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子爵夫から使用人へ
しおりを挟む20歳になった俺は、デビュタントの会場にいた。
年下の娘たちにはあまり興味はなかったが、将来の愛人候補くらいにはなるかもしれない。そんな軽い気持ちで、品定めをしていた。
その中に、1人だけ目を引く娘がいた。銀の髪に、透き通るような肌。大人びた瞳と、どこか冷めた微笑み。周囲の令嬢たちとは明らかに違っていた。
誰だ、あれは──そう思って父に尋ねた。
「お前の婚約者だ」
呆れたように言われて、ようやく思い出した。
ああ、そんな話があったな、と。
本来なら、俺がドレスを贈り、エスコートするのが礼儀だというのはわかっていた。
だが、向こうから何の連絡もなかったし、初対面がデビュタントというのも気まずいだけだろうと思った。だから罪悪感は、あまりなかった。
ただ、妻が美人に越したことはない。悪くないな──その程度の認識だった。
その後も、俺は放蕩をやめなかった。侯爵家の名と顔立ちを武器に、常に複数の愛人を抱えていた。
夜会、舞踏会、狩猟会──どこに行っても女は寄ってきたし、俺もそれを当然のように受け入れていた。
まさか、婚約者が浮気現場を見ていたとは思いもしなかった。
デビュタントから3年が経った頃、ジュヌヴィエーヴが学園を卒業し、爵位を継ぐことになった。
この国では、女性も爵位を継げる。ただし、独身ではいけないという決まりがある。
彼女の父は仕事嫌いで、領地経営にも興味がなかった。少しでも早く引き継いでほしいと、結婚を急がせたらしい。
結婚するのに1度も話したことがないというのは、流石にまずいと思った。
俺は婚約者に面会を申し込んだ。せめて顔を合わせて、挨拶くらいはしておこうと。
だが、返ってきたのは執事を通じた断りの言葉だった。
「式の準備と引き継ぎで忙しい、とのことです」
それだけだった。冷たくもなく、怒りもない。ただ、淡々とした拒絶。
そのときは、ああ、そうかと軽く受け流した。どうせ結婚なんて形式的なものだ。顔を合わせるのは式の当日で十分だろうと、自分に言い聞かせた。
だが今、こうして暗い小屋の中で寝転びながら思う。あれは、最初から拒絶だった。俺に会いたくない、話す価値もない──そういう意思表示。
気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。
俺は、何を見ていたんだろう?
結婚式当日、ようやく彼女と顔を合わせた。
ジュヌヴィエーヴは、あのデビュタントのときよりもずっと大人びていた。幼さが抜け、銀の髪を結い上げた姿は、まるで氷の彫像のように美しかった。
だが、その瞳はどこか遠く、俺を見ていないようだった。
式は簡素だった。
そして、誓いの言葉で違和感が走った。
「エドリック・アッシュコーム。あなたは夫として、妻に尽くしますか?」
……ん? “健やかなる時も病める時も”じゃないのか? 妙に短い……。
だが、式の形式なんてどうでもいい。
俺はとりあえず「はい」と答えた。
続いて、牧師が彼女に向かって言った。
「ジュヌヴィエーヴ・ダルシー。あなたは妻として、夫を扶養しますか?」
扶養? なんだそれは。そんな言い回し、聞いたことがない。
驚いて彼女を見たが、ジュヌヴィエーヴは微動だにせず「はい」と答えた。
その後、誓いのキスも、指輪の交換もなかった。拍子抜けするほど、あっさりと式は終わった。
披露宴の間も、彼女はほとんど口を開かなかった。必要最低限の言葉だけ。目も合わなかった。
そのときになって、ようやく気づいた。ああ、こいつは怒っているのだと。
だが、もう結婚したのだ。一緒に暮らしていれば、いずれ情も湧くだろう。そもそも女など、抱いてしまえば俺に従うものだ。
そう、簡単に考えていた。
まさか、物置小屋に入れられるなんて、思いもしなかった。
今になって振り返れば、すべてが繋がる。
1度も会わず、手紙のやり取りもせず、プレゼントも贈らず、デビュタントも無視し、他の女と好きなだけ遊び、そして変装していると知らずに暴言を吐いた。
そんな男と、誰が夫婦になりたいと思うだろう。
しかも俺は三男で、婿入りしなければ爵位も名も失う立場。更に実家は、彼女の家からの融資で持っているようなものだ。
普通に考えれば、こちらが捨てられないよう最善を尽くすべき相手だった。
だが、俺は侯爵家の出だ。金と引き換えに、子爵ごときが侯爵家と繋がれたのだから、それで充分だろうと驕っていた。
その結果が、これだ。
ランプの光が差し込んだ。扉の下の開口部から、食事が滑り込んでくる。木の皿に、いつもと同じような薄いスープと硬いパン。
俺はそれを見つめながら、丸1日、過去のことを考えていた。
どうしてこうなったのか。どこで間違えたのか。
いや、間違いだらけだった。思い返せば、後悔しかない。
ああ……今、言うべきか。
喉まで出かかった言葉を飲み込んでいるうちに、使用人は無言で立ち去ってしまった。
使用人になる、と言うしかない。それはわかっていた。自分のせいだ。
けれど、口にするのが怖かった。認めるのが、悔しかった。
そうして3日が過ぎた。ようやく、俺は言った。
「……使用人に、なる」
その言葉に、メイドは少しだけ目を細めた。
「食事が終わったら、ドアを開けます。噴水で体を洗ってください」
誰もいない夜の中庭。噴水の水音が、静かに響いていた。
俺は服を脱ぎ、冷たい水に身を沈めた。
ザブザブザブザブ。
水面が黒く濁っていくのが、はっきりとわかった。髪から、肌から、服から、何かが剥がれ落ちていく。
寒さで歯が鳴ったが、それでも気持ちよさの方が勝った。
恐らく、汚れすぎて屋敷のバスタブに入れられないのだろう。だが、それでもいいと思えた。
1通り洗い終えると、使用人がタオルと着替えを差し出してきた。平民が着るような、安い布の服だった。けれど、袖を通した瞬間、胸が熱くなった。
与えられたのは、使用人部屋の1つ。狭く、質素な部屋。だが、柔らかい布団と、清潔な枕。
半年ぶりに、ベッドで眠った。
涙が、勝手にこぼれた。
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