二人で癒す孤独

路地裏乃猫

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 やがて健吾が通されたのは、やけに広々とした和室だった。
 大きさは二十畳ほどだろうか。ただ、立派なのは広さだけでなく、造りの方もかなり豪華な設えになっている。飴色に輝く柱や梁は言うまでもなく、上品な日本画を描いた襖の上には、これも見事な透かし彫りの欄間が掲げられている。
 右手には小さな床の間が設けられ、庭から手折ってきたらしい紅梅の一振りが花瓶に品よく活けられている。床は畳敷きだが、部屋の真ん中に緋色の分厚いカーペットが重ねられ、そのさらに中央に、上等なテーブルセットが置かれているのが何とも豪勢だ。
 古き良き大正の世を偲ばせる、そんな部屋だ。
 が、何よりも健吾が目を瞠ったのは、テーブルにずらりtp並んだ料理の類だった。
 よく見ると、どの皿にも、このご時世には手に入りにくい本物の肉や魚、それに野菜が惜しげもなく使われている。その豪勢な眺めに、ただでさえ空腹にあえぐ健吾は、嫌でも目を奪われずにはいられなかった。
「ほう、見違えたな」
 縁側から響いた声に、はっと健吾は顔を上げる。すでに日も暮れ、縁側越しに眺める庭はすっかり鉛色の闇に沈んでいる。
 その闇に融けるようにして、一人の、着物姿の男が立っていた。
 流れるような肩の稜線にしなやかな腰つき。男には違いないが、その印象はどこまでも繊細で、そのくせひどく艶っぽい。
 とりわけ襟首から伸びる白い首筋は、どこか繊細な硝子細工を思わせ、気安く触れることを躊躇わせる。が、だからこそ惹きつけられずにはいられない何かを湛えてもいて、矛盾した感情に否応なく心を掻き乱される。
 洋装も悪くはなかった。が、今、こうして和装の敦を見ると、無防備に放たれる無遠慮な色香にざわつかざるをえない。
 いっそ、先日のように――
 一瞬、そんな不届きな欲求が脳裏をよぎって健吾は慌てる。だが、例えば今、その躰を掻き抱き、前を開いて白い胸板を露わにすることができるなら、その時はもう、食欲などそっちのけで敦を貪ってしまうだろう。白い貝殻の耳朶にいやらしい言葉を吹き込み、端正な顔が屈辱で歪むのを愉快に眺めるだろう。
 いや。俺はどうかしている。
 相手は――所詮、男だろうに。
「み、見違えた、ってぇと?」
 わざと余裕を装いつつ問う。と、
「いや。髭を剃ると、随分と印象が若返るものだな、と思ってね」
「お気に召してもらえて何よりだ。この間は、あの髭のせいで随分と痛い思いをさせちまったからなぁ」
 揶揄するような健吾の台詞に、しかし、敦は笑うでもなければ怒ることもなく、相変わらず仮面のような無表情を保っている。
 ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らすと、健吾はずかずかとテーブルに歩み寄り、主の断りもなしにどかりと椅子に腰を下ろした。
 料理は、いずれも上品な小鉢に盛られている。健吾もヤクザ時代には、よく日本橋あたりの料亭で芸者を侍らせながら、この手の上品な料理に舌鼓を打ったものだ。――が、召集されてからというもの、こんな品のいい料理には一度もお目にかかった覚えがない。
 ただ、こんな物質難のご時世に、これほどの品数を揃えるというのは並大抵の財力と権力では不可能だ。この屋敷といい身につけるものといい、相当のお大尽だという健吾の憶測は間違っていないらしい。
「なぁ」
 敦ではなく、背後の次郎に向けて訊ねる。
「敦の家ってばよ、ひょっとして、すげぇ金持ちなのか?」
 すると次郎は、またしても我が事のように胸を張って、
「はい。先々代の準之助さまというお方が大変才気にあふれたお方でいらっしゃいまして、その当時、需要の拡大しつつあった絹糸や砂糖の製造、鉄鋼業などに幅広く投資をなさったおかげで、震災や恐慌の煽りにも屈することなく莫大な富を築かれたのだとか」
「ほう、そりゃ大したもんだな。……で、その息子はというと、ご先祖の築いた身代を食いつぶしながら兵隊にも行かずのうのうと暮らしていた、と」
 挙句、戦争で死にそびれたからと首まで縊って……
「それは違います!」
 意外にも鋭い声に健吾は軽く面食らう。あのチビにこんな声が出せたのかと、その小さな躰に秘められた忠義の深さに改めて健吾は感心した。
 先程、風呂場で健吾の刺青に蒼くなっていたのが嘘のようだ。
「だっ、旦那様は、行かなかったのではありません。行けなかったのです」
「行けなかった? どういうことだよ」
「それは――」
「次郎」
 何かを言いかけた次郎を、穏やかな、だが、どこか冷たいものを感じさせる声が制する。
「それ以上は、お客さまには関係のない話だ」
「……はい」
 次郎が、飼い主に叱られた飼い犬よろしく項垂れる。さしてきつく言われたわけでもないにも拘わらず、これだけ悄気ているのは、あるいは他に理由があるのだろうか。
 その次郎は、一旦部屋から引き退がると、やがて、一抱えはある櫃を抱えて戻ってきた。
 蓋を開くと、中から混ぜ物一つない正真正銘の銀しゃりが現れた。立ちのぼるでんぷん質の甘い香りに、忘れていた食欲が否応なく刺激され、つい、ごくりと喉が鳴る。
「……あの」
「あ?」
「大丈夫ですよ。ご飯なら、まだ台所にありますので」
 どうやら相当飢えた目で次郎の手元を睨んでいたらしい。何となくばつが悪くなった健吾は、さりげなくテーブルに目を戻すと、とりあえず手近な小鉢に箸をつけた。
 久しぶりの人間らしい食事に、思わず頬が落ちそうになるのを我慢しながら次々と小鉢を片付けてゆく。次郎に茶碗を差し出される頃には、十ほどあった小鉢や料理の皿は、その半分以上が空っぽになっていた。
 それでも健吾の食欲は止まらない。むしろ、茶碗を受け取るとその勢いはさらに加速し、白飯もろとも次々と料理を片付けてゆく。
「あの、おかわりは……」
「んっ!」
 飲み込む暇さえもどかしく、栗鼠のように頬をもごつかせながら空の茶碗を突き出す。
 新たに白飯を盛られた茶碗を、受け取ったそばから口に運び、おかずを肴にさらに頬張る。やがてテーブルからおかずが消え失せると、今度は白飯だけでも口に押し込み、とにかく胃袋を満たした。
 とうとう櫃が空になる。それでも食欲は収まらず、次郎に新たな白飯を補充してくるよう命じると、
「まだ召し上がるんですかぁ?」
「うるせぇ! まだあるっったのはお前だろうが! いいから取ってこい! さもなきゃこっちから乗り込んで釜ごと食ってやるぞ!」
 ふぇぇ、と次郎は情けない声を上げると、櫃を抱えて部屋を飛び出していった。
 その背中を見送ったところで、ふと、視線を感じて振り返る。
 いつの間に席についたのだろう。敦が、組んだ両手に細い顎を載せたまま、珍しい生き物を見る目でじっと健吾を見つめていた。
「……んだよ、見世物じゃねぇんだぞ俺は」
 浅ましいところを見られたばつの悪さに、つい、険のある物言いで問えば、
「なかなか見事な食べっぷりだな」
 と、相変わらず表情に欠けた人形の顔で敦は答える。ただ、その声色だけはどこか愉しげで、いよいよ健吾は敦という人間の中身が掴めなくなる。――もっとも、自分を強姦した人間が食事を取る場面を、これほど熱心に眺める人間の中身など、もとより掴みようがないのだけど。
 よく見ると、敦は箸を動かすどころか手に取ってすらいない。料理の方も、そのほとんどが――いや、まったく箸をつけられていない。
「んだよ、いらねぇのか?」
 すると敦は、なぜか苦しそうに俯いて、
「……ああ」
 と、小さく呻いた。
「私には……そもそも、このような立派な食事を取る資格など……こんな、見苦しい死に損ないには……」
 ――死なせてくれ。
 そういえば、この男は、あの夜も似たようなことを言っていた。
 どうにか一命を取り留めはしたものの、この男の心は、相変わらずふらふらと死の淵を彷徨っているらしい。
「だから?」
「えっ?」
「だから何ッッてンだ。死にぞこないだから何だッてんだよ!? ――それを言や今、この日本に生き残ってる連中は全員死に損ないだ! てめぇも、それに、この俺も!」
「……あなたも?」
 よほど健吾の言葉が思いがけなかったのだろう。敦は、彼にしては珍しいほど狼狽を露わにした。
「ち、違う、あなたは……国のために立派に戦って、だから、」
「違わねぇよ! 戦場でうっかり生き残っちまった俺も、本国で運よく生き延びたてめぇも、みんな、全員、仲良く死に損ないなんだよ!」
 ムキになって喚く健吾の脳裏に、ふと苦い記憶がよぎる。
 補給も尽きた南国の無人島で、敵兵の追撃に怯えながらジャングルの中を壊走する日々。自殺用の弾薬さえ底をつき、死ぬこともできずに緑の砂漠を彷徨い続けた。
 一人、また一人と、櫛の歯が抜けるように動けなくなる部下たち。
 だが健吾に、彼らを弔うことは許されない。足を止めれば最後、そこから先へは一歩も動けなくなってしまうからだ。
 そう、自分は生き残ってしまった。
 あまりにも多くの死を置き去りにして。
「……あのぉ」
 ふと襖の方から声がして、見ると、細く開いた襖の隙間から、櫃を抱えた次郎がばつの悪そうな顔を覗かせていた。
「ご飯……お持ちしたんですけど、いりますか?」
「……あ、ああ」
 何だか急に毒気を削がれた健吾は、自分で歩み寄って襖を大きく開け放つと、次郎の手から無理やり櫃をもぎ取った。そして、
「あとは自分でやる。てめぇは部屋に戻って漫画でも読んでろ」
 ぴしゃり襖を閉ざし、視線ごと次郎を締め出した。
 席に戻り、やれやれと溜息をつく。つい頭に血を昇らせてしまった自分を自嘲しつつ、受け取った櫃からそのまま飯を掻きこむ。
 相変わらず敦は、料理に手を付けるどころか箸さえも取る気配を見せない。が、もはや健吾は構わなかった。死にたければ死ぬがいい。生きたいと願う者でさえ救えなかったのだ。まして、死を願う人間を救えるはずなどない……
「あなたに、ひとつ頼みたいことがある」
「……は?」
 だしぬけの敦の言葉に、どういうことだ、と目顔で問い返す。
 そもそも天下の華族さまに、わざわざ元ヤクザの強姦魔を屋敷に招いてまで頼みたいことがあるとは思えない。可能性があるとすれば、非合法な――たとえば殺人か、強盗のような――犯罪行為の依頼だが、敦や次郎との会話から考えて、その可能性は少ない。
 ところが次の瞬間、健吾は我が耳を疑う羽目になった。
「私を犯してくれないか」
「……は?」
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