上 下
1 / 1

吟遊詩人の奏でるヴィオロンの音は、雪降る王都に消えていく。

しおりを挟む
雪の降る夕方のことだった。伯爵令嬢ベアトリスが王都の街を後にしようとしたとき、街道の脇で一人の吟遊詩人が儚げにヴィオロンを弾いていた。

ベアトリスは父親によって、望まぬ結婚を強いられていた。婚約者と顔合わせをしてもなお、気持ちが晴れなかった。ヴィオロンの切ない音色に共鳴するように、帰途の歩みを止めた。

従者セバスチャンが「お嬢様、日が暮れる前に帰りましょう」と言う。街には雪が積もり始め、行き交う人の数も少なくなっていた。

「ヴィオロンが湿ってしまわないかしら」

すすり泣くような旋律の流れる方角を見つめながら、ベアトリスは寒さに肩をすぼめ、胸の前で両手をさすっている。

「吟遊詩人は奏で、唄うのが役目。お嬢様が気になさることはありません。さあ、参りましょう」

ベアトリスが立ちつくしている足元に、薄く積もった雪が崩れる。

「こんなに雪が降っているのに? 可哀想だわ」

「――彼らはそういう身の上なのです」とセバスチャンが言った。

しかし、ベアトリスは耳を貸さなかった。さっと街道を渡り、吟遊詩人のもとへ近づいた。ヴィオロンの音色はより一層鮮やかに、優美に聴こえてきた。彼の羽織る分厚い外套に着地した雪が、弾かれるように舞い上がってはまた、ふわっと落ちていく。

「雪よ」

ベアトリスが彼に話し掛けた。

演奏が止んだ。沈黙が流れた。

雪景色とヴィオロンの似合う美青年がそこにいた。その瞳は深く、静かな湖のようにベアトリスを映していた。

「雪……ですね」彼は空を仰いだ。

ベアトリスは微笑み、「ヴィオロン、綺麗ね」と言った。今一歩近づき、彼の肩にある雪を払った。彼ははっと驚くような表情を見せた。

「身体を壊さないでね。寒くて、辛いでしょう?」

ベアトリスは彼をじっと見つめた。ベアトリスの柔らかい笑顔につられるようにして、彼も微笑んだ。

「お気遣い感謝します。でも、音楽は生きる糧なんです。寒さも飢えも超えていきます」

「まだここで弾くつもり?」

「さあ……わかりません。気の済むまでです」

「ねえ、ちょっと聞いてもいいかしら」とベアトリスが言葉を挟んだ。「雪の中で自由に弾き続けるのと、暖炉の前で不自由に座っているのとでは、どちらが幸せでしょう?」

彼は迷うことなく「後者です」と答えた。確信に満ちた声だった。

「じゃああなたが代わりに、侯爵様と結婚してよ。私はそのヴィオロンと弓をもらうわ」

彼はきょとんとした顔をしたが、再び微笑むと、ヴィオロンと弓をベアトリスに差し出した。

「ヴィオロンは弾いたことがありますか?」

ベアトリスは受け取ったヴィオロンを見よう見まねで構え、弓を当てた。弓の毛とヴィオロンの弦との摩擦がギゴギゴと音を立てた。

「意外に難しいのね」

「僕が初めて触ったときよりもお上手です」

「そう? ありがとう」

「右手はもっと力を抜いてください。小鳥を抱くように」と彼は教えながら、ベアトリスにお手本を見せた。二人は一つのヴィオロンを貸し借りし、明るい旋律を奏でた。さっきまでの哀しい旋律とは正反対だった。彼がヴィオロンを奏でるとき、ベアトリスは天使の声を聴く心地がした。



雪の勢いは増すばかりだった。

セバスチャンは二人と少し離れたところにいた。ベアトリスが生まれて以来、こうして見守るのが彼の役目だった。ベアトリスの奏でるおぼつかないヴィオロンの音が彼の琴線に触れる。結婚に向かうベアトリスの成長と、小さかった頃の彼女の面影が重なり合う。セバスチャンは声を掛けるタイミングを計っていたが、それを見出せずにいた。

「あなた、今夜うちに来て、続きを教えてくれないかしら?」ベアトリスがヴィオロンをおろし、彼に尋ねた。

彼は申し訳なさそうに、目を伏せた。

「申し訳ございません。参れません」

「どうして? 謝礼ならきちんとお支払いするわ」と言った後、ベアトリスはまたヴィオロンを弾き始めた。断られるはずがないと思っていた。

「いえ……先約がございまして」

「どなた?」

「国王陛下です」

ベアトリスは驚きのあまり、ヴィオロンを落としそうになった。

「え!? なら……しかたないわね。あなた、立派な吟遊詩人だったのね。付き合わせてしまってごめんなさい」

急いでヴィオロンと弓を彼に突き出した。しかし彼は、それを受け取らずにいた。


「やはり……前者ですね」


ベアトリスは首を傾げた。
「ん? なにが?」


「さっきの質問の答えです。雪の中であったとしても、あなたのような美しい人と、ずっと弾いていたかった」

ベアトリスはドキッとした。ヴィオロンを差し出している彼女の左手を、彼が包み込むようにして握った。その指先は温かく繊細で、何かを約束するかのような優しさを感じさせた。

彼は何事もなかったかのようにヴィオロンを受け取った。雪から守るようにして軽くそれを拭き、袋へとしまった。

「もう、城へ赴かねばなりません」

彼の悲しそうな声がベアトリスの心臓を刺した。ベアトリスの左手に残る彼の体温が雪の結晶へ溶けていく中、彼女はこの一瞬が永遠になってほしいと願った。

「陛下に招かれているなんて、名誉なことよ。どうしてそんなに暗い顔をしているの?」

彼は粗末な貧民街の生まれだった。かつて彼の愛した街は、国王の厳命により、冷酷な手段で治安維持の名の下に壊滅させられた。その大惨事で、彼は愛する家族を無くしてしまった。深い悲しみと燃えるような怒りを胸に秘めて、吟遊詩人の道を選び、名声を高めてきた。そして今夜は待ちに待った――国王の前で演奏するという機会。しかし彼の心には、単なる演奏だけでない、不穏な計画が渦巻いていたのだった。


「また……会えるわよね?」


ベアトリスは彼の顔を覗き込むようにして尋ねた。


「――僕は旅する吟遊詩人です。音楽と癒やしを必要とするところへ行きます」

「どういう意味なの? はっきり言って」

「……はい、また会えます」


別れの時と見極めたセバスチャンが近づき「お嬢様、そろそろ参りましょう」と声を掛けた。ベアトリスはまだ足りないと駄々をこねる子どものような顔をして、セバスチャンに手を引かれていく。馬車がすぐそばで待機していた。

彼は微笑みながらベアトリスを送り出した。その表情はまるで、夕闇にぽつんと浮かぶ螢光であった。


「またお会いしましょう、美しい人!」


彼の声はヴィオロンの弦のように震え、複雑な響きを持っていた。



馬車がゆっくりと動き始める。ベアトリスは窓越しに見える彼の姿と、雪に覆われた街を見えなくなるまで見つめた。遠ざかるにつれ、ベアトリスの心は軽やかなヴィオロンの音色に満たされていった。新鮮な感情の種が芽吹く初春のようであった。

「セバス。ヴィオロンの先生を探してくれない? 弾けるようになりたいわ」

「かしこまりました、お嬢様」

セバスチャンはいつもの丁寧な調子で返事をした。

暮れなずむ王都は雪の衣を纏うようにして、ベアトリスとセバスチャンの乗った馬車を見送った。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

かずちゃん
2024.02.16 かずちゃん

感嘆しました。先生の作品はライトノベルもまた文学小説足りえると私に教えて下さいました。
 優れた作品は、その紡がれた言葉が読み手の心の中に連続する絵画を与えてしまうのではないでしょうか。私の中では吟遊詩人とご令嬢の絵姿を頂きました。悴む手すら暖かい…。先生、これからも作品を産み出してください。昔読んだアメリカやフランスの短編小説の匂いがする先生の作品が大好きです。

Hibah
2024.02.16 Hibah

かずちゃん様

感想ありがとうございます。
心が温かくなりました。

ライトノベルも文学小説も、同じ物語作品です。
かずちゃん様のような感性を持つ方がこの世界にいらっしゃること、そして私の作品を通じてかずちゃん様に出会えたことに感謝します。

これからも様々な作品を産み出せるよう、励んでいきます。

どうか応援のほどよろしくお願い致します。


Hibah

解除
1 / 2

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。