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元妻の失踪
しおりを挟む「行ってくる」
玄関で靴を履きながら声をかけると、奥からジュヌヴィエーヴが見送りに来た。
「いってらっしゃい」
唇が触れる。もう毎朝の習慣になっていた。
気恥ずかしさと愛しさを押し隠す。
「絶対に1人で外に出るなよ?」
「もう毎日、言わなくても分かってるって」
俺は苦笑して、彼女の頭を軽く撫でた。さらりとした銀髪が指に触れる。エーヴは目を細めて、猫みたいに気持ちよさそうにしていた。
扉を閉めて外に出る。朝の空気は冷たく、けれど心地よかった。
ジュヌヴィエーヴみたいな女は、時間をかけて信頼を築いてから落とすつもりだった。
だが、あいつは思った以上に脆かった。不安と孤独に追い込まれていたのだろう。だから、ただ大切に扱うだけで、あっけなく俺に懐いた。
オーランド国から戻ると、すぐに彼女のボロアパートを引き払った。あんな場所じゃ警備もできない。かといって、自分の屋敷に連れて帰れば、正体がバレる。
だから一軒家を借りた。家具も揃え、使用人もつけた。俺はそこに通う形で生活している。
エーヴは、まだ気づいていない。俺が“元夫”だということに。
あいつは俺を“リック”と呼ぶ。
それでいい。今さら名乗るつもりもない。
俺が婚約者としてちゃんとしていれば、当たり前に手に入ったはずの生活だ。
それを、今ようやく手に入れた。
ジュヌヴィエーヴの前の男は、優しいだけで他に何もない男だった。
なぜ分かるかって? 抱けば分かる。
まるで生娘のように、何も知らない身体だった。
俺の色に染めていくのは、正直、楽しかった。
俺の周りには、遊び慣れた女ばかりだったから。
この女は、やはり俺のものになる運命だった。
そう思った。
ようやく、俺の手の中に戻ってきたのだ。
職場の執務室。
窓の外には、ベルスター国・王都の街並みが広がっていた。
書類の山を前に、俺は椅子に深く腰を下ろしていた。
「例の夫人の悪事に関する証拠は、簡単に集まりましたが、それだけでは断罪できません。権力を潰さないと」
側近が、低い声で言った。
「ふむ。……エーヴの父の妾だった女は、見つからないのか?」
「大陸全土に捜査を広げれば、いずれは。ただ、時間も金もかかりますよ」
「やむを得ない。そもそも、エーヴに返そうと思ってた金を遣うだけだ」
側近は一礼し、静かに部屋を後にした。
俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。
あの女さえ見つければ、すべての線が繋がる。
しばらくして、執務室の扉が乱暴に開かれた。
「大変です!」
使用人が駆け込んできた。顔が青ざめている。
「奥様がいなくなりました!」
ジュヌヴィエーヴと結婚はしていない。だが、使用人たちは彼女を“奥様”と呼んでいた。
それが当然だと、誰もが思っていた。
「……何だと? 状況を話せ」
「はい。ルーカン・ソーンクロフト男爵という方が屋敷を訪ねてきまして……。
奥様と2人で話したあと、“出掛ける”と仰ったので、護衛をつけました。ですが、“知り合いなので大丈夫”と……」
「それで?」
「距離を取って見守っていたところ、用意してあった早馬で……逃走されました」
頭が真っ白になった。
逃げた? ジュヌヴィエーヴが?
俺の手から?
そんなはずがない。
あいつは、もう俺のものだった。
あの目も、あの声も、あの身体も、全部。
なのに、なぜ?
「……自分の意思でいなくなったんだな?」
俺の問いに、使用人は顔を伏せたまま答えた。
「そう見えましたが、男に脅された可能性もあります」
俺は頭を抱えた。
脅された? それとも、ただ俺から逃げたのか?
どちらにせよ、今ここにいないという事実だけが、胸に重くのしかかる。
「……ともかく、探してくれ」
声がかすれた。
自分でも、こんなに動揺しているとは思わなかった。
夜。1通の封筒が、従業員の手によって持ち込まれた。
差出人不明。封蝋もない。
開くと、中には短い文が記されていた。
「アレッサンドラ侯爵夫人について調べるのをやめろ。さもないと、ジュヌヴィエーヴの命はない」
俺はため息をついた。
「……まあ、そういうことだろうな。
妾の捜査をやめろ。手を引け」
側近が、険しい顔で言った。
「泣き寝入りするのですか?」
「……仕方ない」
俺は椅子にもたれ、目を閉じた。
これ以上、動けば本当に命を奪われかねない。
あいつを守るために始めたことだ。
なら、守るために止めるのも、俺の役目だ。
だが、捜査から手を引いても、ジュヌヴィエーヴは帰ってこなかった。
日が経つごとに、苛立ちが募った。
何度も、ソーンクロフト男爵家に問い合わせを入れたのに返事はない。
直接乗り込みたい。
だが、あの家は遠い。片道3週間はかかる。
仕事を放って出るわけにはいかない。
ようやく届いた返事は、1通の封筒だった。
結婚式の招待状。
差出人は、ルーカン・ソーンクロフト男爵と、ジュヌヴィエーヴ。
目の前が、真っ白になった。
……結婚?
何かの罠かもしれない。脅されているのかもしれない。
本人と話してみないことには分からない。
招待状に添えられた短い手紙。
筆跡鑑定を依頼した。
結果は、ジュヌヴィエーヴ本人のものだった。
ちゃんと、生きている。
ともかく、無事でよかった。
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