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「突然のお声がけ失礼致します。……あなたは以前、うちの城にいらっしゃったことがありませんか? 私はエルキュール伯爵の妻、ベアトリスと申します」
夫のことを心配しながら見つめていた貴婦人は、私に話しかけられてびくっとしました。夫に向けていた視線を私に移し、目が合いました。
間違いありません――私が夫に呼び出されたあの夜、夫の部屋にいた女です。ギャンブルで身を崩した父親を持つと夫が言っていましたが、嘘なのでしょうか。まばゆいばかりの高価そうなドレスを着ています。
女は無言、というより呆然としていたので、私が話を進めました。
「やっぱりあなたね……。この前、エルキュールの部屋で会ったの覚えてる? どうしてここにいるの? ただの平民ではなかったの?」
女は諦めたのか、自分の身の上を語り始めました。
「ご推察のとおりです……申し訳ありません。わたしの名前はカサンドラと申します。ダスティン辺境伯の娘です。今は王立学院の学生として、王都に来て生活をしております。晩餐会に参加するのは初めてです」
王都とは、王家の城を中心に広がる城下町と、それを取り囲む王家の直轄地全体を指します。カサンドラと名乗るこの女性は、王立学院の生徒ということなので、まだ成人もしていない独身女性ということになります。若さに似合わぬ大人びた雰囲気を持っていると思いました。
「教えてくれてありがとう、カサンドラ嬢。辺境伯のご令嬢ともあろうお方が、なぜあの夜、我々の城にいたのでしょう? 身分を偽っていたのですか? エルキュールはあなたの身分を知っているのですか?」
「いえ……エルキュール様はわたしのことを平民だと思っています……」
「嘘をついてエルキュールに近づいたということですか?」
「それは……言いたくありません」
しばらくの間、無言でした。
カサンドラは私と話している間も、ちらちらと夫のほうに目を向けていました。そして夫が完全にこの会場から去ると、鋭い目つきでにらんできました。
「奥様……どうしてエルキュール様にあんな酷いことをなさるのですか? エルキュール様がお可哀想……」
カサンドラが夫をかばうようにして言ったので、あまりの衝撃に聞き間違いかと思いました。王家に陳情書が届くほどの醜態を晒した愚かな夫のことが……可哀想……?
「あなただって、エルキュールに傷つけられた女性のうちの一人ではありませんか? その点については……ごめんなさい、うちの夫が……」
カサンドラは冷たい目をしたまま、眉間にシワを寄せました。
「傷つけられてなどいません……! わたしは自分の意思で、エルキュール様と一緒にいたのです」
「はあ……? ますますわからないわ。銀貨だけじゃなく……下着まで放り投げられるような扱いを受けていたじゃない? 何とも思わないの?」
「……奥様から見たらひどい扱いに見えるかもしれません。しかしわたしにとって、エルキュール様といられる時間は幸せだったのです。浮気男に振り回される女は不幸であるとか、不倫の対象とされる女は傷つくであるとか、そんな固定観念を押し付けないでください」
「なんですって……? 浮気され続けてきたこっちの身にもなってよ」
「奥様が心を痛め、苦しんでいるのは理解します。でも、エルキュール様に関わった女性がみんな傷つけられたと考えているなら、まったくの誤解です。それは、エルキュール様を悪者にしたいだけの、一面的な見方ですよ」
突然口数の増えたカサンドラは、私に対し、意識的なのか無意識的なのかわかりませんが、攻撃的な態度を示してきました。
(まさか、あんな身勝手男をかばうなんて……)
冷静に考えると、このような女性が存在していることもまた自然なのだと思いました。クズ女がいなければ、誰がクズ男を相手するというのでしょう。逆も当てはまります。生きている誰もが幸せになる権利があるのなら、クズ男にはクズ女、クズ女にはクズ男が存在していなければ、世界が成り立たないではありませんか。
「では、あなたは……夫の味方?」
カサンドラは即答します。
「当たり前です。奥様は、エルキュール様の妻という立場があるだけでも満足すべきだと思います。なのに、エルキュール様が他の女性に目移りすることすら許さないなど……旦那様に対して求めすぎでしょう」
「言いたい放題言ってくれるわね。じゃああなたは、もしエルキュールの妻になれるならなりたいとでも言うの?」
「なりたいです! たとえ愛がなかったとしても、わたしはエルキュール様の妻になりたい。どうしようもないほど、エルキュール様のことが好きなんです……。そうでなければ、身分を隠してまでエルキュール様に会うことなどしません」
カサンドラは辺境伯を父に持つ、由緒正しき家の生まれです。本来であれば、エルキュール伯爵が気楽に夜をともにできるお相手ではありません。信じられないことですが……どのような経緯があったのかもわかりませんが……カサンドラはエルキュールを愛していて、エルキュールのそばにいるために立場を偽っているようです。
カサンドラの目は、夢を見るような遠い輝きを放っていました。それはきっとある種の純粋な、しかし痛々しいほどの愛情の表れで、すべてが彼女なりの真実に基づくものであることを、私に思い知らせたのでした。
夫のことを心配しながら見つめていた貴婦人は、私に話しかけられてびくっとしました。夫に向けていた視線を私に移し、目が合いました。
間違いありません――私が夫に呼び出されたあの夜、夫の部屋にいた女です。ギャンブルで身を崩した父親を持つと夫が言っていましたが、嘘なのでしょうか。まばゆいばかりの高価そうなドレスを着ています。
女は無言、というより呆然としていたので、私が話を進めました。
「やっぱりあなたね……。この前、エルキュールの部屋で会ったの覚えてる? どうしてここにいるの? ただの平民ではなかったの?」
女は諦めたのか、自分の身の上を語り始めました。
「ご推察のとおりです……申し訳ありません。わたしの名前はカサンドラと申します。ダスティン辺境伯の娘です。今は王立学院の学生として、王都に来て生活をしております。晩餐会に参加するのは初めてです」
王都とは、王家の城を中心に広がる城下町と、それを取り囲む王家の直轄地全体を指します。カサンドラと名乗るこの女性は、王立学院の生徒ということなので、まだ成人もしていない独身女性ということになります。若さに似合わぬ大人びた雰囲気を持っていると思いました。
「教えてくれてありがとう、カサンドラ嬢。辺境伯のご令嬢ともあろうお方が、なぜあの夜、我々の城にいたのでしょう? 身分を偽っていたのですか? エルキュールはあなたの身分を知っているのですか?」
「いえ……エルキュール様はわたしのことを平民だと思っています……」
「嘘をついてエルキュールに近づいたということですか?」
「それは……言いたくありません」
しばらくの間、無言でした。
カサンドラは私と話している間も、ちらちらと夫のほうに目を向けていました。そして夫が完全にこの会場から去ると、鋭い目つきでにらんできました。
「奥様……どうしてエルキュール様にあんな酷いことをなさるのですか? エルキュール様がお可哀想……」
カサンドラが夫をかばうようにして言ったので、あまりの衝撃に聞き間違いかと思いました。王家に陳情書が届くほどの醜態を晒した愚かな夫のことが……可哀想……?
「あなただって、エルキュールに傷つけられた女性のうちの一人ではありませんか? その点については……ごめんなさい、うちの夫が……」
カサンドラは冷たい目をしたまま、眉間にシワを寄せました。
「傷つけられてなどいません……! わたしは自分の意思で、エルキュール様と一緒にいたのです」
「はあ……? ますますわからないわ。銀貨だけじゃなく……下着まで放り投げられるような扱いを受けていたじゃない? 何とも思わないの?」
「……奥様から見たらひどい扱いに見えるかもしれません。しかしわたしにとって、エルキュール様といられる時間は幸せだったのです。浮気男に振り回される女は不幸であるとか、不倫の対象とされる女は傷つくであるとか、そんな固定観念を押し付けないでください」
「なんですって……? 浮気され続けてきたこっちの身にもなってよ」
「奥様が心を痛め、苦しんでいるのは理解します。でも、エルキュール様に関わった女性がみんな傷つけられたと考えているなら、まったくの誤解です。それは、エルキュール様を悪者にしたいだけの、一面的な見方ですよ」
突然口数の増えたカサンドラは、私に対し、意識的なのか無意識的なのかわかりませんが、攻撃的な態度を示してきました。
(まさか、あんな身勝手男をかばうなんて……)
冷静に考えると、このような女性が存在していることもまた自然なのだと思いました。クズ女がいなければ、誰がクズ男を相手するというのでしょう。逆も当てはまります。生きている誰もが幸せになる権利があるのなら、クズ男にはクズ女、クズ女にはクズ男が存在していなければ、世界が成り立たないではありませんか。
「では、あなたは……夫の味方?」
カサンドラは即答します。
「当たり前です。奥様は、エルキュール様の妻という立場があるだけでも満足すべきだと思います。なのに、エルキュール様が他の女性に目移りすることすら許さないなど……旦那様に対して求めすぎでしょう」
「言いたい放題言ってくれるわね。じゃああなたは、もしエルキュールの妻になれるならなりたいとでも言うの?」
「なりたいです! たとえ愛がなかったとしても、わたしはエルキュール様の妻になりたい。どうしようもないほど、エルキュール様のことが好きなんです……。そうでなければ、身分を隠してまでエルキュール様に会うことなどしません」
カサンドラは辺境伯を父に持つ、由緒正しき家の生まれです。本来であれば、エルキュール伯爵が気楽に夜をともにできるお相手ではありません。信じられないことですが……どのような経緯があったのかもわかりませんが……カサンドラはエルキュールを愛していて、エルキュールのそばにいるために立場を偽っているようです。
カサンドラの目は、夢を見るような遠い輝きを放っていました。それはきっとある種の純粋な、しかし痛々しいほどの愛情の表れで、すべてが彼女なりの真実に基づくものであることを、私に思い知らせたのでした。
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