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外国での日々
しおりを挟む風呂場の湯気の中、俺は湯船の縁に腰をかけ、背を向けた。
ジュヌヴィエーヴは袖をまくり、静かに背中に手を伸ばす。
柔らかな布が、そっと肌をなぞる。
「……昔、半年、風呂に入れなかった時があった」
「半年も? 戦地にでもいたのですか?」
「そうだな。生きるか死ぬかだった」
「……大変でしたね」
俺は目を閉じた。
お前に、監禁されたんだよ。
けれど、その言葉は飲み込んだ。
今、ここで言うべきことじゃない。
船が到着し、降り立ったオーランド国。
陽射しは強く、空はどこまでも青かった。
ジュヌヴィエーヴをホテルに残し、俺は大学へ向かった。
目的は、領地に講師を派遣してもらうため。教育の質を上げるには、外の知見が必要だった。
だが、教授陣は逆にこう言ってきた。
「ならば、そちらからの留学生を受け入れたい。実力を見たいのです」
悪くない条件だった。俺は即座に了承し、契約書にサインをした。
交渉を終え、ホテルへ戻る。
だが、部屋にジュヌヴィエーヴの姿はなかった。
ベッドは整えられたまま、荷物もそのまま。
だが、彼女の気配がない。
胸がざわついた。
「……まさか」
俺はホテルを飛び出し、通りを走った。
この国は広い。言葉も違う。もし何かあれば──
焦りが喉を締めつける。
そのとき、角の向こうから、見覚えのある姿が現れた。
「おい!」
俺の声に、彼女が振り返る。
「……あ、リック様。用事、終わりました?」
手には紙袋。中には本が数冊入っていた。
俺は駆け寄り、思わずその肩を掴んだ。
「いたっ……」
「貴族令嬢が、1人で外に出るなんて……あんた、頭おかしいぞ!」
彼女は目を瞬かせ、きょとんとした顔で言った。
「え? 貴族って……元ですし。今は髪も短いし、それに……もう若くもないので」
「そういう問題じゃない!」
声が少し、荒くなった。
彼女は少しだけ目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……でも、夜逃げしてからは、ずっと1人で生きてきたので……」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
気づけば、俺は彼女を抱きしめていた。
「……あんたは、もう1人じゃない」
ジュヌヴィエーヴの肩が、わずかに震えた。
俺の胸元で、彼女の呼吸が静かに揺れていた。
──今度こそ、ちゃんと守る。あの時、出来なかった分まで。
陽射しがやわらかく、温室のガラスに光が反射していた。
用事が全て終わり余暇となって、植物園に来た。
ジュヌヴィエーヴは、色とりどりの花々に目を輝かせていたが、ある一角でぴたりと足を止めた。
「わっ……!」
肉厚な葉が、ぱくりと動いた。
肉食植物。獲物を捕らえるための仕掛けに、彼女は思わず後ずさり、足をもつれさせた。
「危なっかしいな」
俺はすかさず腕を伸ばし、ジュヌヴィエーヴの腰を支えた。
「す、すみません……」
彼女は頬を赤らめ、姿勢を整える。
俺はそのまま、彼女の手を取った。
元妻は驚いたように見上げたが、何も言わず、手を握り返した。
手を繋いで、園内を歩く。
花の香りと、鳥のさえずりが、ふたりの間を満たしていた。
「それにしても……広いですね」
「ああ。なかなかの規模だ」
「楽しいです。ありがとうございます」
「……うん」
思わず、目を逸らした。
照れくさくて、まともに顔が見られなかった。
俺が、浮気なんかせず、ちゃんとした婚約者だったら……。
そんな“もしも”が、心の奥で泡のように浮かんでは消えた。
それから2人で観光しまくった。
市民劇場の夜。
仮面劇の終幕、恋人たちが再会する場面。
ジュヌヴィエーヴの瞳に、光るものがあった。
俺はそれを、見逃さなかった。
音楽会の午後。
バロックの旋律に包まれ、彼女は目を閉じていた。
その横顔は、まるで別人のように静かで、穏やかだった。
この人は、音に触れると、まるで別人みたいに静かになる。
絵画見学。
レンブラントの陰影に見入る彼女。
「この人の目……何かを隠してる」
それは、お前自身の目だよと、俺は心の中で呟いた。
運河めぐり。
小舟に揺られながら、ふたり並んで座る。
「ほら、あの橋、ハートの形に見えません?」
見える。……お前が言うなら、何だって見える。
東インド会社の商館。
香辛料、絹、陶器。
エーヴは小さな香水瓶を手に取り、
「これ、元同僚たちへの、お土産にしたいです」
「……自分の分は?」
「私は、もう十分もらってますから」
その笑顔に、何も言えなくなった。
オーランド国の港が遠ざかる。
甲板の上、風が髪を揺らす。
「……夢みたい1週間でした。たくさん遊びましたね」
「ああ、でも夢じゃない。ちゃんと、現実だ」
彼女は微笑んだ。
「夢みたいに楽しかったです」
「……そうか」
──そう。俺も凄く楽しかった。
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