逃げた先に、運命

夢鴉

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五章 アルファの家系

32-1 うさぎは幸せの象徴

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 目を覚ますと、目の前にうさぎがいた。

「……え?」

 黒い毛の色を兎は、じっと俺を見つめている。
 きゅるんとした青い瞳がとてもキュートだ。

「あれ。起きたんだ。おはよう、暁月くん」
「み、蜜希さん……?」

 あれ。何でうさぎから蜜希さんの声がするんだ?
 俺が知らない間に、蜜希さんはうさぎになってしまったのか? え、それってすごく大変じゃないか?

 上手く回らない頭で、俺は状況を把握しようと努める。
 ガンガンと響く痛みと吐き気に邪魔されながらも、「どうして、うさぎに……?」と問いかけた。
「何言ってるの」と蜜希さんがひょっこり顔を出す。あれ。

「いる……?」
「僕はずっとここにいるけど……なあに。もしかしてまだ寝ぼけてるの?」

 両手に何かを持ちながら歩いて来る蜜希さん。相変わらずエプロン姿が輝いている。
 俺はやはりうまく回らない頭で「おはようございます」と呟いた。

「いや……えっと、はい……」
「誤魔化さないんだ」

 ふふ、と笑う蜜希さん。
 朝から眩しい笑顔である。あまりの可愛さに世界が一気に平和になるんじゃないか。
 いや、絶対になってる。確実になっている。
 少なくとも、俺の心の中は盛大に素晴らしい朝を迎えている。

「好きです、蜜希さん」
「そろそろ暁月くんの鳴き声に聞こえて来たなぁ。それ」

 蜜希さんは少しおかしそうに笑う。

「起きれる? お昼ご飯作って来たけど」
「えっ? 作って……くれたんですか……?」
「うん。うちの酔っ払いに大好評のうどんだけどね」

 蜜希さんがお盆を掲げる。そんなもの、食べないわけにはいかないだろう。
 むしろ汁だけでもいい。蜜希さんが用意してくれたものなら、三ツ星レストランも目じゃない。

「……暁月くん、なんか変なこと思ってない?」
「そんなことないです」

 俺は有難く器を受け取ると、両手を合わせて箸を伸ばした。
 ベッドの上でなんて行儀が悪い。なんて言葉が頭を過るが、そんな些細なことはどうでもいい。

 蜜希さんはベッドの縁に座り、微笑ましそうに俺を見ていた。
 とても優しい目で、幼い頃に一度だけ母親に看病されたときのことを思い出す。

「そういえば、暁月くん。今日は大学ないの?」
「え?」
「もうお昼になるから、大丈夫なのかなーって」

 ちゅるんとうどんを吸い込んで、俺は固まる。

「……今、なんて?」
「え?」

 きょとんとする蜜希さん。俺は背中に冷や汗が流れていくのを感じる。

「『お昼になるから大丈夫かなって思って』?」

(――昼ッ!!?)
 俺は今度こそ時計を振り返った。
 勢いが良すぎて殴られたような鈍痛が頭に走るが、そんなの気にしている場合じゃない。

 ――現在の時刻、十一時四十八分。
 今日の大学は三限からなので、十三時には講義が始まる。
 そして大学まではここから徒歩と電車で三十分はかかる道のりだ。

 つまり、時間はあるようで、ない。

「遅刻ッ……!」

 俺は勢いよく立ち上がった。
 瞬間、ばしゃっとうどんの汁がかかる。やらかした。何をしているんだ、俺は。

「あーあー、もう。何してるのさ」
「す、すみませんっ! でもっ、その、時間が……ッ!」
「はいはい、いいからちょっと落ち着いて」

 蜜希さんは「ちょっとそのままで待っててね」と部屋を出てしまった。
(嘘だろ!?)
 俺は片手にうどん、片手に箸を掲げ、立ち尽くす。零した汁で濡れた服はそこそこ熱く、冷えるまで動くことも出来ない。

 こうしている間にも、刻一刻と時間は過ぎている。
 焦りと二日酔いの不快感が、一気に押し寄せてくる。

(せ、せめて食器を置こう)
 ぎこちなく動き、ベッドサイドを振り返る。
 いつの間にか、そこはうさぎに占領されていた。
(嘘だろ……!)
 二回目の絶望である。

 ていうか、なんでここにお前がいるんだ。
 お前は蜜希さんの部屋にいるんじゃなかったのか? それとも、蜜希さんがわざわざ持ってきたのか? 何故?
(いや、嬉しいけど)
 旅のお供にしてくれるほど気に入ってくれたのなら、すごく嬉しいけど。

 うどんの香りを身に纏った俺が喜びに打ち震えるという、謎のシチュエーションのまま立ち尽くしていれば、ようやく蜜希さんが戻ってくる。
 手にはタオルが握られており、俺は彼が部屋を出て行った理由を理解した。

「あ、ありがとうございます。えっと……み、蜜希さん?」
「はーい、そのまま動かないでねー」

 うどんを渡そうと手を下げる俺。しかし、蜜希さんはタオルを手にしたまま、俺の前にしゃがみこんだ。
 そしてあろうことか、蜜希さんは俺の服を持ってきたタオルで拭き始めたのだ。

「ちょっ……!?」
「こら。動かないでってば。僕もうどんの汁まみれにするつもり?」

 蜜希さんの叱咤の声が飛ぶ。俺は動くのをやめ、ただ蜜希さんを見下げていた。
(いや、いやいやいや……)

 なんだ、この状況は。なんなんだ。
 腹部にかかった汁を拭っていく蜜希さん。ただそれだけのことなのに……場所が場所だからか、邪なことが頭を過る。しかも相手が蜜希さんなら、猶更だ。

(まずい、勃ちそう)
 俺は必死に視線を逸らそうとした。しかし、目の前にある魅惑の光景を完全に見ないなんてことは出来るわけもなく。
(そうだ、大学の講義を思い出そう)
 経営学の理念を頭に過らせながら、必死に平静を保つ。

「暁月くん、なんか目が怖いんだけど、どうかした?」
「いえ。ナンデモナイデス」

 心ここにあらずな俺に気付いたのか、蜜希さんが首を傾げる。俺は無心で首を振った。
 視線を下げるな。意識を飛ばせ。自身が正常であるために。

 ひいては、蜜希さんにどん引きされないためにも。

「……蜜希さん。もう、大丈夫なんで。とりあえず着替えてもいいですか」
「うん? あ、そうだね」

 そっちの方が早いか、と蜜希さんが呟く。
 ようやくうどんと箸を回収してくれ、俺は一目散にトイレに駆け込んだ。この状況ですることなんて、一つしかない。

「ごめんなさい、蜜希さん……っ!」

 罪悪感で死にそうだ。
 蜜希さんは善意でやってくれただけなのに。

 手早く処理を済ませ、俺はトイレから飛び出す。自室に戻って、早着替えのように服を新しいものに変えた。
 脱衣所の鏡で軽く身なりを整える。その間に汚れた服は洗濯機だ。

 アルファとして行く以上、身だしなみは必須だ。
 弱みになりそうなところは出来るだけ潰していきたい。
 リビングに戻れば、少し冷えたうどんと箸が置かれたままだった。

「おかえり。食べる時間ある?」

 蜜希さんの問いに、俺は時計を見る。いつの間にか十二時を過ぎていた。
(あと三十分……十分前には講義室に入っておきたい)
 大学内を走ったとして、五分ちょっと。余裕は――――。

「食べます」
「そう? 時間大丈夫なの? 無理なら僕が食べるけど」

 蜜希さんの申し出を、俺は丁重にお断りした。
 彼の料理を残すなんて、その日地球が滅亡するとしても許されることじゃない。
 俺は「大丈夫です」と告げ、席に着く。両手を合わせ、うどんを啜った。

 残りのうどんを掻きこみ、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「お粗末様でした」という蜜希さんは、錠剤と水を手に持っていた。

「それは?」
「酔い止め。二日酔いに効くかはわからないけど、飲んでおいて損はないと思って」

 俺は有難く受け取った。
 錠剤を飲み込み、席を立つ。速足で玄関に向かえば、蜜希さんは付いて来た。

 靴を履いていれば、蜜希さんはじっとそれを見つめている。
 もの言いたげな視線に、俺は首を傾げた。

「どうしたんですか?」
「あ、いや。その……」

 蜜希さんは言い淀む。俺は催促することなく、彼の言葉を待った。
 蜜希さんは俺が急いでいるのを察してか、すぐに気持ちを固めたようで、顔を上げる。

「暁月くんって、その……昨日の夜の事、覚えてる?」
「昨日の、こと?」

 彼は頷く。
 出て行く直前に言われるにしては不穏極まりない問いかけに、俺は体を強張らせた。

「い、え……覚えてない、です」
「そっか……」
「えっ。お、俺、何かしちゃいました?」
「いや、ううん。大丈夫」

 何もしてないよ、と蜜希さんが笑う。いや、今の流れで信じられるわけがない。
 全身から血の気が引いていくのを感じる。
 どうしよう。蜜希さんに何かしていたら、俺は自分を許せる気がしない。

 真っ青になる俺に、蜜希さんは「大丈夫だから、本当に」と念を押してくる。

「それよりほら、時間ないよ? 大丈夫なの?」
「いや、大学より蜜希さんの方が……」
「僕のために大学をサボるつもり?」

 俺は肩を揺らす。
 蜜希さんは不服そうな顔で俺を見ていた。そんなことされても嬉しくない、と言わんばかりだ。
(でも……それじゃあ……)

「暁月くん」
「……はい」
「いってらっしゃい」

 俺は背中を押される。……ここまでされたら、行くしかない。

「いって、きます」
「うん。あ、街風谷くんにお礼、言っとくんだよ」
「へっ? 匠海?」
「昨日、暁月くんのこと、街風谷くんが運んでくれたんだから」

 玄関が閉まる直前、言われた言葉に俺は瞬きを繰り返す。
 ああ、だから昨日のことを聞かれたのか。

「わかりました」
「それじゃあ、今度こそ行ってらっしゃい。あ、今日は鍋の準備してるから。早く帰って来てね」

 パタンと閉まる、扉。
(……今、一気に行きたくなくなったんですけど)

 顔を覆い、俺は大きく息を吐く。
 顔が熱い。喜びに否応なしに心が跳ねてしまう。
 やっぱり好きだな、と思いながら、俺は走り出した。

 ――乗る予定の電車まで、あと五分。
 全力で走ればどうにか間に合うだろう。
(そういえば昨日、潰れる前に変なことがあった気がするんだけど……)

 なんだったっけ。
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