冷遇された入り婿は後悔する──10年後の再会と精算──

星森 永羽

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俺の名前はリック

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 娼館時代の客たちは、意外なほど役に立った。貴族の未亡人、商会の主人、退屈を持て余した富豪の夫婦。彼らの紹介で、俺の事業はあっという間に広がった。

 気づけば、ジュヌヴィエーヴとの結婚式から10年が経っていた。

 俺は小切手を懐に入れ、母国へ戻った。実家がジュヌヴィエーヴからいくら融資を受けていたのかは知らない。だが、今の俺なら返せる。利子ごと、倍にしても構わない。

 あてつけだった。  
 俺を“役に立たない駒”として切り捨てた実家へ。  
 そして、何も言わずに俺を除籍した元妻へ。

 何より過去を終わらせるための、俺なりのケジメだった。


 ジュヌヴィエーヴの家を訪ねた。だが、門は閉ざされ、人の気配はなかった。門扉には「売り地」の張り紙が貼られていた。

 仕方なく、実家へ向かった。

 応対に出た老執事は、俺を見るなり目を見開いた。

「……エドリック様は、亡くなられたと聞いておりました」

「生きてるよ」

 執事は困ったように眉をひそめたが、やがて重い口を開いた。

「奥方の家は、数年前に没落されました。夜逃げ同然で……今はどこにいるのか、誰も……」

 俺は黙って頷いた。そうか、あの家も落ちたのか。

 探そう。ジュヌヴィエーヴを。  
 それには、まず“貴族”に戻る必要がある。いつか誰かと再婚するにしても、爵位があった方がいい。何より、平民としての10年は、あまりにも過酷だった。

 俺は、実家の書斎で父と向き合った。老いた彼は、かつてのような威圧感を失っていた。屋敷も、どこか寂れていた。

「爵位を譲ってくれ。その代わり、家を立て直してやる。借金も返す。使用人も雇い直す。
 アッシュコーム侯爵家の名を、俺が守る」

 父は鼻で笑った。

「話にならん。爵位は血筋の証だ。お前などに──」

 俺は懐から小切手を取り出し、机に置いた。

 父の目が、変わった。

「……この額を、用意できるのか?」

「今すぐにでも」

 沈黙が落ちた。やがて、父は深くため息をつき、椅子にもたれかかった。

「……好きにしろ。だが、アッシュコームの名を汚すな」

 俺は頷いた。

 こうして、俺は侯爵になった。




 侯爵家を継いだ俺は、まず使用人を総入れ替えした。

 客商売で、人を見る目には自信があった。忠義を装って私腹を肥やす者、無能を隠して他人のせいにする者、そういう連中はすぐに見抜けた。

 入れ替えただけで、領地経営はみるみる上向いた。無駄な出費は消え、帳簿は黒字に転じた。
 屋敷の空気も変わった。使用人たちの目に、久しぶりに“誇り”が宿っていた。


 そんなある日、報告が届いた。

 ジュヌヴィエーヴが見つかったという。

 場所は、俺が隣国で経営している店のすぐ近く。まさか、目と鼻の先にいたとは。


 俺はすぐに隣国へ向かった。馬を飛ばし、夜を徹して走った。

 そして、彼女が働いているという食堂へ向かった。

 だが、店の前に着いたとき、ふと裏路地から怒鳴り声と揉み合う音が聞こえた。

 胸騒ぎがして、そっと覗き込む。

 そこには、数人の男に囲まれたジュヌヴィエーヴの姿があった。

 痩せて、服も擦り切れて、髪は乱れていた。だが、あの銀の髪と、凛とした目元は、間違いようがなかった。

「払うって言ってるでしょう……! 今月中には……!」

「口だけは達者だな。利子が増える前に払えって言ってんだよ」

 男の1人が彼女の腕を、乱暴に掴んだ。

 俺は、気づけば駆け出していた。

「やめろ」

 声が出た瞬間、男たちの視線がこちらに向いた。俺は懐から金貨の袋を取り出し、地面に叩きつけた。

「これで足りるか。借金はいくらだ?」

 男たちは顔を見合わせ、1人が答えた。

「……貴族のドレス1着分ってとこだな。上等なやつで」

 俺は思わず笑ってしまった。

 ジュヌヴィエーヴが、そんな金額で追い詰められているなんて。
 冷たい目で、俺を見下ろしていた女が……。

 俺は金を払い、受取書にサインさせた。男たちは金を数え、満足げに去っていった。


 路地に静けさが戻った。だが、空気は重かった。ジュヌヴィエーヴは、俺を見上げて口を開いた。

「ありがとうございました。
 ……時間はかかりますが、必ずお返しします」

 俺は黙っていた。
 ──元妻は俺を知らないふりしてるのか、それとも本気で気付いてないのか。
 その目に元夫と再会した、という驚きはない。

「あの──」

 彼女が言いかけたとき、俺は口を開いた。

「あんた、名前は?」

 彼女は一瞬、戸惑ったようにまばたきした。

「エーヴです」

「……名字は?」

「平民なので、ありません」

 なるほど、それで通してるのか。
 いや、子爵位も売ったんだったか。

「ふうん? そう。わかった。
 ──あんたのこと、買うよ。それで借金はチャラだ」

 彼女の目が見開かれた。

「それは……どういう意味でしょう?」

「そのままの意味だ」

「身売りするつもりはありません」

 俺は肩をすくめた。

「給仕の給与で、あの額を返すのに何年かかる? 俺は、そこまでお人好しじゃない。嫌なら、娼館に売り飛ばす」

「そんなっ……!」

「俺の専属になるか、不特定多数を相手にするか。選ばせてやる。
 ついでに言うが、俺は高位貴族だ」

 彼女は息を飲んだ。目が揺れ、拳が震えていた。
 だが、逃げ道がないことを悟ったのだろう。
 やがて、静かに口を開いた。

「……ならば、領地経営のお手伝いをします」

「平民に何ができる?」

「ですから、それは私の仕事を見たうえで決めていただけませんか」

 俺は彼女を見下ろした。かつてのような気高さは、もうなかった。だが、その目には、まだ消えていない光があった。

「使い物にならないと思えば、売り払うぞ。いいか」

 彼女は小さく頷いた。

「わかりました」

「俺の名前はリックだ。
 船旅に出る支度をして、明日の昼、港に来い。もう、ここには戻らないつもりで」

 俺の名前はエドリック・アッシュコーム侯爵。でも、しばらくはリックでいよう。



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