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街で待機していたナディエと合流し城に戻りました。

すっかり遅い時間になってしまいました。

夫の部屋の前を通りかかると、

「おう……! おおう! これが僕の……エルキュールすぺしゃあーーる!」

という激しい声が聞こえてきます。

今夜も夫は元気ですね。好きなだけ楽しんでください。おかげさまで、私はもう怒りも悲しみも嫉妬も感じません。

老婆によると、喜びもまた感じないということでしたが、今のところ清々しい気持ちでいられています。喜怒哀楽はないものの、心地よい状態が続いている、といった感じです。

こうしてみると、私は生活において喜びを求めていたのではなく、「不快ではない心持ち」が欲しかったのかもしれません。結局、喜怒哀楽なんてものは、心のバロメーターの振り幅にすぎず、プラスであろうがマイナスであろうが、負担がかかることに変わりはないのだと思えてきました。

夫の部屋の前を通り過ぎるときに、ふと思いついたことがありました。私は使用人に命じて、椅子とテーブルを廊下まで持ってこさせました。そしてそれらを、夫の部屋の扉の正面に据えました。

夫を部屋に閉じ込めようとか、そういうつもりではありません。扉を開けられるような場所に配置しました。

そのあと、テーブルの上にダージリンの紅茶と、チョコレートビスケットを置きました。紅茶は深い琥珀色をしており、ビスケットは一つ一つがふんわりとした形をしています。紅茶の芳醇な香りとビスケットの甘い香りとが混ざり合って、夜の廊下を満たし始めました。

次に私は椅子に腰掛けました。行為中に特有のあの声や、ベッドの軋む音をBGMにして、紅茶をすすろうと考えたのです。かつては苦痛でしかなかった音が、今では単なる背景音と化しています。それを聴きながら、紅茶とビスケットを交互に口に運びました。いつもより甘さが口の中に広がる気がします。

喜怒哀楽はありませんが、その分、五感が研ぎ澄まされたようです。

(ああ、美味しい! もっと早く老婆に会うべきだったわ!)

感情を無くすというのはこんなに心地よいのかと、驚きました。夫の浮気現場が目の前にあっても、私はそこから漏れ出る獣の雄叫びですら、音楽として愉しむことができるのです。感情の波が立つことなく、私の内側は穏やかな湖のままであります。

通りかかる使用人たちの反応は様々でした。見てはいけないものを見てしまったように気まずい顔をする者もいれば、「え! こんな廊下で……どうなさったのですか奥様!?」と声をかけてくる者もいます。きっと使用人たちの控室では、私の気が違ってしまったのではないかと騒いでいるやもしれません。

膝にかけたブランケットの温もりとともに、ゆとりある時間が流れていきました。ナディエが様子を見に来ないことは、なんとなくわかっていました。街から城までの帰り道、彼女はショックを受けていたからです。喜怒哀楽がなくなったことの素晴らしさをナディエに説いても、ずっと塞ぎ込んだままでした。「申し訳ありません、わたくしのせいです……」と侘び続ける彼女に対し、私は何度も今のほうがいいと説明したのですが、納得には至りませんでした。

私とナディエは、この城において喜怒哀楽を共有してきた仲でした。もちろん、私のほうから相談することが多かったのですが、ナディエの気持ちを聞いてあげることも珍しくありませんでした。そのときはいつも、私はナディエの心が自分の心になったような感覚で、同じ感情を味わっていたように思います。これからはそのような共有が不可能になるかと思うと、私たちの関係もまた変化する運命にあるのかもしれないと思いました。でも、それについて寂しいと思う私は、もうここにいません。

私からしてみると、喜怒哀楽の消滅は素晴らしい体験です。しかし、ある人から見ると、それは人間性の喪失かもしれません。

ただ、ナディエにも勘違いしてほしくないのは、感情がなくなったとしても、私は私だということです。人格が消えたわけでもなく、記憶がなくなったわけでもありません。感情だけがその人を形作るのではないでしょう?



しばらくすると、扉の向こうがしんとなりました。夜の営みが終わったようです。

テーブルの上にあったビスケットもちょうどなくなっていたので、新しいのを追加する手間が省けました。時刻は深夜になろうとしています。

汗を拭きながら、夫が女と部屋から出てきました。全三回戦をどれも勝利したかのような満足気な表情をしています。

廊下でくつろぐ私の姿を目にした瞬間、夫はまるで地雷を踏んだように後ずさりし、驚きの声を上げました。

「うぇっ!? 君はこんなところで……何をしているんだ!?」
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