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第5話 ー期末テストの不思議なボットー ①
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窓の外が、ぼんやりと白んでいる。
朝の光というより、教室の蛍光灯と入り混じった、曖昧な明るさ。七月の終わり、梅雨も明けきらない空は湿気を含んでいて、窓際の席に座る柏加真白は、指先で机の端をなぞりながら、黒板の端に貼られた紙を見上げていた。
「期末テスト時間割」
数日前から貼られているその紙は、もはやクラス全員に暗記される勢いで見られている。明日から始まる国語と数学。その下にずらりと並んだ科目名をざっと目で追い、真白は、胸の奥で小さく息を整えた。
――テスト、か。
四月からここまで、妙な事件が途切れなかったせいで、感覚的にはあっという間だった。クラス掲示板のスレ削除、レポート提出システムのなりすまし、亡霊アカウント、文化祭サイトの呪い。
どれも、できれば関わらずに通り過ぎたかった出来事ばかりだ。
「真白ー。ねぇねぇ、ちゃんと見てる?このスケジュール」
隣からひょいと身を乗り出してきた木下恋が、真白の視線の先を覗き込んでくる。茶色のミディアムボブがふわりと揺れ、明るい声が教室のざわめきの中でもよく通った。
「見てるよ。……明日は国語と数学だよね」
「そうそう。でさー」
恋は、黒板の端を指さしながら、声をひそめるようにして笑う。
「ここ。数学。ここがさ、一番のラスボスなんだよね、あたし的には」
「ラスボスって……。でも、恋、この前の小テスト、平均より上だったじゃない」
「細かいことはいいの。感覚で言えばラスボスなの。数字がいっぱい出てくるとさ、頭の中でダンス始めるんだよね~」
肩をすくめる恋の仕草に、真白は思わず笑ってしまう。
期末テスト直前の教室は、いつもより少しだけ空気が張りつめているように感じる。配られたプリントを確認する紙の音、参考書をめくる音、前の席で友達同士が「ここ出るかな」とひそひそ話す声。
その中で、恋だけはいつもと変わらないテンションで、真白の机に肘をついてくる。
「真白はさ、どこが一番やばい?」
「……やばいっていうか、時間配分を間違えそうなのは英語かな。長文、読み始めると、つい全部ちゃんと理解したくなっちゃって」
「真白らしい~。まじめすぎるのも考えものだよ?」
恋がからかうように笑うので、真白は小さく首を振る。
「でも、ちゃんと解きたいし……」
そう言いながら、視線は自然と窓の外へ滑っていく。校庭の端では、体育の授業が終わったらしい一年生が列を作って戻っていくところだった。真夏ほどの暑さではないが、湿った空気の中で白いシャツが少しだけ風に揺れるのが見える。
――普通のテスト。普通の学校生活。
そういうものに、真白はずっと憧れていた。事件もなく、平穏に毎日が進んで、テスト前はこうやってクラス中がそわそわして、終わったらほっとして。
それだけのことが、こんなにありがたいなんて、少し前まで考えたこともなかったのに。
「……真白?」
ぼんやりと外を眺めていた視線が、恋の声に引き戻される。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」
「事件のこと?」
恋は、あっさりと核心を突いてくる。
真白は、わずかに肩を揺らしてから、小さく息を吐いた。
「うん。でも、今はテストのこと考えないと」
「そうそう!テストが終わったらさ――」
恋が急に身を乗り出す。その瞳が、いつもより少しだけ真剣な色を帯びている気がした。
「真白、一緒にスイーツ食べに行こ」
「……スイーツ?」
「うん。駅前にさ、新しくできたじゃん?なんか、やたら写真映えするパフェ出すカフェ。あそこ、気になってるんだよね~。この前、部活帰りに前通ったら、行列できててさ」
恋は、手振りを交えながら楽しそうに話す。
「期末テストが全部終わったら、二人で行こ。勉強のご褒美ってことで!」
真白は一瞬、返事に詰まった。
スイーツ。カフェ。そういう単語は、恋と一緒にいるときに何度も聞いたことがあるし、実際に何度か行ったこともある。それでも、こうして「テストが終わったら」という条件付きで、はっきり約束として提示されると、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「……いいの?恋、部活の友達とかと行かなくて」
「なにそれ。真白がいいに決まってるじゃん」
あっさりと言い切られて、真白は視線を逸らすしかなかった。
(……ずるいな、恋は)
そんな単語が、心の中でだけ浮かぶ。
ずるいくらいまっすぐで、いつも迷いなく真白を選んでくれる。そのことがうれしくて、同時に少しだけ怖くもあった。こんなふうに誰かに近づかれたせいで、過去には痛い思いをしたから。
でも。
「……うん。行きたい。テスト、頑張らないとね」
「よし、決まり!」
恋がぱっと笑顔を輝かせる。その笑顔につられて、真白も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
放課後の図書室は、いつもより混んでいた。
期末テスト前とあって、参考書を手にした生徒たちがあちこちの席を埋めている。冷房は効いているはずなのに、熱心にノートを開く人たちの熱気で、空気は少しだけ重たい。
窓際の少し奥まった席に、真白と恋は向かい合う形で座っていた。机の上には教科書とノート、シャープペンシル、そして色とりどりの付箋が広がっている。
「はい、ここ。ここの数式変形、何回やってもわかんない」
恋がノートをくるりと回して、真白の方へ押し出してくる。そこには、二次関数のグラフと、その変形過程が途中で途切れた数式が並んでいた。
真白はノートを覗き込み、ペン先で一つずつ式を追っていく。
「ここまでは合ってるよ。で、この次に――ここ。符号が逆になってる」
「え、どこどこ?」
「ここ。マイナスが、分配されてなくて」
指さしながら説明すると、恋は「あ~」と大きめの声を出しかけて、慌てて口元を押さえた。周囲の視線が少しだけこちらを向き、恋は小声に切り替える。
「そっか。だからグラフが変な形になってたのか……。やば、すっきりした」
「分配するときに、全部にマイナスをかけるって意識すると、間違えにくいかも」
「なるほど、メモっとこ」
恋が手早くノートに「符号!全部!」と大きく書き込む。その雑なメモの仕方に、真白は思わず小さく笑った。
「そんなメモでテストのときに思い出せる?」
「思い出せるの。こういうのでいいの。ほら、真白もさ、暗号キーとか覚えるとき、なんか変な覚え方してるでしょ?」
「暗号キーは……さすがにそんな覚え方しないよ?」
「えー?すっごく集中してる時なんかはしてたかもよ~?」
からかうようにウインクしてくる恋に、真白は「もー」と小さく抗議しながら、頬が熱くなるのを自覚した。
真白のホワイトハッカーとしてのことを、恋は表面的にしか知らない。それでも、こうやって冗談めかして口にされると、白狐の名前とともに封印したはずの感覚がほんの少しだけ胸の奥でうごめく。
――今は、そのことを考える時期じゃない。
意識的にその思考から目を逸らし、真白は教科書を開き直した。
「じゃあ、次は英語やろうか。恋、長文のとこ、苦手って言ってたよね」
「うっ。そうだった……」
恋は、分厚い英語の問題集を恨めしそうに見つめてから、観念したようにページをめくった。
「真白、音読して。真白の読み方、なんか落ち着くから好き」
「え、落ち着く?」
「うん。真白の声ってさ、静かだけど、ちゃんと入ってくる感じがするんだよね」
さらりと言われて、真白はペンを持つ手をわずかに強く握りしめる。
自分の声について、そんなふうに言われたのは初めてだった。中学の頃は、できるだけ目立たないようにしていたし、発言を求められたときも、必要最低限の言葉だけを小さく出していた。
「……じゃあ、読むね」
ページの上に視線を落とし、英語の文章を追いながら、真白は静かに読み始める。舌の上で英単語が転がり、小さな声が空気を震わせる。その声を、恋が目を閉じて聞いているのが、視界の端に映った。
声を出すたびに、自分の中の何かが、少しずつほどけていく気がする。
事件のこと。Kの気配。白狐だった過去。
全部が、完全に消えることはない。それでも、こうして目の前で「普通の勉強」をしている時間が、確かに存在しているという事実が、真白の心を支えてくれていた。
読み終えると、恋がぱちぱちと小さく拍手をする。
「はい、わかりやすかったです。先生~」
「先生って……。問題、解こう?」
「はーい……」
恋が渋々ペンを握り直す。その様子に、真白は自然と口元を緩めた。
数時間後。
図書室を出ると、廊下はすでに薄暗くなり始めていた。窓の外には朱色の残光がわずかに残っている。夏至から少し時間が経った夕方は、少しだけ陽が短くなってきたようにも感じられた。
「ふぅ~……。頭、使ったぁ」
階段を降りながら、恋が大きく背伸びをする。
「でもさ、真白に教えてもらうと、なんかできそうな気がしてくるんだよね」
「気が、じゃなくて、ちゃんとできてたよ。さっきの因数分解とか」
「まじ?じゃあ明日は一問くらいサービス問題出てほしいなぁ。『恋ちゃん専用問題』って書いてあってさ」
「そんなの出るわけないでしょ」
「夢くらい見させてよ~」
ふざけながら、恋は階段を飛び降りるように下りていく。一段飛ばしをしようとして、真白の視界から一瞬消えかけたので、思わず声を上げた。
「恋、危ないよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ。……って、あ、そうだ」
階段の踊り場でくるりと振り返り、恋が真白の方に向き直る。
「さっき言ったスイーツさ。テスト最終日の午後に行かない?午前中でテスト終わるでしょ?」
「うん。最終日は、二科目だけだし」
「じゃ、決まり。予約とかはできないみたいだから、早めに並びに行こ。真白、甘いのどれくらいまでいける?」
「どれくらい?」
「ほら、選ぶのに参考に。チョコ系がいいとか、フルーツもりもりがいいとか、ケーキ系かパフェ系か……」
恋の瞳は、すでにテスト後の世界を見ているようにキラキラしている。
真白は少しだけ考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「……あんまり甘すぎるのは、途中で苦しくなるから。フルーツが多めのやつ、かな」
「ふむふむ。じゃあ、真白用にはフルーツ多め、あたしはチョコ全開のやつだな。シェアしよ」
「それは、恋が甘すぎて後悔するパターンじゃない?」
「そのときは真白に助けてもらうから大丈夫!」
恋が笑って言うので、真白は苦笑するしかなかった。
――助けてもらうのは、いつも私の方なのに。
そんな言葉は、喉まで上ってきて、結局声にはならなかった。
階段を下り切り、昇降口で靴を履き替える。外に出ると、蒸し暑い空気がまとわりつくのと同時に、校舎の影が長く伸びていた。
「明日も図書室?」
「うん。午前中で授業が終わるから、午後はまた……」
「じゃあ、いつもの席、取っとくね。真白が来たら、あたしがわかりやすいように、宿題を山積みにしておくから!」
「それは、すぐに片付けさせられる前提じゃない?」
「えへへ。よろしくお願いしまーす」
恋がひらひらと手を振りながら、自転車置き場へ駆けていく。その背中が、夏の光の中で小さくなるのを見送りながら、真白は胸の奥にじんわりと温かさが広がるのを感じた。
――テストが終わったら、スイーツ。
それだけの約束が、こんなにも心強く感じるなんて。
事件の気配は、きっとこれからも完全には消えない。外の世界では、今日もどこかで誰かの端末が狙われているかもしれない。それでも、自分のすぐ隣で、「テストが終わったら」と笑ってくれる存在がいる。
それが、今の真白にとっての「平穏」だった。
朝の光というより、教室の蛍光灯と入り混じった、曖昧な明るさ。七月の終わり、梅雨も明けきらない空は湿気を含んでいて、窓際の席に座る柏加真白は、指先で机の端をなぞりながら、黒板の端に貼られた紙を見上げていた。
「期末テスト時間割」
数日前から貼られているその紙は、もはやクラス全員に暗記される勢いで見られている。明日から始まる国語と数学。その下にずらりと並んだ科目名をざっと目で追い、真白は、胸の奥で小さく息を整えた。
――テスト、か。
四月からここまで、妙な事件が途切れなかったせいで、感覚的にはあっという間だった。クラス掲示板のスレ削除、レポート提出システムのなりすまし、亡霊アカウント、文化祭サイトの呪い。
どれも、できれば関わらずに通り過ぎたかった出来事ばかりだ。
「真白ー。ねぇねぇ、ちゃんと見てる?このスケジュール」
隣からひょいと身を乗り出してきた木下恋が、真白の視線の先を覗き込んでくる。茶色のミディアムボブがふわりと揺れ、明るい声が教室のざわめきの中でもよく通った。
「見てるよ。……明日は国語と数学だよね」
「そうそう。でさー」
恋は、黒板の端を指さしながら、声をひそめるようにして笑う。
「ここ。数学。ここがさ、一番のラスボスなんだよね、あたし的には」
「ラスボスって……。でも、恋、この前の小テスト、平均より上だったじゃない」
「細かいことはいいの。感覚で言えばラスボスなの。数字がいっぱい出てくるとさ、頭の中でダンス始めるんだよね~」
肩をすくめる恋の仕草に、真白は思わず笑ってしまう。
期末テスト直前の教室は、いつもより少しだけ空気が張りつめているように感じる。配られたプリントを確認する紙の音、参考書をめくる音、前の席で友達同士が「ここ出るかな」とひそひそ話す声。
その中で、恋だけはいつもと変わらないテンションで、真白の机に肘をついてくる。
「真白はさ、どこが一番やばい?」
「……やばいっていうか、時間配分を間違えそうなのは英語かな。長文、読み始めると、つい全部ちゃんと理解したくなっちゃって」
「真白らしい~。まじめすぎるのも考えものだよ?」
恋がからかうように笑うので、真白は小さく首を振る。
「でも、ちゃんと解きたいし……」
そう言いながら、視線は自然と窓の外へ滑っていく。校庭の端では、体育の授業が終わったらしい一年生が列を作って戻っていくところだった。真夏ほどの暑さではないが、湿った空気の中で白いシャツが少しだけ風に揺れるのが見える。
――普通のテスト。普通の学校生活。
そういうものに、真白はずっと憧れていた。事件もなく、平穏に毎日が進んで、テスト前はこうやってクラス中がそわそわして、終わったらほっとして。
それだけのことが、こんなにありがたいなんて、少し前まで考えたこともなかったのに。
「……真白?」
ぼんやりと外を眺めていた視線が、恋の声に引き戻される。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」
「事件のこと?」
恋は、あっさりと核心を突いてくる。
真白は、わずかに肩を揺らしてから、小さく息を吐いた。
「うん。でも、今はテストのこと考えないと」
「そうそう!テストが終わったらさ――」
恋が急に身を乗り出す。その瞳が、いつもより少しだけ真剣な色を帯びている気がした。
「真白、一緒にスイーツ食べに行こ」
「……スイーツ?」
「うん。駅前にさ、新しくできたじゃん?なんか、やたら写真映えするパフェ出すカフェ。あそこ、気になってるんだよね~。この前、部活帰りに前通ったら、行列できててさ」
恋は、手振りを交えながら楽しそうに話す。
「期末テストが全部終わったら、二人で行こ。勉強のご褒美ってことで!」
真白は一瞬、返事に詰まった。
スイーツ。カフェ。そういう単語は、恋と一緒にいるときに何度も聞いたことがあるし、実際に何度か行ったこともある。それでも、こうして「テストが終わったら」という条件付きで、はっきり約束として提示されると、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「……いいの?恋、部活の友達とかと行かなくて」
「なにそれ。真白がいいに決まってるじゃん」
あっさりと言い切られて、真白は視線を逸らすしかなかった。
(……ずるいな、恋は)
そんな単語が、心の中でだけ浮かぶ。
ずるいくらいまっすぐで、いつも迷いなく真白を選んでくれる。そのことがうれしくて、同時に少しだけ怖くもあった。こんなふうに誰かに近づかれたせいで、過去には痛い思いをしたから。
でも。
「……うん。行きたい。テスト、頑張らないとね」
「よし、決まり!」
恋がぱっと笑顔を輝かせる。その笑顔につられて、真白も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
放課後の図書室は、いつもより混んでいた。
期末テスト前とあって、参考書を手にした生徒たちがあちこちの席を埋めている。冷房は効いているはずなのに、熱心にノートを開く人たちの熱気で、空気は少しだけ重たい。
窓際の少し奥まった席に、真白と恋は向かい合う形で座っていた。机の上には教科書とノート、シャープペンシル、そして色とりどりの付箋が広がっている。
「はい、ここ。ここの数式変形、何回やってもわかんない」
恋がノートをくるりと回して、真白の方へ押し出してくる。そこには、二次関数のグラフと、その変形過程が途中で途切れた数式が並んでいた。
真白はノートを覗き込み、ペン先で一つずつ式を追っていく。
「ここまでは合ってるよ。で、この次に――ここ。符号が逆になってる」
「え、どこどこ?」
「ここ。マイナスが、分配されてなくて」
指さしながら説明すると、恋は「あ~」と大きめの声を出しかけて、慌てて口元を押さえた。周囲の視線が少しだけこちらを向き、恋は小声に切り替える。
「そっか。だからグラフが変な形になってたのか……。やば、すっきりした」
「分配するときに、全部にマイナスをかけるって意識すると、間違えにくいかも」
「なるほど、メモっとこ」
恋が手早くノートに「符号!全部!」と大きく書き込む。その雑なメモの仕方に、真白は思わず小さく笑った。
「そんなメモでテストのときに思い出せる?」
「思い出せるの。こういうのでいいの。ほら、真白もさ、暗号キーとか覚えるとき、なんか変な覚え方してるでしょ?」
「暗号キーは……さすがにそんな覚え方しないよ?」
「えー?すっごく集中してる時なんかはしてたかもよ~?」
からかうようにウインクしてくる恋に、真白は「もー」と小さく抗議しながら、頬が熱くなるのを自覚した。
真白のホワイトハッカーとしてのことを、恋は表面的にしか知らない。それでも、こうやって冗談めかして口にされると、白狐の名前とともに封印したはずの感覚がほんの少しだけ胸の奥でうごめく。
――今は、そのことを考える時期じゃない。
意識的にその思考から目を逸らし、真白は教科書を開き直した。
「じゃあ、次は英語やろうか。恋、長文のとこ、苦手って言ってたよね」
「うっ。そうだった……」
恋は、分厚い英語の問題集を恨めしそうに見つめてから、観念したようにページをめくった。
「真白、音読して。真白の読み方、なんか落ち着くから好き」
「え、落ち着く?」
「うん。真白の声ってさ、静かだけど、ちゃんと入ってくる感じがするんだよね」
さらりと言われて、真白はペンを持つ手をわずかに強く握りしめる。
自分の声について、そんなふうに言われたのは初めてだった。中学の頃は、できるだけ目立たないようにしていたし、発言を求められたときも、必要最低限の言葉だけを小さく出していた。
「……じゃあ、読むね」
ページの上に視線を落とし、英語の文章を追いながら、真白は静かに読み始める。舌の上で英単語が転がり、小さな声が空気を震わせる。その声を、恋が目を閉じて聞いているのが、視界の端に映った。
声を出すたびに、自分の中の何かが、少しずつほどけていく気がする。
事件のこと。Kの気配。白狐だった過去。
全部が、完全に消えることはない。それでも、こうして目の前で「普通の勉強」をしている時間が、確かに存在しているという事実が、真白の心を支えてくれていた。
読み終えると、恋がぱちぱちと小さく拍手をする。
「はい、わかりやすかったです。先生~」
「先生って……。問題、解こう?」
「はーい……」
恋が渋々ペンを握り直す。その様子に、真白は自然と口元を緩めた。
数時間後。
図書室を出ると、廊下はすでに薄暗くなり始めていた。窓の外には朱色の残光がわずかに残っている。夏至から少し時間が経った夕方は、少しだけ陽が短くなってきたようにも感じられた。
「ふぅ~……。頭、使ったぁ」
階段を降りながら、恋が大きく背伸びをする。
「でもさ、真白に教えてもらうと、なんかできそうな気がしてくるんだよね」
「気が、じゃなくて、ちゃんとできてたよ。さっきの因数分解とか」
「まじ?じゃあ明日は一問くらいサービス問題出てほしいなぁ。『恋ちゃん専用問題』って書いてあってさ」
「そんなの出るわけないでしょ」
「夢くらい見させてよ~」
ふざけながら、恋は階段を飛び降りるように下りていく。一段飛ばしをしようとして、真白の視界から一瞬消えかけたので、思わず声を上げた。
「恋、危ないよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ。……って、あ、そうだ」
階段の踊り場でくるりと振り返り、恋が真白の方に向き直る。
「さっき言ったスイーツさ。テスト最終日の午後に行かない?午前中でテスト終わるでしょ?」
「うん。最終日は、二科目だけだし」
「じゃ、決まり。予約とかはできないみたいだから、早めに並びに行こ。真白、甘いのどれくらいまでいける?」
「どれくらい?」
「ほら、選ぶのに参考に。チョコ系がいいとか、フルーツもりもりがいいとか、ケーキ系かパフェ系か……」
恋の瞳は、すでにテスト後の世界を見ているようにキラキラしている。
真白は少しだけ考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「……あんまり甘すぎるのは、途中で苦しくなるから。フルーツが多めのやつ、かな」
「ふむふむ。じゃあ、真白用にはフルーツ多め、あたしはチョコ全開のやつだな。シェアしよ」
「それは、恋が甘すぎて後悔するパターンじゃない?」
「そのときは真白に助けてもらうから大丈夫!」
恋が笑って言うので、真白は苦笑するしかなかった。
――助けてもらうのは、いつも私の方なのに。
そんな言葉は、喉まで上ってきて、結局声にはならなかった。
階段を下り切り、昇降口で靴を履き替える。外に出ると、蒸し暑い空気がまとわりつくのと同時に、校舎の影が長く伸びていた。
「明日も図書室?」
「うん。午前中で授業が終わるから、午後はまた……」
「じゃあ、いつもの席、取っとくね。真白が来たら、あたしがわかりやすいように、宿題を山積みにしておくから!」
「それは、すぐに片付けさせられる前提じゃない?」
「えへへ。よろしくお願いしまーす」
恋がひらひらと手を振りながら、自転車置き場へ駆けていく。その背中が、夏の光の中で小さくなるのを見送りながら、真白は胸の奥にじんわりと温かさが広がるのを感じた。
――テストが終わったら、スイーツ。
それだけの約束が、こんなにも心強く感じるなんて。
事件の気配は、きっとこれからも完全には消えない。外の世界では、今日もどこかで誰かの端末が狙われているかもしれない。それでも、自分のすぐ隣で、「テストが終わったら」と笑ってくれる存在がいる。
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