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旅立ち
しおりを挟む港には朝靄が立ち込めていた。白い帆を張った大型船が、静かに波間に揺れている。甲板では水夫たちが忙しなく動き、荷を積み込んでいた。
俺は桟橋に立ち、遠くから歩いてくる人影を見つけた。
ジュヌヴィエーヴだった。粗末な旅装束に身を包み、背筋を伸ばしてこちらへ向かってくる。
「ちゃんと来たな」
俺が言うと、彼女は足を止めて頷いた。
「逃げません」
「そうか」
俺は無言で手を差し出した。彼女は一瞬だけ戸惑ったが、すぐにその手を取った。
平民だと言いながら、エスコートの所作にはまるで迷いがなかった。やはり、体に染みついているのだろう。
船に乗り込み、一等客室へと案内する。扉を開けると、広々とした室内に、ベッドがひとつ。
ジュヌヴィエーヴが立ち止まり、俺を見た。
「まさか……同じ部屋ですか?」
「ああ」
「騙したんですか? まずは私の能力を見てくれると……そう言ったのに」
俺は肩をすくめた。
「俺は女に餓えてない。あんたが目の前で裸でいても、襲わない」
彼女は目を伏せた。だが、すぐに顔を上げ、静かに問うた。
「……だったら、どうして私を“買う”なんて言ったんですか?」
「どう見ても貴族だからな。味見くらいはしてみようかと思っただけだ」
彼女の顔がわずかに強張った。だが、俺は続けた。
「とりあえず、ここで俺の身の回りの世話をしろ。給金を出す。給金がたまったら、借金を返済しろ」
「……身の回りと言っても、廊下にメイドもいますから、特にすることがありません」
「なら、あそこの鞄に入ってる資料を見ておけ」
俺はベッドに腰を下ろし、靴を脱いだ。
「俺は昼寝する。起こすなよ」
そう言って横になり、目を閉じた。
静かな波の音と、紙をめくる音だけが、部屋に満ちていた。
気づけば、夜だった。
窓の外には星が瞬き、船の灯りが波に揺れていた。俺はベッドの上で身を起こし、ぼんやりと天井を見つめた。
……寝るつもりはなかった。
本当は、彼女を観察するつもりだった。10年ぶりに再会した元妻が、どんな顔で、どんな態度で、どんな風に俺のそばにいるのか。見極めるつもりだったのに。
「……ずっと資料と格闘してたのか?」
俺が声をかけると、机に向かっていたジュヌヴィエーヴが振り返った。
「あ、おはようございます。これは……経営されてるお店の資料ですよね?」
「ああ、そうだ」
彼女は手元の紙束を差し出した。
「わたし、近くで働いていたので、いろいろ評判を聞いていました。まとめておきました。……役に立ちますか?」
俺は受け取った資料に目を通した。
そこには客の率直な意見や、近所の噂、従業員に関する細かな観察が記されていた。どれも、数字の帳簿には現れない“空気”の情報だった。
ある程度は把握しているつもりだった。だが、これは……盲点だった。
「ああ……」
思わず、間の抜けた返事が出た。
彼女は、俺の反応を気にする様子もなく、静かに言った。
「あの……」
「え?」
「夕飯は、どうしますか? メイドに運んでもらいますか?」
俺は時計を見た。針は、20時を指していた。
「……悪い。あんたのこと、忘れてた。そうだな、今夜は運んでもらおう」
「わかりました」
彼女は立ち上がり、静かに扉の外へ出ていった。
やがて、食事が運ばれ、2人で向かい合ってテーブルについた。銀のカトラリーが皿に触れる音が、静かに響く。
俺たちは、経営している店の話をした。
どの時間帯が混むのか、どの料理が人気か、どの従業員が評判か。
言葉の端々に、彼女の聡明さが滲んでいた。
翌日、昼。
甲板の上は初春の陽射しが強いが、海風は冷たかった。ジュヌヴィエーヴは手すりに寄りかかりながら、資料の束を抱えていた。
「短期間で、こんなに手広くやるなんて……凄いですね」
俺は隣で腕を組んだまま、海を見ていた。
「凄いって言っても、水商売だからな。そりゃ、下手なことしなけりゃ利益はでかいさ。その分、命の危険もあるが」
エーヴは少しだけ笑った。
「リック様は真面目だから、ずっと生き残れますよ」
……リック様。
18年間で初めて、彼女が俺の名前を呼んだ。
その響きに、胸の奥がわずかに揺れた。
「……どうしました?」
「いいや。……俺は真面目じゃない。必死だっただけだ」
彼女は何も言わず、ただ頷いた。
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