ろから元気な声が飛んできた。
振り向くと、茶色のミディアムボブが朝日を受けて揺れる。木下恋(きのしたれん)が、片手を振りながら小走りで駆けてきた。
「おはよー、真白! 今日も早いねー。さっすが真面目優等生」
「……おはよう、恋。そんなに早くないよ。普通」
「そういうところが真面目なの。まあ、真白らしくていいけどね」
からかうようにいつもの様に言ってくる恋に、真白は小さく眉をひそめる。
「もう……」
「ごめん、ごめん。気を取り直して、行こっか」
「うん」
なんだかんだで、恋の人懐っこさに丸め込まれてしまう。そんな光景が真白と恋の日常だ。
恋は基本的に距離が近い。すこしだけ、体温が近づく。冷えた朝の空気の中で、それがほんのり暖かい。
「とりあえずさ、クラス替えの貼り出し見に行こ。二年になっても、同じクラスがいいなー」
恋がそう言って駆け出すのを、真白も小走りで追いかける。
昇降口の前には、既にたくさんの生徒が集まっていて、「一組だ!」「うわ、アイツとまた一緒かよ」なんて声があちこちで上がっている。
人だかりの隙間から、「二年次 クラス分け」と書かれた紙が見えた。
「どいてどいてー。……えっとー、清能北の星・木下恋様は……」
「そんな肩書き、どこにも書いてないけど」
半分ため息で突っ込みながら、真白も名簿を目で追う。
「……あった。『二年C組 木下恋』」
「やった! で、真白は……」
恋の指が紙の列を滑っていき、ふっと止まる。
「いた、『二年C組 柏加真白』。よしっ!」
小さくガッツポーズをする恋の横顔を見て、真白の胸の奥が、少しだけ柔らかくなる。
「同じクラスだね、恋」
「うん。同じクラス。二年目も、よろしくね、真白」
差し出された手を、真白は一瞬だけ迷ってから、そっと握り返した。
人混みのざわめきの中、その手の温度だけがはっきりと伝わってくる。
(……よかった。少なくとも、恋とは離れない)
それだけで、今日一日の不安が、ほんの少し軽くなる気がした。
二年C組の教室は、去年使っていた教室よりも一つ上の階だった。
窓側の席から見える街並みが、すこしだけ遠くなったように感じる。
「うわー、新しい教室ってだけでテンション上がるよねー。窓側いいなぁ、あ、でも真白は前の方が黒板見やすいんだよね?」
「うん、前の方が好き。……あ、ここかな」
真白は掲示されている座席表を確認して、自分の名前を見つける。
前から二列目の廊下側。去年と似た位置だ。
「真白の隣、誰だろ……あ、あたしだ」
恋が自分の名前を指差して笑う。
「……嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しいでしょ。同じクラスで、しかも隣の席とか、ポイント高いよ?」
「ポイントってなに」
「親友ポイント。真白の隣、譲らないからね」
ハッキリと言い切られて、真白は言葉に詰まる。
代わりに、照れ隠しに小さく息を吐いてから、自分の席へと向かった。
机の上には、まだ何も置かれていない。
新品のノートと筆箱を出しながら、真白はふと教室の天井を見上げた。
天井の角には、小さな黒い箱――アクセスポイントのようなものが取り付けられている。
清能北高校では、昨年度から学内Wi-Fiが整備されていて、どの教室でもネットが使えるようになっていた。
(……あれ、機器が変わってる。去年のと、LEDの位置が違う)
そんなところに気づく自分に、真白は内心で苦笑する。
彼女の頭の片隅には、いつもコードやログのイメージがある。
学校のネットワーク構成、PCの設定、ログイン画面の挙動――目に入るものは、自然と「どう動いているのか」で分解してしまう癖があった。
(でも、関係ない。今日はただの始業式)
意識して思考を切り替える。
この一年は、平穏に過ごす。そのために、余計なことには首を突っ込まない。
そう決めていた。
始業式が終わり、クラスに担任が入ってきたのは、教室の時計が十一時を少し回った頃だった。
「はいはーい、席についてー」
若い男性教師が、少し気怠げなテンションで教壇に立つ。
担任の先生は、去年も授業を受け持ってもらった「情報科の先生」だった。クラスのほとんどが授業を受けているはずだから、お互いに気楽だ。
「まずは進級おめでとう。……と言っても、まだ二年だからね。ここからが本番ですよ。受験とか、資格とか、部活とか。いろいろ忙しくなるけど、まあ、倒れない程度に頑張ってください」
教室に小さな笑い声が広がる。
恋は隣で「倒れない程度ねー」と呟きながら、真白の方をちらりと見た。
(……私も、倒れない程度に)
真白はペンを握りながら、小さく胸の中で繰り返す。
「で。二年C組は、今年からちょっと実験的なことをやります」
先生がそう言って、黒板にマーカーで大きく書いた。
『クラスSNS』
「去年まで、連絡は一斉メールとか共通の掲示板だけだったんだけど、市のサイバーセキュリティ科と協力して、高校生向けの“安全な”SNSを試験導入することになりました。うちの学校って、前にちょっとトラブルあったでしょ? それの反省も踏まえてね」
「トラブル」という言葉に、教室の空気がすこしだけ揺れる。
噂で聞いたことがある。
学内Wi-Fiの設定ミスで、他人の端末が見える状態になっていたとか、先生のアカウントが流出しかけたとか。
(“ちょっと”ってレベルじゃなかったはずだけど……)
心の中で突っ込みながらも、真白は表情を変えない。
「このクラスSNSは、学校のポータルサイトの一部として動いています。ログインは、みんなに配ったIDとパスワード。個人情報は最小限。外からは基本的に見えないようにしてあるので、安心して……っていうと、まあ、逆に怪しく聞こえるかもしれないけど」
先生自身も苦笑する。
「とりあえず使ってみましょう。で、その練習というか――」
そう言って、先生は黒板の端に、もう一行書き足した。
『宿題:今週中に、クラスSNSの自己紹介掲示板に、自己紹介を書いてくること』
「これを、宿題にします」
教室に、わずかなざわめきが広がる。
「えー、文章書くの苦手なんですけどー」
「一行でいいですか?」
「顔文字ありですか?」
あちこちから質問が飛び出す中、先生は手をひらひらと振った。
「長文禁止。読まされるこっちの身にもなってください。一言、二言で十分です。“好きなものは○○です”とか、“二年もよろしく”とか。その程度。顔文字も、変なやつじゃなきゃOK」
「変なやつって?」
「それはみんなの良心に任せます」
教室に笑いが起きる。
「あと、自己紹介掲示板は最初の練習用だから、消したり上書きしたりして遊ばないこと。ログは全部残りますからねー」
先生は半ば冗談めかして言ったが、その言葉に、真白の指先がわずかに止まった。
(ログ、全部……ほんとかな?)
システム側で、どこまでログが取れるかは設計によって違う。
たとえば、「削除」という操作をしたとき、その前後の操作をどこまで記録するのか。IPアドレスまで記録するのか。
そういう細かい仕様が、真白の脳裏に自然と浮かんでしまう。
(……考えすぎ。普通の生徒は、そんなこと気にしない)
頭の中に浮かびかけた疑問を、真白は意識して押し込める。
今は、平穏を優先する。
自分の嫌な癖を、ここに持ち込むわけにはいかない。
「とにかく、いったん今日の夜までにログインして、少なくとも今週中に書いておくこと。忘れそうな人は、今日の時点でかいてしまってください。操作わからない人は、今この場で手を挙げてくれてもいいし、後で情報室に来てもいいです」
そう言って、先生はホームルームを締めくくった。
昼休み。
二年C組の教室には、新しい教科書のインクの匂いと、弁当箱の匂いと、あちこちから飛び交う笑い声が混ざっていた。
「真白ー、一緒に食べよ」
恋が机をくっつけながら、当然のように言う。
真白も、ちょうど一年前の今の時期くらい、当初は戸惑っていたが、今では何とも思わなくなっていた。
「うん。……ねぇ、恋」
「なに?」
「さっきの、クラスSNS。もうログインした?」
「もちろん。ホームルーム終わってすぐ、スマホで。こういうの、早い者勝ちでしょ」
恋は胸ポケットからスマホを取り出すと、画面を見せてきた。
学校指定のアプリの中に、「二年C組SNS」というアイコンがある。
タップすると、シンプルな掲示板風の画面が表示された。
上部には「お知らせ」「課題提出」「雑談」などのタブが並び、その一番上に「自己紹介スレ」が固定されている。
「ほら、もう何人か書いてるよ。“サッカー部です、今年も全国狙います”とか、“寝るのが得意です”とか」
スクロールすると、短い自己紹介がいくつも続いていた。
アイコンと名前は実名表示。書き込み時刻も出ている。
その一つ一つを、真白は無意識に目で追っていた。
(……タイムスタンプは、秒まで。書き込みに番号……“No.1”、“No.2”……単純な連番か)
思わずそんなことを考えてしまい、真白は自分で自分に苦笑する。
「真白も書こうよ。なんて書く? “パソコン関連強いです”とか?」
冗談めかした恋の一言に、真白の手がぴたりと止まった。
「……やめて」
想像以上に強い声が出てしまって、真白は慌てて息を飲む。
恋も、目を瞬かせて彼女を見つめた。
「あ、ごめ……。嫌だった?」
「……ううん。私が、少し……」
言葉が続かない。
喉の奥が、急に乾いたみたいになる。
一年前。
高校に入学したばかりの頃、恋がスマホで怪しいメールを開いてしまい、トラブルになりかけたことがあった。
その時、真白は反射的に、対処したことがある。
結果として恋は助かり、その後、ぐいぐいと寄ってくる恋のコミュ力に負けて、真白が”そっち方面に強い”のは恋に知られてしまった。
――「真白、カッコいい!」
あのとき、恋は迷いなくそう言った。
事実、自分のことをホワイトハッカーだと自負している真白だが、それと同時に“ハッカー”と呼ばれることに嫌悪や恐怖を重ねていた真白にとって、それはあまりにもまっすぐで、清々しいほどの肯定だった。
(でも……だからこそ、怖い)
また同じように、誰かを助けようとして、今度こそ嫌われるかもしれない。
中学のときのように噂になって、その噂が消えるまでじっと耐える日々を繰り返してしまうかもしれない。
「ごめんね、真白」
恋の声に、真白ははっと顔を上げる。
「え?」
「真顔で“冗談やめて”って言われたの、たぶん初めてだから。……あたし、なんか踏んじゃいけないとこ踏んだ?」
恋は心配そうに、眉を下げていた。
普段の明るさが、少しだけ影を落としている。
「……踏んでない。大丈夫。ただ、私が……」
真白は、言葉を選びながら続ける。
「“平穏”でいたいって思ってるだけ。恋が知ってるのはいいんだけど、あんまり目立つことをしたくないから」
それが精一杯の本音だった。
恋は一瞬だけ目を丸くしてから、ゆっくりと笑った。
「そっか。……うん、わかった」
「……え?」
「真白が嫌がることは、しないって決めてるから。だから、今のは撤回。ごめんね」
そう言って、恋はスマホをくるりと自分の方へ戻す。
「自己紹介は、ただの自己紹介にしよ。真白が気楽な内容で。ね?」
「……うん」
胸のあたりが、じんわりと温かくなる。
ちゃんと伝わって、ちゃんと受け止めてもらえた。
それが、たまらなく嬉しい。
「じゃ、あたしが先に書くねー。“木下恋です。運動とスイーツが好きです。二年もよろしく!”……よし、送信」
恋がタップすると、「No.○○」と番号が振られた新しい書き込みが画面に表示された。
スマホの小さな画面の中で、恋の名前が、クラスの中へ溶け込んでいく。
「真白は?」
「……お弁当食べ終わってから」
「了解。それまでに、真白っぽい自己紹介考えとくね」
「自分で考えるから大丈夫」
そんな他愛もないやりとりが、いつもの調子を取り戻させてくれる。
(このまま、一年が終わればいい)
真白は、そう願いながら箸を動かした。
その日の夜。
夕食を食べ終わり、自室のドアを閉めると、真白は机の上のノートPCを開いた。
高校に入学する前から使っている、少し古い機種。
そのさらに奥の棚の中には、もっと古いノートPCが眠っている。
中学生の頃に使っていた相棒。今はたまに電源を入れるくらいで、まともに触っていない。
(……今日は、こっちだけ)
手前のPCの電源を入れる。
OSが立ち上がり、学校のポータルサイトのブックマークをクリックすると、ログイン画面が表示された。
IDとパスワードを入力し、ログインする。
画面の上部に、「二年C組SNS」のタブが追加されているのが見えた。
クリックすると、昼間に恋が見せてくれたのと同じ画面が表示される。
掲示板の上には、「自己紹介スレ」のタイトル。
投稿数は、昼よりも増えていた。
(ふたり、三人……十人以上書いてる。結構みんな、ちゃんと出してるんだ)
サッカー部の男子、吹奏楽部の女子、ゲームが好きな子、読書が趣味の子。
短い文の中に、それぞれの色がにじんでいる。
(私も、書かないと)
真白は、新規投稿ボタンをクリックした。
入力欄のカーソルが点滅する。
何を書けば、“普通”に見えるだろう。
目立たなくて、でも、無愛想すぎない文章。
(……無難でいい)
キーボードを叩く指が、自然に動き出す。
『柏加真白です。本を読むのが好きです。二年もよろしくお願いします』
読み返す。
味気ない気もするけれど、これ以上飾ると自分らしくなくなる気がした。
(うん。これでいい)
送信ボタンを押す。
一瞬、画面が更新され、「No.○○ 柏加真白」の行が追加された。
タイムスタンプは、二十二時過ぎ。
自分の名前が、クラスの一覧の中に混ざる。
何でもない作業のはずなのに、胸の奥が少しくすぐったい。
(ちゃんと、ただの一人になれてる)
みんなと同じように、自己紹介を書いて、リストの一つになる。
それが、真白にとっての「普通」の証拠みたいに思えた。
ふと、画面の右上にあるメニューを開く。
「スレッド一覧」「ユーザ設定」「ログ表示」といった項目が並んでいる。
(“ログ表示”……)
指先が、メニューの上で止まる。
その項目をクリックすれば、おそらく管理者向けのログ機能にアクセスできる。
もちろん、一般ユーザーには権限がないはずだが、UIの作りで分かることもある。
(……やめとこ)
真白は、そっとメニューを閉じた。
踏み込めばきっと、何かが見えてしまう。
システムの甘さ、隙、設計の穴。
それを見てしまったら、知らないふりをしていられなくなる。
画面をログアウトし、ブラウザを閉じる。
代わりに、英単語アプリを開こうとして――ふと、通知欄に目が止まった。
『二年C組SNS:自己紹介スレに新しい投稿があります』
さっき自分が書き込んだ分だろう、と軽く流そうとして、もう一度開いて確かめる。
自分の書き込みの下に、新しい行が追加されていた。
『No.○○ 木下恋
真白の親友ポジション、二年目も継続です! 改めてよろしく~』
「……なにそれ」
思わず、小さく声が漏れる。
他の投稿を見ても、同じ様に仲の良い同士でコメントを入れている投稿は幾つかあった。真白と恋のやり取りもその中の一つとして溶け込んでいるため、周りからは特別扱いされる様なこともない。恋もちゃんと流れを見て投稿してくれたのだろう。
そして、顔が熱くなるのを感じながらも、真白はその行から目を離せなかった。
こんなところでわざわざ「親友」と宣言する必要なんて、どこにもないのに。
でも――。
(……嬉しい)
画面の前で、誰に見られているわけでもないのに、表情が緩む。
こんなふうに、当たり前みたいにそばにいてくれて、当たり前みたいに“普通じゃない自分”も受け入れてくれる人がいる。
それはきっと、真白がずっと望んでいた平穏の形の一つだった。
モニターを閉じると、部屋の中は一気に静かになる。
外からは、遠くの車の音がかすかに聞こえるだけだ。
(このまま、何も起きなければいい)
布団に潜り込みながら、真白はもう一度、そう願った。
吐く息はもう白くはならないけれど、制服のブレザーのボタンを全部留めていないと校門までの道で肩がすこし震える。
柏加真白(はくかましろ)は、通学路の角を曲がったところで立ち止まり、深く息を吸った。
(今日から、二年生。今年も、普通の女子高生として平穏に過ごす。……よし)
胸の中でそっと念じるみたいに言葉を置いてから、顔を上げる。
見慣れた清能北高校の校舎が、朝の光を受けて静かに立っていた。
「あっ、真白!」
校門をくぐったところで、後ろから元気な声が飛んできた。
振り向くと、茶色のミディアムボブが朝日を受けて揺れる。木下恋(きのしたれん)が、片手を振りながら小走りで駆けてきた。
「おはよー、真白! 今日も早いねー。さっすが真面目優等生」
「……おはよう、恋。そんなに早くないよ。普通」
「そういうところが真面目なの。まあ、真白らしくていいけどね」
からかうようにいつもの様に言ってくる恋に、真白は小さく眉をひそめる。
「もう……」
「ごめん、ごめん。気を取り直して、行こっか」
「うん」
なんだかんだで、恋の人懐っこさに丸め込まれてしまう。そんな光景が真白と恋の日常だ。
恋は基本的に距離が近い。すこしだけ、体温が近づく。冷えた朝の空気の中で、それがほんのり暖かい。
「とりあえずさ、クラス替えの貼り出し見に行こ。二年になっても、同じクラスがいいなー」
恋がそう言って駆け出すのを、真白も小走りで追いかける。
昇降口の前には、既にたくさんの生徒が集まっていて、「一組だ!」「うわ、アイツとまた一緒かよ」なんて声があちこちで上がっている。
人だかりの隙間から、「二年次 クラス分け」と書かれた紙が見えた。
「どいてどいてー。……えっとー、清能北の星・木下恋様は……」
「そんな肩書き、どこにも書いてないけど」
半分ため息で突っ込みながら、真白も名簿を目で追う。
「……あった。『二年C組 木下恋』」
「やった! で、真白は……」
恋の指が紙の列を滑っていき、ふっと止まる。
「いた、『二年C組 柏加真白』。よしっ!」
小さくガッツポーズをする恋の横顔を見て、真白の胸の奥が、少しだけ柔らかくなる。
「同じクラスだね、恋」
「うん。同じクラス。二年目も、よろしくね、真白」
差し出された手を、真白は一瞬だけ迷ってから、そっと握り返した。
人混みのざわめきの中、その手の温度だけがはっきりと伝わってくる。
(……よかった。少なくとも、恋とは離れない)
それだけで、今日一日の不安が、ほんの少し軽くなる気がした。
二年C組の教室は、去年使っていた教室よりも一つ上の階だった。
窓側の席から見える街並みが、すこしだけ遠くなったように感じる。
「うわー、新しい教室ってだけでテンション上がるよねー。窓側いいなぁ、あ、でも真白は前の方が黒板見やすいんだよね?」
「うん、前の方が好き。……あ、ここかな」
真白は掲示されている座席表を確認して、自分の名前を見つける。
前から二列目の廊下側。去年と似た位置だ。
「真白の隣、誰だろ……あ、あたしだ」
恋が自分の名前を指差して笑う。
「……嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しいでしょ。同じクラスで、しかも隣の席とか、ポイント高いよ?」
「ポイントってなに」
「親友ポイント。真白の隣、譲らないからね」
ハッキリと言い切られて、真白は言葉に詰まる。
代わりに、照れ隠しに小さく息を吐いてから、自分の席へと向かった。
机の上には、まだ何も置かれていない。
新品のノートと筆箱を出しながら、真白はふと教室の天井を見上げた。
天井の角には、小さな黒い箱――アクセスポイントのようなものが取り付けられている。
清能北高校では、昨年度から学内Wi-Fiが整備されていて、どの教室でもネットが使えるようになっていた。
(……あれ、機器が変わってる。去年のと、LEDの位置が違う)
そんなところに気づく自分に、真白は内心で苦笑する。
彼女の頭の片隅には、いつもコードやログのイメージがある。
学校のネットワーク構成、PCの設定、ログイン画面の挙動――目に入るものは、自然と「どう動いているのか」で分解してしまう癖があった。
(でも、関係ない。今日はただの始業式)
意識して思考を切り替える。
この一年は、平穏に過ごす。そのために、余計なことには首を突っ込まない。
そう決めていた。
始業式が終わり、クラスに担任が入ってきたのは、教室の時計が十一時を少し回った頃だった。
「はいはーい、席についてー」
若い男性教師が、少し気怠げなテンションで教壇に立つ。
担任の先生は、去年も授業を受け持ってもらった「情報科の先生」だった。クラスのほとんどが授業を受けているはずだから、お互いに気楽だ。
「まずは進級おめでとう。……と言っても、まだ二年だからね。ここからが本番ですよ。受験とか、資格とか、部活とか。いろいろ忙しくなるけど、まあ、倒れない程度に頑張ってください」
教室に小さな笑い声が広がる。
恋は隣で「倒れない程度ねー」と呟きながら、真白の方をちらりと見た。
(……私も、倒れない程度に)
真白はペンを握りながら、小さく胸の中で繰り返す。
「で。二年C組は、今年からちょっと実験的なことをやります」
先生がそう言って、黒板にマーカーで大きく書いた。
『クラスSNS』
「去年まで、連絡は一斉メールとか共通の掲示板だけだったんだけど、市のサイバーセキュリティ科と協力して、高校生向けの“安全な”SNSを試験導入することになりました。うちの学校って、前にちょっとトラブルあったでしょ? それの反省も踏まえてね」
「トラブル」という言葉に、教室の空気がすこしだけ揺れる。
噂で聞いたことがある。
学内Wi-Fiの設定ミスで、他人の端末が見える状態になっていたとか、先生のアカウントが流出しかけたとか。
(“ちょっと”ってレベルじゃなかったはずだけど……)
心の中で突っ込みながらも、真白は表情を変えない。
「このクラスSNSは、学校のポータルサイトの一部として動いています。ログインは、みんなに配ったIDとパスワード。個人情報は最小限。外からは基本的に見えないようにしてあるので、安心して……っていうと、まあ、逆に怪しく聞こえるかもしれないけど」
先生自身も苦笑する。
「とりあえず使ってみましょう。で、その練習というか――」
そう言って、先生は黒板の端に、もう一行書き足した。
『宿題:今週中に、クラスSNSの自己紹介掲示板に、自己紹介を書いてくること』
「これを、宿題にします」
教室に、わずかなざわめきが広がる。
「えー、文章書くの苦手なんですけどー」
「一行でいいですか?」
「顔文字ありですか?」
あちこちから質問が飛び出す中、先生は手をひらひらと振った。
「長文禁止。読まされるこっちの身にもなってください。一言、二言で十分です。“好きなものは○○です”とか、“二年もよろしく”とか。その程度。顔文字も、変なやつじゃなきゃOK」
「変なやつって?」
「それはみんなの良心に任せます」
教室に笑いが起きる。
「あと、自己紹介掲示板は最初の練習用だから、消したり上書きしたりして遊ばないこと。ログは全部残りますからねー」
先生は半ば冗談めかして言ったが、その言葉に、真白の指先がわずかに止まった。
(ログ、全部……ほんとかな?)
システム側で、どこまでログが取れるかは設計によって違う。
たとえば、「削除」という操作をしたとき、その前後の操作をどこまで記録するのか。IPアドレスまで記録するのか。
そういう細かい仕様が、真白の脳裏に自然と浮かんでしまう。
(……考えすぎ。普通の生徒は、そんなこと気にしない)
頭の中に浮かびかけた疑問を、真白は意識して押し込める。
今は、平穏を優先する。
自分の嫌な癖を、ここに持ち込むわけにはいかない。
「とにかく、いったん今日の夜までにログインして、少なくとも今週中に書いておくこと。忘れそうな人は、今日の時点でかいてしまってください。操作わからない人は、今この場で手を挙げてくれてもいいし、後で情報室に来てもいいです」
そう言って、先生はホームルームを締めくくった。
昼休み。
二年C組の教室には、新しい教科書のインクの匂いと、弁当箱の匂いと、あちこちから飛び交う笑い声が混ざっていた。
「真白ー、一緒に食べよ」
恋が机をくっつけながら、当然のように言う。
真白も、ちょうど一年前の今の時期くらい、当初は戸惑っていたが、今では何とも思わなくなっていた。
「うん。……ねぇ、恋」
「なに?」
「さっきの、クラスSNS。もうログインした?」
「もちろん。ホームルーム終わってすぐ、スマホで。こういうの、早い者勝ちでしょ」
恋は胸ポケットからスマホを取り出すと、画面を見せてきた。
学校指定のアプリの中に、「二年C組SNS」というアイコンがある。
タップすると、シンプルな掲示板風の画面が表示された。
上部には「お知らせ」「課題提出」「雑談」などのタブが並び、その一番上に「自己紹介スレ」が固定されている。
「ほら、もう何人か書いてるよ。“サッカー部です、今年も全国狙います”とか、“寝るのが得意です”とか」
スクロールすると、短い自己紹介がいくつも続いていた。
アイコンと名前は実名表示。書き込み時刻も出ている。
その一つ一つを、真白は無意識に目で追っていた。
(……タイムスタンプは、秒まで。書き込みに番号……“No.1”、“No.2”……単純な連番か)
思わずそんなことを考えてしまい、真白は自分で自分に苦笑する。
「真白も書こうよ。なんて書く? “パソコン関連強いです”とか?」
冗談めかした恋の一言に、真白の手がぴたりと止まった。
「……やめて」
想像以上に強い声が出てしまって、真白は慌てて息を飲む。
恋も、目を瞬かせて彼女を見つめた。
「あ、ごめ……。嫌だった?」
「……ううん。私が、少し……」
言葉が続かない。
喉の奥が、急に乾いたみたいになる。
一年前。
高校に入学したばかりの頃、恋がスマホで怪しいメールを開いてしまい、トラブルになりかけたことがあった。
その時、真白は反射的に、対処したことがある。
結果として恋は助かり、その後、ぐいぐいと寄ってくる恋のコミュ力に負けて、真白が”そっち方面に強い”のは恋に知られてしまった。
――「真白、カッコいい!」
あのとき、恋は迷いなくそう言った。
事実、自分のことをホワイトハッカーだと自負している真白だが、それと同時に“ハッカー”と呼ばれることに嫌悪や恐怖を重ねていた真白にとって、それはあまりにもまっすぐで、清々しいほどの肯定だった。
(でも……だからこそ、怖い)
また同じように、誰かを助けようとして、今度こそ嫌われるかもしれない。
中学のときのように噂になって、その噂が消えるまでじっと耐える日々を繰り返してしまうかもしれない。
「ごめんね、真白」
恋の声に、真白ははっと顔を上げる。
「え?」
「真顔で“冗談やめて”って言われたの、たぶん初めてだから。……あたし、なんか踏んじゃいけないとこ踏んだ?」
恋は心配そうに、眉を下げていた。
普段の明るさが、少しだけ影を落としている。
「……踏んでない。大丈夫。ただ、私が……」
真白は、言葉を選びながら続ける。
「“平穏”でいたいって思ってるだけ。恋が知ってるのはいいんだけど、あんまり目立つことをしたくないから」
それが精一杯の本音だった。
恋は一瞬だけ目を丸くしてから、ゆっくりと笑った。
「そっか。……うん、わかった」
「……え?」
「真白が嫌がることは、しないって決めてるから。だから、今のは撤回。ごめんね」
そう言って、恋はスマホをくるりと自分の方へ戻す。
「自己紹介は、ただの自己紹介にしよ。真白が気楽な内容で。ね?」
「……うん」
胸のあたりが、じんわりと温かくなる。
ちゃんと伝わって、ちゃんと受け止めてもらえた。
それが、たまらなく嬉しい。
「じゃ、あたしが先に書くねー。“木下恋です。運動とスイーツが好きです。二年もよろしく!”……よし、送信」
恋がタップすると、「No.○○」と番号が振られた新しい書き込みが画面に表示された。
スマホの小さな画面の中で、恋の名前が、クラスの中へ溶け込んでいく。
「真白は?」
「……お弁当食べ終わってから」
「了解。それまでに、真白っぽい自己紹介考えとくね」
「自分で考えるから大丈夫」
そんな他愛もないやりとりが、いつもの調子を取り戻させてくれる。
(このまま、一年が終わればいい)
真白は、そう願いながら箸を動かした。
その日の夜。
夕食を食べ終わり、自室のドアを閉めると、真白は机の上のノートPCを開いた。
高校に入学する前から使っている、少し古い機種。
そのさらに奥の棚の中には、もっと古いノートPCが眠っている。
中学生の頃に使っていた相棒。今はたまに電源を入れるくらいで、まともに触っていない。
(……今日は、こっちだけ)
手前のPCの電源を入れる。
OSが立ち上がり、学校のポータルサイトのブックマークをクリックすると、ログイン画面が表示された。
IDとパスワードを入力し、ログインする。
画面の上部に、「二年C組SNS」のタブが追加されているのが見えた。
クリックすると、昼間に恋が見せてくれたのと同じ画面が表示される。
掲示板の上には、「自己紹介スレ」のタイトル。
投稿数は、昼よりも増えていた。
(ふたり、三人……十人以上書いてる。結構みんな、ちゃんと出してるんだ)
サッカー部の男子、吹奏楽部の女子、ゲームが好きな子、読書が趣味の子。
短い文の中に、それぞれの色がにじんでいる。
(私も、書かないと)
真白は、新規投稿ボタンをクリックした。
入力欄のカーソルが点滅する。
何を書けば、“普通”に見えるだろう。
目立たなくて、でも、無愛想すぎない文章。
(……無難でいい)
キーボードを叩く指が、自然に動き出す。
『柏加真白です。本を読むのが好きです。二年もよろしくお願いします』
読み返す。
味気ない気もするけれど、これ以上飾ると自分らしくなくなる気がした。
(うん。これでいい)
送信ボタンを押す。
一瞬、画面が更新され、「No.○○ 柏加真白」の行が追加された。
タイムスタンプは、二十二時過ぎ。
自分の名前が、クラスの一覧の中に混ざる。
何でもない作業のはずなのに、胸の奥が少しくすぐったい。
(ちゃんと、ただの一人になれてる)
みんなと同じように、自己紹介を書いて、リストの一つになる。
それが、真白にとっての「普通」の証拠みたいに思えた。
ふと、画面の右上にあるメニューを開く。
「スレッド一覧」「ユーザ設定」「ログ表示」といった項目が並んでいる。
(“ログ表示”……)
指先が、メニューの上で止まる。
その項目をクリックすれば、おそらく管理者向けのログ機能にアクセスできる。
もちろん、一般ユーザーには権限がないはずだが、UIの作りで分かることもある。
(……やめとこ)
真白は、そっとメニューを閉じた。
踏み込めばきっと、何かが見えてしまう。
システムの甘さ、隙、設計の穴。
それを見てしまったら、知らないふりをしていられなくなる。
画面をログアウトし、ブラウザを閉じる。
代わりに、英単語アプリを開こうとして――ふと、通知欄に目が止まった。
『二年C組SNS:自己紹介スレに新しい投稿があります』
さっき自分が書き込んだ分だろう、と軽く流そうとして、もう一度開いて確かめる。
自分の書き込みの下に、新しい行が追加されていた。
『No.○○ 木下恋
真白の親友ポジション、二年目も継続です! 改めてよろしく~』
「……なにそれ」
思わず、小さく声が漏れる。
他の投稿を見ても、同じ様に仲の良い同士でコメントを入れている投稿は幾つかあった。真白と恋のやり取りもその中の一つとして溶け込んでいるため、周りからは特別扱いされる様なこともない。恋もちゃんと流れを見て投稿してくれたのだろう。
そして、顔が熱くなるのを感じながらも、真白はその行から目を離せなかった。
こんなところでわざわざ「親友」と宣言する必要なんて、どこにもないのに。
でも――。
(……嬉しい)
画面の前で、誰に見られているわけでもないのに、表情が緩む。
こんなふうに、当たり前みたいにそばにいてくれて、当たり前みたいに“普通じゃない自分”も受け入れてくれる人がいる。
それはきっと、真白がずっと望んでいた平穏の形の一つだった。
モニターを閉じると、部屋の中は一気に静かになる。
外からは、遠くの車の音がかすかに聞こえるだけだ。
(このまま、何も起きなければいい)
布団に潜り込みながら、真白はもう一度、そう願った。
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