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二章 新しい自分
8-1 朝の甘露
しおりを挟む重い瞼を開けると、目の前には蜜希さんの顔があった。
「……え?」
至近距離で見える蜜希さんの顔に、思考が停止する。
「うわあっ!?」
声を上げ、起き上がる。咄嗟に口を押えて、蜜希さんを見る。
蜜希さんは少し身じろぎしただけで、目を覚ます様子はなかった。
(な、なんでここに蜜希さんが……!?)
バクバクと心臓が高鳴る。
俺は口元を抑えながら、状況を把握しようと視線を彷徨わせた。
此処は離れの二階の部屋。
今は俺が借りている部屋でもあり、蜜希さんの部屋では決してない。
蜜希さんといえば、離れに遊びに来ることはあっても、寝るときはいつもは本家の方で寝ている。
そんな蜜希さんがここで寝ているなんて。
「お、俺何かしたか……?」
今度は頭を抱える。予想外の事に中々思考が纏まらなかった。
(た、確か昨日は終わり掛けに来たお客さんに対応するのにバタバタして、帰りに蜜希さんと会って)
――そうだ。
オメガの子が通ったことがきっかけで、俺の話をしたんだ。
だんだんと思い出してくる記憶。
手足を引き寄せ――俺は静かに唸った。
「あ゛~~~……」
(なんで俺、あんな話を蜜希さんにしたんだよ)
冷静になって一番最初に思うのは、そんなことだった。
他人の家事情なんか話されても迷惑なだけなのに。
いや、そもそもオメガのフェロモンを嗅いだからって言って、心の底の嫌悪感を表に出すことなんて今までなかった。
(気が緩んでいたのか? それとも、疲れていたから?)
どちらにせよ、最悪な態度だったと思う。
俺は自分を庇うように腕を巻き付ける。
膝を抱え、腕で頭を覆うように項垂れる。
「何してんだよ、俺……」
自己嫌悪に顔が上げられない。
オメガの人に対して失礼なことをしたのもそうだが、何より蜜希さんに心の内を吐露してしまった自分が情けない。
大の男が、しかもアルファが何をやっているのか。
「……絶対にかっこ悪いと思われた」
大人な蜜希さんの事だ。
口に出さないだけで、子供っぽいとか絶対に思っているに違いない。
(……でも、蜜希さんは嫌がるどころか、俺に対して『頑張ったんだね』と言ってくれたんだよな)
その間もずっと励ますように、宥めるように背中を撫で続けてくれた。
思い出して、小さく息を吐く。
(そんなの、嬉しくないわけがないだろ)
欲しかった言葉をくれた蜜希さん。
間違いなく彼は俺にとって大切な人になった瞬間だった。
「これ、結構やばいかもなぁ……」
両手で口元を覆い、深く息を吐く。
辛いことを思い出して話したのに、残っているのは蜜希さんの優しさだけ。
無理に詰めて来ることはなく、かといって無関心じゃない。
過剰に関わって来るわけではなく、でも距離を置かれている感じはしない。
他人だけど、他人じゃない。
その距離感に、俺は心底安心してしまっている。
何なら、蜜希さんならもっと近づいて欲しいとすら思っている。
「……俺って、こんなんだったっけ」
もう一度息を吐き出し、俺は蜜希さんを横目に見る。
そこには未だ眠っている蜜希さんの寝顔があった。
(寝てるのに、見惚れそう)
いつもはニコニコと笑みを浮かべている顔が大人しいだけで、ドキドキしてしまう。
蜜希さんはよく眠っていた。
俺は顔の角度を少し変えて、蜜希さんの顔を覗き込んだ。
枕に押し付けられた白い頬が、僅かに押し上げられている。
(……可愛い)
長い睫毛も、ちょっとかさついた唇も、小さな鼻も。
見れば見るほど、目が離せなくなる。
(視線が吸い込まれるって、こういうことを言うのかもしれないな)
何て、少しキザだろうか。
「全く……蜜希さんのせいですよ」
布団に落ちている横髪を掬い上げ、耳に掛けてやる。
思ったよりも薄い耳は柔らかくて、肌触りが良かった。
つい手が蜜希さんの髪に差し込まれる。
思っていたより柔らかい髪に、心臓がきゅっと締め付けられた。
(こんな時間がずっと続けばいいのに)
そんな、ないものねだりをしてしまう。
いつの間にか、俺は蜜希さんの隣が居心地よくなっていたのだ。
「そろそろ百面相、終わった?」
「えっ?」
ふと聞こえた声に、俺は蜜希さんを撫でていた手を止める。
ギギギ、と音が立ちそうなほどぎこちなく振り返った。
合う視線に、全身の毛穴から冷や汗が流れ出た。
(見られてた……ッ!?)
「み、蜜希さん……!?」
「うん。おはよう、暁月くん」
くあ、と欠伸をする蜜希さん。
さっきまで寝ていた人間が動いていることに、俺はようやく状況を飲み込むことが出来た。
「お、おおおお起きてたんですかッ!? いつからッ!?」
「えっ? うーん、唸り声を上げ始めた時から?」
「結構前じゃないですか!」
「な、なんで言ってくれないんですか!」と声を上げれば「その反応が見たくて?」と返された。
そういう蜜希さんの顔は、心底意地悪そうだった。
全身が熱くなる。
「いい反応するね、本当」
「っ、揶揄わないでくださいっ」
「今何時?」
「聞いてます!?」
マイペースな蜜希さんに、俺はもう羞恥と罪悪感でいっぱいだった。
(さ、最悪だ……!)
百面相していたところも、唸っていたところも見られていた。
何より、蜜希さんを撫でていたのが本人にバレていたのが恥ずかしい。
「四時ちょっと前か……思ったより早く起きちゃったな」
「み、蜜希さん」
「うん?」
時計を見上げていた目が俺を見る。
無垢な蜜色の瞳に、きゅっと息を飲む。
「その、すみませんでした」
「何が?」
「……頭、撫でてしまって」
蜜希さんは何も言わない。
それが余計に恐ろしい。
(で、でも普通他人に勝手に撫でられて、気持ち悪くないわけがないだろ)
俺なら相手の手を思いっきり叩き落すだろう。
そもそも人前で無防備になるようなことはしないが。
「うーん、びっくりしたけど、僕は嫌じゃなかったよ」
「えっ」
「僕、元々髪触られるの嫌いじゃないからねぇ」
その言葉に、俺は時間が止まる。
(触られるのが嫌いじゃないって……)
「あ。もちろん、人は選ぶよ? 仲がいい人は別っていう話」
「あ、ああ……」
「僕、そこまで尻軽じゃないからね?」
蜜希さんの言葉に、俺はぎこちなく頷く。
疑っているわけではない。
ただ、『嫌じゃなかった』『触られるの嫌いじゃない』という爆弾発言に、衝撃を受けているだけで。
(つ、つまり、俺は触ってもいいってこと……?)
社交辞令かもしれない。
俺の気持ちを慮ってくれたのかもしれない。
でも、好意を持っている人間からああ言われたら、誰だって都合よく考えてしまうだろう。
俺だってそうだ。
欲を持った人間の前に餌をぶら下げて、食い付かないわけがない。
「……蜜希さん」
「なぁに?」
「も、もうちょっとだけ、撫でさせてもらっても、いいですか?」
心臓が緊張で張り裂けそうになる。
俺は拳を握りしめながら、蜜希さんに問いかけた。
蜜希さんはキョトンとして俺を見ている。
「……僕の事、撫でたいの?」
「は、はい」
「ふーん?」
蜜希さんはそう言ったあと、何かを考えるように空を見た。
(やっぱり、社交辞令だったのか……?)
もしそうなら、俺は完全に痛い勘違い野郎だ。
(その時は離れの裏に埋まろう)
俺は混乱の末、とんでもないことを決意していた。
「うーん」
「あ、あのっ、嫌なら全然っ……! 寧ろ変なこと聞いてしまって、そのっ、すみませんっ」
「ああ、嫌なわけじゃないんだけどね? 僕、昨日お風呂入り忘れちゃったから、お風呂の後の方がいいかなって思って」
「えっ」
予想外の言葉に、今度は俺が面食らう番だった。
「さっき触った時、気持ち悪くなかった?」と言われ、俺はブンブンと首を横に振る。
「ぜ、全然! 気付かなかったくらいには気持ちよかったです!」
「ふーん。僕の髪、気持ちいんだ?」
「あ゛っ!」
ブワッと全身に火が付く。
俺は咄嗟に顔を覆った。
蜜希さんのニヤニヤした顔が指の隙間から見える。
(やられた……!)
「っ、騙し討ちは卑怯ですよっ」
「人聞きが悪いなぁ。ていうか、騙してないからね? 君が勝手に自爆したんだからね?」
「事実を言ったらダメです、蜜希さん」
自分が不甲斐なさ過ぎて埋まりたくなるから。
そう告げれば、「うちの庭に人の顔の花はいりません」と真顔で断られてしまった。
「というわけで、先にお風呂入ってきていい?」
蜜希さんがすくっと立ち上がる。
切り替えの早さと、見えた蜜希さんの白い肩に、俺は息を飲む。
寝ている間に作務衣が緩んでしまったのだろう。
ぎこちないまま「ど、どうぞ」と告げれば「ありがとう」と微笑まれた。
朝日に照らされた蜜希さんの笑みが、心臓に突き刺さる。
また新たらしい顔が、脳裏に刻み込まれた瞬間だった。
「……本当に、あの人は心臓に悪い」
しばらくして俺は大きく息を吐き出し、手で顔を覆う。
蜜希さんに触れた手から、微かな蜜の香りがする。
数分後。
お風呂から上がり、髪を乾かした蜜希さんが「お待たせ」とやって来た。
俺はその時初めて、蜜希さんが自分の為にお風呂に入り、撫でられる準備をしたのだと気が付いた。
「っ、蜜希さん! ちょっとは危機感を持ってください!」
「なんで俺怒られてんの?」
結局、俺は蜜希さんに触れられないまま、朝ごはんの時間になっていた。
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