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Side-A 消失少女と喪失少年

夏の日、消失する

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「……あのさ」

 自分でも驚くくらい、沈んだ声だった。
 俺の声を聞いて、サキの表情がわずかに曇る。きっと喜び合う時間が終わったことを理解したのだ。

「今日、いつもより早かったんだな」
「違うよー。逆だよ、逆。蓮が早く来ると思ったから、私はここへ来たんだよ?」

 サキは俺から視線を外して海を眺めた。
 そのくりくりした大きな瞳には何を映しているのだろうか。

「それは……そうだろうな」
「あれ? 驚かないのかぁ。ここ数日、蓮と会っていないし、連絡も取ってない。それなのに、いつもより早い時間に来るって私にはわかったんだよ?」
「サキなら、わかるはずだよ」

 そうなのだ。
 サキは俺のすべてを知っている。
 何故なら――。

「サキという人物は、俺の妄想が生んだ人物だから」

 そう結論づけたのは、昨日のことだった。

 俺は昨日、美波の親父の書斎に入り、心理学の本を片っ端から開いていった。
 目次を見て、特に収穫がなさそうなら他の本へと手を伸ばす。また目次を読む。美波と一緒に、その作業を繰り返した。
 三十分くらいほどたったとき、それらしい項目を見つけた。

「知ってるよな……サキ。お前は俺のイマジナリーフレンドだったんだ」
「そうだね。知ってるよ……『空想上の友達』でしょ?」

 心理学の本に書かれていることを要約するとこうだ。
 イマジナリーフレンドとは、自分自身が生み出した、実際には存在しない友達のこと。その人の心の中にある架空の人格のようなものである。
 自分が生み出した空想なので、イマジナリーフレンドは自分の都合のいいように振る舞ったり、助言をする。また、ときには自分自身を突き放したりもするらしい。
 イマジナリーフレンドは自分の精神から生まれたものだ。自分を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかで、イマジナリーフレンドの振る舞いが変化する。

 そして……呼び出す意味や意思が希薄になれば、イマジナリーフレンドは消失する。

「サキは消失病患者なんかじゃない。俺の心の甘えが生み出した空想……なんだよな?」

 手足が透過しているのは曖昧な存在だから。
 人付き合いの苦手な俺が話せたのは、俺の生み出した都合のいい産物だから。
 日焼けしないのは、この世に存在しないから。
 サキの過去を聞かなかったり、あいつから何も話さなかったのは、生みの親が俺だから。サキが俺の妄想の産物だとしたら、俺は彼女のことならすべて知っている。サキのことを聞く必要はないのだ。
 空想上の友達か……美波には見えないはずだ。

「よくわかったね」

 ようやくサキは俺と目を合わせた。キレイなその瞳の奥に、泣きそうな俺の顔が映し出されている。

「蓮は姉ちゃんが亡くなって、悲しかったんだよね? どうしていいのか、わからなかったんだよね?」
「……うん」

 サキの言葉に、静かにうなずいた。

「ねぇ、蓮。今じゃないかな? 姉ちゃんの死を乗り越えるのは。そして、過去のトラウマを打ち負かすのは」

 いつか聞いた、俺を包み込む優しい声色。
 それはまるで、風鈴が奏でるような凛とした声。
 サキはただのイマジナリーフレンドじゃない。
 アルバムを見て、ようやく思い出したんだ。
 俺が生まれたときから、サキとはずっと一緒だった。

「嫌だ。消えないでよ……姉ちゃん」

 サキは――姉ちゃんは、にっこりと微笑んだ。
 真夏の太陽よりもまぶしい、俺の大好きな笑顔だ。

「そうだよ。私は蓮の姉ちゃん。よく思い出してくれたね」

 姉ちゃんは俺の頭を撫でる。手はほぼ消失しているので、人の温もりはない。
 海で初めて会ったとき、サキは言った。知り合いにサーフィンが上手いヤツがいるけど、もうそいつとは会えないって。俺はそいつが自分のことだって気づいていたくせに、知らないふりをした。

 たぶん、俺はサキの夢を叶えたかっただけじゃない。夢を叶えるという言い訳に隠れて、姉ちゃんがここにいるって感じたかったんだ。
 これじゃあ、姉ちゃんのもう一つの願いである、俺が前を向いて歩き出すこととは、真逆のことをしてしまっている。しかも、新しく友達ができたことにして、前を向いたふりをしてしまった。本当は、未だに姉ちゃんに依存している甘えん坊のくせに。

「ごめん、姉ちゃん……俺は死んだ姉ちゃんのこと、忘れようとした。姉ちゃんをサキという消失病の女の子だって思えば、姉ちゃんといつでも会えたから……」

 俺がサキに自己紹介したとき、彼女は悲しそうな顔をしていた。あれは俺が姉ちゃんの記憶を忘れたふりをしていたからだ。
 サキの裸を見たしまったときもそうだ。サキは叫び声一つ上げなかったし、それどころか俺をからかう余裕さえあった。当然だ。あの姉ちゃんが、実の弟に裸を見られたくらいで悲鳴を上げるわけがない。

「何度も前を向こうと思ったけど、でもやっぱり駄目だった。姉ちゃんがいないと、俺は外の世界にすら踏み出せない弱虫なんだ……」
「蓮は強い子だよ。私がいなくても、蓮は生きていける」
「違う! 駄目だ、消えちゃ嫌だ!」
「大丈夫。サキとはちゃんと話せたでしょ?」
「あれは姉ちゃんだ! サキなんて女の子は存在しない!」
「ううん、サキはいるよ。もうすぐ見えなくなるけど、蓮の心の中で生き続ける」

 姉ちゃんの体が透けていく。すでに下半身は完全に消えてしまっている。

「ねえ、ちゃん……」
「あらあら。やっぱり蓮は泣き虫だねぇ」

 困ったように笑う姉ちゃん。
 ずきん、と胸が痛む。
 違う。こんな表情をさせたいわけじゃない。
 姉ちゃんは何を望んだ?
 姉ちゃんはいつだって俺の味方だった。俺のためにできることは何でもしてくれた。子どもっぽいところもあるけど、優しい自慢の姉だった。

 だから今、こうやって妄想として現れたのも俺のため。
 腐ってしまった俺の背中を押すために、俺のままごとに付き合ってくれたんだ。

 言わなきゃ。
 今度こそ、誓わなきゃ。
 もう二度と会えないんだから。
 俺の言葉で、自らの妄想を消失させよう。

「姉ちゃん!」

 俺の中にある、スクラップになった勇気を必死にかき集める。

「俺、姉ちゃんが死んですげぇ悲しいけど! でも、俺は生きるよ! 姉ちゃんは知ってるかもしれないけど、本当は俺、寂しがり屋だから! 本当は誰かと繋がっていたいって思うから! だから、人と、誰かと、関わって生きるよ!」

 姉ちゃんは泣きながら笑っている。

 目の前の姉ちゃんは俺の妄想だ。いくら叫んでも、これは俺の一人相撲。
 でも、この場で生きた感情を吐き出さなければ、天国の姉ちゃんが安心して眠れないんじゃないか。そう思わずにはいられなかった。

「一人が好きなふりはもうやめる! 辛いことがあっても、ちゃんと前を向く! 学校にも行くし、友達も作る! 姉ちゃんと約束する、約束するよ! だから――」

 目頭が熱くなり、視界が滲む。

「安心、してくれ」

 姉ちゃんは目元を指で拭った。

「蓮。よく、言えたね」
「おう……だって俺は姉ちゃんの弟だぜ?」
「そうだね。姉ちゃんの自慢の可愛い弟だもんね……もう、お別れの時間かぁ」
「……うん」
「サーフィン教えてくれてありがとう」
「ああ。天国でも元気でな」
「任せなさい。あっちでサーフィンできるところ見つけなきゃだし」
「俺が死んだらそっちに行くから。今度は二人で一緒に波に乗ろう」
「おおっ! いいね、それ。楽しみが増えたよ」
「ああ……だから、行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます――」

 姉ちゃんが、消える。風に吹かれたろうそくの火のように揺らめき、夏の空気に溶けていく。

「姉ちゃん!」

 おもわず、姉ちゃんの頬に手を伸ばした。

「あ……」

 そうか。
 何もかも知らないふりをしていたけど……思い出した。

 消失病って、記憶も消えていくんだよな。

 どうやら、俺の推理はちょっとだけ間違っていたらしい。
 姉ちゃんの顔を見て、それが姉ちゃんだと認識できなかった理由。思い出のアルバムを見るまで、姉ちゃんの顔を思い出せなかった理由。姉ちゃんの名前を「サキ」だと思い出せなかった理由。美波の両親が共働きだということを忘れていた理由。他にもたくさんのことを俺は忘れていた。

 何故か。
 現実から目を背け、事実を妄想で覆い尽くしていたから?
 それもあるかもしれない。
 でも、根本的な問題はそうじゃなくて。

「俺、消失病だったんだね……姉ちゃん」

 伸ばした俺の右手の指先は、爪のあたりが透けている。知らず知らずのうちに、病気が進行していたらしい。
 全然気づかなかった。俺は自分が消失病であること自体を忘れようとしていたのだ。姉ちゃんを失った事実だけじゃなくて、自分が消失病であることもなかったことにしようとした。

 イマジナリーフレンドが消えようとしている理由は二つ。

 一つは、俺が姉ちゃんのいない世界で前を向いて生きる覚悟ができたから。
 そしてもう一つは……俺が消失病だと自覚したうえで、ちゃんと生きていける心の準備ができたから。
 この二つの理由により、彼女の存在が必要なくなったんだ。

 自分が消失病にかかったって自覚があったのは……いつからだろう。記憶が曖昧だから、よくわからない。
 でも、少なくとも事故に遭ったあの日、姉ちゃんは俺が消失病だということに薄々感づいていたに違いない。
 なんだ……俺は、いろいろなことから逃げていたんだな。こんなに弱い弟がいるのだ。姉ちゃんが心配するわけだ。

「蓮は悔いのない人生を送るんだぞ? 姉ちゃんとの約束だよ?」

 それは姉ちゃんの最期の言葉になった。
 温かい言葉が俺の胸に染み込んでいく。

 姉ちゃんのやり残したことは、サーフィンだけじゃない。
 姉ちゃんは、俺が記憶を失いつつあるって……消失病を患っているって気づいていたんでしょ? だから事故に遭ったあの日、唐突に消失病の話や説教をしたんでしょ?
 俺の残り短い人生を悔いなく過ごせるように、道を示してくれたんだね? 

「ありがとう……姉ちゃん」

 姉ちゃんが完全に消えたとき、目から涙があふれ出した。
 悲観的になっているわけじゃない。自分が消失するということに、不思議と恐怖はなかったから。
 ただ、姉ちゃんの優しさだけが、俺の心をたしかに揺さぶるのだった。
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