冷遇された入り婿は後悔する──10年後の再会と精算──

星森 永羽

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転落し続ける──再起

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 それからというもの、俺は怯えるようになった。

 誰かが背後に立つたび、声をかけられるたび、心臓が跳ねた。
 殺されるかもしれない……。
 あの茶会の言葉が、頭の中で何度も反響する。

 だが、逃げるのは簡単じゃなかった。屋敷の門には私兵が立ち、外に出るには許可が必要だった。俺は今、ただの使用人。勝手な外出など許されるはずがない。

 そんなある日、裏庭で薪を運んでいると、先輩の使用人が駆け寄ってきた。

「おい、グレイヴナー商会が大火事で取引が中止になった。急いで各所に知らせないとならない。
 お前は、ローデン家とヴァルク商会、それから聖堂の管理局に行ってくれ!」

 俺は目を瞬いた。

「火事? ……俺が?」

「そうだよ。元貴族のお前が行ったほうが話が早いだろ。顔も知られてるしな。頼んだぞ」

 ──元貴族。
 そう言われて、唖然とした。

「ボケッとするな、早く行け!」

 先輩に背中を叩かれ、俺は慌てて屋敷を飛び出した。


 久しぶりの外の空気。陽射しが眩しく、石畳の道がやけに広く感じた。だが、心は晴れなかった。
 逃げるなら、今しかない。
 そう思いながらも、まずは言われた通りに貴族の顧客の家を回った。

 ローデン家の門番に名を告げると、すぐに通された。
 だが、応対に出てきた若い当主は、俺の顔を見るなり、あからさまに口元を歪めた。

「……ああ、アッシュコーム侯爵家の三男坊。今は使用人をしているとか?」

 皮肉たっぷりの声。使用人の服を着た俺を、上から下まで舐めるように見て、笑った。

「で、今日は何の用かな? まさか、物乞いじゃないだろうね?」

 俺は唇を噛みしめながら、用件だけを伝えた。頭を下げ、礼を言い、足早にその場を去る。

 何で、こんな目に……。

 確かに、俺は酷い婚約者だった。だが、ここまでされるほどのことだったか?
 あの夜の言葉、あの無関心、あの放蕩。全部、俺が選んだことだ。それでも──。

 このままだと、殺されるかもしれない。

 俺は、足を止めた。見上げた空は、どこまでも青かった。

 ……実家へ行こう。

 アッシュコーム侯爵家なら、まだ俺を“息子”として扱ってくれるかもしれない。そう思いたかった。



 実家の門をくぐったのは、何年ぶりだっただろうか。
 助けが欲しかった。ただ、それだけだった。

 応接間に通され、しばらくして父が現れた。開口一番、拳が飛んできた。

「この馬鹿者がッ!」

 頬に焼けるような痛みが走る。床に倒れ込んだ俺を、父は見下ろして怒鳴った。

「お前のせいで、うちがどれだけ恥をかいたか分かってるのか!
 ダルシー子爵家との婚姻だって、もともとは投資だったんだぞ。それが、お前の素行のせいで“貸付”に変わったんだ!」

 ……貸付?

「それでも、婚約破棄されて慰謝料を取られるよりはマシだから、頭を下げて結婚してもらったんだ! それを……!」

 知らなかった。そんな話、1度も聞いていない。

 俺は学園を卒業してすぐ、騎士団の寮に入った。家に戻ることもなく、親と話す機会もなかった。
 結婚のことも、すべて“決まっていたから”従っただけだった。

 父は顔を背け、吐き捨てるように言った。

「2度と帰ってくるな。うちの名を、これ以上汚すな」

 そのまま、俺は屋敷の外へ放り出された。

 門前で呆然としていると、兄がやってきた。長男のアラン。昔から俺に厳しかったが、今はその目に、哀れみすら浮かんでいた。

 彼は懐から金貨の入った袋を取り出し、俺に投げ渡した。

「いいこと教えてやるよ。
 お前、もう戸籍上では貴族籍を外された“平民”なんだ。公表してないだけで、実質、奴隷と変わらない」

 俺は言葉を失った。
 そう言えば"元貴族"と言われたのだった。

「だからな、例え殺されかけて騎士団に訴えたって、誰も動いちゃくれない。お前には、もう“守るべき身分”がないんだよ」

 アランは肩をすくめ、背を向けた。

「じゃあ。達者でな」

 金貨の重みが、手のひらにずっしりと残った。

 除籍されていた。つまり、俺はとっくに“離婚されていた”のだ。両親も、それを金のために黙認していた。

 兄貴は、俺が殺されるだろうとわかってるんだな。だから、せめてもの餞別に金貨をくれた。



 兄からもらった金貨を握りしめ、俺は街へ出た。まずは身なりを整えた。貴族らしい服を買い、髪を整え、靴を磨いた。
 鏡に映る金髪碧眼の美男は、かつての“エドリック・アッシュコーム”に近づいていた。

 それから、かつての愛人たちの家を回った。夜会で笑い合い、ベッドを共にした女たち。だが、誰も俺を迎え入れなかった。

「今さら何の用?」  
「あなた、もう“使用人”なんでしょ?」  
「うちの夫に知られたら困るの」

 扉は閉ざされ、笑顔は消えていた。

 そんな中、1人だけ、手を差し伸べてくれた女がいた。アレッサンドラ侯爵夫人。年上で、かつて俺が“遊び”のつもりで近づいた女。

「うちにいらっしゃいな。あなた、今は行く場所もないのでしょう?」

 俺は縋るように頷いた。
 ジュヌヴィエーヴは女子爵。アレッサンドラは侯爵夫人。立場の上下がある。彼女に庇われれば、妻も手出しはできない。
 これで命は助かった。そう思った。

 だが──

 目が覚めたとき、俺は馬車の中にいた。手足は縛られ、口には猿轡。外の景色は見知らぬ山道。揺れる車輪の音が、やけに遠く感じた。

 辿り着いたのは、隣国の娼館だった。

 売られたのだ。俺は、商品になった。

 だが、意外なことに、地獄ではなかった。

 見た目が“商品”である以上、扱いは丁寧だった。栄養のある食事、肌の手入れ、適度な運動。高級な服を着せられ、接客の作法や手管も教育された。

 そして何より、俺は元々、遊び人だった。女の扱いには慣れている。言葉の選び方、視線の使い方、触れ方。すべて、昔の夜会で学んだことだ。

 気づけば、俺は“売れっ子”になっていた。

 そしてある日、1人の上客に身請けされた。貿易会社を率いる女社長。冷静で、頭の回転が速かった。

 彼女の秘書として働くようになった。書類の整理、接待の補佐、ベッドの相手も。
 だが、俺はそれを苦に思わなかった。むしろ、心地よかった。誰かの役に立っていると感じられることが、こんなにも救いになるとは思わなかった。

 だが、幸せは長くは続かなかった。

 彼女の夫にバレたのだ。

 俺は、身ひとつで屋敷を追い出された。金も、服も、何もかも置いて。

 だが、俺には経験が残った。
 彼女の仕事ぶりを、間近で見ていた。どうやって人を動かし、どうやって金を回すのか。どこに目をつけ、どこで引くべきか。

 再び娼館に戻り、身体を売って資金を貯めた。今度は売られたわけではないので、給料が出た。
 そして、ある日、俺は自分の名義で小さな事務所を借り起業した。


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