術師たちの沈黙

碧井永

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始まり ~我来たる也

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 机上を照らす灯燭とうしょくの小さな炎が揺れた。
 ほぼ同時に、一人の青年が現れる。
 青年は突然、なんの前触れもなく、男の前に出現したのだ。
 この青年は、国都に暮らす民ではない。夜の時刻、城門を通らずにやって来たことを、男は知っている。国都は城郭都市であり、街の十二の門はすでに閉じていた。
 青年が現れたのは炎の中からだった。
(これが仙術せんじゅつというものか)
 日常、表情の変わらない男だが。この時ばかりは目を見開いていた。
(おそらくは)
 火から火へと火脈を伝う火遁かとんを駆使して城内へ侵入したのだろう。
 青年が不可思議な方術ほうじゅつを扱えることは聞いていたし、頭では理解したつもりでいても、その場に居合わせて実際に見てしまえば衝撃は大きい。どうしたって驚きは隠せない。
 仙術という怪しい術を扱えるためか青年は、名の上に【魔】をつけて呼ばれている。これが青年のふたつ名となっていた。
(確かに【魔】だな)
 やって来た青年の〝顔〟を直視して、男はそう思ったのだった。

「注文した小説はできていて」
 泰平を謳歌する時代。
 西市の隅の隅でひっそりと営業する書店がある。狭い店内、奥の机でせっせと書き物をしていた阿愁あしゅうは、弾んだ声をかけられて顔を上げた。
「ねえ素韻そいん、催促したところで仕上がりが早くなることはないのよ」
 阿愁は筆を置き、天衣無縫な性格の少女に向けて遠慮なく言った。
「長編小説の量となるとねえ、……そうだ、書きあがった分から先に持ってく?」
「いいえ。ちゃんと冊子になったものを読みたいもの。待つわ」
 店内の棚に積まれている本を手持ち無沙汰にぺらぺらめくっていた素韻は、手を止めてにっこり笑う。とにかく彼女は邪気がない。毎日催促に来るのも悪意があってではないのだ。
 この時代、紙の普及と木版印刷技術の発展により線装本せんそうぼん〈糸で綴じた本〉が増えたものの、工房で印刷されるのは暦書や薬書といった専門的な本ばかり。流行りの小説などは書店が仕入れた一冊を手書きで写して販売している。阿愁は字がきれいなほうなのでまあまあ売れている。と、思っている。
(ほとんど素韻からの注文だけど)
 注文は大歓迎だが。素韻の好みはたいへん偏っているので写していても内容がチンプンカンプンであり、いまひとつ筆が進まないのが阿愁の悩みどころであった。
「今度の小説は妓女が主人公のお話なのでしょう。楽しみだわ」
 両の指先を鼻の前で合わせて「ふふっ」と微笑む素韻の歳は十三である。
 写しているのは、身をもち崩す男とそれを支える妓女の話で、まだ少女の域を出ない素韻がどこまで理解できるのかと、阿愁は首をかしげてしまうほどだ。しかも素韻は街娘っぽい恰好をしているものの、纏っているのは絹の襦裙じゅくんであり、これでもお嬢様である。
 貴族の姫には庶人の恋愛が新鮮なのだろうか? 
 そもそも恋の駆け引きがわかるのか?
 毎度、恋愛小説の注文を受けるたびに阿愁は思うのだが、思うだけで訊いたことはない。阿愁は重度のひきこもりなので、付き合いの長い大切なお客様であっても、他人との深いかかわりをもちたくないのだ。加えて、ひきこもりに世の事情など関係なく、女人方が恋愛小説を好もうと好まざろうと、どうでもいいことだった。興味も関心もない。
 そこで「ぐうう」と低い音が響いた。見れば素韻がお嬢様らしくなく、けれど可愛らしく空腹に耐えかねた様子で腹を押さえている。
昼餉昼ごはん、食べてないの?」
 阿愁が問えば。
「最近、二兄にけいが忙しいらしいの。だから分家にはあまり行けないのよ」
 二兄というのは、二番目の兄という意味だ。
 素韻の二番目の兄は名を緋芭ひばといい、国都警備の統轄責任者である南衙禁軍なんがきんぐんの将軍職に就いている。姓をはんといい、范氏は寒門かんもん〈非門閥貴族〉であるが、世家が寒門であるのに異例の大出世を遂げていた。今や分家の緋芭のほうが、本家よりも格上なのである。
 素韻は本家で暮らしているのだが、昼餉は豪勢な食事のできる分家でとっていた。別居なのにしょっちゅう会っている、それほどにこの兄妹は仲がよい。そして、よく似ていた。
「二兄は邸に帰っていないらしいの。だから、あまり会えていなくて」
「そうなの」
「ほら阿愁も聞いたことはあるでしょう、あの怪盗の」
「ああ、我来也がらいやとかいう?」
 緋芭を帰宅させないほど翻弄しているのは盗人で、盗みに入った邸の門や壁に
『我来たる也』
 と大きく書き残していくことから我来也と呼ばれている。自己主張の強い盗人であり、そのくせ追いかけても捕まらない。貴族や豪商から財宝は盗み放題で、長い間、捕盗を担当する役人達はお手上げの状態になっていた。
(緋芭様、厄介なご時世に将軍になったわね)
 逃走経路がつかめず煙のように消えてしまうことから、年齢、性別、隠れ処、その他諸々、手がかりナシ。正体は今もって不明であった。ゆえに『怪盗』と呼ばれている。
 唯一判明しているのが、我来也は一人で盗みを繰り返しているということ。
「単独犯か、頭が回るのね。優秀な緋芭様ももてあそばれちゃているのかしらねえ」
「そう、でもちょっと素敵じゃない?」
「素敵?」
 意外な素韻の感想に、阿愁は聞き返してしまった。悪党に『素敵』とは。しかも大好きな兄の敵であり、我来也のせいで空きっ腹を抱えるハメになったというのに。
「我来也が出た翌日には生活苦の人々に銭が配られているというでしょう」
 素韻がうっとりした顔で言う。
「富貴の者から奪い貧者に分け与えている。きっと江湖侠客世界の人で義侠心に富んでいるのだわ」
(絶対違う)
 ものは言いようだなと阿愁は思った。
 いくら泰平の世を謳歌しているとはいえ、光の当たる所には影ができるものだ。影の部分である闇だまりには、病や怪我に苦しんだり職を失ったりして借金をつくってしまう生活困窮者がいる。おそらく偶然だろうが、我来也が盗みに入った翌日に貧しい者達へ銭が配られているという。それも、知らずしらずのうちに届けられているのだ。我来也が『義賊』とも呼ばれ民にもてはやされているのは、弱きを助けると噂されているからだ。
 噂でしかなく。
 つまりは美談にされているだけ。
「きっと我来也は長身の美青年なのだわ」
 すべてが桃色に色づいた情景へと脳内変換されてしまう、お歳頃の素韻。
 なんでそうなるのと阿愁は頭を切りかえて筆をとり小説の写しを再開する。
 義賊がわーきゃー騒がれるほど、この国は平和であった。





《次回 平凡な日常と裏事情》


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