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五章 アルファの家系
36-1 深呼吸をして
しおりを挟むバクバクと心臓が脈を打つ。
あまりにもうるさいので、自分の心臓が両耳に移動したんじゃないかとすら錯覚してしまう。
「大丈夫? 暁月くん」
「えっ」
「顔色、悪いけど」
蜜希さんが俺を見つめ、心配そうに顔を歪める。
俺は「大丈夫です」と笑みを作りながら答えた。
車は静かに街の中を走って行く。
エンジンの音も、車のタイヤの音も聞こえない。
(……これが少し前までは普通だったんだよな)
蜜希さんの元で過ごしていた時、車内の音に驚いたのを覚えている。
エアコンの音も、タイヤがコンクリートを滑る音も、エンジンの音も、全部聞こえる。それが新鮮で――ちょっと楽しかった。
(あの時は、本当によかった)
脅かされることのない日々。
責任のない日々。
自分の存在も、アルファという立ち位置も捨てる事が出来た。
優しくて、穏やかで……兄さんが『ぬるま湯』と言っていたのが、今になって痛いほどわかる。
「暁月くん、大丈夫? 汗すごいけど」
「大丈夫です。それより、蜜希さんこそ大丈夫ですか? 酔ったりしてませんか? 覚の運転は荒いですし、もし気持ち悪くなったら言ってくださいね」
「これ以上ないくらい丁寧だと思うけど……って、そうじゃなくて」
「下りたいですか? いいですよ、覚。車止めろ」
「暁月くーん? 僕の声、聞こえてるー?」
蜜希さんの間延びしたような声に、俺は口を尖らせる。
「覚さん? を困らせたら駄目でしょ」と蜜希さんに言われる。
これくらい言ったところで、覚は聞いちゃくれないことはわかっている。蜜希さんは本当に優しい。
俺は蜜希さんの手を取った。
「蜜希さん。蜜希さんのことは、俺が絶対守るので。向こうに着いたら絶対に俺の傍から離れないでください」
「ふふふ、何それ。随分大袈裟だね?」
「大袈裟なんかじゃないです」
蜜希さんの手を握る。
細く、やわい手指。でも、ちゃんと男だとわかる手をこれでもかと強く握りしめる。
蜜希さんが「痛いよ、暁月くん」と笑うので、ちょっとだけ緩めた。
(この手がどれだけ優しく周りに触れるのか、俺は知っている)
そんな人が、これから傷つけられに行くのだと思うと、苛立ちと心苦しさが綯い交ぜになって襲い掛かって来る。
流れていく景色が、だんだんと見慣れたものになっていく。
目的地にはあと十分もせずに着いてしまうだろう。
(……本当に、会わせて大丈夫なのか)
俺が引き留めるべきなんじゃないだろうか。
ここで反抗して、蜜希さんを守るのが最適なんじゃないだろうか。……今更そんなことが頭を過る。
「……祖父は昔気質のアルファ主義なんです。蜜希さんがアルファじゃないと知ったら、きっと……いえ、絶対に嫌な思いをすることになるでしょう。会話は出来ないと思ってください」
「ふぅん。オメガ嫌いなの?」
「そういう、わけではない……と思う、んですけど」
それでも、オメガに対して前向きな感情を持っているところを見たことがない。
俺はわからない、底のない泥沼を前にしたような気持ちになった。
正体がわからない物ほど恐ろしく感じるのは、人間の生存戦略故だと、聞いたことがある。
「容赦のない相手には、容赦しなくていいんです。同時に、理解できない人間を理解しようとするのも、駄目です。蜜希さんの心が削れてしまいます」
「でも、理解しようとしないと理解し合えないと思うけど?」
「祖父に限っては、そんな優しさは不要です」
蜜希さんは何も言わなかった。
でも、向けられる視線が真剣に俺の話を聞いてくれているのがわかる。
俺はいつの間にか詰めていた息を吐き出した。心に詰め込んでいたものがビー玉のように小さく丸くなって、ぽろぽろと零れていく。
「お願いですから、俺の傍を離れないで。嫌だったら嫌だって知らせてください。どんなやり方でも構いません。手を握るでも、足を蹴るでも、なんでもいい。蜜希さんを傷つけたくないんです」
「暁月くん」
「蜜希さんは自分を守ることを最優先に考えてください。……いいですね?」
俺は知らないうちに蜜希さんの両肩を掴んでいた。
シートベルトが伸び、肩が引っ張られる。それでも、止めようとは思わなかった。
蜜希さんを強く見つめる。
彼は少し間を置いて「……そっか。わかった」と呟いた。
「暁月くんの傍から離れない。体調も、悪くなったらいうね」
「はい。絶対に」
車の速度が落ちていく。
景色の流れる速さもゆっくりとなり、窓の外には一つのホテルビルが見える。
蜜希さんが少し驚いたように目を見開いたが、それも一瞬のこと。
「流石暁月くんの家だね」と苦笑いを零した。
それもそうだろう。
連れて来られたのは、AKATSUKIグループの中でも中級レベルのホテルだった。とはいえ、一泊で数万が飛ぶレベルのホテルだが。
スイートになれば、半年前には予約しないと入ることが出来ないのは当然。
一流のサービスとビュッフェを楽しむことが出来る上、アルファが良く使うようなホテルでもある。
しかし、それ自体はどうってことない。
(此処、いつものビルじゃない?)
俺は蜜希さんとは違う点で、違和感を覚えていた。
祖父はいつだって俺を呼び出す時、最上級のホテルビルに呼びつけていた。
というのも、そこが事務所を兼任しているからであるだけなのだが。
それがこのタイミングで別の場所を指定してきている。……違和感を覚えないわけがない。
考えが纏まらないまま、車はエントランス前に停止した。
待機していた黒服に、覚がキーを渡す。
俺たちが乗っていた後部座席のドアが、もう一人の黒服によって開かれる。
入ってくる冷たい空気に、俺は思いっきり眉を寄せた。
「お二人とも、どうぞ」
「……」
覚が「お疲れ様です」と仰々しく頭を下げる。
俺は車を降りた。
蜜希さんに手を差し出す。なんの躊躇いもなく握られ、蜜希さんが車を降りると黒いベンツは駐車場へと走り去ってしまった。
流れるようにビルの中へと案内される。
相変わらず悪趣味なほど整えられたエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。
今度は覚も蜜希さんも一緒だ。
彼が最上階のボタンを押せば、エレベーターはゆっくりと上がっていく。
ふと、階を上がるごとに、蜜希さんの身体が強張っているのに気が付いた。
顔が青い。繋いだ手が震えている。
「蜜希さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。ちょっと、アルファの匂いがきつくて……」
此処は中級とはいえ、上流層のアルファも使うホテルだ。
俺以外にもかなりの数のアルファがいるのは当然で、その中には強いフェロモンを持つアルファがいても可笑しくない。
(蜜希さんは番を持ってるから、余計に匂いに敏感なのか……!)
口元を手で覆い、苦しそうにする蜜希さん。
どうしよう。どうしたらいい。
「っ、暁月、くん」
「はいっ、どうしましたか」
「うわ、ぎ」
うわぎ? ……上着か?
予想外の言葉に困惑している中、蜜希さんの手が俺のジャケットを掴む。
ぐっと、思った以上に強い力だった。
(ああ、そうか)
俺と蜜希さんは、運命の番だ。
それを知っているのは俺だけだけど、蜜希さんの本能は知っている。
本当の番じゃないとはいえ、俺の匂いで気休めになるなら。
それが一番いい。
俺はジャケットを脱ぎ、蜜希さんの頭から被せた。
一瞬拒否反応を起こすんじゃないかという不安が過ったが、今は臆病になっている場合じゃない。
ジャケットの上から強く抱きしめる。
「蜜希さん、深呼吸して」
「っ、あ、かつき、く……」
「大丈夫。俺がついていますから」
ポンポンと頭を撫で、背中を擦る。
蜜希さんは荒い呼吸の間際で深呼吸をした。
少しずつ収まっていく。
穏やかになっていく呼吸にほっとしたのも束の間、ポーンとエレベーターが目的地に着いたことを報せた。
「……蜜希さん」
「……ん、ごめんね。もう大丈夫」
行こう。
蜜希さんは真っ青な顔で、気丈に笑う。
俺はその横顔を見て、拳を握りしめる。
つらいだろう。
苦しいだろう。
それなのに、
(俺なんかの、ために……)
そう言ったら蜜希さんはきっと否定するだろう。
彼は優しいから。
(……蜜希さんを好きになって、良かった)
彼の背中に奮い立たせられる。
負けじと背筋を伸ばして、俺たちはエレベーターを降りた。
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