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1 ~平凡な日常と裏事情
しおりを挟む素韻と我来也の話をして数日ののち。南衙がまた捕縛に失敗したとの噂を聞いた。
平和であるから時間もあり余ってもて余し庶人は噂好きである。今回は惜しいところで逃げられたというが。
(しくじったのだから惜しいもなにもないと思うけど)
阿愁は思うだけだ。
ひきこもりの阿愁には世の事情など関係ない。
さてさて。
本日もヒマだったなと穏やかな日常にホッとしながら店を閉めようとした夕刻。男が店の前で行き倒れた。行き倒れてしまった。これを放置できるほど無情でもなく、さりとて迷惑だなあと顔にはっきり意思表示してしまう、それが阿愁という人である。
長雨に青空が恋しい季節。今はやんでいる雨も、いつ降りだすかわからない。雨に打たれて身体が冷えて、店の前で死なれたら堪らない。営業妨害である。
(なにより役人とのやりとりが面倒じゃないっ)
「もしもしそこの人」
声をかけてみたが無反応。
まさかすでに息絶えているのかと男の傍らに屈みこむ。他人に興味関心のない阿愁でも、ちょっと焦ってしまう状況だ。
「…………を、さ……して……です」
うつ伏せに倒れている男から声が聞こえてきた。
生きているらしい。他人にかかわって会話するのは避けたいところだが仕方がない。
「え、なんて?」
「……こちらは書店ですよね? [百鬼律]を探しているのです。……ありますか?」
どうやら男は貴重な本を探して彷徨っているらしかった。
もっさりした男だ。二十八歳になる自分よりも歳上だろうと阿愁は見当をつけた。
垂れた髪で目許が隠れてしまっているのでどんな顔つきをしているのかわからない。目は口ほどにものを言うという。気持ちを量る目が隠れてしまっているので表情もわからない。胸に秘めている感情が読めない分、阿愁には話しやすい人物であるが。
「貴方、[百鬼律]を探してるって言ったけど。あれって見鬼の能力がないと価値のない書物なのよ」
[百鬼律]は数が少なく、市場に出回っているのはわずかだ。物資の豊富な国都であればすぐに見つけられるだろうと男は軽く考えていたらしく、書店めぐりをしているうちに希望は薄れ、ヤル気を削がれ、疲れて倒れてしまったということだった。
(なんでまた[百鬼律]なんていう専門書を?)
阿愁も男に負けないくらい前髪を垂らしている。垂れた髪を右耳にかけ、片方の目でそろっと男を観察してみるが、やはりどんな表情を浮かべているのかつかめなかった。
とりあえずは客らしいので、自力で立ち上がってくれた男を店内に招き入れている。
「貴方、見鬼師だったり?」
「まさか。違います」
耳に響きのよい、低い声だった。一度聞いたら忘れられないだろうと阿愁は感じる。
「じゃあ見鬼ってわかるかしら?」
阿愁が尋ねると、男はこくりと頷いた。肩のあたりで一つに結った髪が動きに合わせて柔らかく揺れている。行き倒れたわりに鈍クサイ動きではない。着ている対襟〈あわせ襟〉の袍衫もしっかりした仕立ての品だ。
「誤解があったらいけないからイチオウ説明させてもらうけど。鬼とはすべての怪しいもののことで、これが見えるから見鬼というの。鬼は、見鬼の能力をもっていないと目に映らなくて、これは生まれもっての能力なのよ」
男がまた頷いた。落ち着きのある、ふわりとした動きだった。
「貴方が探している[百鬼律]には天下の鬼の名字〈名前〉と制御法がずらりとあげられているの。ちなみに【百】は数ではなく【たくさん】の意ね。つまり、見鬼の方術を扱える見鬼師の使う専門書で、無能の者では読んでも意味のない代物なのよ」
男は頷く。
「それでも欲しいのね?」
「ということは、こちらの書店にはあるのですか?」
「うん、あるけど」
「売ってください! ぜひ!!」
男が前のめりになって頼んでくる。平均的な体格の阿愁がぎょっとして身を引いたほどだ。なんでそんなに必要としているのか、事情や理由はどうでもいいとして。
(困ったな)
魏書店で所有している[百鬼律]は一冊だけ。そしてその一冊は兄がくれたのだった。幼い頃に『大切にしろ』『失くすなよ』と散々言われていたので、置いてある場所は把握しつつ歳を重ねた今では開く機会のない本だが、手放そうとしたことは一度もなかった。
専門書だ。高く売れる。
厳しい経営状況を考えれば売ってしまいたい。
(売るか。でも、怒るだろうなあ)
激しく揺れる阿愁の心に気づいたらしい。男がひとつ提案をした。
「稀覯本ですし。一冊しかないのですか?」
「そうなのよね。譲れない事情があって」
「ではそれを原本として、写してくれませんか。私は写しを買いますので」
「いいの? 写しだと、手に入るまでに時間かかるけど」
「写し終わった部分から先にいただければ。糸綴じはこちらでやりますので」
随分と最近に素韻と交わした会話がよみがえる。素韻の場合、付き合いが長いから先渡しもできるし、なにより信用があった。この場合の信用というのは親しさではなく、
「あー、ええっと」
「全額前払いします。もちろん銭で。どうですか?」
商売での信用は期限と銭である。
男は聡いのか、話が早い。ならば阿愁に文句はなく、売買は成立した。
(素韻の恋愛小説が写し終わっていてよかったわ)
それからの毎日。前髪もっさり男が書店に通ってくるようになった。
男の名は、礼寿という。
淋しい懐事情で注文には感謝だが、阿愁にはド迷惑な話である。
阿愁は生まれつき、両の目の色が異なっていた。大陸行路の発展により西域世界と結ばれたために、この国にも髪や瞳や肌の色の異なった者はたくさんいる。けれど、双眸の色が異なるのは珍しい。阿愁の右眼は黒で、左眼は黒みがかった濃い青の紺碧色。色の違いは光が当たらないかぎり気づかれないものの、念のために前髪を垂らして影をつくり、左眼を隠しているのだった。
(瞳の色のせいなのかしら)
阿愁にはこの世に線を引いて内に閉じこもりたい事情があった。
人が悪意をもって接してくると、胸に秘めている裏の顔が見えてしまう。
顔面の透ける仮面をつけているように、口許や目許の醜くゆがんだもうひとつの顔が浮いて見えるのだ。二重に映る顔はとても気持ち悪くて、不気味で、幼い頃は仮面に襲われるのではと怯えて泣いたものだった。兄の努力もあってなんとか普通に生活できるようになったものの、この歳になっても人と接するのは苦手だ。今でも悪意ある面に遭遇すると気分が悪くなり、酔ったように胸がむかむかする。
悪意とは、人を憎み害を加えようとする邪悪な心。
人には喜怒哀楽がある。感情を有する生き物であるから悪意をもつ場面だって当然あるだろう。生きていくうえで、ずっと善人ではいられない。そちらのほうが逆に怖い。
けれど、世には知りたくないことだってある。相手の本心を知らないままでいれば平穏に暮らせる、そんな場合だってあるのだ。知りたくないという想いは年々増していった。
そして。
現状のひきこもりは人間関係に嫌気がさしてのもので、精神安定のためでもある。
特殊な能力とでもいおうか、使いこなす器用さなどなく、これを武器に生き抜こうなどという気概も阿愁にはない。そもそもほんのちょっとでも面倒と感じることにはかかわらない阿愁であるから、人と話すときはなるべく顔を直視しないようにしているのだが、
(ごく稀にだけど。例外もいるのよね)
それが范氏の兄妹だ。
素韻と緋芭は真正面から顔を見て会話しても、まったく気分が悪くならない貴重な存在だった。言行に裏表がないのだろう、どんな時も醜くゆがんだ面が浮いて見えない。
(とはいえ、よ)
緋芭は民を護る正義の人、国に仕える高位の武官であり、南衙禁軍の将軍サマである。
偉ぶって威圧する態度もとらないし、店に寄ってくれるのはいいのだが、阿愁は内心、兄を捕まえにきたのではないのかと毎回ヒヤヒヤなのだった。自分が悪事をはたらいているわけでもないのに頭の中が真っ白になって思考がプツンと切れかけ、ヘンな緊張感で吐きそうになる。
(礼寿も毎日来るようになっちゃって。馴染みのお客、増えちゃったのよねえ)
お客様は神様である。拝んで大事に付き合わねばならない。これは商売。わかってはいてもそこは阿愁、クセがすごい事情があって肯定的な孤独に浸っていたいのだった。
《次回 自称恋愛師》
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