冷遇された入り婿は後悔する──10年後の再会と精算──

星森 永羽

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元妻の失踪

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「行ってくる」

 玄関で靴を履きながら声をかけると、奥からジュヌヴィエーヴが見送りに来た。

「いってらっしゃい」

 唇が触れる。もう毎朝の習慣になっていた。
 気恥ずかしさと愛しさを押し隠す。

「絶対に1人で外に出るなよ?」

「もう毎日、言わなくても分かってるって」

 俺は苦笑して、彼女の頭を軽く撫でた。さらりとした銀髪が指に触れる。エーヴは目を細めて、猫みたいに気持ちよさそうにしていた。

 扉を閉めて外に出る。朝の空気は冷たく、けれど心地よかった。

 ジュヌヴィエーヴみたいな女は、時間をかけて信頼を築いてから落とすつもりだった。
 だが、あいつは思った以上に脆かった。不安と孤独に追い込まれていたのだろう。だから、ただ大切に扱うだけで、あっけなく俺に懐いた。


 オーランド国から戻ると、すぐに彼女のボロアパートを引き払った。あんな場所じゃ警備もできない。かといって、自分の屋敷に連れて帰れば、正体がバレる。
 だから一軒家を借りた。家具も揃え、使用人もつけた。俺はそこに通う形で生活している。

 エーヴは、まだ気づいていない。俺が“元夫”だということに。  
 あいつは俺を“リック”と呼ぶ。  
 それでいい。今さら名乗るつもりもない。

 俺が婚約者としてちゃんとしていれば、当たり前に手に入ったはずの生活だ。  
 それを、今ようやく手に入れた。


 ジュヌヴィエーヴの前の男は、優しいだけで他に何もない男だった。  
 なぜ分かるかって? 抱けば分かる。  
 まるで生娘のように、何も知らない身体だった。  
 俺の色に染めていくのは、正直、楽しかった。  
 俺の周りには、遊び慣れた女ばかりだったから。

 この女は、やはり俺のものになる運命だった。  
 そう思った。  
 ようやく、俺の手の中に戻ってきたのだ。



 職場の執務室。  
 窓の外には、ベルスター国・王都の街並みが広がっていた。  
 書類の山を前に、俺は椅子に深く腰を下ろしていた。

「例の夫人の悪事に関する証拠は、簡単に集まりましたが、それだけでは断罪できません。権力を潰さないと」

 側近が、低い声で言った。

「ふむ。……エーヴの父の妾だった女は、見つからないのか?」

「大陸全土に捜査を広げれば、いずれは。ただ、時間も金もかかりますよ」

「やむを得ない。そもそも、エーヴに返そうと思ってた金を遣うだけだ」

 側近は一礼し、静かに部屋を後にした。

 俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。  
 あの女さえ見つければ、すべての線が繋がる。  



 しばらくして、執務室の扉が乱暴に開かれた。

「大変です!」

 使用人が駆け込んできた。顔が青ざめている。

「奥様がいなくなりました!」

 ジュヌヴィエーヴと結婚はしていない。だが、使用人たちは彼女を“奥様”と呼んでいた。  
 それが当然だと、誰もが思っていた。

「……何だと? 状況を話せ」

「はい。ルーカン・ソーンクロフト男爵という方が屋敷を訪ねてきまして……。
 奥様と2人で話したあと、“出掛ける”と仰ったので、護衛をつけました。ですが、“知り合いなので大丈夫”と……」

「それで?」

「距離を取って見守っていたところ、用意してあった早馬で……逃走されました」

 頭が真っ白になった。

 逃げた? ジュヌヴィエーヴが?  
 俺の手から?

 そんなはずがない。  
 あいつは、もう俺のものだった。  
 あの目も、あの声も、あの身体も、全部。

 なのに、なぜ?

「……自分の意思でいなくなったんだな?」

 俺の問いに、使用人は顔を伏せたまま答えた。

「そう見えましたが、男に脅された可能性もあります」

 俺は頭を抱えた。  

 脅された? それとも、ただ俺から逃げたのか?  

 どちらにせよ、今ここにいないという事実だけが、胸に重くのしかかる。

「……ともかく、探してくれ」

 声がかすれた。  
 自分でも、こんなに動揺しているとは思わなかった。



 夜。1通の封筒が、従業員の手によって持ち込まれた。  
 差出人不明。封蝋もない。  
 開くと、中には短い文が記されていた。

「アレッサンドラ侯爵夫人について調べるのをやめろ。さもないと、ジュヌヴィエーヴの命はない」

 俺はため息をついた。

「……まあ、そういうことだろうな。
 妾の捜査をやめろ。手を引け」

 側近が、険しい顔で言った。

「泣き寝入りするのですか?」

「……仕方ない」

 俺は椅子にもたれ、目を閉じた。  
 これ以上、動けば本当に命を奪われかねない。  
 あいつを守るために始めたことだ。  
 なら、守るために止めるのも、俺の役目だ。



 だが、捜査から手を引いても、ジュヌヴィエーヴは帰ってこなかった。  
 日が経つごとに、苛立ちが募った。  
 何度も、ソーンクロフト男爵家に問い合わせを入れたのに返事はない。

 直接乗り込みたい。  
 だが、あの家は遠い。片道3週間はかかる。  
 仕事を放って出るわけにはいかない。

 ようやく届いた返事は、1通の封筒だった。

 結婚式の招待状。  
 差出人は、ルーカン・ソーンクロフト男爵と、ジュヌヴィエーヴ。

 目の前が、真っ白になった。

 ……結婚?

 何かの罠かもしれない。脅されているのかもしれない。
 本人と話してみないことには分からない。  

 招待状に添えられた短い手紙。  
 筆跡鑑定を依頼した。

 結果は、ジュヌヴィエーヴ本人のものだった。

 ちゃんと、生きている。  
 ともかく、無事でよかった。




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