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初めてのダンス
しおりを挟む客室の前でノックすると、すぐに返事が返ってきた。
ドアを開けると、そこにいたのは、昼間とはまるで別人のような彼女だった。
深い青のドレス。肩を出したデザインに、銀の髪がふわりとかかっている。痩せてはいたが、その姿勢と所作には、かつての気品が残っていた。
「……綺麗だ。食事に行こう」
彼女は少し頬を染め、うつむいた。
「はい。あの……ドレス、ありがとうございます。サイズもぴったりです」
俺は微かに笑った。
使用人として働いていた頃に、こっそり彼女のサイズを確認していた。
あの頃はまだ、離婚されたと知らなかった。
いつか、夫として認められるかもしれない──そんな淡い期待を、どこかで抱いていた。
俺は手を差し出した。彼女は迷いなく、それを取った。
エスコートして、船上レストランへ向かう。
夜の海に浮かぶ灯りの中、2人の影が静かに揺れていた。
テーブルの上には、香草の香りが漂う温かい料理と、澄んだワイン。
夜の海を望む窓の外には、月が静かに浮かんでいた。
「……美味しい」
エーヴが、ふっと微笑んだ。
その笑顔は、かつての彼女を思い出させた。
けれど、どこか違っていた。柔らかく、少しだけ疲れていて、でも確かに“生きている”笑顔だった。
「そうか。……どのくらいぶりだ? 貴族のドレスを着て、こうして食事するのは」
彼女の手が、ナイフの動きを止めた。
沈黙が落ちる。
「……悪い」
俺が言うと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「3年前です。父の妾だった女が、子供を連れて来たのが発端でした。
『跡取りがいないなら、この子を次の当主にすべきだ』と」
俺は黙って、彼女の言葉を待った。
「……私には、愛する人がいました。
でも彼も跡取りで領地も遠く、結婚するのが難しい状況でした。
けれど、彼以外の人と結婚するのも嫌で、独身でいたんです」
愛する人とは、ルーカンのことだろう。
彼女の声は、静かだった。怒りも、悲しみも、すでに通り過ぎたあとのような。
「そこへ、妾がやってきて……。
いつの間にか父が分家や家臣団に根回ししていて、気づいたときには父と妾は再婚し、息子を籍に入れていました」
ワイングラスの縁を、彼女の指がなぞる。
「そして、私にとんでもない額の借金が押し付けてきたんです。妾は行方をくらまし、父は寝込むだけで役に立たず。
それでも、うちは資産家でしたから、貯蓄を切り崩して精算しました」
俺は眉をひそめた。
「それだけじゃなかったんだな?」
彼女は小さく頷いた。
「ええ。闇金からの借金があったんです。屋敷や領地を担保にして」
「裁判所に申し立てればいいだろう。そんなの、正規の手続きで──」
「その背後には……ある夫人がついていました」
俺の手が止まった。
「まさか……アレッサンドラ侯爵夫人か?」
ジュヌヴィエーヴが、パッと顔を上げた。
「ご存知で?」
俺はワイングラスを置き、低く息を吐いた。
俺を騙して、娼館に売った女だ。そして、王妃の姉でもある。
「裏の業界じゃ有名な女だ」
ジュヌヴィエーヴの目が見開かれた。
その視線の奥に、驚きと、わずかな共鳴があった。
俺たちは、違う道を歩いてきた。
だが、同じ女に……。
ワインの余韻が残るグラスを指先で回しながら、ジュヌヴィエーヴがぽつりと呟いた。
「……やっぱり、わたしが甘かったんです。父が再婚を強行したとき、すぐにでも除籍していればよかった」
“除籍”という言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
あのとき、自分が味わった喪失感が、ふいに蘇る。
「……何でも切り捨てればいいってもんじゃない」
思わず、口をついて出た。
「え?」
彼女が不思議そうに、こちらを見る。
「いや、なんでもない」
グラスを置き、視線を彼女に向けた。
「……男はどうした? 愛してた男だ」
ジュヌヴィエーヴは一瞬だけ目を伏せ、そして静かに答えた。
「今ここにいないのが、答えです」
「どっちから去った?」
「同時ですね」
「同時? なぜ?」
彼女は、少しだけ笑った。けれど、それはどこか寂しげだった。
「……愛していれば、巻き込みたくないでしょう?」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、低く、ゆっくりと答えた。
「いいや。愛してれば、助けたいと思うものだ」
俺は、ここまで来るのに、たくさんの人に助けられた。
裏切られもしたが、救われもした。
だからこそ、わかる。
愛は、切り離すことじゃない。
共に沈む覚悟を持って、なお手を伸ばすことだ。
俺は立ち上がり、手を差し出した。
「……食べ終わったなら、踊ろう」
ジュヌヴィエーヴは驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷き、そっと手を乗せた。
船上レストランの奥には、ホールがあった。
ピアノとバイオリンが、夜の海に溶けるように優しく響いている。
俺たちはその音に身を委ね、ゆっくりとステップを踏み始めた。
婚約してから、18年。
初めて、彼女と踊った。
舞踏会では、いつも別々だった。
俺は他の女と笑い、彼女も親族や友人に囲まれていた。
言葉すら交わさず……。
それが今、こうして──
ピアノの旋律に身を任せ、彼女の腰に手を添え、軽やかにステップを踏む。
彼女の手は少し冷たく、けれど確かに俺の手を握っていた。
1曲、2曲、そして3曲。
誰も止めなかった。俺たちも止まらなかった。
やがて、ジュヌヴィエーヴが小さく息を切らしながら言った。
「……もう、疲れました!」
俺は笑って、彼女を抱き上げた。
「きゃっ、ちょ、ちょっと……!」
「うるさい。足が痛いんだろ」
そのまま部屋まで運び、ベッドにそっと下ろす。
彼女は顔を赤らめながら、ドレスの裾を押さえた。
有無言わせず、さっさと脱がす。
──どうせ、1人では脱げない。
そして、俺はクローゼットからバスローブを取り出し、湯浴みの準備を始めた。
湯が張られ、湯気が立ちのぼる。
「風呂も、俺に入れて欲しいか?」
抱き上げて連れて行こうか?
振り返ってそう訊くと、ジュヌヴィエーヴは目を見開いた。
「っ、私はお世話係なんだから、逆でしょう!」
「だったら、俺が先に入るから……体を洗え」
「えっ……」
「世話係なんだろ?」
彼女は唇を噛み、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかりました」
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